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ヘルベルト・ローゼンドルファー 『廃墟建築家』 : ゴシックではなくバロック

書評:ヘルベルト・ローゼンドルファー廃墟建築家』(国書刊行会)

よそなら絶対出さないような幻想文学系の作品を刊行してくれる奇特な出版社・国書刊行会から、3冊の予定で刊行の始まった「オーストリア綺想小説コレクション」の1冊目が、本書『廃墟建築家』である。
本邦での長編作品紹介は、これが初めての作家だということだが、母国では決してマイナーなわけではないそうだ。

無論、私も初めて知る作家だったのだが、書店で本書を見かけて、まずそのかっこいい装幀に惹かれた。
しかし、税込4,620円と、ちょっとお高かったので、その時はグッと堪えたのだが、ブックオフオンラインに登録しておいたら入荷されたので、極端に安くなったわけでもないが、購入することにした。

本書は「差し函」入りの本だが、その顔ともいうべき薄紫色の差し函の表には、古い絵画から採られたものであろう洋風の廃墟の絵がグレーで擦られており、その中央に縦に「廃墟建築家」とタイトルが入っている。
函の下半分には白い帯が巻かれており、その表側と背側には次のよう文章が擦られていて、幻想文学ファンを唆ることこの上ない。

ルルド詣での列車、
カストラートの公爵と七人の姪、
葉巻形の巨大地下建造物、
機械仕掛けの侏儒、高山の龍退治、音楽を盗む不死者、彷徨えるユダヤ人
ドン・ファン異聞一一一
世界の終わり
メビウスの輪のように
連鎖する語りと
夢の交響
夢の中の夢  』(※ 後の「夢」は180度逆転で刷られている)

『廃墟建築家が設計した葉巻形の巨大地下シェルターに世界の終末を逃れて避難した主人公。
そこで彼が夢みるのは、カストラートの公爵の七人の姪が代わる代わる語る不思議な物語。
幾重にも入り組んだ枠物語のなかで、主人公は夢と現実の境界を行き来し、時に見失う。
『サラゴサ手稿』をも凌ぐ物語の迷宮を構築し、オーストリア・バロックの粋をこらした魔術的遠近法。』

ああ、妖しいなあ。『黒死館殺人事件』に似た匂いがプンプンするぞと、そんな期待を持って読み始めたのだが、一一開巻早々、その期待が、いささか的外れだったことを思い知らされてしまう。
あとはもう「これは合わない作品だなあ」と思いながらも、ひと通り最後まで、読み切るだけは読み切ったというような始末。

したがって、面白かったのかと言えば、私にとっては「面白くはない作品」だったのだが、では、この作品が悪いのかと言えば、そうではない。
本作の場合は、明らかに「私の趣味ではない」作品だったというだけで、好きな人にはすごく面白い作品なのではないかと思う。私が、装幀や帯文から想定したものとは少々、いや、かなり違っていたというだけの話なのだ。

だが、完全に誤解したのかと言えば、そうでもない。

実際、翻訳者の垂野創一郎は、巻末の訳者解説文「幻想のオーストリア・その一 一一『廃墟建築家』」において、小栗虫太郎『黒死館殺人事件』だけではなく、私自身とも縁のある竹本健治の奇想ミステリ『ウロボロスの偽書』までも引き合いに出して、本作を紹介していたのだ。

『 音楽にあふれた小説といえば、日本では、とりわけ推理小説愛好家のあいだでは、『黒死館殺人事件』がまず思い浮かぶでしょう。これはけして突飛な連想ではないと思います。モーツァルトの葬儀から想を得たと作者の言う『黒死館』も音楽尽くめで、『廃墟建築家』と同じく、敷地の外に出られない弦楽四重奏団のメンバーが重要な役を演じます。そしてやはり『廃墟建築家』と同じく、本筋とは必ずしも関わりをもたないエピソードや脇筋がおびただしく、ともすれば本筋をかき消さんばかりの勢いで入れかわり立ちかわり現われます。「そこには……百二百の探偵小説を組立てるに足るほどのおびただしい素材が転がっているのだ」と江戸川乱歩が序文で書いているとおりです。つまり『黒死館』も『廃墟建築家』も、波のさかまく奇譚の海なのです。また正史から偽史をつむぎ出す手付きも、虫太郎とローゼンドルファーには、相似たものが感じられます。たとえば本書中のフリードリと大王のエピソードは、虫太郎の「ナポレオン的面貌」を思わせるではありませんか。そして物語を締めくくるのは両者とも暗号です。

