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宮内悠介 『暗号の子』 : つながるテクノロジーの快楽と不快
本書はテクノロジーによって変容していく、私たちの世界を描いたSF作品集である。しかし、そこで描かれた変容は、必ずしも好ましいものではない。
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この文章を書いているパソコンもテクノロジーによるものだし、インターネットもSNSもすべて、テクノロジーのおかげで得られた「便益」でもあれば「快楽」でもある。
しかし、パソコンの無かった時代、インターネットやSNSのなかった時代に比べて、今の私たちの「幸福」の総量は、果たして増えただろうか?
「増えた」と思う人は、たぶんあまりいないと思う。
こうしたテクノロジーを積極的に使う人は、それ相応の「便益と快楽」を得ているはずだが、しかしまたそれ相応の「不快」にも、さらされているはずだからだ。
新たなテクノロジーが生み出されるたびに、私たちは大喜びでそれに飛びついて、その「便益と快楽」を享受する。けれども、それも長くは続かず、数年もすれば「インターネット疲れ」「SNS疲れ」など、「〜疲れ」というのが必ず出てきて、使うのもいいけど「ほどほどにね」という話になってしまう。
それにしても、どうしてこんなことになってしまうのだろうか?
私が思うには、「快と不快」は一体のものであり、どちらか一方だけというのは「あり得ない」からなのではないか。
「快楽」というのは、必ず「馴れて」しまう。つまり「快楽」ではなくなってしまう。
では、「快楽」を取り戻すにはどうすれば良いかといえば、それは「不快」な状態を取り戻せば良い。いったん「不快」になれば、馴れてしまったはずの「快楽」さえ新鮮なものとして享受できるはずなのだ。一一つまり、私たちは「快と不快」とを交互に経験していなければ、生きてはいけない存在なのではないか。
では、今のようなテクノロジーが無かった時代はどうだったのかといえば、それはまったく同じことだろう。昔は昔なりに、原始時代には原始時代なりの「快と不快」があり、それを交互に経験しながら生きていたのではないか。
そんな大昔の話をしなくても、例えば、自分の子供時代でもいい。さしたるテクノロジーに接していなかった子供の頃は、ひたすら刺激に乏しい、退屈な時間を過ごしていただろうか? そんなことはないはずだ。子供の頃には子供の頃なりの刺激があり、その「快と不快」とを交互に経験しながら、私たちは成長してきたのではなかったか。
ただ、ひとつ言えることは、私たちは、快楽としての「目新しい刺激」を求めることを止められない、ということだろう。
それに初めて接した時の強烈な快楽を、私たちは決して忘れることができない。だから、私たちはたいがい「新しいもの好き」なのだろう。無論、中には「古いものが好きだ」とおっしゃる方もおられようが、それとて、ある意味では「新しいもの好き」の一種なのではないか。つまり、私たちが、あまりにも「新しいもの」にのみ取り囲まれているからこそ、「古いもの」が「新鮮に感じられる」ということなのではないか。
当然のことながら、「新鮮」に感じられた「古いもの」でも、やがては馴れてしまい、それで満足することができなくなって、「もっと新鮮な古いもの」を求めるようになるのではないだろうか。
結局のところ、私たちは「より新しい快楽」を追い求め続けて生きるしかないような動物であり、それによって「高度な文明社会」を築いたと誇ってもいるのだが、その「高度な文明社会」の「幸福の総量」は、「原始時代」の「幸福の総量」に比べて、大きくなったのか?
たしかに「快楽の総量」は増えただろう。だが、そのぶん「不快の総量」も増えて、双方を足し合わせれば、結局のところ「幸福の総量」は一定だ、などということになってはいないだろうか。
なぜ、そうしたことになってしまうのだろう?
思うにそれは、人間が享受し得る「幸福の総量」というのは一定の限度を持っているからではないか。
だから、どんなに「新しい快楽」を手に入れても、結局はそのぶんだけ「不快」を得ずにはいられなくなるのではないか。そもそも「快楽」が得たいなら「まず不快であれ」ということなのではないか。
だとすれば、人間というのは、「最大の快楽と最大の不快」と「最小の快楽と最小の不快」の両極の間で、その個性に応じて生きるしかないのではないだろうか。
「大きなの快楽と大きなの不快」に耐えられるタイプの人であれば、当然のことながら「小さな快楽」では我慢ならないだろう。つまり欲求不満のストレスを感じるから、どうしたって「より多くの快楽」を求めざるを得ないし、そのためには「少々の不快を伴うのも、覚悟のうえだ」ということになるだろう。
一方、「小さなの快楽と小さなの不快」しか味わうことのできない「刺激に対する耐性の低い人」は、「大きな快楽」を与えられれば壊れてしまうだろう。それで、そのまま「快楽」の中で止まれれば良いのだけれど、やはり、そううまくはいかず、得た分の「快楽」は、「不快」を感じることで弁済しなければならないのではないだろうか。
○ ○ ○
本作品集の帯には、次のように刷られている。
『わたしたちは、いつまで人間でいられるのか?
