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文章を書くこと。読むこと。循環すること。

文章から長らく遠ざかっていた私です。

元々は本を読むことも、
文章を書くことも、
どちらも好きだったはずなんですが。

一番本が身近だったのは、振り返れば子どもの頃。
ハリー・ポッター、ダレン・シャン、バッテリー、など。
流行りの児童書は母が買ってきてくれました。
印象深いのは「ハリー・ポッターと賢者の石」。
どうにも序盤は面白くないんです。(子どもにとっては、!)
でも母が、8歳か9歳のとっくに読み聞かせを卒業した私に
読み聞かせをしてくれるんです。毎晩夜ご飯の後に少しずつ。
これが私に向けた最後の読み聞かせだったな。
どんなに興味がなくても母の声なら退屈ながらも聞くことができて、
動物園で初めてハリーが魔法を使うシーンまで辿り着くともう物語に夢中でした。
ここからは、はい自分で、と母の読み聞かせは終了。
今でも覚えてる母の読み聞かせ。ハリーポッターありがとう。
物語の出会いは、母からの影響が大きく、
私も我が子にそうしてあげたいなと思うのです。

序盤から話が少し脱線しましたが、
昔から本は好きだったんです。
そこから高校、大学と段々と読む量が減っていて。
社会人になる頃にはもう全く。

文字を読むためにはちゃんと練習が必要だって
誰かが言ってた気がします。
ブランクが空くと内容が全然頭に入ってこない。
だからどんどん読む気をなくす。
何年も本とは疎遠でした。

久しぶりに開いたのは、益田ミリさんのエッセイ。
「今日の人生」。
装丁がとっても可愛くて、
当時インハウスデザイナーの端くれだった私は
本の内容じゃなくてデザインに目を奪われました。
そこから内容を読んでみると、
とても読みやすかったのを覚えています。
(と、ここまで描きながら思い出したけど
中身はほとんど漫画だったような気がする…)

そこから、本当に時々エッセイ本だけは
少しずつ読むようにしていました。

時は流れ、今。
ほんの少しのきっかけとタイミングがあって、
私はnoteを書き始めました。
書きながら、私は文章を書くのも好きだったことを
じわじわと思い出しているのです。
書きながら、もう少し良い表現を見つけたいな、とか
もう少し気のきいた言い回しはないものか、と
考えるようになるわけで。
また、久しぶりにエッセイ本を開いてみました。
そうしたら、不思議と言葉がすっと体に入ってくるのがわかりました。
今までも内容はちゃんと理解できていたんですが、
より鮮明に、高い解像度で自分の中に落ちていく感じがするんです。
文字を書くことと読むことが、自分の中で循環してるんだなと感じました。
よく考えたら絵を描くこともそうです。
素敵な絵を見て、描いて、そしてまた素敵な絵がより素敵に見える。
文字にも同じことが言えるなぁと感じました。

この前の週末に、久しぶりに本屋さんで文庫本を2冊買いました。
どちらも10年か15年くらい前の本で、
探したら古本屋にもあったかも。
最近の私の本の買い方はいつもそんな感じ。
デザイン本など、流行り廃りのあるものは出てすぐの新刊を買うんですが、
小説なんかはいつ読んでも色褪せないので、
ついつい古本屋さんで安く手に入れてしまうんです。
でも、この日はふと財布の紐がゆるんだんです。
今これを読みたいから、今買おう。と思って。
自分の中の価値基準が少し動いたな、という実感がありました。
何にお金をかけて、何に時間をかけて、というのは
最近はあまり変化をすることはなかったんですが、
それが動いたのが新鮮だなと思って。
きっかけは書くことを始めたためで、
noteさん、これからもお世話になります。

アウトプット(書くと描く)、
インプット(読むと見る)は
自分の中のなんとも言えないもやもやした霧のような
形のないものに、輪郭を与える作業だなと思います。
形になったものを見ることで、自分の今の状態が見れて、
ここはこうしてあげようねってメンテナンスもできたりします。
自分自身を立ちかえる手段をまたひとつ増やせて、
装備をひとつ手に入れたような心強さ。
この装備を武器とし、時には盾とし、
あるいは一生の友として、大切に付き合っていきたいなと思うのです。


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