 ですが『黒死館殺人事件』と『廃墟建築家』は大もとで異なります。『黒死館』はゴシックですが、『廃墟』はバロックです。
(中略)
 (※ その違いとして)まずあげられるのはゴシックの重さにくらべてバロックの軽さ、あるいは軽やかさでしょう。ゴシック小説につきものの城館はどっしりとしていますが、『廃墟』の葉巻シェルターはアルミニウムフォイルでできた、いわばぺこぺこなものです。深刻な状況を描いてもバロックには浮遊感があります。ティエポロの描く青空に浮遊する天使のような。
 第二にゴシックは閉ざされていますがバロックは開かれています。ジョン・ダンが「何人も孤島にあらず」と言ったような、閉じることの不可能性がそこにあります。つまりいかなる小宇宙も大宇宙に開かれざるをえないのです。』
(P452〜453)

つまり『『黒死館』も『廃墟建築家』も、波のさかまく奇譚の海』であり、『また正史から偽史をつむぎ出す手付きも、虫太郎とローゼンドルファーには、相似たものが感じられ』る、というのは確かなのだが、いかんせん『『黒死館殺人事件』と『廃墟建築家』は大もとで異な』っており、『『黒死館』はゴシックですが、『廃墟』はバロック』であるという、かなり本質的な違いが、両者にはあるのだ。

そして「ゴシックバロックの違い」とは、まず『ゴシックの重さにくらべてバロックの軽さ、あるいは軽やかさ』ということがある。

そうなのだ。私は、大西巨人のファンであるくらいだから、とにかく「重い」のが好きだし、重厚きわまりない大西巨人の『神聖喜劇』は大好きでも、当たり前の「喜劇(コメディ)」は読まない(映画も見ない)というくらいで、「軽い」ものには基本的に興味がない。それが悪いとは言わないが、合わないから楽しめないのである。

『 それに関連して入れ子構造の使い方の違いが三番目にあげられましょう。話の中にまた話があって、という入れ子構造は、ゴシックでもバロックでもその一要素として見られます。
 まずバロックのほうから行きますと、『オーストリア文学小百科』(水声社)には「劇中劇」という項目があり、その執筆担当者である原研二はこう書いています。「世界をひとつの劇場と見なし、生を夢と考えるバロックの時代において仮構の世界である演劇は大きな意味を担ったが、演劇それ自体のなかで、この仮構は劇中劇というかたちで繰り返された。この劇中劇は、バロックのもっとも独特で啓発的な創造のひとつであると見なされる」。
 このような「世界は舞台」という発想一一つまり超越的な存在から見れば現世もひとつの舞台にすぎず、そこで観劇を楽しむわれわれは劇中劇を見ているのだー一というバロック的世界観を具現した作品を日本に求めるなら、さしずめ竹本健治『ウロボロスの偽書』がそれにあたりましょう。
(中略)
 手荒に対比させるとすれば、入れ子構造はバロックでは世界の仮構性(あるいは演劇性)を描くために、そしてゴシックでは世界の迷宮性(あるいは牢獄性)を描くために使われるといっていいかもしれません。最終的には入れ子の仕切りが取り払われる『廃墟建築家』が前者をめざしていることは言うまでもありません。』(P454〜455)

「入れ子構造」を持っているという点で、本作『廃墟建築家』と『ウロボロスの偽書』は、たしかに似ている。
また、『黒死館』の場合は『ゴシック小説につきものの城館』らしく重厚堅牢な壁を持つが、『『廃墟』の葉巻シェルターはアルミニウムフォイルでできた、いわばぺこぺこなもの』で、要は、ゴシックの「壁(境界)」は「堅牢」だけれども、「バロック」のそれは「柔軟(融通無碍)」だと指摘されている。

