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高島鈴 『布団の中から蜂起せよ アナーカ・フェミニズムのための断章』 : 怒りを込めて立ち上がれ!

書評:高島鈴布団の中から蜂起せよ アナーカ・フェミニズムのための断章』(人文書院)

本書は2022年の刊行で、「紀伊國屋じんぶん大賞2023 読者と選ぶ人文書ベスト30」の「第1位」に選出された本だ。

私が会社帰りに立寄るのが紀伊国屋書店梅田本店であったことから、この「紀伊國屋じんぶん大賞」というのも自ずと目につき、本書についても、全然知らない著者ではあったものの「第1位くらいは読んでみようか」とそう思って、購入した記憶がある。一一だが、当時は、フェミニズムにさほど興味がなかったので、結局は、例によって積読の山に埋もれさせてしまった。

ちなみに、この時の「紀伊國屋じんぶん大賞2023」の「第2位」は、三木那由他『言葉の展望台』

北村紗衣が主導した、歴史学者・呉座勇一に対する「オープンレター『女性差別的な文化を脱するために』」の「発起人」に名を連ね、与那覇潤から、

『三木氏は言語哲学が専門にもかかわらず、「本を読まずにレビューを見て批判します」との態度を表明して炎上し、直後に(※ Twitter)アカウントごと消すふるまいを示して、笑いものになったようだ。』

と紹介されている人物である。

そんなわけで今回は、「武蔵大学の教授」で自称「フェミニスト」の北村紗衣に対する批判という、私個人の現在進行形の事態とも関連して、「そう言えば、あの本(本書『布団の中から蜂起せよ』)もフェミニズム関連の本だったな。やっぱり、あの頃はフェミニズムブームだったからだろうか」とそう思って、再購入することにしたのである。

さて、日本社会におけるフェミニズムの現状を体験的に知り、少しは勉強した今となって本書を読んでみると、やはり「人文書部門第1位」というのは、いかにも「ブームゆえの過大評価」(ブームという下駄履き評価)としか思えなかった。

別に、特に悪いというわけではない。
また、私が批判している北村紗衣に代表される「大学教師のエリートフェミニスト」たちとは違ったタイプでもあって、決して悪い印象は無い。
だが、その思想の内容が「甘い」という点において、内容面で高くは評価できないのだ。
一一こう書けば、この著者なら、きっと素直に「おっしゃるとおりです」と言うことだろう。なぜなら、著者自身は、自分の「甘さ」をよく自覚しており、そのことについて、本書の中で何度も、自省的に言及しているからである。

つまり、本書の問題というのは「著者が、自身の弱点や難点を自覚しており、それを自分でも書いているから、そうした弱点や難点については、逆に読者から大目にも見られ、それに由来する問題点が、かえってスルーされてしまう」という点にある。

したがって、私が本稿で指摘したいのは、「わかっていれば良いというものではない。問題は改善されなければならない」ということであり、その意味で私は、本書とその著者は、「甘やかされることなく、きちんと批判されるべきだ」と考えるのだ。
「著者の反省の言葉」を「批判されないための予防線」として機能させてはならない、ということである。

 ○ ○ ○

まずは、本書のタイトルから解説しよう。
サブタイトルにある「アナーカ・フェミニズム」という聞き慣れない言葉は、要は「アナキズム・フェミニズム」だということである。「アナキズム」「フェミニズム」を接合した言葉だ。

したがって、タイトルの「蜂起せよ」という言葉は、単に「男社会に対して蜂起せよ」という「フェミニズム」的な意味合いだけではなく、「巨大な政治権力に対して蜂起せよ」という「アナキズム」的な意味合いを併せ持ったものだ。
また、「布団の中から」というのは、この「蜂起せよ」という呼びかけが、もとから問題意識のある人たちに対しての呼びかけではなく、むしろ、部屋に引きこもって、布団から出られなくなっているような、運動的な問題意識とは縁遠い、動けない人たちに対して「あなたたちも立ち上がれ」と呼びかけたものだからなのだ。

