オレの楽園はまだまだ遠い #03
生前善き行いを積んだ者が逝く場所が天国であり、悪行に奔った者が堕ちるのが地獄なのだとしたら、楽園には誰が辿り着けるのだろうか。そもそも、天国にも地獄にも我々が迷わず到着できる保証はない。何せ行ったこともない場所だ、OK, Googleと呼びかけたところでジョブズの遺作が発する文言は「すみません、よくわかりません」が関の山である(ちなみに京都の地から「天国 行き方」で音声検索するととある鉄板焼き屋さんがサジェストされる)。そんなわけで、天国と地獄にはそれぞれ案内役として天使と悪魔が存在する。楽園には天使も悪魔もいない。しかし、案内役の代わりにその存在を示唆する者がいる。
僕らが高校生の頃、爆笑レッドシアターというコント番組(鑑賞スタイルといいスタジオの美術といい現在のネタパレに通ずるものがある)が一世を風靡した。はんにゃや狩野英孝、ジャルジャルなどの勢いのある実力派若手芸人の中にお笑い第三世代の内村光良が、司会という役割だけでなくネタ見せの場にも積極的に参加するという図式は、当時かなり目新しかったような気がする。「田沼さんが転んだ」や「劇団ジョセフィーヌ」など、番組内から生まれた人気コントは数多くあるが、なかでも僕が一番好きだったのが「天使と悪魔と小柳」という作品だ。財布を拾った少年のもとに、ネコババを勧める悪魔と警察に届けるよう促す天使、そしてイマイチ役割の定まらない小柳が現れるというものである。
大袈裟ではなく、生きることは選択の連続だ。学校卒業後の進路という大きな決断から明日の昼食を何にするかといった些末なことまで、その都度その都度僕たちは選択を迫られる。その選択の幾つかに、天使と悪魔は立ち現れる。左の耳に悪魔が甘言を囁き、右の耳に天使が正論で諌めてくる。同時に、これまでに幾つもの選択をこなしてきた僕たちは、善を選ぶのも悪を選ぶのもしんどいということも知っているのだ。
ところが、財布を拾った少年に対して小柳は、「その財布をいったん私に預けて下さい」と提案する。意味がわからない。財布を彼に預けたところで、落とし主には何のメリットもないだろうし、ましてや小柳がその財布をネコババするリスクだって十分にある。何せ小柳は、スーツ姿に猫耳の被り物をつけた中年男性という風貌なのだから、いよいよ怪しさしかないのだ。けれど、そんな小柳の存在は、善でも悪でもない選択肢の存在を明らかにしてくれているとも言える。その時僕らは、問題は必ずしも“解決”しなくて良いことを知るのである。
楽園はおろか、天国も地獄も見たことのない僕の戯言で話を進めさせてもらえるのならば、個人的な定義として“楽園”は死ぬ間際に見る走馬灯のようなものなのだと思う(本コラム第2回参照)。探し求め辿り着くまでもなく、善人も悪人も関係なく死にゆく誰もが最期に見る「なんか良いな」と思えるぼんやりとした映像に、楽園は宿っている。それはもしかすると、「とりあえずよく生きぬいたね」というボーナスポイントのようなものなのかもしれない。だとすれば少し納得はできる。僕らの選択の多くは、善でも悪でもない小柳のようなどっちつかずのものばかりで、それを否定する権利は天使も悪魔も持っていないのだから。