蓮實重彦 『物語批判序説』 : みんなと同じで「空っぽ」が安心。
書評:蓮實重彦『物語批判序説』(講談社文芸文庫)
1985年刊行の、比較的初期に属する著作である。
本書で主に扱われているのは、ギュスターヴ・フローベール、マルセル・プルースト、ジャン=ポール・サルトル、ロラン・バルトの4人。
だから本書は、「文芸評論」か「映画評論」かと問うならば、「文芸評論寄りの本」ということになるけれども、実際には、そのどちらでもなく、もっと普遍的な問題を扱っている。
とは言え、私自身は、本書の内容をあらかじめ知っていたわけではなく、ただ『物語批判序説』というタイトルの、「物語批判」の部分に惹かれて読んだだけであった。
ではなぜ、「物語批判」という言葉に惹かれたのかというと、それは、私が現在、蓮實重彦の「映画論」の方に興味を持っており、蓮實が、映画の「物語的な内容」をほとんど無視して、もっぱら「映像芸術としての映画」という側面だけを語っているように見え、そこに疑問を感じたからである。
当たり前に「映画の物語的な内容」を楽しむ「一般人」の私としては、どうやら昨今の「映画批評」というのは、文学を対象とした「文芸批評」とは違い、「物語」や「主題」といったことは重視せず、もっぱら「映像表現」の側面を問題にしている、とそのように見え、そうした傾向を、日本で先導したのが蓮實重彦ではないかと、そう見ていたのだ。
だから「どうして蓮實は、映画の物語内容やテーマといったことを軽視するのだろう」という疑問から、本書に注目した。
『物語批判序説』というからには、「物語」というものを批判しているはずなので、この本を読めば、どうして蓮實が「映画における物語(要素)」を軽視するのか、その理由がわかるのではないかと、そう睨んだのである。
しかし、読んでみて、そういう本ではないというのがわかった。
本書『物語批判序説』で扱われる「物語」とは、「日本は民主主義の国である」といった「広く社会に流通しているフィクション」としての「物語」のことであり、それを問題としているのであって、「小説」や「映画」や「マンガ」などにおける「ストーリー」的な側面としての「物語」を問題にしているのではなかったのだ。
言い換えるなら、誰もがそれを「フィクション(虚構)」だと気づくことのできるような『「小説」や「映画」や「マンガ」などにおける「ストーリー」的な側面としての「物語」』ではなく、ほとんどの人がそれを「当たり前の事実」であるかのごとく受け入れてしまっている「フィクション」としての「物語」を、本書は批判しているのである。
「当然のことながら、それはフィクションであり、当たり前の事実などではない」のだと。
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本書で最初に扱われるのは、「紋切型の認識(理解)しか載っていない『紋切型辞典』なるものを作ろうとした、ある人物(実は、フローベール)」の謎である。
どうして彼は、そんな「わかりきったことしか載っていない、誰も読む者などないだろう無意味な辞典」を作ろうとするのだろうか、といったことである。
その次に語られるのは、プルーストの長編小説『失われた時を求めて』で、そこでは「作中人物」たちが「当たり前のように語る社会認識」の「異様さ」が描き出される。
「彼らはどうして、そのように思い込め、そのような〝紋切型〟を語りうるのか」ということなのだが、その答とは、要は「彼らは、そのような願望充足的な〝紋切型〟の物語に取り込まれているからだ」ということのようだ。
だが、この「紋切型の言説」という問題は、かのサルトルでさえ捉えられてしまった、ある種の宿命的な力として描かれ、それに対し、ロラン・バルトはどのように対抗したのかを描く、というのが、本書の大きな流れである。
「紋切型」に捉われないための一つの方法論として示されるバルトのやり方とは、「紋切型」とは、「無縁な立場に立って、それを外から批判する」といった「当たり前なやり方」ではなく、「紋切型」に足首まで浸かりつつ、それに浸かりきってしまわないという立場での、「紋切型」の内破とでも呼べるもの、のようだ。
