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『嫌われる勇気』岸見一郎 古賀史健
【第一夜】
1)もうひとつの哲学
オーストリア出身の精神科医、アルフレッドアドラーが20世紀初頭に創設。
独自の理論に基づく個人心理学。
人間理解の真理、また到達点として受け入れられている。
2)人は変われる
過去の原因ばかりに目を向け、原因だけで物事を説明しようとすると、おのずと「決定論」に行き着く。動かしようのないものとして。
アドラー心理学では過去の「原因」ではなく、今の「目的」を考える。
例)引きこもりの場合「不安だから外に出れない」ではなく、順番は逆で「外に出たくないから、不安という感情を作り出している」と考える。
目的が先にあって、その目的を達成する手段として感情をこしらえている。
これを「目的論」と呼ぶ。
我々は原因論の住人であり続ける限り、一歩も前に進めません。
3)トラウマは存在しない
アドラー心理学では、トラウマを明確に否定する。
経験の中から目的にかなうものを見つけ出す。
自分の経験によって自分が決定されるのではなく、
経験に与える意味によって自らを決定する。
人生は誰かに与えられるものではなく、自ら選択するものである。
自分がどう生きるのかを選ぶのは自分である。
仮に経験を言い訳にするのであれば、自分の中にそう考えたい「目的」があるのだ。
外に出ることなく、ずっと自室に引きこもっていれば、親の注目を一身に集めることができる。丁寧に扱ってくれる。
一歩でも外に出てしまうと、誰からも注目されない「その他大勢」になってしまう。
ウエイターの失敗に大声を出して怒るのは、
大声によってウエイターを屈服させ、自分の言うことを聞かせたかった。その手段として、怒りという感情を捏造したのだ。
「人は感情に支配されない」さらに「過去にも支配されない」
アドラー心理学は、ニヒリズムの対極にある思想である。
過去が全てを決定し、過去が変えられないのであれば、我々は人生に対して何ら有効な手立てを打てなくなってしまう。
トラウマの議論に代表されるフロイト的な原因論とは、かたちを変えた決定論であり、ニヒリズムの入口となる。
4)ソクラテスとアドラー
人は誰でも変われる。
変わることの第一歩は、知ることにある。
そして答えは、誰かに教えてもらえうものではなく、自らの手で導き出していくものである。
あなたは「あなた」であっていい。
→しかし「このままのあなた」でいていいわけではない。
大切なのは何が与えられているかではなく、与えられたものをどう使うか、である。
もし今のあなたが不幸なのは自らの手で「不幸であること」を選んだからなのである。不幸の星の下に生まれたからではない。
「誰ひとりとして悪を欲する人はいない」
犯罪者とて、悪のための悪事を働こうと思っていない、犯行に手を染めるだけの内的な「しかるべき理由」がある。
「不幸であること」が、ご自身にとっての「善」だと判断しているのである。
5)人は常に「変わらない」という決心をしている
アドラー心理学では、人の性格は気質のことを「ライフスタイル」という。
人生にける、思考や行動の傾向です。
「わたしは悲観的な性格だ」➡「わたしは悲観的な『世界観』を持っている」と言い換えられる。
世界観であれば変容させていくことも可能。
あなたはあなたのライフスタイルを、自ら選んだ。
こんなライフスタイルを選んだのは、10歳前後というのが、アドラー心理学の見解。
だからこそ再び自分で選びなおすことも可能。
もしあなたが変われないでいるのは、自らに対して「変わらない」という決心を下しているから。
多くの人は、色々と不満はあったとしても「このままのわたし」でいることの方が楽であり、安心である。
アドラー心理学は「勇気の心理学」である。
あなたには「幸せになる勇気」が足りていないのである。
