ジョージ・スティーヴンス監督 『スイング・タイム(有頂天時代)』 : 優美なるダンスの特権性
映画評:ジョージ・スティーヴンス監督『スイング・タイム(有頂天時代)』(1936年・アメリカ映画)
なぜ、この映画を見てみようと思ったのか。それは、以前に紹介したウディ・アレン監督の『カイロの紫のバラ』(1985年)のラストに、この映画が登場したからである。
『カイロの紫のバラ』のヒロインは、亭主がグータラ者の遊び人のために、やむなくウェイトレスの仕事をしているものの、もともとが夢見がちな映画キチガイで、ウェイトレスの仕事は半人前という、パッとしない主婦である。
そんな彼女の前に、映画の中から理想の男性が出てきて、彼との夢のようなラブロマンスを経験するのだが、最後は彼がスクリーンの向こうに帰ってゆき、彼女はまた、希望のない日常にとり残される、というお話である。
当然これは、普通の意味でのハッピーエンドではないのだが、しかし、夫とも別れ、理想の男性もスクリーンの向こうに帰って行き、さらにはウェイトレスの仕事まで失って、言うなれば「すべてを失った」かに見えた彼女に、ゆいいつ残されていたものがある。一一それが映画なのだ。
『カイロの紫のバラ』のラストは、「すべてを失った」彼女が、半べそをかきながら、しかたなく習慣的に映画館に入っていき、そこで映画が始まると、彼女の表情に微妙な変化があらわれ、微かな笑みを浮かべるところで、幕を閉じる。
つまり、すべてを失ったように見えた、なんの取り柄もない彼女にも、映画だけは残されていたという、そんな「映画愛」を語った作品だったのである。
で、このラストで、映画館のスクリーンに一瞬うつるのが、フレッド・アステアとジンジャー・ロジャースのコンビによるミュージカル映画『スイング・タイム(有頂天時代)』であり、タキシードのアステアと白いドレスのロジャースが、今まさに踊り始めたシーンなのだ。
つまり、この『スイング・タイム(有頂天時代)』は、希望の持てない人たちに「夢を与える映画」の象徴として、このラストに登場したわけだから、この映画は見ておきたいと思ったのと、あとはミュージカル俳優として有名なアステアのダンスというものを、私はまともに見た記憶がなかったので、この作品でしっかり確かめておきたいと、そうも考えたためである。
ちなみに、ここでのタイトル表記が『スイング・タイム(有頂天時代)』となっているのは、この作品が、戦前に初公開された時の邦題が『有頂天時代』であり、戦後は原題どおりの『スイング・タイム』で公開されたためである。
したがって、「Wikipedia」では『有頂天時代』がメインとなっているが、今や多くの場合に『スイング・タイム』が優先されて、補足的に(有頂天時代)とつけ加えられているようだ。
2つの邦題のために、別作品と思い違いされないようにするための配慮としての二重表記なのだろうし、たしかに『有頂天時代』というタイトルだけでは、今の日本人の感覚にもそぐわないだろう。
そんなわけで、本稿では、以下『スイング・タイム』と略記することにする。
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さて、そんな本作『スイング・タイム』だが、実際どうだったかというと、ハッキリ言って、やはり「ダンスを見る映画」である。
お話としては「ラブ・コメディ」で、形式は「ミュージカル」。
問題は、「ラブコメ」の方なのだが、ハッキリ言って、絵に描いたような、軽いラブコメで、ラストのハッピーエンドも、絵に描いたようなご都合主義。だから、本作を「ドラマ」として見るならば、いかにも物足りない。
けれども、この映画は、そういう「リアリティのない、ロマンチックでハッピーな世界」を描いているからこそ、『カイロの紫のバラ』のヒロインのような、特に教養もなければ、これといった取り柄もなく、貧しくて希望も持てない、そんな庶民大衆に、「いっときの夢」を与え得たのではないだろうか。
例えば、スタインベック映画化作品である、ジョン・フォード監督の『怒りの葡萄』は、『カイロの紫のバラ』と同時代である「大恐慌時代」のアメリカを描いた作品なのだが、言うなれば、『怒りの葡萄』は1930年代のアメリカの「現実」を、後世の目においてリアルに描いた作品であり、同時代に生きていた人たち、例えば『カイロの紫のバラ』のヒロインのような庶民にとっては、『怒りの葡萄』の世界とは「同時代の苦しい現実」でしかないわけだ。だから、そんな映画など、決して見たいとは思わなかっただろう。
つまり、本作『スイング・タイム』は、そんな大恐慌時代のアメリカにおいて、いっときでも暗い現実を離れて「夢を見させてほしい」と願った庶民のために作られた映画なのだ。
だから、現実の時代を反映しない、華やかなで明るい世界が描かれ、夢のようなラブロマンスが描かれ、絵に描いたようなハッピーエンドが描かれたのである。
本作のストーリーは、次のとおりである(※ ここは飛ばしていただいても結構である)。