新しい暗号通貨、分断のないSNS、超小型人工衛星……
宮内悠介が迫る、8つのテクノロジーの新時代!』
暗号通貨、SNS、超小型人工衛星…。どれも素晴らしいテクノロジーだ。だが、それで私たちの「幸福の総量」は増やせただろうか。
こう言ったからといって、なにも私は、テクノロジーを否定しているのでも否定したいのでもない。そもそも、人間がテクノロジーを捨てることなどできないと考えているので、これは捨てる捨てない、好き嫌いの問題ではないのである。たぶん…。
そんなわけで、本作品集に満ち満ちている「空気」も、おおむね、ここまで私が書き連ねてきた「由無し事」と大差はないものと、そう思ってもらって良いだろう。一一次のような感じである。
(01)
『 結果一一わたしは、投げた。偽の予言者を演じるのをやめ、休暇を取って書斎にひきこもった。何もせず、情報を断ち、庭を訪れる小鳥なんかを眺めた。そのうちに思い至った。確かに、過去という病はある。しかし、同じくして未来という病もあるのだ。』
(P94「偽の過去、偽の未来」)
(02)
『 結果、未来の創造につながればいいけれど、別にそうならなくてもかまわない。』
(P95「偽の過去、偽の未来」)
(03)
『 そのような周囲の反応など、どうでも良いという人もいるだろう。が、少なくともわたしにはそうは口にできない。本当に心疲れたとき、たったひとつの「いいね」に救われたことは、わたしにもある。』
(P103「ローパス・フィルター」)
(04)
『一一実際、皆さんだって嫌気が差しているんでしょう?
一一嫌気といいますと?
一一常にどこかの誰かが炎上している。それについて、過激な意見ばかりが流れてくる。政治の話題も、拡散されるのは扇情的な極左や極右のつぶやきばかり。落ち着いた意見なんかすっかり埋もれてしまって、見つけられやしない。もう、猫の画像でも見てるしかないでしょ。
これは「穏やかに呟け(TweetCalm)」が流行しはじめたころに公開された、アプリの開発者に対するウェブインタビューだ。結城はこれに匿名で応じている。
TweetCalm は一言でいってしまえば、当時大きなシェアを誇っていたSNSに接続するためのアプリだ。ローパス・フィルターは、そのなかの一機能ということになる。スマートフォンからPCまで幅広く対応し、細かい設定をしたいユーザーのみ、百円を支払う仕組みであった。
一一わかります。
一一でも、社会から目をそむけて猫ばかり見るってのも、なんだか不毛でしょう?
一一それがアプリの開発につながったと?
一一その通り。TweetCalm は過激なばかりの意見や扇情的なつぶやきを、すべて表示させない。そんなものに心乱されるのは誰だって嫌でしょう? だから、本来あるべき日常の景色や落ち着いた議論をとり戻す。もうこれ以上、生産性のない連中の意見に耳を貸す必要はない。』
(P103〜104「ローパス・フィルター」)
※ ルビは、後()書きとし、原文「傍点」はゴシック表記とした
(05)
『 わたし自身、ウェブを覆う野蛮には思うところがある。スマートフォンを使い、常時ウェブを使うわたしにとって、SNSはいわばライフラインだ。
けれどその水道には、沈鬱な黒い毒が流れている。
たとえば、わたしには冴樹という友人がいる。彼は沖縄の歴史についてのデマを指摘するアカウントを持っており、年下ながらにわたしは尊敬していた。しかし内容が内容なので、ことあるごとに歴史修正主義者とやりあってもいた。その筋では嫌われていた人間の一人だ。
その冴樹があるとき、本職がテレビ局のディレクターであると露見した。
そこからは、おなじみの魔女狩りだ。冴樹は静かにウェブから姿を消した。彼の発言内容は、職分を考えれば確かに迂闊であったかもしれない。しかし、ウェブから彼という存在を消すほどのことがあったのだろうかと、いまもたまに思う。』
(P107「ローパス・フィルター」)
(06)
『 わたしは針生が解析するより前から、TweetCalm を導入し、試してみた。そして実際に、世界が変わったような感触を味わった。単に極論や罵詈雑言が減ったというだけではない。ある種の静けさ、精神性のようなものが備わったように感じられたのだ。そこに立ち現れた新たなウェブの姿形は、わたしの胸を打つものだった。
また、機械の側が暴力的に人間を選別することもなく、たとえば友人や好きな芸能人など、表示したいアカウントを設定することもできた。その点でTweetCalm は穏当なアプリだといえた。
けれどそれと同時に一一結城という男が差別主義者であるという疑念は、まだある。』
(P112「ローパス・フィルター」)
(07)
『一一喧嘩腰の政治家とか暴論だらけの政治アカウントとかが出てこなくなるのはまあいいとして、ミュージシャンや小説家といったアーティストが、だいぶ見えなくなってきたと思わないか。
一一ああ、思った。でも、落ち着いて考えるとなんの問題もなくない?