一番最初にやるべきことは、「今のライフスタイルをやめる」という決心である。
「もしも何々だったら」と言い訳を言っているうちは、変わることなどできない。
忙しいと言って賞に応募しない作家は、応募しないことによって「やればできる」という可能性を残しておきたいのである。
あなたは「あなた」のまま、ただライフスタイルを選びなおせばいい。
これまでの人生に何があったとしても、今後の人生をどう生きるかについて何の影響もない。
【第二夜】
1)なぜ自分のことが嫌いなのか
自分を好きにならないことが、あなたにとっての「善」なのです。
赤面症に悩んでいる人も、実は赤面という症状を必要としているかもしれないのだ。
彼とお付き合いできないのは、赤面症があるからだ、と考えることができ、告白の勇気を振り絞らずに済むし、たとえ振られようと自分を納得させることができるのだ。
そして「もしも赤面症が治ったら私は彼と…」とずっと可能性の中に生きることができるのだ。
まずは「今の自分」を受け入れてもらい、前に踏み出す勇気を持ってもらうこと。
アドラー心理学ではそのことを「勇気づけ」と呼ぶ。
なぜ自分を好きにならないでおこうとしているのか?それはあなたが「他者から嫌われ、対人関係の中で傷つくことを過剰に怖れているから」である。
あなたの「目的」は、「他者との関係のなかで傷つかないこと」であるからだ。
しかし残念ながら対人関係の中で傷つかないなど、基本的にはあり得ない。
2)すべての悩みは「対人関係の悩み」である
孤独を感じるのは「本当に1人だから」ではない。
社会や共同体から「疎外されていると実感するからこそ」孤独なのだ。
われわれは「孤独を感じる」のにも、他者を必要とする。
アドラーは、人間の悩みはすべて、対人関係の悩みである、と断言。
個人だけで完結する「内面の悩み」などというものは存在しない。
身長155センチについては一見すると劣等生に思える。
しかし問題は、その身長についてわたしがどのような意味付けを施すか、どのような価値を与えるか、である。
我々を苦しめる劣等感は、主観的な解釈である。
その価値も対人関係から相対的に決まることが多く、そのため価値の問題も対人関係に還元されていく。
人は無力の状態でこの世に生を受ける。そしてその無力の状態から脱したいと願う、普遍的な欲求を持っている。
これを「優越性の追求」と呼ぶ。
「どうせ自分なんて」と思うのは、劣等感ではなく、劣等コンプレックス
劣等感は「努力や成長を促すきっかけ」にもなるので、それ自体が悪いものではない。
「劣等コンプレックス」とは、自らの劣等感をある種の言い訳に使いはじめた状態のこと。
「見せかけの因果律」… 本来は何の因果関係もないところに、あたかも重大な因果関係があるかのように自らを説明し、納得させてしまう。
なぜこのようなことをするかと言うと「一歩踏み出すのが怖い」「現実的な努力をしたくない」「遊びの時間を犠牲にしてまで、変わりたくない」という、現状維持を優先した結果である。
「自分はAだからBできない」と言っている人は、Aさえなければ私は有能であり価値があるのだ、と言外に暗示している。
逆に「優越コンプレックス」というものもある。
あたかも自分が優れているかのように振る舞い、偽りの優越感に浸るのである。
もしも自慢する人がいるとすれば、それは劣等感を感じているからにすぎない。
不幸自慢=不幸であることによって「特別」であろうとし、人の上に立とうとする。自らの不幸を武器に、相手を支配しようとする。
3)人生は他社との競争ではない
誰もが持つ「優越性の追求」は自らの足を一歩前に踏み出す意思であり、他者と比較する競争の意思ではない。
健全な劣等感とは「理想の自分」との比較から生まれる。
我々は他者との間にある違いは認める。しかし、我々は「同じではないけれど対等」である。
対人関係の軸に「競争」があると、人は対人関係の悩みから逃れられず、不幸から逃れることができない。
