中村一般 『ゆうれい犬と街散歩』 : 繊細さゆえの孤独と思考
書評:中村一般『ゆうれい犬と街散歩』(トゥーヴァージンズ・路草コミックス)
友人がお盆に帰阪したので大阪梅田で会ったきた際に、ひさしぶりに「丸善&ジュンク堂書店・梅田店」に寄って購入した本の一冊だ。
この、丸善&ジュンク堂書店の地下階にあるコミックコーナーは、なかなかの充実ぶりなのだが、隠居前までは漫画を積極的に読むことはしなかったので、ここにはほとんど寄ったことがなかった。
ただ、これまで読んできたシリーズもの(マイナー形)漫画の最新巻を書いそびれており、それがブックオフオンラインでも、なかなか入りそうになかったので、ここへ寄ってみたのである。
私の場合、阪急沿線だから、長年いつもは紀伊國屋書店・梅田本店を利用しているのだが、ここはマイナー漫画はあまり入らず、入っても、しばらくすると売り切れたり返本されて、刊行時に買い逃すと、あとは取り寄せしかない。
しかし、隠居のため、会社帰りに寄るというわけにはなくなり、梅田に出るのも月いち程度になった今では、取り寄せた本の受け取りのために、電車に乗って梅田まで出かけるのも面倒だから、もう取り寄せはしなくなったのだ(ちなみに、Amazonは、包装がしばしば雑だから、新刊の購入はしない)。
それで、友人と会うために梅田に出た機会に、ひさしぶりに丸善&ジュンク堂書店に寄り、買いそびれの本を首尾よく入手し、その際に、本書も併せて購入したという次第である。
中村一般という漫画家は、このとき初めて知ったので、どんな漫画を描く人なのか、正確なところはわからなかった。
今どき、新刊書店の漫画本は、必ずビニールパック(シュリンク)されているから、中身を確認できないためである。
もちろん、その場でネット検索しても良かったのだが、そこまでするのも面倒なので、タイトルと表紙絵と帯文でおおよその見当をつけ、ハズレも覚悟で買った。
要は、タイトルどおりに「街歩きエッセイ漫画」であろうと推測し、「それなら、大きく外すこともなかろう」と考えたわけだが、その推測が外れてはいなかったのである。
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本作『ゆうれい犬と街散歩』は、主人公の「私」が、ゆうれい犬の「ハナちゃん」と一緒に、主に東京都区内の裏道散歩をしながら、あれこれその感想を交わすという作品である。
主人公の「私」は、一見したところ「大学生くらいの若い男性」に見えるが、その話しぶりを見ていると、どうやら女性のようで、著者を反映した人物のようだ。
一方、「ハナちゃん」の方も、主人公よりはハッキリとした物言いをするものの、やはりメスのようである。さしずめ、主人公の「しっかり者のお姉さん」という感じだろうか。
ただ、本書の中にも、「ハナちゃんの話」として紹介されていることなのだが、たぶん作者自身、むかし愛犬を死なせており、それを「イマジナリーフレンド」(「あとがき」P 173)として、本作の中で「ハナちゃん」として復活させ、作中の「話し相手」としたのであろう。
これでは作者は、基本的に「嘘はつけない」はずだ。
主人公の「私」は、あまり人の通らない、ちょっと寂れた、時間に取り残されたような裏町を歩くのが好きなようで、そういう場所で、昔ながらのものが残っているのを確認すると、ホッとする。
こういう感情は誰にでもあることだから、そこで楽しむことはできるのだが、しかし、そんな「私」は、やや繊細にすぎて、「表通り」の現実から、若干「逃避」している感が無いでもない。
例えば、「中野区立 中野四季の森公園」の芝生に寝転がってのんびりするシーンでは、ハナちゃんと、次のような会話がなされる。
「私」の言うことも、わからないではない。
「他の生き物」という「リアル」に触れることで、過剰に情報化(ゴースト化)されている私たちは、「リアルな命」というのもの手触りを、少しは取り戻せた気になる、というほどのことだろう。
だが、この感想は、かなりナイーブなものであって、すでに私たちの「リアル」とは、そういうものではなくなっており、その程度のことで回復できるものではないのではないだろうか。一一と、そんな疑念を私は抱いた。