で、どうして本書著者は、当たり前に「普通に社会生活を送れている人」に向けて「蜂起せよ」と呼びかけるに止まらず、「引きこもって動けなくなっている人」たちに対して、あなた方も「蜂起せよ」と訴えているのかというと、それは著者の高島鈴自身が、そっちの人間だからである。
つまり、自分自身が、いわゆる「社会的には負け犬に近い立場にあるという自覚」があって、しかし「このままで良いわけがない」という問題意識もあるからこそ、「アナキズム」と「フェミニズム」に惹かれ共感して、まずは自分自身が「布団の中から蜂起しなければならない」と考えた上で、同じような境遇にある人たちへ呼びかけているのである。
言い換えれば、似たような境遇の他人に呼びかけることで、自分自身を「叱咤激励」しているのだ。

ということはだ、著者は、現実には「蜂起」というほどのことは「何もしていない」ということなのである。

「したい」「しなければならない」という気持ちはあるのだが、現実的には、そうもいかない自身の現状において悶々としながら、自身を叱咤するものとして、ひとまず言葉を紡いできたのであり、その結果が本書なのだ。
その意味では、本書は「思想書」と言うよりも、「私小説」的な「自己暴露」色の濃厚なものとなっている。

だから、突き放して(客観的に)言うなら、著者の「蜂起する」というのは、あくまでも、ライターとして「文章を書く」ということでしかなく、「運動」的な、ましてや「実力闘争」的な具体性は、まったく無いものだと、そう断じても良い。

無論著者は、「アナキスト」を自称するからには、「暴力」を否定するものではない、と断ってはいるが、自分の手で、そうした「暴力」を行使する様子はまったくない。
女だし、小柄でひと一倍力もないしと、いささか言い訳がましく、その理由が間接的に語られている。「だから自分は、あくまでも言葉で、文章で、自分を変革し、社会をも変革していく」と、そういう路線のようなのだ。
したがって、実質的には「非暴力」路線であり、「言論」主義であると、そう断じても良いだろう。

こうした点で、著者の主張は、その著書のタイトルに似ず、意外に「無難」なものである。
「アナキズム」だ「アナーカ・フェミニズム」だと言っても、別に「政府の打倒を目指す実力行動」をやる気はない。少なくとも、自分が率先してそれをやろうという気はなく、ただ、人がそれをやるのなら喜んで支持しますといった程度の「理念としてのアナキズム」に止まるものなのだ。
要は「頭でっかち」であり、いささか「口ばっかり」なのである。

で、著者自身は、そんな自身の「ダメさ」を自覚しており、自覚しながら、しかし「ハッタリで他人を騙そうとしている」のではなく、前述のとおり、そんな自分の「頭でっかち」や「口ばっかり」を反省的に自覚して、なんとかそこ(布団の中)から「出ていきたい」と思っているのだが、なかなかそれが出来ていない自分を、文章において暴露することで、自身を叱咤している、という具合なのである。

実際、著者は、決して悪い人ではないのだが、こうした「複雑骨折的な精神的弱さ」を抱えた人なのだ。
具体的に言えば、(今はほとんど快癒しているのかもしれないが)「うつ病」「統合失調症」「醜形恐怖症」といったものを抱えた、ある意味、自分のことで精一杯な人なのである。

著者は、そうした自身の「弱点」を、積極的に自己紹介しているのであり、それを晒すこと(隠さないこと)は、著者における「書くことによる蜂起」には、絶対に必要なものだと考えられているようだ。
そういう、自らの「弱点」を無難に隠しておいて、ご立派な「綺麗事」やご大層な「理想」を語ったところで、そんなものでは、自分たちのような「社会的敗者とされる弱者」が救われることはないと、そう感じているようなのだ。
一一したがってこのあたりが、北村紗衣清水晶子といった「大学教師のエリート・フェミニスト」たちとは、ひと味違ったところなのである。