祖母から「お前の顔を気にしているのはお前だけだよ」と言われ、それ以来生きていくのが少しだけ楽になったと言う。
他者の幸福を「わたしの負け」であるかのようにとらえているから、祝福できない。
「人々はわたしの仲間なんだ」と実感できていれば、世界の見え方はまったく違ったものになる。
相手の言動によって本気で腹が立ったときには、相手が「権力争い」を挑んできていると考えるべき。それは勝つことによって、自らの力を証明したいのである。そんな権力争いには双方にとって無駄しかない。
なので、いかなる挑発には乗ってはいけない。
仮にあなたが言い争いを制したとしても、それで終わらない。
相手からの「復讐」が始まるのだ。
相手からの挑発があれば、リアクションをせずに引き下がろう。
謝罪の言葉を述べることは「負け」ではない。
4)直面する「人生のタスク」をどう乗り越えるか
アドラー心理学では、人間の行動面と心理面について、ハッキリとした目標を掲げている。
▶行動面:「自立すること」「社会と調和して暮らせること」
▶心理面:「わたしは能力がある」という意識、「人々はわたしの仲間である」という意識。
↑ これらの目標は「人生のタスク」と向き合うことで達成できる。
↓
「仕事のタスク」「交友のタスク」「愛のタスク」
アドラー心理学は、他者を変えるための心理学ではなく、自分が変わるための心理学である。
「愛のタスク」アドラーは、相手を束縛することを認めない。相手が幸せそうにしていたら、素直に祝福する、それが愛。
「この人と一緒にいると、とても自由に振る舞える」と思えたとき、愛を実感することができる。
互いを対等の人格として扱わなければならない。
「別れる」ことは難しい。
困難があった場合には、まずは「逃げてはならない」
いちばんいけないのは、問題を感じつつ「そのまま」の状態で立ち止まること。
5)人生の嘘から目を逸らすな。
Aさんには欠点があるから、Aさんのことが嫌いという場合、
「Aさんのことを嫌いになる」と言う目的が先にあって、その目的にかなった「欠点をあとから見つけ」出している。
その理由は、Aさんとの対人関係を回避するためである。
Aさんを敵と思うことで、逃げている状態である。
アドラーは、様々な口実を設けて人生のタスクを回避しようとする事態を指して「人生の嘘」と呼んだ。
自分の置かれている状況、その責任を誰かに転嫁する。他者や環境のせいにし、人生のタスクから逃げている状態である。
これを善悪や道徳では語らない「勇気の問題」と考えるのである。
アドラー心理学は「所有の心理学」ではなく「使用の心理学」である。
つまり「何が与えられているかではなく、与えられたものをどう使うか」である。
自らのライフスタイルを、自分の手で選ぶことができる。我々にはその力がある。
【第三夜】
1)承認欲求を否定する
アドラー心理学では、他者から承認を求めることを否定する。
承認を求めてはいけない。
また、賞罰による教育を厳しく批判した。
「褒めてくれる人がなければ、適切な行動をしない」「罰する人がいなければ、不適切な行動もとる」というのは、誤ったライフスタイルである。
我々は「他者の期待を満たすために生きているのではない」。他者の期待など、満たす必要はない。
自分が自分のために自分の人生を生きていないのであれば、いったい誰が自分のために生きてくれるのだろうか?
他者もまた「あなたの期待を満たすために生きているのではない」
そのためには「課題の分離」という考え方を知る必要がある。
2)「課題の分離」とはなにか
・これは誰の課題なのか?
例)子どもが勉強するのかしないのか、は「子供の課題」であって、親の課題ではない。
自分の課題と他社の課題とを分離していく必要がある。
他者の課題には踏み込まない。
誰の課題かを見分ける方法はシンプル。
その選択によってもたらされる結末を最終的に引き受けるのは誰か?
