『進撃の巨人』の面白さを読み解く
『進撃の巨人』の連載が終了した2021年4月、筆者はまだ高校生であった。『進撃の巨人』は筆者の青春と共に歩んだ作品であり、中学の頃は特に考察や次回の予想に熱を入れたりしていた。最終回を読み終えた当初は物語が完結したことの満足感の反面、熱量を注げるコンテンツが一つなくなってしまったことが寂しかった。筆者の一番好きな漫画作品は何かと聞かれれば間違いなく『進撃の巨人』と答えるだろう。今回はそんな『進撃の巨人』について、改めてその面白さを振り返りたいと思う。
一貫したテーマ
「世界は残酷」「そういうもの」
『進撃の巨人』は極めて日本的な表現が多分に含まれている。特にエルディア人とマーレ人互いの信じる正義をそれぞれの視点から描くといった描写は、どちらかを完全正義、完全悪といった一方的な見方を避け、善は善、悪は悪といった固定観念を超える日本の伝統表現である。漫画作品においては人間とパラサイトの交差を描いた『寄生獣』に代表され、近年ではどちらも鬼と人間両者の立場を描いた『約束のネバーランド』『鬼滅の刃』などが例としてあげられる。
『進撃の巨人』においてこれらの「お互いの正義」的感受性は主にアルミンによって媒介される。アルミンは戦闘面で言えばあまり評価される描写はない。超大型巨人の能力を継承するまで、アルミンは実戦においての活躍というよりは作戦を指揮する軍師的立ち位置として立場を確保していた。対して実戦にて評価されるのは同じ幼馴染であるミカサやエレンといった存在だ。戦いにおいて敵は鬼畜に見えなければならない。ミカサやエレンは敵を敵として戦うことに躊躇がなく、強い。善悪の概念を超え、敵に称賛の意すら向けるアルミンが実戦に弱いことは必然である。しかしこの「敵ながらあっぱれ」的な感受性がアルミンの軍師的能力をより際立たせる要素となっており、女型の巨人の正体を突き止めたり、ウォールマリア奪還作戦の際のライナー発見などはそれが顕著に現れている。
両者の掲げる正義といった要素は終盤まで見受けられる。分かりやすい例がエレンとジークのエルディア人に対しての解決方法だ。エレンがエルディア人以外の人類を「地鳴らし」によって全滅することを最終的な解決とするのに対し、エレンの異母兄弟であるジークは始祖の巨人の力によってエルディア人の生殖能力を奪い、エルディア人の子孫を根絶やしにすることを最終的な解決として試みる。両者共に、壁を挟んだどちらかの人々を全滅させることが最終的な解決と考える。エレンとジークは挟まれた壁の向こう側を敵として駆逐することで自身が属する社会の秩序と安保を保とうとする。
しかしこれはどちらも間違いであることに多くの読者はすぐに気付いたはずだ。連載当初から、壁の外を地ならししてもエルディア人を根絶やしにしても何も解決しないことが誰でもわかるようになっている。エレンの所属するパラディ島もジークの所属するマーレ国も本質は同じであり、ムカつくやつもいい奴もいる。海の外も壁の中も同じである。壁の向こう、海の向こうの敵を抹殺すれば味方の平和が訪れるということはなく、味方の内に敵味方の対立が生まれ、またその敵を抹殺することの繰り返しになることが物語を一貫して示唆されている。
やがて読者はエレンに加担しづらくなる。代わりに読者が加担するのは、もともと「世界は残酷」で、世の中とは「そういうもの」であるという共通認識である。これが『進撃の巨人』を一貫するテーマである。
『進撃の巨人』は自らを被害者だと思ってきたエルディア人が過去に巨人として世界を恐怖に陥れた加害者であることを突きつけられ、それとどう向き合うかが最終的な解決への発端になる。これは戦後日本の姿そのものであると言えるだろう。島の中で生きる人々に加害意識はなく、あるのはひたすらに自分たちが受けた被害を象徴するものばかりである。今もなお戦後日本人はこの加害の歴史から目を背けているように思える。
しかしこれはある意味一つの人間の摂理と言える。先住民族虐殺の上に築かれたアメリカという国家を思い浮かべれば良い。大規模定住社会(=文明)とは外部を消去して築くものであり、そこに暮らす住民に加害者意識は存在しない。何故なら「世界は残酷」で、大規模定住社会とは「そういうもの」だからである。『進撃の巨人』は一貫してその摂理を描写し続けた作品である。