「私」の、いや「作者」の、そうした、やや過剰なまでの繊細さやナイーブさが、ハッキリと出てくるのは、裏道散歩をしていた時に、突然「私」が語り出す「思い」と、それへの、ハナちゃんの「優等生」的なまとめだ。
また、別のところでは、こんなやりとりもある。
そして、本書の前半では都心部の裏町を散歩していた「私」が、後半ではなぜか、東京の郊外、奥多摩へとやってくる。奥多摩湖のある、あの山間地域である。
当然、ハナちゃんは、このいきなりな奥多摩湖行を不審に思い、「なんで」と質問をする。
そして「私とハナちゃん」は、JR奥多摩駅から徒歩で数時間をかけ、ついに奥多摩湖に到着する。
そして、ハナちゃんが「私」に問う。
さらに、しばらく歩いた後、
このように本作は、言うなれば「作者の自問自答」を漫画化することで、自身を客観視しようとした漫画になっている。
たぶん、初の連載漫画を描いているうちに、半ばは、勝手にそうなったのであろう。
本作についての「Amazonカスタマーレビュー」として、レビュアー「syntaxsystem」氏が、「都会を静かに歩く散歩」というタイトルのレビューで、次のように書いている。
問題は、このレビューの、
という部分だ。
端的に言って、作者名中村一般の「悩み」は、決して「浅い」ことはない。
ただ、その悩みが「一般的なものではない」だけなのだ。
自分が何とも思わないものを、他の人が真剣に悩んでいた場合、その人の「悩み」は、決して「浅い」のではない。
その人が、良く言えば「感受性が鋭すぎる=繊細」なのであり、悪く言えば「人として弱い」のである。
そしてここで言うところの、「感受性が鋭すぎる=繊細」とか「人として弱い」というのは、どちらも、褒めているのでもなければ、否定的に評価しているのでもない。
おおよそ「平均的な人のそれ」に比べれば、そうだというだけの、客観的な「事実の指摘」でしかない。
つまり、「平均」よりも「背が高い・低い」と同じことで、それが「良い・悪い」ということではないのだ。
だから、中村一般の「悩み」が「浅い」というのは、例えて言えば「背の高い者から見れば、中村一般は背が低い」と言っているのと同じであり、中村が「背の低い」ことを悩んでいることをして「悩み」が「浅い」と評価するのは、まさに「理解」が「浅い」だけなのである。
人間は千差万別であって、他人が「なぜ、そこまで悩むのか」ということを、実感を持って「理解」することは困難だ。
なぜなら、自分はその「悩み」を持たないのだから、「実感を持って理解する」というのは、原理的に不可能だからである。
つまり、作中でハナちゃんが語るとおりで、「他人」である以上、「他人の悩みや痛み」を「実感」として「理解」することは不可能なのだ。
一一たが、「類推」することならば、可能だ。
例えば、自分は「背が高くて、痩せっぽっち」であり、「背が高い」のは良いが、「痩せっぽっち」なのは嫌だ、と感じている。「悩む」というほどではないとしても、「できればもう少し太りたいなあ」と思っている、としよう。
この場合、ある人が「背の低い」ことを悩んでいるのを知って「つまらないことを悩んでいる=悩みが浅い」とするのが、愚かなことだというのは、容易に理解できよう。
つまり彼は、「私が痩せっぽっちであることを悩んでいるのと同じように、あの人の場合は、背の低いことを悩んでいるのだろう。しかも、私よりもずっと切実なものとして」と考えることが可能なはずなのであり、これこそが「理性的な想像力」であり「共感能力」でもあるのだ。
「痩せっぽっちが、痩せっぽっちの悩みに共感するのは簡単」だが、「痩せっぽっちが、背の低い人や太った人の悩み」を「理解」するというのは、意外に「簡単なことではない」のだが、それはなぜかと言えば、「理性的理解能力」であれ「共感能力」であれ、それもまた、個々人に「能力差」があるからなのだ。
そして、「鈍感な人」というのは、そのことに気づいておらず、「他人のこと」だけを見て、「自分のこと」は見えていないからなのである。
では、私たちは、本作『ゆうれい犬と街散歩』の主人公である「私」なり、「作者・中村一般」なりの悩みを、どう受け止めれば良いのだろうか?
