戦わな勝てん

突然ですが、私は最近、絶対にお前をいつか倒してみせる。と言い、立ち去るのにハマっているんです。

普通に、頭が、まじでおかしいって言われます。少年ジャンプやん笑 とか言われます。

本当に頭がガチイカレしてますがそれっていつから⁉️って考えると、やはり入院した時あたりからなんですよね。お酒で脳が溶けちゃったのかな?本当にそんな事ってあるん?んなこと知らんよね。

この間facebookを久々開くと友達申請がきていた。オーストラリア在住、幼子2人抱えて笑顔のプロフィール写真の男だった。一体誰?んなこと知らんよね。

およそ12年ほど前、オーストラリアで私はお酒に溺れていた。

朝イチからビール6缶を飲み干し、その後はワイン瓶片手にシドニーの街を夜中まで徘徊する程にお酒に溺れていた。
路上での飲酒は日本と違い禁止ですのでおまわりに話しかけられることもしばしば。
厄介なのはお酒をのんで酔っ払っている、で解放されず、この外国人は薬物を使用しているかもしれない、という嫌疑をかけられる時。日本に置き換えてみてもそれはありがちだし、警官の気持ちも分からなくはない。

否応なしに病院に連れて行かれては血液検査。
ひどい時には1日に2回。

後に夫となる男は泣きながらもう病院か施設にぶち込んでやって下さい!号泣!
みたいな感じだった。
先程述べたようなぜって〜にお前を倒して見せるマインドのせいで結構頻繁に暴れたりしていた為である。

…ようその後結婚しようと思ったね?

何回こんな事を繰り返したのか記憶が定かではないが、たまには否定し脱走も試みた。逃げてる途中でサンダルが脱げても裸足で半日以上ポリから逃げた私はまあまあ逃げ足が早いしアル中の割には健康。両親に感謝。生まれて初めて手錠をかけられて、片方を警察官が逃げない様に自分の腕にかけたもんだから、でっけ〜ムキムキのジジイと仲良し二人組みたいになって今考えるとちょっと面白い。もうどうしようもなくなって入院を決意した。決意というか強制。恐らく精神病棟、逃げられないよう当時でもすごいセキュリティだったと思う。24時間の監視、真ん中にナースが24時間駐在して、その周りに円を描くようにベッドが並べられる。窓などは一切ない。夜にたまになるサイレン。暴れる人。

まず、トイレや風呂は共同。カミソリやハサミといった金属類は一切ない。食器ですらだ。
消耗品類は基本支給される。私はロングヘアなのでヘアブラシが欲しいと申し出るとよくホテルにあるアメニティみたいなブラシが貰えた。

男性の割合が高かったが、女性も数名はいた。
本当にどうしちゃったのですか?みたいな人達が収容されていた。世の中にうまくはまらなかった人々、まるで異世界。なんで私がここに。

斜めの男は、黒人、国籍はわからない。いつもニットの帽子を振り回したりしていて少し乱暴。怒ってる。しかも独り言がうるさすぎる。

その奥のベッドにはでっかいサンタクロースみたいなおじさん。気さくな人、入院中はすることがないので、よくこのおじさんと雑談していた。多分統合失調症。

病室にはベッドのある部屋と、その隣の部屋にテレビと雑誌、公衆電話とソファやテーブルのある小さな部屋があった。
勿論その部屋より先には絶対に出られない。理由はあたぉかだからデス。

酒の抜けきった私は段々と正気になり(今考えれば充分正気ではないのですが、一旦)早くここから脱出せねば!!!と1日1回ある医師の診察時に思いの丈を伝えるためその部屋でいかに私はまともな人間か。いかにここから出る必要があるか。と懇々とルーズリーフに書き綴りまくっていた。診察時に喋る時間はごく僅かしかないため、毎度毎度医者に直で渡していたのだ。やっぱり正気ではない。普通にその場にいた知らんおばさんにスペル合ってるか⁉️とか聞いていた。優しくおしえてくれた。国は違えど皆おなじ人間やね。

その部屋ではよくサンタクロースおじさんが恐らくサンタ母に電話していた。ママ!会いたいよ!ママ!とそれはなんだかとっても、聞いていられない悲しい会話だった。

サンタクロースはよく私のベッドに腰掛け、めちゃくちゃなことを私に言っていた。自分は何十ヶ国もの国の言葉が喋れるだとか、聞いてもいない話や嘘をずっと話していた。ここにいる人には殆ど見舞いがこない。私は元夫が定期的に見にきたため差し入れとしてお菓子などを持ってきてくれていた。そのうちのハリボーのグミをみて、あ、これ好きなんだよな。と言ってたときだけ、彼の本物の部分を見た気がした。

