薬師院仁志 『民主主義という錯覚』 : 〈わかったつもり〉への警鐘
書評:薬師院仁志『民主主義という錯覚』(PHP研究所)
本書を「民主主義」についての「意外な解釈=本来の意味」を提示する、トリッキーな本だと理解してはならない。
著者の著書の多くは、その扱っている題材や書名や惹句(宣伝文句)からして「常識を覆す、意外性を売り物にした本」という印象が免れがたいし、そういうところで客を釣っている部分も確かにあるだろうが、著者自身は決してそんな「キワモノ」ではない。
著者の主張は、極めてシンプルだ。要は「(今の)常識を疑え」ということであり、「民主主義」理解の問題は、その「重要かつ典型的な一例」にすぎないのである。
たしかに、私自身をふくめて多くの日本人にとって「民主主義」とは「良いもの」であり、十全ではなくても一応のところ日本は「民主主義国家」だと理解している。
しかし、では「民主主義とは、どのようなことを指すのか」と問われると、意外にも明快な返答に窮してしまうのではないだろうか。
例えば「民主主義」における「民」とは、誰のことなのか。
普通に考えれば「全国民」ということになるのだろうし、その国民に選ばれた代議士が、国民の意を受けて政治を行うから「代議制民主主義」ということになるのだろうが、しかし現実には「未成年」に選挙権はない。かつて女性に選挙権が無かったのと同様に、未成年には今も選挙権が無いのだが、これは正当化できるのだろうか。
多くの人は「できる」と答えるだろう。なぜなら「未成年には、政治的意見を適切に語るだけの知識が無いからだ」という理屈だ。しかし、それなら「成人」だから「(最低限の)政治的知識」があると言えるだろうか? もちろん、言えない。そもそも政治なんてものに興味のない人の方が多いくらいなのだ(例えば、日本国憲法を読んだことのある日本国民は、いったいどれくらいいるだろうか)。
では、何を根拠に「民主主義政治の主体たる民」から、「未成年」を含む一部の人を排除することが出来るのであろう。
そもそも、選ばれた「一部の人」にしか「政治的権限」を与えないやりかたを「民主主義」と呼べるのだろうか?
この問いに対する、著者の答えは「少なくとも、ルソーの考えた民主主義は、そのような選民を認めていない。選ばれた一部の者による政治とは、民主制ではなく、貴族制に分類される。字義どおりの民主主義を(「全員参加の民会」以外のやりかたで)実行しようとするなら、選挙(能力選別)ではなく、抽選しかない」ということになる。
しかしまた、ここで著者は言う。「その一方、原理としての民主主義は、いずれにしろ(「全員参加の民会」が可能な)ごく限られた少人数のコミュニティーでしか実行できず、実質的には理念的なものに止まらざるを得ない。したがって、現実的な政治形態として、もっとも理想的なのは、適切に選ばれた人たちによる、全民衆のための貴族制政治だ、とルソーは考えた」と。
ここで、勘違いしてはならないのは、著者は現在の「輪郭のぼやけた民主主義」理解を批判するために「語源的な民主主義」を持ち出しているわけではない、ということだ。「おまえら、民主主義という言葉の本来の意味も知らないで、適当なことを言うな」といった(適菜収的な)物言いがしたいわけではないのだ。
そうではなく、現在の「輪郭のぼやけた民主主義」がどのようにして生まれたのかを、「民主主義観念の歴史的変遷」を学ぶことによって知らなければならない。そうでないと、今の「民主主義」という曖昧な言葉の「字づら」に惑わされて、実質的「非民主主義」を甘受せざるを得ない状況に陥ってしまう恐れが十二分にあるという、これは「警鐘」なのである。
だから、これは「民主主義」だけの話ではない。「市民」という言葉についても、私たちは、至極曖昧な理解しか持っておらず、そのせいで、いつのまにか「市民としての権利」を失っているといったことになりかねない状況下におかれているのだ。
「民主主義」にしろ「市民」にしろ、あるいは「自由」にしろ、そうした言葉は「封建的権力から奪取した、近代的な人としての価値」だと漠然と肯定的に理解しているが、実際のところ、それが何を意味しているのかを、よく考えたこともなければ、調べてみたこともない。
そんな私たちに、著者は「それで本当に大丈夫なの?」と問うているのである。
もちろん、それで大丈夫なほど、世の中は甘くない。
私たちは今このときも、それと気づかずに「危うい綱渡り」をしているのである。
では、私たちは何をしなければならないのか?
「それ」を考えることをしなければならないのである。
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