それは、その「悩みの中身(テーマ)」そのものを問題にするのではなく、「悩みの強度」を問題にすべきなのだ。
つまり、「平均的な感性」からして「大した問題じゃない」と評価するのではなく、「彼/女の感受性は、並外れて鋭い(繊細)」のだと「理解」して、それゆえの「長所と短所」「美点と弱点」を想像したうえで、その「両面」について考えなければならないのである。
つまり、主人公の「私」が、こうした「悩み」を乗り越えるためには、「外的な要因の変化」では、まず不可能であり、必要なのは、彼/女の「感受性の変化」なのだ。要は、その「悩み」から脱却するには、「鈍感になる=図太くなる」しかないのである。
しかしだ、誰もが気づくように、それはとても「もったいない」ことである。
せっかく「鋭い感受性」を持っているのに、それゆえに苦しいからと、わざわざ「鈍感になる」というのは、せっかくの「天凛=美質」を捨てることでもあるからだ。
それは、他人が「望んでも得られないもの」を、わざわざ捨てるということなのである。
だから、「私」に教えてあげるべきは、他人が悩めないところで悩めるのは「天が授けられた美質」なのだ、ということである。
「だから、楽になるためにそれを捨てるのではなく、できれば、それを活かす生き方をしてほしい」とそう伝えて、その「美質」についての「気づき」を促すことこそが望ましい。
人とは、さまざまな「長所と短所」「美質と弱点や欠点」が、複雑にからまりあった存在であり、都合のいい部分だけをチョイスするというわけには、いかないように出来ている。
「背が高い」のは「変に目立って嫌」だとしても、しかしその一方で「背が高い人にしか見えない風景」もある。
背が低くなってしまえば、目立たなくはなって良かったかもしれないが、見えていたものが見えなくなってしまいもするのである。
だから、「繊細さを保持して、苦しみながら生きていく」のか「鈍感になって、無神経に生きていく」のか、どちらかを選ぶかは、所詮は、それぞれの「選択」でしかないのだけれど、読者である私としては、作者には、前者の選択をしてほしいと願わずにはいられない。
なぜなら、それゆえに、彼/女にしかできない表現があり、彼/女にしか寄り添うことのできない読者というのが、少数ではあれ、必ず存在するからで、できれば、そういう少数者を見捨てて、「当たり前」になってはほしくないからである。
例えば、私のこのレビューは、いわゆる「作品内容」をほとんど紹介しないまま、私が興味を持った問題を、もっぱら論じているだけで、当たり前に「扱われている本の内容が知りたかった人」には、迷惑なシロモノでしかないかも知れない。
だが、少数とは言え、こういう話を聞きたかったという人もいるはずで、私のしたいことも、そちらに寄り添うことなのだから、私はあえて、このような「変な書き方」をしているのである。
そしてこれが、私の「長所でもあれは、短所でもある」し「美質でもあれば、弱点や欠点」でもあるのだが、人が、そう簡単には変わらないものなのだとしたら、やはり自身の「(長所と短所をひっくるめた、その個性)特質」を活かすべきなのではないかと、私はそう思うのだ。
それが、時に苦しい選択だとしても、である。
だから私は、中村一般に対して「鈍感になりなさい。そうすれば楽になるよ」とは、助言しない。
そうではなく、
という、武者小路実篤の言葉を、知ってほしいと思うのだ。
武者小路には『馬鹿一』という作品もあるけれど、「馬鹿」には馬鹿なりに、その個性を生かす道もある。
利口になることが、必ずしも「正しい」生き方でもなければ、まして「美しい」生き方ではない、はずなのだ。
(2024年9月19日)
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