子どもへの放任主義を推奨するものではない。
子どもが何をしているのか知ったうえで見守ること。
本人が勉強したいと思ったときにはいつでも援助する用意があることを伝えておく。精一杯の援助はします。
馬を水辺に連れて行くことはできるが、水を吞ませることはできない。
自分を変えることができるのは、自分しかいない。
子どもが引きこもっていた場合は、子どもの課題だと考え介入せず、過度に注目することもやめる。ただ、困ったときにはいつでも援助する用意がある、というメッセージを送っておく。たとえ我が子でも、親の期待を満たすために生きているわけではない。
たとえ相手が自分の希望通りに動いてくれなかったとしてもなお、信じることができるか?愛することができるか?それが「愛のタスク」の問い。
親をどれだけ悲しませようと、自分の信じる最善の道を選ぶこと。その選択について他者がどのような評価を下すのか、これは他者の課題なので気にすることはない。
もしあなたが他者の目線が気になっている、評価が気になっている、他者からの承認を求めてやまない、そういう場合は他者の課題なので、切り捨てるべき。これも「人生の嘘」なのである。
イヤな上司がいて仕事ができない、というのは完全な原因論。
そうではなく、仕事をしたくないから、嫌な上司を作り出している。
上司がどれだけ理不尽な怒りをぶつけてこようと、それは「わたしの課題」ではない。すりやる必要もないし、自分を曲げてまで頭を下げる必要はない。
他者の課題には介入せず、自分の課題には誰一人介入させない。
アレキサンドロス大王は、伝説によってもららされるものではなく、自らの剣によって切り拓くものである、と語った。
ただし課題の分離は、対人関係の最終目標ではなく、むしろ入口である。
自分のやるべきことを決めるのは自分えだる。
こんなに直面することを教えられなかった子どもたちは、あらゆる困難を避けようとするだろう。
3)承認欲求と対人関係
承認欲求を求めている人は、誰からも嫌われたくないのでしょう。
他者の期待を満たすように生きることは、自分の人生を他人任せにすることである。
これは自分に噓をつき、周囲の人々に対しても嘘つき続ける生き方である。
他者の課題に介入することこそ、自己中心的な発想。子供にも子どもの意向や自分の人生を生きる権利がある。
他者から嫌われたくないと思うこと、これはきわめて自然な欲望で衝動。
近代哲学の巨人カントは、そうした欲望のことを「傾向性」と呼んだ。
傾向性・・・本能的な欲望、衝動的な欲望のこと。それらにおもむくままに生きるのは、欲望や衝動の奴隷でしかない。
本当の自由とは、転がる自分を押し上げていくような態度。
例)石ころは無力。いったん坂道を転がり始めたら、重力や慣性といった自然法則が許すところまで、転がり続けてしまう。しかし、我々は石ころではなく、傾向性に抗うことができる存在。
我々は対人関係から解放されることを求め、対人関係からの自由を求めている。すなわち「自由とは、他者から嫌われること」である。
他者からの評価を気にかけず、嫌われることを恐れないことが重要。
「嫌われたくない」と願うのはわたしの課題かもしれないが、「わたしのことを嫌うかどうか」は他者の課題。気にしてもしかたがない。
つまり幸せになる勇気には「嫌われる勇気」が含まれる。そうすると、あなたの対人関係は一気に軽いものへと変わる。
「父から殴られたとの、父の関係が悪い」と考えている場合、それは「対人関係のカード」という観点で考えましょう。今の原因論のママでは私には手も足も出せない話となってしまう。
「父との関係をよくしたくないから、殴られた記憶を持ち出している」と考えれば、関係修復のカードは私が握っていると考えることができる。私の目的を変えてしまえばOKだから。
課題の分離が理解できれば、対人関係のカードは常に「わたし」が握っているのだ。
他者を操作しようとするのは誤った考え。
わたしの変化に伴って、相手が変わることはある。