「ようだ」と言うのは、このあたりと言うか、そもそも本書そのものが、私にはかなり難しいものだったので、ここまで書いてきた「理解=解釈」も、多々誤りを含んでいるはずだからである。
しかしまた、だからこそこれは、私の「独自の物語」だと、そう理解して欲しいということである。
蓮實重彦の意見そのものではなくても、私の意見としてだって、それなりの価値はあろうと、そう開きなおって、そう公言しているのである。
ともあれ、おびただしい「紋切型」が生みだされ、人々は無自覚なまま、それに埋没して生きているという、認識されない「理不尽さ」を語るのが本書だと言えるだろう。
そして、当然のことながら「凡庸」なものであらざるを得ないそうした「紋切型」が、際限なく産出されるのは、そこに、人々が乗ってしまう「物語=フィクション」があるからであり、そうした「物語」を、蓮實重彦は憎悪し、批判していると、大筋そういうことなのである。
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本書の「講談社文芸文庫」版のカバー背面および、同書のAmazonページには、次のような同一の「内容紹介文」が掲載されている。
また、「講談社文芸文庫」の「解説」で、芥川賞作家の磯﨑憲一郎は、次のように書いている。
そして、本書のAmazonカスタマーレビューとして、レビュアー「森宮 湊 Morimiya Minato」氏は、本書に「5点満点の3点」を与え、『紋切り型』と題して次のように書いている(全文)。
ちなみに、Amazonのカスタマーレビューでは、この「講談社文芸文庫」版、「中公文庫」版は、「初版単行本」版などでいずれも、「2020年6月2日」に書かれた、「森宮 湊 Morimiya Minato」氏によるこのレビューが使いまわされており、この1本があるだけ。
それ以外のカスタマーレビューは、同書の「中公 35ブックス」版に、レビュアー「迷亭先生」氏によるレビュー『6割ぐらいしか分からないが面白い』(5つ星のうち4.0)が1本あるだけであり、この本が、いかに語りにくいものかがわかる。
また、先行する「迷亭先生」氏によるレビューの内容は、「森宮 湊 Morimiya Minato」氏のよるそれと大きく違わないので、ここでは紹介しない。
さて、私自身は、本書をどう読んだのかというと、読了した直後は、「6割」どころか、「1割」ほどしか理解できなかったというのが、正直な実感だった。
だが、その「理解できた1割」とは、まさに「解説」で磯﨑憲一郎の書いていた、インターネットのおける「他人の問題を他人の言葉で語る」だけ、という現状の問題であった。
私が常日頃、「noteの記事を見てもわかるように、わかりきったことしか書いていない、コピペ同然の紹介記事ばかり。あらすじ紹介の後、最後に、面白かった、感動したといった、いいわけ程度の感想を付しただけの、クソつまらない記事ばかりなのには、心底うんざりだ」と苛立ち、批判している問題である。
だから、読了直後は「1割程度しかわからなかった」という印象だったのだが、本書に語られていることを、磯﨑憲一郎言うところの、ネット言説の問題(ライター的な紋切り型の提灯記事も含めた問題)、言い換えれば「身近な問題=他人事でない問題」として考えていくと、本書の半分くらいはわかるかなという感じになってきた。
また、その意味では「森宮 湊 Morimiya Minato」氏のおっしゃるとおり、たしかに本書の書き方は「無駄に晦渋」だとも思えるし、同氏の「要約」は、基本的に間違ってはいないと思う。
しかし、ここで考えなければならないのは、「蓮實重彦は、どうしてわざわざ、こんなわかりにくい書き方をしたのか」という点であろう。
たぶん、「森宮 湊 Morimiya Minato」氏はそれを「蓮實重彦の、人を小馬鹿にしたような態度を採りたがる、嫌味な性格」に由来するものだと考えたのであろうし、だから、そこの部分は「不必要であり、いっそ邪魔な、理解の妨げにしかならないノイズ」だと考えて、このレビューのように「シンプルに内容を要約した」のであろう。
要は「結局、本書で語られているのは、こういうことなのですよ」ということである。
そんなわけで、本稿の読者を含む多くの人は、たぶん「森宮 湊 Morimiya Minato」氏による、この簡明な「要約」に満足することだろう。