例えば私は、北村紗衣清水晶子などについては、彼女らが差別問題の話題を、「女性」と、それからせいぜい「LGBTQ」や「黒人」くらいまでに「限定」して、日本における伝統的な「差別」であり「社会問題」でもある、「部落差別問題」「在日朝鮮人差別問題」「沖縄米軍基地問題」などには、まったく触れようとしない点を指摘して、その「(女性)党派利益主義」を、「女性差別に反対するフェミニストとは、本来、あらゆる差別に反対するのではないのか」と、そう批判的に追求したのだが、本書著者の高島鈴は、そのあたりの問題を、当たり前に、次のように書いている。

『フェミニズムは、原理的には女性差別に反対する運動/思想の名前だが、この本においてはあらゆる差別と不平等に立ち向かう運動/思想として理解してもらって構わない。』(P10)

これが、言うなれば「当たり前」でなければならないのだ。

だが、本書著者の本質的な「弱さ」が、上の引用部に続く文章で、端なくも露呈してしまっている。

『フェミニズムに対する理解は個人差が大きいし、それ自体は悪いことではないが(ただしトランス差別のように、絶対に許してはいけない差別的思想を掲げて「フェミニスト」を名乗っている連中もいるので要注意だ)、私は少なくとも女性差別以外のイシューに関心を持たない姿勢はフェミニストとして誤っていると思っている。』

少々わかりにくいかも知れないが、高島鈴はここで、「矛盾」したことを書いている。
すなわち、

(1)フェミニズムは原理的に「すべての差別」に反対する運動(だから、私はそうしている)。
(2)しかし、フェミニズム理解には、いろいろなタイプがあって、『それ自体は悪いことではない』
(3)しかし『トランス差別』だけは絶対に許されない(それ以外なら、場合によっては、許される差別もある)。
(4)『私は少なくとも』フェミニズムは、すべての差別に『関心を持たない姿勢』は、フェミニズムとして間違っていると思う。

ここを読むと、著者の「弱さ」がハッキリと露呈しているのだ。

つまり、フェミニズムは「すべての差別に反対するものだ」という「理念」を持っているのに、そうでない「フェミニズム」も、考え方の違いとしてありだと、実質的に認める「相対主義」を採っている。さらに、その一方で「トランス差別」だけは「例外として、絶対的に誤りだ」としているのである。
一一要は、都合よく「絶対主義と相対主義を使い分けている」のである。

このような書き方をするのは、高島が「日本のフェミニズムの現状」においては、北村紗衣や清水晶子に代表されるような『女性差別以外のイシューに(※ 広く)関心を持たない』者が多数存在しており、むしろそうしたタイプが「フェミニズムの覇権を握っている」という現状を、百も承知しているためであろう。
だから、そういう有力者たちについては「絶対的に間違っている」とは断ずることはせず、「まあ、いろいろな考え方があって、いろいろな立場があるってことは、認めますよ。ただ、私個人は、そうは思わないけど、それも意見の相違ですね」と、そんな「逃げ」を打っているのだ。

言うまでもなく、こういう「考え方の違い」を認めるのであれば、トランス差別」だけは『絶対に許してはいけない』ということにはならない。
「トランス差別はいけないことだけど、考え方や立場の違いによっては、それを最優先事項としてとすることはできない。私は、別の差別問題に専念して、トランス差別問題に関わる暇はない」という立場をも、認めないわけにはいかないことになってしまう。
しかし、それを認めるのであれば、「トランス差別」だけは『絶対に許してはいけない』事項だと、個別例外的にその名を挙げて強調することは許されないのだ。一一「どうして、トランス差別だけは特別扱いなのか」と、そう問われざるを得ないのである。

では、どうして、高島鈴は「トランス差別だけは絶対にいけない」と、特別扱いにしたのか?