「対人関係」の問題も「まずは自分」である。
承認欲求に縛られていると、対人関係のカードはいつまでも他者の手に握られたままである。
【第四夜】
1)個人心理学と全体論
アドラーは「精神と身体を分けて考える」「理性と感情を分けて考える」「意識と無意識を分けて考える」など、あらゆる二元論的価値観に反対した。
人間をこれ以上分割できない存在だととらえ、「全体としてのわたし」を考えることを「全体論」と呼ぶ。
課題を分離することは、対人関係の出発点。
対人関係のゴールは「共同体感覚」である。
他者を仲間だとみなし、そこに「自分の居場所がある」と感じられることを、共同体感覚という。
アドラーは「共同体」について、家庭や学校だけでなく、国家や人類などを包括したすべてであり、時間軸においては「過去から未来まで」含まれ、さらには「動植物や無生物まで」も含まれる、としている。
「共同体感覚」のことを英語では「社会への関心」となる。社会の最小単位は何?「わたしとあなた」であり、それが起点となる。
「自己の執着」を「他者への関心」に切り替えていく。
2)なぜ「わたし」にしか関心がないのか
「自己への執着」という言葉を「自己中心的」と言う。
自己中心的な人物は「課題の分離」ができていなく、承認欲求にとらわれている人もまた、きわめて自己中心的と言える。
「他者からどう見られているか」ばかりを気にかける生き方こそ「わたし」にしか関心を持たない、自己中心的なライフスタイルである。
「わたし」は、世界の中心に君臨しているのではない。自分の人生における主人公は「わたし」である。しかし「わたし」は、世界の中心に君臨しているのではない。
あくまでも共同体の一員であり、全体の一部なのである。
われわれは皆「ここにいてもいいんだ」という「所属感」を求めている。
しかしアドラー心理学では「所属感」とはただそこにいるだけで得られるものではなく「共同体に対して自らが積極的にコミットする」ことによって得られる、と考える。
具体的には「人生のタスク」に立ち向かうこと。
仕事、交友、愛 という対人関係のタスクである。
「わたしはこの人に何を与えられるか?」を考えなければならない。
それが共同体へのコミットである。
所属感とは、生まれながらに与えられるものではなく、自らの手で獲得していくものである。
より大きな共同体を意識し、国や地域社会に属し、そこにおいても何らかの貢献ができている、という気付きを得て欲しい。
人は共同体を離れて「ひとり」になることなず、絶対にない。
繰り返しになるが我々は皆、複数の共同体に所属している。
家庭に属し、学校に属し、企業に属し、地域社会に属し、国家に属している。
我々は対人関係の中で困難にぶつかったとき、出口が見えなくなってしなったとき、考えるべきは「より大きな共同体の声を聴け」という原則である。
より大きな共同体の視点、俯瞰の視点で、小さな上司の権力者然とした振る舞いに対しては、正面から異を唱えてかまわない。
そのようなことで壊れる関係なら、壊していい。
関係が壊れることだけを恐れて生きるのは、他者のために生きる、不自由な生き方である。
目の前の小さな共同体に固執することはない。もっと大きな共同体は、かならず存在するのだ。
3)ほめてはいけない、勇気付けが重要
アドラー心理学では、ほめてはいけない、という立場をとる。
誉めてはいけないし、叱ってもいけない。
アドラー心理学ではあらゆる「縦の関係」を否定し、すべての対人関係を「横の関係」とすることを提唱。
それが「同じではないけれど対等」という言葉になっている。
劣等感とは、縦の関係の中から生じてくる意識。だから横の関係を気づくことができれば、劣等コンプレックスが生まれる余地はなくなる。
他人の課題に介入する場合、相手を自分より低く見ているからこそ、介入してしまう。
ただ、目の前に苦しんでいる人がいたら、援助をする必要がある。
援助とは、大前提に課題の分離があり、横の関係がある。