つまり、「蓮實重彦のいやらしい性格に由来する、無駄に晦渋に表現された『物語批判序説』そのものを読むよりも、その趣旨を簡明に要約解説してくれた、この人のレビューの方が、実用的でありがたい。今後、自分が蓮實の『物語批判序説』に言及する場合は、このレビュアーさんの解説に沿って、自分の本書理解を語っているかのように書けば良い。どうせ、誰にもバレやしない」と、そう考えるのではないだろうか。
一一しかし、それで本当に良いのか、という話である。
無論、これで良いわけはない。
そのようにして「わかっているつもりのコピペ」が氾濫し、人々は、「他人の問題」つまり「自分自身の切実な問題ではないもの」を、「他人の言葉」、この場合は、「蓮實重彦の言葉」ですらなく、「森宮 湊 Morimiya Minato」氏の言葉で語ることによって、何やら「自分の意見」を語ったつもりになるのである。
つまり、言うなれば「コピーのコピー」が「私のオリジナル」だと勘違いされて氾濫し、その結果「紋切型」が、またひとつ形成されるのだ。
では、この場合、「物語」とは何かと言えば、それは、「社会的な問題」とか「哲学的な問題」とか「映画芸術の問題」などについて、蓮實重彦などの「識者の意見」を踏まえつつ語ることは「知的な行為」である、といった通俗的な「勘違い(物語)」のことである。
「森宮 湊 Morimiya Minato」氏も、
と指摘しているとおり、本来、語るということは『(※ 一般に未知の)知識の伝達』ということを大前提としていた。
つまり、一般人が「知らないこと」を、それを知っている「特権的な人たち」、つまり「知識人」だけが、「語り得る」のだと考えられていたのである。
なぜなら「わかりきったこと=みんな知っていること=紋切型の知識」を語ることなど、現状に何も付け加えないのだから「無意味・無価値」であると、そう当たり前に考えられていたからだ。
ところが、「大衆社会」になると、社会の大半を占める「非知識人」たちは、自分たちの「無知」や「見る目のなさ(本質を見出す発見能力の無さ)」から目を背けて、それを「あるかのように振る舞う(装う)こと」、そして、そのことにより、自分自身が「知識人になったと勘違いして、それに酔うこと」を目的としだした。
だから、彼らが「知っているつもりのこと」とは、「他人の知識=他人の言葉」の「借り物」でも「パクリ」でも単なる「コピペ」でもかまわなくなった。
どっちにしろ、それを読む側も、自分と同じような「無知な大衆」でしかないのだから、問題の「本質」などわかろうはずもなく、一応の「表面的な形式=体裁」さえ整っておれば、それで感心してくれる。だから、自分の語る言葉が、自分の中から出てきた(稀有な)言葉である必要などないと、そう無意識的に考えるようになったのである。
そしてその結果、「どれもこれも薄っぺらで、似たようなものばかり」という、私の日頃の「苛立ち」の元となるような「紋切型」の状況が、日々あらたに立ち現れることになったのだ。
そして、そうした「紋切型」の典型的なものとは、私が以前にレビューで採り上げた「ファスト教養」にかかわるものである。
あるいは、次のような問題だ。
つまり、今や「二流」を目指す人たちが、社会の多数派となっているから、その言説は「紋切型」のならざるを得ないし、「紋切型」でなければならない。そうでないと「多数派」に「ウケない」し「〝いいね〟がもらえない」からである。
言い換えれば、今の時代は『紋切型辞典』を参照して、それをそのまま書き写しているだけの人たちの時代なのだ。
だからこそ、ここで重要なのは、本書『物語批判序説』の解説者・磯﨑憲一郎の指摘した『それよりもむしろ気になるのは、本書に感じるもっと別の、特別な何か一一無数の傍線を引き、ときには傍に置いたノートにメモまで取りながら、本書に集中して読み進む中でしか得られない特異な高揚、と表現してもよいであろう経験一一その理由』であるところの、蓮實重彦の『苛立ち』の方なのである。
要は、当たり前に「自分の言葉で語ろうとする人間=紋切型の無意味さに苛立つ人間」の「苛立ち」こそが「自分の言葉で語ろうとする人間=紋切型の無意味さに苛立つ人間」には重要なのであり、「なぜこのようなことになっているのか?」という「問題」に対する「回答=説明」自体は、さほど重要ではない、ということなのだ。