一一なんだか身も蓋もないな。
一一もとより、アーティストなんてSNSには一番向かないような職業だろ。
病んでいる人間もまた然り、ということはいえるかもしれない。
Tには独特の魅力があったが、うしろ暗いところもないわけではなかった。いいこともしたし、悪いこともした。が、それだけだ。畢竟、どこにでもいそうな一人の人間であった。それが社会的にオミットされ、自死に追いこまれる理由などないし、あってはならない。』
(P121「ローパス・フィルター」)
(08)
『一一ウェブはしょせん、百万倍に薄められたアウシュヴィッツのようなものさ。それでも、(※ TweetCalmのせいで)六人が死ぬ。希釈に希釈を重ね、けれど、そこにはやはり毒がある。
アカウントを消した冴樹は、元から覚悟のことだとさっぱりしたものであったが、それにしても、かつて起きた冴樹への吊し上げはわたしの心を痛めた。不毛な論争や、終わらないポジショントークとマウンティング。どうにもやりきれないのは、そうした人たちがみずからの正義を、もっというならみずからの啓蒙を、かたくなに信じて疑わないことであった。』
(P122「ローパス・フィルター」)
(09)
『 ユーザーはこの機能を使わないこともできたが、実際には大勢が利用した。
不思議なもので、人間は基本的に見たいものしか見ない。ところが、見たいものしか見えないとあらかじめわかっている場合においては、逆にその外側が気になることもあるようなのだ。』
(P123「ローパス・フィルター」)
(10)
『 センターの会議室で佐藤はタブレットPCを開き、折れ線グラフを指し示した。
「それから半年が経過したいま、明らかな変化が見られます」
もっとも大きな変化は、フィルター抜きにも差別的な発言が減ったことなのだという。
たとえば、マイノリティを侮蔑したり、あるいは特定の国の人々を過度に敵視するような意見や発言が、半年のあいだに三割ほど減少したというのだ。
「もう一つ、〝原理主義者〟たちが目に見えて減ったのです」表現の自由やフェミニズム、あるいは移民の受け入れ政策や憲法解釈といった、過激な対立が生まれやすい領域において、合意の形成を模索する傾向が現れたという。
「なんでもかんでも男性差別だというような、愚にもつかない意見も減りました」
「つまり一一」
湿りがちに口を開き、穏当な言葉を探した。が、結局見つからずに投げ出した。
「いうなれば、人類が知的になったと?」
「見ようによっては、そう捉えることも可能です」
この佐藤の計測結果は、確かにわたしの感覚とも通じるものであった。
それでも、腑に落ちないのは確かである。人は、そう変わるものではないからだ。過激な意見はフィルターされて見えないだけで、そこらじゅうにあったのではなかったか。
「これは、人々がフィルター逃れをした結果でしょうか?」
「それよりも、エコーチェンバー現象がやわらいだ可能性があります」』
(P124〜125「ローパス・フィルター」)
(11)
『 フランクフルト学派一一。
人類の進歩の末に、なぜナチズムのような野蛮が起こりえたかを生産のテーマとした哲学者たちの一群だ。ナチズムの本は、形を変え、確かに結城の部屋にあったのだ。
問題のコメントは、そのフランクフルト学派の仕事からの引用である。
焦れたように、針生が手元のカップを回した。
「説明してくれるか?」
「乱暴にまとめると、昔、頭のいい人たちがこういうことを考えた。人類は啓蒙されて進歩したのに、なぜその先にナチズムといった野蛮が発生するのか。彼らの結論はこう。それは、啓蒙というものそれ自体が持っている性質なのだと」
「わからんな。啓蒙されれば文明化するんじゃないのか?」
「啓蒙は人間を支配し、人間のうちにある自然をも抑圧する。内面の自然を抑圧した先は、いわば一つの死だ。だから、啓蒙による支配は不満を生み出す」
「たとえば、ユダヤ人に対する排外主義とかか」
「そう。啓業は本質的に内部に支配を抱えている。ウェブの〝原理主義者〟たちも、だいたいはこの啓蒙の罠に囚われている。それはわかるな」
「わからないでもない。でも、結局どうしろというんだ?」