例えば子供の勉強の課題があった場合、本人に「自分は勉強ができるんだ」と自信を持ち、自らの力で課題に立ち向かっていけるように働きかける。
横の関係に基づく援助のことを「勇気づけ」と呼んでいる。
誰かが足踏みをしている場合、その人に能力がないのではなく「課題に立ち向かう【勇気】がくじかれていること」が問題と考える。
仕事を手伝ってくれたパートナーに「ありがとう」「うれしい」「助かったよ」とお礼の言葉を伝える、それが横の関係に基づく勇気付けのアプローチ。
いちばん大切なのは、他者を「評価」しない。横の関係の場合、素直な感謝・尊敬・喜びの言葉が出てくるはずである。
人は感謝の言葉を聞いたとき、自らが他者に貢献できたことを知る。
人は「自分には価値がある」と思えたときにだけ、勇気を持てる。
人は「わたしは共同体にとって有益なのだ」と思えたときにこそ、自らの価値を実感できる。
他者から「よい」と評価されるのではなく、自らの主観によって「わたしは他者に貢献できている」と思えることが重要。
他者に関心を寄せ、勇気付けのアプローチをすることで「わたしは誰かの役に立っている」という生の実感につながる。
他者のことを「行為」のレベルでなく「存在」のレベルで見て行こう。
自分のことも「行為」のレベルでなく「存在」のレベルで受け入れていく。
理想像としての💯から徐々に減点する、それはまさしく「評価」の発想であり、自分や他者に対して不平不満を抱いてしまう。
理想像から減点するのではなく、ゼロの地点から出発する。そうすれば「存在」そのものを理解し感謝できる。
共同体への積極的で愛情をもった行動は、誰かが始めなければならない。他の人が協力的でないとしても、それはあなたには関係ない。
あなたが始めるべきだ。他の人が協力的であるかどうかなど考えることなく。
まずは他者との間に、ひとつでもいいから横の関係を築いていくこと。
誰かひとりでも横の関係を築くことができたなら、対等な関係を築くことができたなら、それはライフスタイルの大転換である。
意識の上で対等であること、そして主張すべきは堂々と主張することが大切。
【第五夜】
1)自己肯定ではなく、自己受容
まずは「わたし」について、しっかり理解する。続いて、一対一の関係=「わたしとあなた」の対人関係を考える。そうしてようやく大きな共同体が見えてくる。
自意識がブレーキをかけ、無邪気に振る舞うことができない。
よくある話である。
↓
共同体感覚を持てるようになること。
具体的には「自己受容」「他者信頼」「他者貢献」の3つ。
「自己受容」・・・我々は「わたし」という容器を捨てることもできないし、交換することもできない。しかし、大切なのは「与えられたものをどう使うか」である。
自己肯定ではなく、自己受容である。
「できない自分」をありのままに受け入れ、できるようになるべく、前に進んでいく。
人はだれしも「向上したいと思う状況」にいる。
💯満点の人間など、ひとりもいない。
「変えられるもの」と「変えられないもの」を見極めるのだ。
そして「変えられるもの」に注目するしかない。
変えられる物については、変えていく「勇気」を持つこと。
カートヴォネガットという作家が「神よ、願わくばわたしに、変えることのでき物事を受け入れる落ち着きと、変えることのできる物事を変える勇気と、その違いを常に見分ける知恵 をさずけたまえ」と小説で言っていた。
我々は何かの能力が足りないのではない。
ただ「勇気」が足りていない。
「他者信頼」・・・「自己への執着」を「他者への関心」に切り替えていく。
「信じる」という言葉を「信用」と「信頼」に区別する。
「信用」とは条件付きの話。融資の担保など。
「信頼」とは対人関係の基礎であり、それで対人関係は成立している。
他者を信じるにあたって、一切の条件をつけないこと。
裏切られることもある。それでもなお、信じ続ける態度を信頼と呼ぶ。
「信頼」の対義語・・・懐疑
疑いの目を向けていることは、相手も瞬時に察している。
