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池田大作の死 ・ ある虚妄の終焉
一昨日から二泊三日(2023年11月16日〜18日)で北海道へ行ってきたが、その前日から、良かれ悪しかれ「死」にまつわる記事ばかりを書いているようで、なんとも言えない気分だ。
旅行の前日に、主人公が幽霊である荻原浩の小説『押入れのちよ』のレビューを書いている最中に、友人からのショートメールで、私の好きだった小説家・酒見賢一の早すぎる死を知らされ、『押入れのちよ』のレビューをアップした後、ただちに酒見の追悼文を書き始め、アップしたのは旅行初日である16日の朝方で、睡眠を取らないまま、北海道へと旅立った。
北海道旅行の主たる目的は、小樽文学館で開催されている、生前に縁のあった装丁画家・村上芳正の一周忌記念の追悼展だったので、旅行2日目の昨日は、この展覧会へ行き、それにかかわるエッセイを書いたのだが、この段階で「なんだか、死に絡んだ話題ばかりが続くな」というが意識はあった。
しかし、帰りの今日は、特に書くこともないし、夜に帰宅してからでは、ネタがあっても、文章を書く暇などないはずから、今日はレビューの休載日だなと思っていたら、札幌から新千歳空港へ向かう電車の中で『創価学会名誉会長の池田大作氏が死去』という訃報に接することになった。
・創価学会名誉会長の池田大作氏が死去、95歳…日本最大規模の宗教団体に育て上げる
(2023/11/18 14:30、読売新聞オンライン)
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そこへ来たか、という印象だった。
何度も書いているとおり、私は、子供の頃に、両親と共に家族4人で創価学会に入会し、2003年のアメリカによる「イラク攻撃」を支持した(自民党と政権与党を形成していた)公明党を批判し、公明党を明確に批判できない創価学会に失望し、批判でどうなるものでもないと悟るに至って、創価学会を脱会した人間である。
創価学会は、戦後長らく戦闘的な布教(折伏)によって、その勢力を飛躍的に拡大する一方、そのことで既成宗教や別の新宗教から敵視されていった。
しかし、創価学会が政界進出を決めて、のちの公明党となる組織を作ったあとは、当然、世間の評判を強く意識したのであろう、「昭和元禄」の空気のままに「絶対平和主義」を訴えるようになっていった。
私が創価学会にいた頃は、まさにそういう時代であったし、その意味で、野党であった頃の公明党は、自民党政権を保守右派政権であり、アメリカ帝国主義の補完勢力として批判をする立場であった。池田大作会長は、学会内では「平和旅」と称された、世界各国を歴訪して、要人・一流知識人との対話をするといった活動に邁進していた。
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ところが、自民党とは水と油であったはずの公明党が、いつの間にやら自民党と連立政権を組むという話になった時には、当然のことながら、多くの学会員は「なんだそれは?」とキツネにつままれたような気分になったし、当然「権力の魔性に取り込まれたか!」と反発する人も少なくなかった。
しかし、それに対する公明党の説明は「反対しているばかりで、無視されれば手も足も出ない万年野党であるよりは、政権の一角に食い込むことにより、自民党の暴走に歯止めをかけるブレーキ役となるためだ」といった趣旨のものだった。
もちろん、この説明に心から納得した学会員は少なかったはずだ。
だが、かつての政教(分離)問題で世間に叩かれてからは、創価学会・公明党においては、創価学会は、公明党の支持母体として選挙応援はするが、政治には口出しはしないというのが公式の立場だったので、学会員としても、政治と信仰は、分けて考えなければならないという意識もあって、政治には政治なりの、現実主義的なやり方も必要なのだというような説明を、信仰原理主義的に全否定する者はいなかった。
また、こうした一連の悶着だけで、自分の信仰を捨てるという話にまではならず、いちおう「その(公明党の)言葉を信じて、見守らせてもらう」という感じになったのわけが、いったん曖昧に妥協すれば、あとは「慣れとなし崩し」にならざるを得なかったのである。
そして、こうした時代に、創価学会のトップだったのが、池田大作創価学会第三代会長であり、宗門(日蓮正宗大石寺)との決裂に至る過程で名誉会長に退いたあと、SGI(創価学会インターナショナル)の初代会長となった、創価学会最大のカリスマ、池田大作である。
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イラク攻撃の際、公明党が政権与党として、これを支持したことについて、創価学会は政治に口出しせずで通そうとしたが、それでは納得できない会員が私を含めて大勢あらわれ、公然と創価学会の対応を批判する者も少なくなかった。「そうれみろ、やっぱり恐れていたとおりになってしまったではないか。公明党は権力の魔性に取り込まれてしまったのだ。学会本部の言うことを信じるな」と。
だが、それだけでは済まなかった。
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「学会本部は信用ならないが、池田先生だけは、こんなことを認めるはずがない」という祈りにも似た気持ちが、公明党や学会本部に対してラディカルなまでに批判的であった者の中にも、抜き難くあったのだ。
最後の砦は「我らが師匠である、池田先生」だったのである。
だが、その頃から、池田名誉会長の肉声が伝えられなくなっていた。
「池田先生は、イラク攻撃に反対しているが、君側の奸たちから封じ込めにあって、先生のお考えが、われわれ末端の会員までは伝わらなくなっているんだ」といった、もっともらしい「噂」あるいは「陰謀論」が広がった。
しかし、事実がどうあれ、創価学会の信仰が、その言葉どおりに「願いとして叶わざるは無し」なのであれば、何故このような致命的な事態に立ち至ったのかの解答は、池田大作当人に「信仰が足らなかった」のか、もしくは「もともと本物の信仰心など持っていなかった」のか、あるいは、この信仰を信じていたとしても、そもそも「この信仰自体が、虚妄であり幻想であったため、無力であった」というにしかならない。
だから、私としては、池田大作当人に本物の信仰があったのか無かったのか、彼が会員たちを騙していたのかいなかったのかということは、さほど重要とは思えない。
信仰が虚妄でしかなかったのであれば、彼の信仰の本気度など、いかにも世俗的な問題でしかなく、信仰の本質に関わらない瑣末な問題でしかないと考えるからである。
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したがって、「願いとして叶わざるは無し」という建前とは違い、実際には結果の出ない、力のない信仰を、それでも信じ続ける人も愚かだが、信仰が虚妄であっても、まだ池田大作への個人崇拝にすがろうとするような人は、信仰以前の愚か者であり、信じるものを選ばない盲信者の大馬鹿者でしかない。
しかし、池田大作その人自身が、その他の会員たちと同様、ありもしない信仰的な幻想にとらわれて一生を過ごした愚か者だったのだとしたら、私にとっては、彼は批評の対象ではあっても、憎しみの対象にすらならない。
彼が、ペテン師ではなく、単なる誇大妄想的な愚か者であったのだとすれば、そんな彼を本気で憎めるのは、彼を心から信じた人で、かつ、信じた自分の愚かさにも気づけない、二重の愚か者だけではないだろうか。
池田大作という、一人の愚かだがパワフルな男を過大評価して妄信できた人だけが「裏切られた」の「騙された」のと思えるのではないだろうか。
私にとっては、今年3月に亡くなった「幸福の科学」総裁の大川隆法と、創価学会名誉会長の池田大作との間に、本質的な違いはない。
彼らが示しているのは、単に「宗教の虚妄性」と、その代償としての「害悪」でしかないのである。
言うまでもなく、世界の学会員たちが歌った「Forever Sensei」は、幻想なのだ。
(2023年11月18日)
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