なぜならば、そうした「回答=説明」自体は、またそこだけが「便利に切り出されて、コピペされるだけ」であり、この現状に何も付け加えないし、その意味で、何も「変える力」を持たないからである。
また、だからこそ蓮實重彦は、わざわざ「晦渋な書き方」をしたのだ。
「馬鹿にはわからないだろう?」という挑発的な書き方をし、馬鹿に対して「お前は馬鹿なのだ」ということを思い知らせるために、わざわざ、そうしたのだ。
親切に「解説してやる」だけでは、馬鹿は馬鹿のままだからである。
したがって、そうした意味では、レビュアー「森宮 湊 Morimiya Minato」氏は、本書『物語批判序説』の、最も「肝心な部分」を完全に読み落としており、まったく理解できていなかった。
そのせいで、無自覚のうちに、自身が「紋切り型のファスト解説」を産出することになってしまったのである。
こうした、わかっているつもりで、肝心なところがわかっていない「理解」の好例として、引用文(1)の本書「紹介文」を見てみると良い。
短文なので、再度引用しておくと、
というものなのだが、これも結局は「森宮 湊 Morimiya Minato」氏と同様の「罠」にハマって、本書が批判した「誤り」を繰り返すことにしかなっていない。
つまり『自分だけが知っていることを自分の言葉で』語ってはおらず、「他人の問題を他人の言葉で語っている」にすぎないのだ。
例えば、『明晰にしてスリリング。』『いまこそ読まれるべき不朽の名著。』一一こんなにわかりやすく「紋切型」に毒されきった、「紋切型の言葉」も、なかなかないのではないだろうか。
「note」のレビューなどを見ても、こうした型通りの紋切型が溢れており、それは、「感動した」とか「美しい」とか「鋭い映像感覚」とかいったような、いかにもどこかで聞いたことのあるような、手垢にまみれた「他人の言葉」であり、そんな「陳腐な言葉」であるからこそ、人々は安心してそうした言葉だけを繰り返し、読む方も、そんな陳腐な言葉だからこそ、その意味するところを考えるまでもなく、その言葉の字面をなぞっただけで「理解した気分」になれるのである。
岡本太郎ではないが、「なんだこれは!?」と思わせるような「新しい言葉=個人の言葉」は、もう求められてはいないし、むしろ、迷惑がられ、排除されてさえいるのだ。
だから、私たちは、そうした状況を繰り返し産出している、求められて流通する、流行の「物語」を批判しなければならない。
しかし、その「批判」方法は、当たり前に「それではダメだと」と真正面から批判するようなものであってはならない。
なぜなら、そんな「わかりやすい」方法では、容易に「真似され=コピペされ」て、「物語」の中に回収され、無力化してしまうからである。
だから、私たちに必要なのは、バルトがそうであったように、蓮實重彦がそうしたように、「物語」には回収されてしまわない「違和」を生み出す「独自の形式」において、その「苛立ち」を表現することだと、そういうことになるのであろう。
だが、私個人は、いつも言っているように、馬鹿正直に「正面突破」の人間であり、「駄作は駄作、馬鹿は馬鹿だとしか、評しようがない」と、そんなふうに言うことしかできない、不器用な人間であって、それを変えることは、たぶん出来ない。
しかしだ、それしかできないのであれば、それをやるしかないし、そうとなれば、私にできるのは、バルト=蓮實的な「搦め手」ではなく、「正面突破」における、その非凡な「強度」において、「物語への回収」を弾き返す、というやり方しかないだろう。
要は、「言っていることは当たり前でも、その形式的な強度において非凡であり、真似もできなければ、無視もできない、違和を生む存在」になるということだ。平たく言えば「他人が真似なんかできないほどの、徹底的に嫌なことを書き続ける」ということだ。
ものすごく嫌なこと(痛いところを突くこと)を書き続けるというのは、それはそれで、普通の人には無い、非凡な力と批評性がなければ、とうてい真似のできないことだからである。
(2024年6月3日)
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