無条件の信頼を置くからこそ、深い関係が築ける。
無条件に信頼すると裏切られるだけだと思っている場合、
裏切るのか裏切らないのかを決めるのは、あなたではない。
他者の課題となる。
あなたはただ「自分がどうするか」だけを考えればいいのだ。
「相手が裏切らないのなら、私も与えましょう」というのは、担保や条件に基づく信用の関係でしかない。
無条件の信頼とは、横の関係を築いていくための「手段」である。
もし、よい関係を築きたいと思わないのなら、ハサミで断ち切ってしまっても構わない。それはこちらの課題なのだから。
例えば「彼女は浮気しているかもしれない」と疑念を抱いた場合、
浮気の証拠を探そうと躍起になる。結果、山のような浮気の証拠が見つかる。
相手の何気ない言動、電話、LINEの履歴、あらゆることが「浮気の証拠」に移るからである。たとえ事実がそうでなかったとしても。
信頼することを怖れていたら、結局は誰とも深い関係を築くことはできない。
「他者信頼」によってもっと深い関係に踏み込む勇気を持ちえてこそ、対人関係の喜びは増し、人生の喜びも増える。
2)仕事の本質は、他者への貢献
他者を仲間だと見なせるからこそ、信頼することができる。仲間でなければ、信頼に踏み出せない。
そして自分の属する共同体に居場所を見出すことになる。「ここにいてもいいんだ」という所属感を得ることができる。
仲間である他者に対して、なんらかの貢献をしようとしていくこと。
それが「他者貢献」である。
他者貢献が意味するところは、自己犠牲ではない。
私たちは「自らの存在や行動が共同体にとって有益だと思えた」ときにだけ、自らの価値を実感することができる。
つまり「他者貢献」とは、私を捨てて誰かに尽くすことではなく、むしろ私の価値を実感するためにこそ、なされるもの。
労働とは、金銭を稼ぐ手段ではない。われわれは労働によって「他者貢献」をして「共同体にコミット」をし、自らの存在価値を受け入れている。
ひいては「ここに居てもいいんだ」という所属感を確認するためなのだ。
家庭の中においても食器を洗いながら「私は家族の役に立てている」と考えてほしい。
他者が私に何かをしてくれるかではなく、私が他者に何をできるかを考え、実践していくべき。
家族を「仲間」と考えれば、いかなる貢献も偽善とならない。
ここまで話した「自己受容」「他者信頼」「他者貢献」は、一つとして欠かすことのできない「円環構造」ついて結びついている。
▶行動面の目標
❶自立すること
❷社会と調和して暮らせること
▶行動を支える心理面の目標
❶私には能力がある、という意識
❷人々は私の仲間である、という意識
アドラー心理学を本当に理解し、生き方まで変わるようになるには「それまで生きてきた年数の半分」が必要になる。
なぜなら、人間を理解するのは容易ではない。個人心理学はおそらく全ての心理学の中で、最も困難であるから。しかし、年齢に関係なく、人は変われる。
縦の関係に従属することなく、嫌われることを怖れないで、若い人たちの方が前を歩いていると思うことができたなら、世界は大きく変わる。
3)人生の嘘
世の中善人だけでなく攻撃してくる他者もいる。
いずれの場合も攻撃してくる「その人」に問題がある。
決してそれ以外の「みんな」が悪いわけではない。
ユダヤの教えに「10人いれば必ず1人はあなたを批判する。そして2人は互いをすべて受け入れられる親友になる。残りの7人はどちらでもない人々。」という話がある。
このとき、あなたを嫌う1人に注目するのか、あなたのことが好きな2人にフォーカスを当てるのか。
人生の調和を欠いた人は、嫌いな1人だけを見て「世界を判断」してしまう。
そうでもいいはずのごく一部だけに焦点を当てて、そこから世界全体を評価しようとしている、それは人生の調和を欠いた、誤ったライフスタイルだ。
4)人生とは連続する刹那である
人間にとって最大の不幸は、自分を好きになれないこと。
自らに価値があることを実感させてくれるのは、