最終巻、ミカサはエレンの首を切り、それに読者は納得する。エレンは仲間のために最終的な解決「地鳴らし」を実行するが、それが間違ったことであるのは読者にも明らかであった。そもそもエレンは共に過ごしてきたあのメンバー以外はどうでも良かったではないか。エレンはこの作品における一貫したテーマ「世界は残酷」であり世の中とは「そういうもの」であることを最後まで拒絶したキャラクターであると言える。22巻の勲章式にて、こういう会話シーンがある。
フロック「エレン…… お前だって腹の底じゃ何だって自分が一番正しいって思ってんだろ? だから最後まで諦めなかった 聞き分けのねぇガキみてぇに…」
ミカサ「エレンもういいから離れて」
エレン「……」
フロック「その点ミカサはまだ大人だった 最終的には諦めたんだから」
これは21巻にて超大型巨人の能力を、それぞれ瀕死のエルヴィン団長とアルミンどちらに継承させるかという選択について、リヴァイ兵長とエレンらが大事なものを捨てることができなかったが故にエルヴィン団長ではなくアルミンを生き返らせてしまった、とフロックが言及しているシーンである。リヴァイ兵長がエルヴィン団長に巨人化の注射を打とうとした際、エレンは最後までアルミンを生き返らせることを主張していた。ミカサがハンジの言葉を受けてアルミンの死を受け入れたのに対し、エレンはリヴァイ兵長の足にしがみついてまで、エレン自身の理想を主張し続けた。エレンにとっては世界がどうなろうとも、アルミンを失うことは許されることではなかったからだ。
エレンは『進撃の巨人』のテーマを否定し続けたが故に、最終的にはそのテーマを受け入れたミカサによって斬首される。
キャラクター性について
一般に、漫画はキャラが命だと言われている。どれだけ物語が粗末であっても、キャラさえ魅力的なら読者人気は獲得できるとされる。普通、SFやファンタジーのような序盤から細かい設定を長々と語り、大勢のキャラクターを同時に出すような始まりは話が複雑すぎて読者は離れてしまう。最初にキャラクター(主人公)、次点でストーリー、最後に世界観というのが今も変わらない漫画の王道条件である。その点で『進撃の巨人』は異質だ。この漫画は従来の王道とは全く逆のアプローチで始まった。
はじめに本作では「壁に囲まれた街」「壁の外に存在する人食い巨人」という圧倒的な世界観が提示される。次に「人類対巨人」というストーリー全体の対立構造が提示され、最後に各キャラクターの個性が描かれる。連載当初はエレン含めた各キャラクターの個性は乏しく、誰が誰だか見分けがつかないほどである。
この個性の乏しさは少年漫画として致命的であるように思えるが、むしろこの誰が誰だかわからない状況のまま突然巨人が壁内に侵入し無差別に人が死んでいく導入部は、より読者にリアリティと疾走感を体感させる。巨人から見れば人間は個別の判断のできない虫ケラのような存在であるということを読者に提示している。読者は巨人目線から人間を見ることになる。つまり、冒頭の2巻までこの漫画は世界観(=巨人)を主人公として描いていると言える。
後に段々と104期生のメンバーを中心とした各キャラクターの個性が描かれ始めるのだが、ここにも『進撃の巨人』の歪さが見受けられる。
基本的に作品における世界観の構築の線密度とキャラクターの自立性は逆相関の関係にある。物語を作るにあたって世界観を線密に作り込むほどキャラクターの自由度は下がるということだ。『ジョジョ』のようないわゆる「キャラが勝手に動く」状況を良しとするタイプの作家は、世界観の作り込みに余白を多く残すことで物語進行をキャラクターに委ねようとする。しかし『進撃の巨人』にはキャラクターへの執着がほとんど無い。キャラクターに投影するはずだった個性や設定を全て世界観に投影した結果、『進撃の巨人』に登場するキャラクターは皆「必要だから存在する」だけの存在となり、必要がなくなればすぐさま消え去るような構造になっている。
作者の諫山氏のインタビューにて、作中のエレンに対してこんな発言がある。
「最初は弱いキャラをイメージして描いていました。内面については空っぽで、こういう役が物語に必要だからかいている。という感じ」