例えば、竹本健治のデビュー作にして代表作である『匣の中の失楽』は、典型的な「入れ子構造」の作品であり、表面的には「本格ミステリ」の形式を採っているから、「ゴシック」的な魅力も持ってはいるのだが、しかし、私が『匣の中の失楽』に感じた唯一の「不満」とは、まさにこの作品が、最終的には「開いたまま」という、そのバロック性にあった。

では、そのバロック性をさらに進めた『ウロボロスの偽書』に始まる「ウロボロス三部作」『ウロボロスの基礎論』『ウロボロスの純正音律』)が、私に合わないのかといえば、そうではない。
この「ウロボロス三部作」は、自ら「ミステロイド=擬似ミステリ」と名乗るほどなのだから、『匣の中の失楽』に比べ、「ゴシック的な堅牢性」はハッキリと後退して、その融通無碍さを展開している。一一しかしそれでも、私がこの「三部作」をそれなりに楽しめたのは、この「三部作」が「実名小説」の形式を採っていたからではないだろうか。つまり、作者の竹本健治自身は無論、綾辻行人小野不由美島田荘司京極夏彦といった、いわゆる「新本格」系のミステリ作家や、竹本健治周辺の評論家やファンなど、実在の人物がそこには登場し、この私も、当時のペンネームである「田中幸一」の名前で、竹本健治のファン代表として(『基礎論』に)登場し「大活躍」しているのである。一一だから「読んでください」という宣伝はこれくらいにして、要は、ゴシックではなくバロックである「ウロボロス三部作」を、なぜバロックが苦手な私にも楽しめたのかといえば、それはこのシリーズが「実名小説」として、「私の知っている実在の人物」が登場するという点において、ある種の「堅牢性」をもっており、その上で、それを異化するものだったからではなかったろうか。
喩えて言うなら、堅牢な西洋甲冑の中身はドロドロの軟体生物だったといったような、一粒で二度美味しい(?)、奇体な代物だったのである。

そんなわけで、『黒死館殺人事件』のような、機械仕込みの「陰鬱な重厚さ」を期待する向きには、本作『廃墟建築家』は期待外れになってしまうと、そう忠告しておこう。
本作は、夢から夢へと、夢からその中の夢、あるいは、その外の夢へと切れ目も定かならぬまま、融通無碍に展開していく作品であり、しかも、いささか「躁病」的に「軽くて華やかで騒々しい」のである。
だから、そういうものが好きな人には楽しい作品なのだが、そうでない者には、いささか辟易させられる作品でもあるのだ。

本作の、そんな本質をよく示した、本作中の「自己言及」的な部分を、最後にしっかりと紹介しておこう。一一こんな雰囲気の作品なのだ。

「しかし閣下はご自身で、これはたんなる夢だとおっしゃったではありませんか」
(P168)

「《人生は一篇の長編小説である》とたびたび言われます。もちろん嘘ではありません。でも人生という小説は、なんと冗漫で、そして些細なことばかりを語るのでしょう。」(P169)

『話し終えたとは言いましたが、物語が終わったとは言ってません。どんな物語も本当に終わることはなく、最初にお話ししたように、たくさんの大きな物語の一部でしかなく、また同時に、語られたり語られなかったりするたくさんの小さな物語からなっています。それぞれの物語の中で、望もうと望むまいと、人は他のすべての物語の影を、口に出さないまでも共に語っているのです。ですから、人がいったん物語を語ると、そのせいで大きなひとつの物語の網の目がほころびて、さらに続けて物語を語らざるをえなくなります。そしてあらゆる人の人生と同じく、わたしたち自身も物語なのですから、やはり多くの物語からなる物語になるのです』
(P215〜216)

「それをすべて信じろとわたしに命じてもよろしゅうございます」レンツが言った。「何と申しますか、どのみち信じがたい話でございますが、そんな夢を見たと信じろとおっしゃるのでしたら一一。わたくしも夢を見ますし、ときには大それた夢も見ます。でもそれはせいぜい自転車に乗って高い空を飛ぶとか、その程度でございます。しかしとんでもないものはとんでもございません。そんなに細かな夢を見られるものは誰もおりません」(P231〜232)

「話が退屈だったかい」
「靴磨きより退屈ではございません」
(P232)