「わたしは誰かの役に立っている」「わたしは共同体にとって有益である」という思い。
他者貢献とは、目に見える貢献でなくてもかまわない。主観的な感覚で「貢献感」を持てれば、それでいい。
「幸福とは、貢献感である。」
大きな間違いは「承認欲求を通じて得られた貢献感には、自由がない。」ということ。
幸福は、自由があってこそ。
多くの子供たちは、最初の段階で「特別によくあろう」とする。親の言いつけを守って、社会性をも持った振る舞いをし、勉強・スポーツ・習い事などに精を出して、親から認めてもらおうとする。
しかし特別によくあることが叶わなかった場合、
今度は一転して「特別に悪くあろう」とする。
どちらにしても目的は同じで、他者の注目を集め、「普通」の状態から脱し、「特別な存在」になること。
特別に悪くあろうとするのは、健全な努力を回避したまま「他者の注目」を集めようとしている。
これを「安直な優越性の追求」と呼ぶ。不健全な態度。
「復讐」と「安直な優越性の追求」は容易につながる。
アドラー心理学が大切にしているのが「普通であることの勇気」
普通であることは、無能なのではない。わざわざ自らの優越性を誇示する必要などない。
人生を登山のように「何かの目的を達成するためだけのもの」と考えている人は、自らの生を「線」として捉えている。
これはフロイト的な原因論にもつながる考えであり、人生の大半を「途上」としてしまう考え方。
しかし生は点の連続であり、人生とは、連続する刹那なのである。
「いま」という刹那の連続。
我々は「いま、ここ」にしか生きることができない。
計画的な人生など、それが必要かふひつようかという以前に、不可能なのである。
人生とは、いまこの瞬間をくるくるとダンスするように生きる、連続する刹那である。いずれの生も「途上」で終わったわけではない。ダンスを踊っている「いま、ここ」が充実していれば、それでいい。
目的地は存在しない。
人生は連続する刹那であり、過去も未来も存在しない。
過去にどんなことがあったかなど、あなたの「いま、ここ」には何の関係もないし、未来がどういであるかなど「いま、ここ」で考える問題ではない。
「いま、ここ」にスポットライトを当てるというのは、今できることを真剣かつ丁寧にやっていくことである。
5)無意味な人生に「意味」を与えよ
目標など、なくていい。「いま、ここ」を真剣に生きること、それ自体がダンスである。深刻になってはいけない。真剣であることと、深刻であることを取り違えないてはいけない。
人生は常に完結している。
人生における最大の嘘は、「いま、ここ」を生きないこと。
さぁ怖れることなく「いま、ここ」に強烈なスポットライトを当てなさい。
今の話をしよう。決めるのは昨日でも明日でもない、「いま、ここ」である。
人生の意味とはなにか?アドラーの答えは「一般的な人生の意味はない」だった。
仮に大きな天災に見舞われたときに、原因論的に「なぜだ」と過去を振り返ることにどれだけの意味があるのか。
アドラーは続ける。「人生の意味は、あなたが自分自身に与えるものだ」と。
あなたの人生に意味を与えらえるのは、他ならぬあなただけなのだ。
アドラー心理学では、自由なる人生の大きな指針として「導き星」というものを掲げる。この指針さえ見失わなければいい。
それは「他者貢献」である。
あなたがどんな刹那を送っていようと、あなたを嫌う人がいようとも「他者に貢献するんだ」という導きの星さえ見失わなければ、迷うことはないし、何をしてもいい。自由に生きてかまらないのだ。
私の力は計り知れないほどに大きい。
「わたし」が変われば「世界」が変わってしまう。
世界とは、他の誰かが変えてくれるものでなく、ただ「わたし」によってしか変わりえない。
「誰かが始めなければならない。他の人が協力的でないとしても、それはあなたには関係ない。わたしの助言はこうだ。あなたが始めるべきだ。他の人が協力的であるかどうかなど考えることなく。」