サンタクロースが何で君はここに来たんだい、という質問ばかりしてくるため、ナースにあまり仲良くするなと叱られた。

そう、ここでは身の上話は厳禁なのだ。
トラブルの元になるかららしい。

日本人の女の子も入院してきた。偶然だ。ほんの数日で退院してしまったけど、彼女は、私の彼氏ってね、インド人なの。でもインド人ってなるとうわーってなられたりしてね、なんかもう色々しんどくなっちゃって、死のうとしてね、ここにきたの。てな話だった。日本語だから身の上話をしてもナースにはバレなかった。現地大学生らしかった。人種差別に悩んでいたのか、ほかのことに悩んでいたのか、もう今となっては知る由がない。

そこでわたしは出会うのだ。12年越しに友達申請をしてきた、オーストラリアのナース男と。

彼はインターンだと言っていた。フィリピン人。南国の斎藤工みたいな感じの彼は私を担当するようになった。他のナース達とは違いごくごく普通の話を気を使わずにしてくれる。なぜかと訊ねると、僕には普通の女の子にしか見えないからね。退院したら飲みに行こう(笑)あかんか(笑)なんて言われた。病人キチガイ扱いされて(事実はどうあれ)弱りきった私にこの言葉はストレートにキいた。

そして私はおとなしく病院で暮らすことにした。早く退院するための近道である。
手持ちの本があまりにも少なく、村上春樹のダンス・ダンス・ダンスは読み過ぎてボロボロになっていた。そのほかは絵を描いたりして静かに過ごした。

ある日、あなたはここ最近は落ち着いていて異常な行動もないです。退院してよいでしょう。と嬉しい知らせが。まじで大学卒業するより嬉しかった。嘘です、卒業できてません。
なんせめちゃくちゃ嬉しかった。

私は、病院食で出される洗剤みたいな味がするゼリーや安っぽいビスケットは嫌いで食べずにこっそり隠していた。そんな余り物のお菓子を斜めにいる黒人に欲しいかと聞くと欲しいというので全部あげた。お礼の言葉はなかったが、怒ってばかりの彼の笑顔を初めて見た。

食べきれなかった差し入れのハリボーのグミはサンタクロースにあげた。退院時にベッドにいなかったのでグミと簡単なメモ用紙に書いた手紙を置いて、私は病院を去った。

元夫が迎えに来てくれて病院の外に出て、100年ぶりの太陽の光を浴びた。

もーーーーー2度と!入らんぞ!と決めるが若干入った気もする。記憶があやふやだ。

その後元夫とはもう一悶着あって私の面倒がみきれずオーストラリア在住の画家の友達の家へ居候してしまう。私もその男を知っていたので、なんやあのクソ野郎!あいつの味方なんかいや!と腹を立てていた。

まあそれはどうでもいい、私には学業があった。長く学校を休んだいいわけetcとりあえず忙しかった。危ない。ビザがなくなったら大変すぎる。私はここでは外国人なのだから。

そしてナースの彼を思い出す。
退院したらメールしてといわれたアドレスにメールする。返事はすぐに返ってきた。

私達は、はっきり言って、めちゃくちゃ遊んだ。友達を誘ってみんなでご飯にも行ったし、2人でカジノにも言った。ATMでお金をおろす彼をボーっと見てたら、あんまり近づくなよって言われて軽くショックを受けていると、冗談に決まってるや〜ん。と言ってた。そういう彼の明るさに救われていて、幸いにもお酒はあまり飲まない日々が続いた。

元夫との関係が今よくない話をすると親身に話を聞いてくれて、地元で流行りのスイーツ屋に連れて行ってくれた。マンゴー味の、なんだか食べた事ないスイーツ。弱った心に甘い物はキく。これは後の私の人生のヒントとなる。
時には嫌なことは忘れちまおうと、クラブにも連れて行ってくれた。全部奢り。多分お金ないのに。そういう親切に感謝すると、フィリピンでは友達が困っていたら助けるけど、日本では違うの?

って普通のこと聞かれた。一緒だねと言ったけど、なんか違うかも。とも思った。

一度私の家に来たいというので家に呼んだことがある。ルームシェアだったのでリビングで2人で話した、意を決して、わ、私の部屋に入る?と聞くとアッサリと辞めとくよと言ってタクシーで明け方帰った。彼があの夜わたしと何をしたかったのか、30過ぎた今でも分からない。

それが彼と会う最後となった。
帰国の挨拶もしなかったと思う。

12年越しにfacebookで見る彼はしっかり12年分歳をとっており、彼似の女の子2人と、アジア人っぽい奥さんが写っていた。

私のことが記憶の片隅にあって嬉しい、と同時になんだかこの気持ち、どうしようもないなあと思った。

目の前にはビールの空き缶の上に割り箸、くたくたのもちもちクッションに項垂れてこれを書いている次第。

人生戦わねば勝てん!

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