「その支配を深く自覚して、自省し、落ち着けということだ。その先に、野蛮につながらない啓蒙の姿があるかもしれない。少なくとも、結城はそれを言じた。社会が野蛮だと感じ、そして野蛮が消え失せることを期待した。こうして生まれたのがローパス・フィルターだ」
一一本来あるべき日常の景色や落ち着いた議論をとり戻す。
「だが、そのためにこいつがとった手段は……」』
(P134〜135「ローパス・フィルター」)
(12)
『 結果は目覚ましいものだった。
まず不安症や鬱病の増加が止まり、減少に転じた。
政治的一極化や党派間の敵対意識がやわらぎ、ヘイトクライムも減った。つまり、わたしたちを長く苦しめてきた分断が、若い世代のうちにおいて終結を見たことになる。
原因はさまざまに考えられるし、一概にルーシッドのおかげとは言えないだろうが、現実に彼らはヘッドセットをつけてルーシッド(※ 機械的に幻想的な明晰夢を見るソフト)に耽溺していたわけで、ルーシッドは一躍この時代、世代のアイコンと化した。
やがて彼らは「醒めた世代」と呼ばれた。
常に怒り、保守やリベラルを叩くことに忙しい上の世代は彼らを醒めた冷徹なモンスターと見なし、戦わないと批難し、そのうちに、今度はメディアが「若者のドラッグ離れ」を報じ出した。
一一ルーシッドをはじめて、顔を上げる時間が増えたように思います。クラスメイトの顔や日々の通学路、電車の窓からの景色……それまでは、四六時中SNSばかり見ていましたから。
一一ルーシッドをやっているときだけ、SNSを確認せずにいられるようになりました。それまでどんな方法を使ってもやめられなかったのが、やっとやめられた。
一一ルーシッドのおかげで、リラックスとは何かを知りました。頭痛や目の疲れがおさまりましたね。それから、あと回しにしていた家事ができるようになりました。
一一家族との会話が増えましたね。あとは、じっくり本を読む時間ができたり……。
一一でも、なぜでしょうね。確かにわたしたちは幸福になったと感じます。ですが振り返ってみれば、がむしゃらに文化をキャンセルしたり、四六時中常に魔女狩りをしていた日々のほうが、いま思うと楽しかったのです。』
(P143〜144「明晰夢」)
(13)
『「そうですね……」
確かに、人間が人間でいるのは疲れる。といって自己をAIに丸投げしても飽きる。
人間が人間でいることから逃れられないなら、絵筆を握るのもよいのだろうか。が、そう思うのと同時に、自由意志や愚行権を求める気持ちが、内奥でノーを唱えた。
それはそれで、わたしという個の人間らしさであるはずなのだ。』
(P164〜165「明晰夢」)
(14)
『「最後の共有地(コモンズ)はどこだと思う?」
宇宙、と誰かが答え、ブラックホール、とまた別の誰かがひねった答えを挙げた。
有田は首を振ると、こつ、と人差し指で自分のこめかみをつついた。
「人間精神さ」
誰もぴんと来ないなか、有田は泰然とつづけた。
「言い換えるなら、内宇宙。そして、その内宇宙の資源の争奪戦が起きている。パワーゲーム、エコーチェンバー、フェイクニュース、情報の洪水……。俺たちは自分自身知らずして内心を争奪され、主義や主張までをもほとんど自動的に決められていく。あれさ。共有地の悲劇だ」』
(P200「最後の共有地」)
(15)
『 他の親、とりわけ伯父は、あのときどんな答えを出していただろう。それをどうしても思い出せなくて、自己嫌悪にかられた。思い出せない理由は二つだ。まず、ぼくが鼻持ちならない野郎で、そして自分にしか興味がなかったこと。もう一つは、皆の答えが、凡庸な、無難なものだっただろうからだ。でも、その凡庸にこそ宿る真実を、たぶんぼくは記憶していなければならなかった。思うに(※ 伯父のように)大人というやつは、他者のそういう部分こそを、ちゃんと大切に憶えているものなのではなかろうか。』
(P205「行かなかった旅の記録」)
(16)
『 一一ないな。来た道を戻るしかない。
こうなれば彼(※ ガイドの言うこと)を信じるよりない。来た道を戻り、車でポカラの湖のほとりに下ろしてもらった。ケンタッキーフライドチキンがあったので、試しに入ってみる。普通。それから、昔立ち寄った古書店を探してみたが、見つからなかった。街並みも、十八年も経ってしまえばだいぶ違う。そのことが寂しい。正確には、寂しがりたい気持ちがある。ところが、思考がその方向へ動きはじめるや否や、