その理由は、本書に書かれていないし、著者が説明してくれるというのなら、喜んでそのご意見を拝聴した上で、それが筋の通った理由になっているか否かを検討させていただく気持ちはあるのだが、まだその理由がわかっていない現状において、その「トランス差別の特別扱い」という「他の差別問題に対する差別的処遇」の理由を、ごく常識的に推察するならば、要はそれは、

「反トランス差別」運動が「流行っている(いた)から」

ということなのではないだろうか。

つまり、高島鈴は、北村紗衣や清水晶子らに代表される「すべての差別問題を公平に扱おうとはしない、人気フェミニスト」に対して「迎合」するかのように、「そんな考え方もあり」だというような書き方をしたのと同様、「トランス問題」がフェミニズムブームの中で「主流」を成していた当時としては、「私もそれは絶対的に重要だと考えていますよ」という、言うなれば「主流派フェミニズムに配慮する、リップサービスをした」ということなのではないだろうか。
そう予防線を張った上で、自分の毛色の違いをアピールしているのだ。

『現代思想』2020年3月臨時増刊号 総特集=フェミニズムの現在

本気で、フェミニズムは「すべての差別に反対すべきもの」だと考えているのであれば、殊更に「トランス差別」の名を挙げる必要はなかった。
単に「すべての差別に反対するが、しかし、一人の人間に与えられた時間は限られているから、自ずと否応なく、それぞれの立場での、力の配分はやむを得ないことだ」と、そう「当たり前」に語っておけば、それで済んだことなのだ。

それなのに、ここで「トランス差別」というものについて、特別扱いにして言及したのは、結局のところ「流行り物に色目を使った」ということにしかならないであろう。

要は、なぜここで、「部落差別問題」「在日朝鮮人差別問題」「沖縄米軍基地問題」ではなく、「トランス問題」を挙げたのかと言えば、それが「流行っていた」からであり、その「トランス問題」を今まさに担いでいる「主流フェミニスト」やその取り巻きに「配慮した(目配せを送った)」ということなのではないのか。

しかし、だとすれば、高島はここで、世間的な流行において「差別にランクづけをして、差別した」ということになるのである。

もちろん、高島が、「部落差別問題」「在日朝鮮人差別問題」「沖縄米軍基地問題」のことを「知らなかった」のなら仕方がないのだが、まさか知らなかったから言及できなかったということでもあるまいし、そもそもそんなことも知らない人間が「すべての差別に反対する」などという「ご大層な言葉」を、身の程知らずにも、口にすべきではない。
だが、にもかかわらず、それがわかっていないから、深く考えることもなく、要は、意図せずに「差別にランクづけをして、差別する」ことになってしまったのだ。一一そういうことではないのか、高島さん?

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そんなわけで、本書著者・高島鈴の問題点であり弱点とは、要は、自己を叱咤するためとは言え、「ヘタレのくせに、強気なことだけは言う」という点にある。要は、自分を甘やかしているのである。
だから、前記のような「矛盾」をきたすことにもなる。

そしてさらに問題なのは、著者自身が、自分を「うつ病」「統合失調症」「醜形恐怖症」持ちの人間であり、暗に「可哀想な人」だと描いているせいで、読者の方は、著者の「弱さ」を指摘しづらいという構図を作ってしまっている、という点である。一一これが、最初に指摘した、著者自身による「予防線」となってしまっているのだ。

しかし、著者が「うつ病」「統合失調症」「醜形恐怖症」であろうと、何でも許され黙認されるべきではない。つまり、批判されるべき点は批判されるべきなのだが、今の世の中、わかりやすい「弱者性」を持った人スティグマを誇示する人)を下手に批判すると、たちまち「差別主義者」のレッテルを貼られる恐れがあるので、普通は無難に、そうした「弱者」への共感を語っておくことにする、といった人が多い。
そうすれば「弱者」に共感的な「優しい人」という立ち位置に立てるからだが、これが忌まわしくも通俗的な「偽善」であるというのは、もはや事改めて指摘するまでもないことだろう。
それはまさに、私が「心の師」と仰いだ大西巨人が言ったところの、「俗情との結託」でしかないのである。

