取材ライターのときより葬儀司会者の今の方が、ライターとしての充実感があるという話
なかなか更新できずにいるのですが、その間、フォローや記事のご購入をいただき、本当に嬉しいです。ありがとうございます。
このところも相変わらず、日々の現場に追われていたのですが、そうこうしている間に、季節はすっかり秋へ。上の画像は、我が家の隣の空き地。ススキでモッフモフです。。。
今回の記事は、タイトルの件。お暇な方はお付き合いくださいませ。
私は20年ほど、取材ライターとしてやってきたのですが、その仕事は主に観光や物産関連のものでした。仕上げた文章は、体感で80%は印刷物に、20%はウェブに掲載されていました。
20%のウェブ、というのは、おおむね発行後の印刷物がウェブで見られるようになった状態を指しますので、ウェブ専用に記事を書いたことはおそらく数回しかありません。
印刷物は冊子であれば、通常、企画から発行まで短くても1ヶ月、ページ数が増えれば数ヶ月かかるため、いわば季節労働のような状態。ひとつの企画をその時間かけて磨いていく感覚です。
対して、ことしに入ってから始めた葬儀司会者という仕事。季節労働に対して例えるなら、日雇い労働のような状態です。1件のお葬儀につき、ひとつのインタビューを数十分でナレーションとして完成させて、同日読み上げて終了。印刷物のように形に残ることはなく、聞いた側から消えていく文章です。
同じように「人」を文章で表現したとして、私のこれまでと今の仕事にどんな違いがあったのか。それは、印刷物にはクライアントの存在があり、その文章に最終的に求められるのはモノを売るなどの成果であるということ。
私の場合、それは苦ではなく、むしろ大きなやりがいでした。自分の携わったページやスペースで売上が上がれば、嬉しくないはずありません。クライアントさんにも喜んでいただけますし、次の仕事にもつながります。
十分やりがいを感じていたのに、なぜ今の方がライターとして充実しているのか。
葬儀司会者の書くナレーションの文章は、ただただ、目の前の故人さま、そして残されて深い悲しみの中にいるご遺族の皆さまに、どこまで寄り添う文章が書けるかが肝となります。
第三者として、仕事として、入り込みすぎない「距離感」をきちんと保って。
その匙加減は、本当に日々違っていて、たった10分〜15分程度のインタビューの、最初の数分で掴まなくてはなりません。その日集まる皆さんと共有したい思い出、反対に、触れてほしくない思い。家族の在り方はさまざまで、そこにあるものが決して愛情だけ、感謝だけ、というわけでもありません。
人が何十年も生きていれば、そこにはドラマを超えるドラマが存在するもの。読んでしまえば4〜5分のナレーションですが、それを聞くことで、最終的に、温かな思いで縁ある方を見送ることができる。求められるのはそんな文章です。
1日1葬儀、月に約20件の葬儀の進行を行い、今月で丸8ヶ月。約160家族の思いを900文字前後のナレーションにしてきました。同じ文章は一つもありません。同じ人生がないからです。こんなに人の生き様に触れることができるライター仕事があるかと聞かれると、多分ないんじゃないかと。
どんな仕事で充実感を得るかは、向き不向き、得意不得意、好き嫌いによると思いますが、私は、人の思いを文字に起こし、直接伝えられなかったことを代わりに声に出して昇華するお手伝いができる、今の葬儀司会の仕事に、司会者というよりは、ライターとして大きな充実感を感じています。
まだまだ、1年にもならない駆け出しの存在ですが、これからも慣れることなく、1件1件、大切に向き合っていければと思いつつ。
なんだか長くなりました。ちょっとオチもない話になってしまいましたが、久しぶりにツラツラと書かせていただきました。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました☺️
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