作中でのエレンの成長に見えるものはむしろ作者である諫山氏がエレンを理解していく過程であったのだ。
巨人について
『進撃の巨人』を語る上で欠かせないのはやはり「巨人」の存在だろう。先ほどでも述べたように、この漫画において巨人は世界観を構成する上での最も重要な存在として描かれる。
作品序盤、巨人とは意思疎通が取れずただひたすらに人間を食うという恐ろしい怪物として描かれるが、巨人の急所とされるうなじから主人公エレンが発見されたことにより、一部の「知性巨人」はコックピットを持つ「巨大ロボット」の機能を果たすようになる。しかし、依然として「無垢の巨人」の謎は解明されず、むしろ巨人には消化器官がなく、「何のために人間を食べるのか」という新たな謎が浮かび上がる。
マーレ編に突入し巨人の謎が明らかになると、巨人の存在は作品当初の立ち位置とは真逆になり、圧倒的な怪物に見えた巨人たちは人類の歴史が生み出した哀れな被害者として描かれる。
注目すべきは「巨人」という存在の流動性だ。緻密に作り込まれた世界観の設定の中でも、この「巨人」という存在は場面に合わせて世界観に適合しながら多様な役割を合わせ持つ。怪獣ものに始まり、ロボット対戦、変身ヒーロー(巨人化)、ひいては民族差別から世界終末系(地鳴らし)まで幅広いジャンルを持ち合わせていることが、この漫画を象徴する「巨人」の存在をより魅力的にしている。
さらに巨人の魅力を際立たせるのはあの独特の気持ち悪さだ。読者が巨人に感じる感覚は「不気味の谷」現象に通ずるところがあるだろう。
「不気味の谷」現象とはロボット工学の分野で語られる心理現象だ。人に似せて作ったロボットに対し、人間はあるポイントまでは好意を抱くが、似ている要素が一定ラインを超えると嫌悪感や不快感の方が増していく。この好感度が切り替わるポイントが「不気味の谷」とされる。
漫画のキャラクターの特徴として、実際の人間に近い顔を描くほどそのキャラクターの不気味さは増していくのである。
また諫山氏の体験談にこういうものがある。
「実は巨人にはモデルがいるんです。以前、池袋のネットカフェで深夜バイトしてたんですけど、酔っ払いがよく絡んできたんです。酔っ払っているから会話もできなくて、意思の疎通が取れないのが何より怖かった。しかも、意思はわからないのに知恵があるのが怖い。」
読者が感じる「巨人」への不快感の正体とは、人間と同じような見た目を兼ね備えつつも意思疎通が成立しない、得体の知れない存在に対する恐怖心であると言えるだろう。
まとめ
『進撃の巨人』は、様々な社会問題に関連性のある普遍的な要素に、巨人や壁、立体起動装置といった画期的なシステムの導入によってその面白さを加速させていると言える。
際立つのはその世界観と実際の読者が体験している社会とのシンクロ性だ。巨人という災害的存在は津波や放射能といったものを彷彿とさせるし、マーレにおけるエルディア人はナチスとユダヤ人の関係を連想させられる。聳え立つ壁はイスラエルにおけるガザ地区の天井のない監獄を連想させられるし、世界から閉ざされた王国は隣国の北朝鮮を彷彿とさせる。エルディア人の加害の歴史とその忘却は戦後日本人の歴史修正主義に繋がり、ジークの安楽死計画は反出生主義や安楽死制度の問題などと結びつく。パラディ島での内戦は日本の幕末における開国派と攘夷派の戦いと似ている。強力だが扱いが難しい知性巨人は核兵器としての役割とも捉えられるだろう。
このように『進撃の巨人』は読者が実際に生活する社会状況と漫画内の物語がシンクロする部分が多分に含まれているため、日本に留まらず世界中で読まれ、しばしば議論の話題にあがるのだ。
『進撃の巨人』のコミックス全34巻の発行部数は世界累計1億4千万部を超えているらしい。凄まじい数である。『進撃の巨人』に憧れを抱く作家志望も多いのではないだろうか。
記事が長くなりすぎてしまうので今回は割愛したが、『進撃の巨人』において画期的な戦闘描写を作り出した立体起動装置や、細密に組み込まれた伏線を見事に回収する時間軸の作用についても今後解説したいと思っている。
『進撃の巨人』は間違いなく漫画史に残る作品のひとつであろう。筆者もこういう物語を描いてみたいものである。