(本書装画)

そんなわけで、本書は「批判しずらい本」になっており、読者が「善人づらするのに、もってこいの本」だとも言えるだろう。
だからこそ、このような「弱者が弱者のままで、実は強者になりかわろうとすることの自己正当化」本が、「紀伊國屋じんぶん大賞」の第1位に選ばれたりしたのだろう。

要は、自分が「弱者」だと自覚しつつ、その「弱者性」を武器にして「強者」になりかわろうという「姑息な底意」を秘めたような読者が、本書を絶賛したのであろうということだ。

著者は、本書の中で、「強くあらねばならぬ」そして「勝たねばならぬ」式の抵抗スタイルを「マチズモ」だと否定して、「弱者が弱者のままでの抵抗」という、いかにももっともらしいことを語っており、またそこが「弱者・被害者」意識を持ってはいても、実際にはそこから立ち上がれない、多くの読者の共感を得もしたのだろう。

だが、「弱者が弱者のままで、強者に抵抗する」などというのは「語義矛盾の欺瞞」でしかない。
それは、今の「フェミニズム」が、その「弱者性」や「被害者性」を武器にして「権力奪取」を目指している事実からも明らかだろう。北村紗衣や清水晶子などは、フェミニズムで成り上がった「悪しき成功例」ではなく、大半のフェミニストからは、全き「成功事例」だと見られているのが、その何より証拠なのだ。「なれれば私も、あんなふうになりたいものだ」というのが、その「権力志向」的な本音なのである。

またそんなわけで、本書著者の高島鈴自身、結局のところ、うまくいけば、今の世の中において「有利有力な立場を得て、それでおしまい」ということになるのではないのか。

なにしろ、これだけのことを書いておきながら、大学の恩師に「酌をしろ」と言われて、反論のひとつもできず、無難に後から「言葉でだけ」それに(名前を伏せて)報復するというのが、著者の「現実」なのだ。

だから、私はここで、あえて問おう。

一一そもそも「男性性」は、「全否定」されなければならないものなのだろうか?
「強くなって、悪を打ち倒したい」と願う「マチズモ」は、「本当の弱者」を置き去りにする、一種の「エリート主義」なのだろうか?

私はそうは思わない。
「強くなって、悪を打ち倒したい」と願う「男性性」は、「否定されるべき男性性」などではなく、女性だって持つべきだし、現に持っている人は持っている、男女を問わない「人間的な力」なのだ。

だから、それに「マチズモ」の「レッテル」に貼って否定するのは、卑屈な「負け犬根性の自己正当化」か、「弱者・被害者であることの特権性を手放したくない、姑息な政治的選択」に過ぎないのではないのか?

もちろん、人には「力量差」というものが厳然として存在するのだから、どうしても力の持てない人に、力以上のことをしろとは言わない。

初のテレビシリーズ版『スーパーマン』より)

だが、人並み以上の力を持った「スーパーマン」のような人が、「弱者」のために「強者」と戦うことは間違いではないはずだし、そんな自己利益を顧みず、「弱きを助け強気をくじくスーパーマン」を目指す人が、男女ともに出てくることも、決して間違いではないと私はこう考えるのだが、一一さて、女性諸氏は、私のこの意見を、どのようにお考えになるだろうか?


(2025年1月2日)


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(※ 北村紗衣は、Twitterの過去ログを削除するだけではなく、それを収めた「Togetter」もすべて削除させている。上の「まとめのまとめ」にも90本以上が収録されていたが、すべて「削除」された。そして、そんな北村紗衣が「Wikipedia」の管理に関わって入ることも周知の事実であり、北村紗衣の関わった「オープンレター」のWikipediaは、関係者名が一切書かれていないというと異様なものとなっている。無論、北村紗衣が「手をを加えた」Wikipediaの項目は、多数にのぼるだろう。)


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