読書メモ:ナタリー・サロート『会話と会話の底にあるもの』
以下、本文の順序に従って。
・『心理の仄暗い場所』(ウルフ)についての論考:「『現今の小説技法が昔に比べて当然進歩しつつあると考えないのは難しい…。古典主義作家たちの用いた道具はすり減っており、その題材は原始的なものであった。かれらの傑作は単純な外観を呈している。…近代人にとって、興味は心理の仄暗い場所に存在する。』」(近代人→プルースト、ジョイス。古典主義作家→スタンダール、トルストイ、ヘミングウェイなど。)このウルフの見解は誤っている。
・「ジョイスの仄暗い奥底からひきだしたものといえば、ことばのとめどない連続にしかすぎなかった。プルーストはといえば、かれは作中人物の内部の深みから引き揚げてきた、触知することもできない材料を微細な小片にわける作業を執拗にやってみたが、それは徒労だったのだ。その際プルーストがもくろんだのは、そこから人間性の全体を構成しているようなある無名の物質を抽出することであり、読者が本を閉じるや否や、ある抗いがたい引力作用によって、これら微粒子がすべて相互に結合し、緊密に混合して、非常にきちんとした輪郭を備えるようになることだった。」世はもう数年前に、この「心理の仄暗い場所」から戻ってきているのだ。
・「もしある頑固者の作家が、いっさい責任を引き受けて、執拗に『心理の仄暗い場所』を手探りで探索することをやめないなら、人は彼を『クレーヴの奥方』『アドルフ』(17・18世紀古典主義)に送り返してしまうのである」。それら(古典主義)は「奥深く魂の薄暗がりの中に」「ゆとりと雅かさとをもって」「活発で軽やかな足取りをもって」突き進んでゆける。ただしこれらの作品は正道を失うまいという慎重さを持っており、「慎重さや控えめな描写の中に、純潔さや抑制された力」がある。つまり国語的な制約に縛られたばかりに心理を描写しきれていない。
・「繰り返しいわれるように、われわれは近代人がしたがることを、もう一度やり直すことはできない。近代人の技法は、それを使おうと試みる人の手にかかると、すぐさま他人に対する態度の問題になってくる。ところが逆に伝統的小説は、永遠の若さを保っている。」
・「自分を惹きつける秘密の暗闇」は内省や自分に似ている人(「広口びん」)の観察によってしか確かめられない。「そこ(自分の中)に潜在する微細な、しだいに消えかかる動きは、このんで不動性と後退の中に繰り広げられる。なぜなら、白日の下に行われる行動の喧噪は、そういった動きを覆い、あるいは止めてしまうからである」。
・たしかに自分とは似ていない別種の人間の観察にこそ面白みがあるという向きもあるだろう。言い換えれば、「内心の戦慄に身を傾けるよりは別の心配事を持っており、おまけにその深い苦悩や大きくて単純な歓び、いとも明らかな強い欲求などが、そのような、きわめて微妙な戦慄を押しつぶしてしま」っている人々、つまり「秘密の蠢きや戦慄などというものを欠いた人物」を外部から描写すること。ただしそれは内省の小説家には難しい。かくして小説家は再び内省の広口びんへと戻る。
・なぜ難しいのかについての議論がよくわからなかった(64ページ)
・(近代人と古典主義作家についての整理:古典主義作家の興味が状況、性格、風俗などであるのに対し、近代人の興味は「ある新しい心理的材料」を「たとえほんの小片でも」発見すること。われわれは近代人を反復することはできないが、古典主義作家については、むしろその反復ばかりしている。古典主義作家は素晴らしい結果を修めるが、その過程で「非常に堅固で、緊密に首尾一貫し、よく組み立てられ、完結した、約束と信仰の体系」をうちたてており、それは裏を返せば国語的・伝統的「制約」に他ならないので、この束縛への反抗として近代人が登場した。)
・たしかにプルーストは「感覚、イメージ、感情、回想、衝動、そしていかなる内的言語も表現しえないような、間歇的で些細な行動などの無数の群がり」を研究していた。しかし彼はそれを「回想の中に凝固しているものとして、はるかな距離を置き、じっとした姿勢で観察」したにすぎなかった。つまり、「読者がある経験を再体験したり、そして、自分がなにをし、どこに行くのかも知らずに、読者自身が筋を完成するという感じを読者に持たせなかった」。
・プルースト以後では「地下の行為」の「再体験」がもくろまれているが、それには内的ドラマが必要で、同時に相手(パートナー)=他者が必要である。しかしこの他者を伴った行為は、「微細な内部運動」にくらべて「粗野で荒々しく」、「すぐに視線をひきつける」。ここでことばが登場する-「行為の代わりに、我々はことばというものを自由に処理できる。我慢強くないがびくびくしている、あのような地下の運動を捉え、保護し、外部に持ち出すために必要な特質をことばは所有しているのだ」。ことばはあらさがしをされにくいわりには効果的なので「小説家にとって一番貴重な道具となる」。
・「おそらくこんなわけで、ヘンリー・グリーンが証明するように、小説の作中人物はとてもおしゃべりになっている。」
・「ヘンリーグリーンは小説の重心が移ったことを指摘している。すなわち対話が小説では日々に大きな場所を占めつつあるということだ」。
・「ところが近代小説において、筋の運び(アクション)が放棄した場所を着々と占めつつある対話は、伝統的小説が対話に強制する諸形式に満足はしていないのだ。」対話は地下の動きを外部に継続しているものなのだから、作家と読者はその動きを作中人物と同時に行う必要がある。にも関わらず、改行やダッシュなどの(古典主義的)伝統的な形式(「作中人物の文体と調子とを作者の文体と調子とに結び付け従わせているか細いが頑丈な紐」)や決まり文句などが、「対話とその前にあるものを露骨に分ける」のである。それはたとえ一人称小説(「と私は言った」)だったとしてもだ。なぜなら「言った」の部分が「作者がいつもそこにいること、また小説の対話が、見かけは独立しているようでも、演劇の対話のように作者なしで済ますことはできず、まったく自律することもできない」からだ。
・対話の問題は他にもある。①ふつう対話は「あいまいで疑惑の持てる印象に、病的にぐずぐず留まることは避けるものなのである」ため、内的なものを見出しきるには形式として最適ではないこと。②内的なものを探すにあたって実際の会話ほどの緊張感を持てないこと。③芝居に比べてやはり(形式による)作者の存在感が邪魔であること。
・芝居化させるのではなく、小説だからこそできることにはなにがあるか→プルーストの分析的な方法。プルーストは「会話と会話の下に隠されているものとの間に、ほんの僅かなずれがある限り、この二つが完全に重ね合わなければ、プルーストはすぐに干渉(説明)する。」ただしこのやりかたは読者の集中力を要するため、「行動主義的小説家が誇張した楽天感をもって、すべての希望を築き上げるその基礎となるものの全部」=「自由な、名状しがたい、神秘なものの部分であり、読者の本能的な力、無意識の源泉、予見の能力を発揮させるはずの実体との直接的で単に感性上の接触」を失う。
・このプルーストの問題を超え、かつ古典主義に回帰するだけではない新たなやり方が要請される。「実生活で体験したよりも、もっと明晰な意識を働かせ、もっと整然と、明確に、力強く、そのドラマの筋を読者自身で作り直すという錯覚を読者に与える技法」である。これは上記の「神秘なもの」を備えている。
・最後にアイディ・コンプトン・バーネットの紹介。内的動きを表象した対話小説らしいが、戯曲との違いなど、具体的なことはあまりわからない。
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