日記 #23
23.7.15.
オレスカバンドが活動休止を発表。
ショック…。ショック! 嘘でしょ!
これで僕の現行で推しているバンドはすべて活動をやめたことになる。好きなバンドと言えばジュディマリ、赤い公園、オレスカがまず挙がるのだけど、ジュディマリはとっくの昔になくなっているし、赤い公園も津野米咲の急逝で解散してしまった。
そして今回の発表。
大好きだったのに。大学生になってからライブにはめっきり行かなくなった僕が、唯一一度だけ足を運んだのがオレスカバンドのライブだった。
オレスカはどの要素にも魅力を感じる。ボーカル・iCasのややハスキーがかった癖のある歌声、気の抜けたようでいて含蓄に富んだ詞、そしてスカバンドの軽快で迫力ある演奏。フェミニンさとしなやかな力強さとのバランスが、僕の思い描く素敵な女性のあり方そのもののように感じられて、格好良くて聞き心地良かった。(感動のあまり、トランペット・natsukaさんに熱烈なファンdmを送ったこともある。丁寧に受け取っていただいて感激だった。)
解散ライブは十月で、その頃には僕はすでに留学している。行きたかったな…。
とにかく残念。
日記のスタイルがまだ固まっていないのを我ながら感じる。それはもちろん「文体」の問題だ。良い感じに書けたな、と思うときもあるが、筆致の強張りを覚えながらむりやり書きなぐってしまうこともまだ少なくない。もっと肩の力を抜きながら書けないかしら。書きたいことを書くというただそれだけのことがどれほど難しいことか。
そして、この日記を書きながらずっと思っていることには、たとえ書きたいことを書けたとしてもそれだけではやはりいけないのだ。自分本位になってはならない。なぜならこの日記は、その実あなたに対して開かれたブログなのだから。ディディエは日記作者について次のように指摘している。日記作者は日記を誰にも見せないものとして秘匿し自らのうちに閉じこめるが、同時に、いつかその日記を誰かに見られたいとも望んでいるのではないか、と。この無意識の欲求を見過ごしてはいけない。見せかけのナルシシズムに閉じこもってはならない。テクスト、「書かれたもの」は、常に何者かに対して開かれている。言葉は常に他者を持っている。
ところで、読者という他者を、あなたを想定しながら、それでもこのnoteがエッセイではなく日記を名乗っているのは、それは僕の日記へのある種のフェティシズムに起因しているが、そこには大切な価値があるのではないかと予感している。
この日記はオレスカバンドを聴きながら書いた。どうしても「爪先」が一番好き。ミーハーだと言われてもいい。岡崎京子なら『pink』が、エリックロメールなら「海辺のポーリーヌ」が好き。好きなものは好き。
一人の女性の成熟のような変遷がある20年。