一一その街の変化を寂しがる権利は旅行者にはない。
一一街の発展を素直に喜べないのは間違っている。
一一老害。
一一「現代人が失ったもの」とかそういう言葉が好きそう。
一一リベラルの傲慢。
などと、次々に脳内クソリプがついていく。クソリプはネパールのポカラまでも追い
かけてくる。かくして昔を懐かしむこともできず、無に漸近する。これはおそらくは自分の弱さだろう。でも絶対ウェブの愚か者どもも悪いと思う。
脳。
伯父の脳のCTだかMRIだかの画像は、初診時、すでに片方が真っ黒くなっていたという。そしてこの病は、よく知られているように、最近あったことから順に、過去にさかのぼって忘れていく。昔何かで「最後には赤子に戻る」といった言い回しを見たときは、ふざけんな、と思った。記憶を失うという人一人の実存の危機において、あたかも自然の摂理でも説くように、ふわりと万人受けするような、ちょっと救いがあるみたいなことを外野が言うんじゃねえと。
でも、翻るにどうだろう。ぼくらは常に「現在」を競っている。これはいまこそ読むべき本です。わたしはいま現在の世界の問題に目を向けてます。わたしは価値観のアップデートをしています。SF的想像力。ネクストブレイクしそうなものにとりあえず唾をつけろ。感性が鈍ってないことを示せ。その競争に勝て。なんでもいいからアクチュアルであれ。』
(P217〜219「行かなかった旅の記録」)
(17)
『 かつて大森望さんがSF作家を「クラーク派」と「バラード派」に分類したことがある。前者はアーサー・C・クラークの諸作品に代表されるような、科学と人類の可能性をじる人たち。後者はそれをせず、J・G・バラードのような終末を描く人たちだ。それで言うと、ぼくは断然バラード派だった。それは科学を信じていなかったからというより、単純に、科学技術のもたらす退廃的な暗い世界観を美しいと感じていたからだった。当の本人は、子供のころからプログラミングで遊んでいたり、むしろ楽しい側面を享受していた。
この感覚が変わったのが二〇一六年。アルファ碁対李世乭戦で、AIが囲碁のトッププロを破ったときだ。こうした棋戦は人と車が速さを競うようなものだから特に意味はないと言う人もいるが、ぼくにとっては違った。碁が好きで碁の物語でデビューした身としては、アルファ碁には大切な何かを奪われたと感じたし、そう思う自分の感情を誰かに明け渡すつもりもなかった。かくして、いまさらのようにテクノロジーそのものが新たなテーマとなった。退廃的な暗い世界観は、美である以上に、脅威となった。
では、ますますバラード派になったのかと言えば、そうではない。
麻雀漫画の『打姫オバカミーコ』に、こういう台詞がある。
「右へ行き過ぎれば無謀の谷へ落ち/左へ行き過ぎれば臆病の谷へ落ちる」
麻雀というゲームを尾根道に喩え、勇気を出しすぎると無謀の谷に転落し、慎重になりすぎると臆病の谷に転落するというのだ。「左右ギリギリまで使って歩く奴が強く/だが一歩でも過ぎるとたちまち落ちる」とも語られる。これは麻雀の話だけれど、科学技術に対する姿勢にも置き換えられると思う。楽観の谷に落ちても、悲観の谷に落ちてもおそらくは何かが見落とされる。だから両側の谷を見据えつつ、左右ギリギリまで使って歩いてみたい。』
(P285〜286「あとがき」)
つまり、まったく他人事ではないし、私の場合は、その時々に具体的な批判対象としての人物(北村紗衣や樋口恭介など)がいるのだから、まさに私自身が「渦中の人」である。
ただし、私の場合は「徒党(党派)」は組まないし「全方位批判」。それが必ずしも良いことではないかもしれないが、まあ、常に「少数意見」の立場であるというのは間違いないし、そのことには自負を持っているのだ。
なお、本書収録作品は、次のとおりである。
・「暗号の子」
・「偽の過去、偽の未来」
・「ローパス・フィルター」
・「明晰夢」
・「すべての記憶を燃やせ」
・「最後の共有地」
・「行かなかった旅の記録」
・「ペイル・ブルー・ドット」
(2025年2月16日)
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