そんなわけで、本作『スイング・タイム』は、いま見ると「ダンス」シーン以外は、いかにも大甘な作品なのだが、しかし、この作品が作られたのが「大恐慌時代」であり、先の見えない不安と生活苦に喘いでいた人たちに対し、その求めに応じて、いっときの「現実逃避」という「ショートケーキ」を提供した作品だと思えば、決してバカにはできないことにもなる。
「重い現実問題」などというものは、その渦中にある人たちにとっては、すでに十分「足りている」のだから、彼らが「甘ったるい作品=夢を見させてくれる作品」を求めたのは、決して故なきことではなかったのだ。
無論、私個人は、積極的に「ハッピーエンド」の作品を求めてはいないし、ましてや「甘ったるい作品」など求めてはいない。
しかしそれは、私自身が、おおよそのところ「恵まれた時代」の日本に生まれて、特別に裕福ではないものの、特に生活に困ったこともなく、幸福に生きてきた人間だからであろう。だからこそ、「より深い人生」を求めて、「重くて暗い作品」に惹かれるのではないかと思う。
つまり、私のこうした方向性だって、ある意味では「今ここ」ではない「より充実した世界」を求めるものであり、「現実逃避」ではないにしても、「現実の向こう」にあるものを求めるものであり、そのベクトルが「大甘な夢を求める人たち」とは「真逆なだけ」だと言えるのかもしれない。
もちろん、こう言ったからといって、私は、私の「より深く世界を味わう」という指向性と「現実逃避」という指向性を、等価に扱うつもりはない。
実際、私と同等、あるいは私よりもずっと恵まれた境遇に生きていてさえ、「現実逃避」を求める人が多いというのは、間違いのない事実であろうから、「現実逃避も、ほどほどにしておけよ」という気持ちを否定する気はないのだ。
それでも、少なくとも、こうした「大甘な夢を見させてくれる作品」を切実に求めた人たちが大勢いたという「歴史の現実」は忘れるべきではないだろうし、そうした人たちのために作られた本作のような作品にも、十二分に「存在価値」のあったことも、認めなければならない現実なのだろう。
子ども向けに「正義は勝つ」という物語が必要なように、希望のない生活を生きる人たちに「いっときの逃避」を与える物語だって、やはり必要なのだ。
「鎮痛剤」だけでは病いは治らないけれども、人はその「痛み」のために死ぬこともあるのだから、やはり「鎮痛剤」は必要なものなのである。
一一そんなわけで、本作の物語に関しては、個人的にはまったく物足りなかったものの、しかし、アステアのダンスは、やはり素晴らしかった。
誰でも気づくことだが、アステアは決して「美男」ではない。人の良さそうな顔をしてはいるが、決して美男には見えない。
「昔は、こういうタイプも好まれたのか?」とも思ってみたが、「Wikipedia」を見てみると、やっぱり次のようにあった。
やっぱり、当時のアメリカにおいても「美男」というわけではなかったのだ。
だが、その卓越したダンスの才能と、さらには初期の相棒となるジンジャー・ロジャースとの出会いによって、彼は、一時代を築くハリウッドの大スターになったのである。
一一だから、とにかく「ダンス」がすごい。この映画は、それを見るためだけに見て、その価値は十分にあったと言えるだろう。
私はもともと、ダンスには、まったく興味のない人間で、羽生結弦ブームの頃のフィギュアスケートにも興味はなかったし、現在のブレイキンにも興味がない。
なぜないのかといえば、それはオリンピック競技になっていることからもわかるとおり、その人間離れした運動能力を「すごい」とは思っても、さほど「美しい」とは思わないし、ましてや「ロマン」などというものは、カケラも感じないからではないかと思う。
もともと、バレエであれ、社交ダンスであれ、フラメンコであれ、そういうものにも興味はなかった。
どれもやはり、ダンサーの「常人ばなれした能力」には感心するものの、それほど「美しい」とも思わないし、私にはそこに「ロマン(ドラマ性)」が感じられなかったのである。
だが、『ラ・ラ・ランド』(デミアン・チャゼル監督・2016年)で、ニュージカル映画の魅力を知り、先日見た『雨に唄えば』(ジーン・ケリー、スタンリー・ドーネン監督・1952年)で、ダンスの「美しさとドラマ性」を知った私の目には、やはりアステアのダンスは、そうしたひとつの「物語」表現として素晴らしいと感じられたのではないかと思う。
今の若い人が見て、どう思うのかはわからないが、黒い燕尾服のアステアと、真っ白なドレスに身を包んだロジャースによる息のあったダンスは、昔、よくオルゴールの上で踊っていた人形を思い出させ、あの人形が表現したかったものとは、これだったのだなと、深く納得させられるものがあったのだ。
人間離れした身体能力によって表現されるそのダンスは、しかしその「身体能力」や「超絶技巧」を、これでもかと見せつけるような貧乏くさいものではなく、あくまでも「優雅に、楽しげに」舞われたものだからこそ、「美しいドラマ性」を持ち得たのではないだろうか。
もしかすると、今の時代に求められるべきは、そうした「数値記録化」されない力の持つ「夢」なのかもしれない。
(2024年11月21日)
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