 ある種の歴史ロマンスの作家は』ラウラは話を続ける前にすこし間を置いた一一召使が入って来て、公爵の愛猫ラムセスが隣家の犬に噛まれたと告げたからだ一一『過去の資料が残っておらず、おそらくは同時代の人さえ知らなかったであろうことも、知っているふりをしたがります。より賢い作家は、そんなときは検証をしようもないものを用います。とりわけわたしが厚かましく感じるのは、歴史上の人物の会話を一言一句まで再現しているときです。わたしはそんな作家の仲間入りはしたくありません一一ヴェネツィアで二人の若者が本当に会話したとも、二人の貴人がそもそも本当に存在したとも言い張るつもりはありません。ではこれからサン・マルコ教会の参事会員マーク・アントニオ・モーロに、脂肪のおかげで文字通り頭の中に埋もれて縮んでしまった口を通してかろうじて出る声で喋らせますが、そのときわたしが従う要求はただ、よい話は聞いて楽しいばかりではなく、ためにならなくてはいけないこと、それだけでです。(P273)
 一一 一言では言えない。少しばかり話を聞いてもらいもらえないか。(P279)

 一一くちばしをお閉じなさい。シメオーネ氏はそう言い、ブリヤート語で二言三言と言い添えました』(P289)

『少し間が空いたので、ヴィンゲルフード博士の訪問をこれ以上くだくだしくお話しするのはやめにしましょう。(P289)

『そいつに反応するのは難しい。でも、物語によっては、狩られる野兎のように、ジグザグに飛び跳ねるところがみそである話もある。そんなものの結末は誰にも予想できやしない。それから、その意味や機知が、最後の最後までとっておかれて、お終いの解明で緊張が解かれるまで聞く者はずっと不安のまま置かれるものである。そして最後に、どこから見ても意味のないもの、つじつまの合わないもの、関係のないものが寄せ集められ、雑多な色の糸がもつれあう織物の前に立っているような気を聞き手に起こさせ、あげくのはてに話し手が、ただ一つのささやかなトリック一一あらかじめ語り手あまりにも早く計略を見破られないよう、あらゆる手を打っているのだが一一その織物をくるりとひっくり返す。すると真相があらわになる。われわれはタペストリーを裏から見ていたにすぎなかった。輝かしいその表側は精妙なばかりか、その物語の意味をわれわれにたやすくわからせる。つまり《模様》がはっきり目に映るのだね。そんな芸当ができるのは、たった一人一一』カストラートの公爵が言った。
『存じてますわ』ラウラが口を挟んだ。『チェスタトンにかなわないからといって、気に病む必要がどこにありましょう。誰だってかなうもんですか。どうやらあなたたちの寝ぼけ眼にはっきりものを見せてあげなければならないようですね。
(P300)

ミネルヴァ もう我慢になりません。そろそろ何か起きねばなりません。観客は一時間も前から席にいるのに、いっこうに芝居らしい展開にならないではありませんか。私が自分で何とかしましょう。(P334)

「やっと目が覚めたのね、あなた。ちょうど看護婦を呼ぼうと思っていたところ」
 わたしは起き上がった。
「君は少しのあいだ失神していた」とヤコービ博士は言った。「気分が悪かったのかね」
(P337)

 眠りと目ざめの規則的なリズムはもはや存在しない。寝るのは眠くなったとき。起きるのは目が覚めてこれ以上寝たくないとき。あるいは一一今もそうだったが一一誰かに起こされたときだ。
(P349)

「そうじゃなくて、彼女の、というより、彼女についての夢を見たのです」
(P365)

「僕の記憶が正しければ、朗読の前に、君はこれは実話だとほのめかしたね」
(P439)

「彼が伯爵を殺したって」
「きっと殺したのです」シモーニスが言った。
「まぁそうだろうな」ヴェッケンバルトが言った。「そいつは担当編集者も殺したかもしれない。伯爵が自分の押韻叙事詩を見せた。あの編集者も」
 この悲しい物語と伯爵の悲運について皆がひととおり意見を出しあったあとは、会話はそれぞれに二、三人ずつのものに分かれ、広間は楽し気なつぶやきにあふれた。(P442)


(2025年2月22日)


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