中村たつおき 『かいじゅうたん、現る。(1)』 : 「最強の怪獣」問題
書評:中村たつおき『かいじゅうたん、現る。(1)』(少年チャンピオンコミックス・秋田書店)
書店の新刊コミックスの棚で本書の表紙を見た途端「その手があったか」と思った。
「その手」とは、「もしも怪獣が、人間の幼児の姿形をしていたら、はたしてそれを惨殺することができるだろうか?」という、問題設定である。
人間というのは、姿形さえ見えなければ、子供を殺すことだって平気でできる。現在、パレスチナで起こっていることを見ても、それは明らかだ。
つまり、空爆などによる遠距離攻撃であれば、死んでいく人の姿を直接見る必要はないから、そこに子供が大勢いることを知っていても、戦争だと思えば、ミサイルや爆撃のスイッチを押すことも、比較的容易いだろう。これは歴史的にも証明されている事実である。
だが、目の前にいる幼い子供を、自分の手で殺すとなれば、それが素手であれ、刃物や銃器であれ、決して容易なことではない。それは「良心」の問題である以前に、「本能」の問題であろう。
人間も動物であれば、生存競争のライバルともなる大人を殺すことが出来ても、本来、守るべき対象であり、無抵抗な子供を我が手にかけるということは、決して容易なことではない。
それが可能だとすれば、少なくともその瞬間は、思考が麻痺しての、無感覚状態にでもなっているのだろう。そうでなければ、そんなことは不可能だ。
また、それで子供を殺害し得たとしても、その人は生涯、その記憶に苛まれることになるであろう。「種を残す」という最も根源的な「本能」に反することを、直接かつ自覚的に行ったのであれば、精神を病むのは、むしろ当然のことなのである。
また、戦後に「PTSD」を発症する人の中には、そうした経験をした人も少なくないはずだ。
さて、本作『かいじゅうたん、現る。』は、もちろん、まともな「怪獣もの」漫画ではなく、一種の「ギャグ漫画」である。
幼児の姿形をした巨大怪獣が現れたため、どうしても殺害することができず、それを「保育」して、いずれ母親怪獣が迎えに現れた時には返してやろうというプロジェクトの発端を描いたのが、この第1巻だ。
物語の世界設定は、突如として巨大怪獣が現れ始めた、未来の日本。そこには、子供たちの未来を守るために、自ら先頭に立って戦う、元保育士の内閣総理大臣・源田牛光がいた。
彼は、若き保育士時代、怪獣災害のために忙殺される医療従事者の母親たちから預かった子供たちを、損得抜きで面倒を見る、保育園経営者の保育士であった。
怪獣災害から命懸けで子供たちを守り、迎えに来た母親たちに無事に返してやることに、彼は生きがいを感じていたのだ。
ところがある日、子供たちを怪獣災害から守り切りはしたものの、子供たちの家や保育園が被災して失われしまった。
そして、そのことを泣いて悲しんでいる子供たちの姿を目にした彼は、自分がすべきことは、子供たちの命を守ることだけではなく、子供たちの生活のすべてを、怪獣から守ることなのだと気づいた。
それで彼は、自衛官となりそこで出世して政治家に転身し、内閣総理大臣にまでのぼり詰めた。
また、そんな彼だから、怪獣が出現した際には、出撃する自衛隊機の先頭に立って、みずから怪獣と対決した。そして、その非凡な能力で多くの怪獣を倒して、今や総理大臣にして国民的な英雄ともなっていたのだ。
しかしそんな彼は、今でも自分の栄誉など気にはしておらず、ただただ子供たちの生活を守りたいという一心で、怪獣との戦いに闘志を燃やし続けていたのである。
だが、そんな源田の前に、のちに「かいじゅうたん」と名づけられることになる、巨大怪獣が現れた。
「かいじゅうたん」は、身長50メートル余りもある人型怪獣であり、しかもその姿は「保育園児服を着た2、3歳の幼児」そのもの。
ただし、ゴジラのような立派な尻尾だけはついていて、それだけが、「かいじゅうたん」を、「巨大人間」ではなく「人間そっくりの姿形をした怪獣」だと判定せしめる特徴なのだ。
突如、東京都心部のビル街に現れた「彼女」は、その巨大さゆえに「悪意なく」ビルを破壊してしまい、人々はその地区からの避難を余儀なくされた。
一方「巨大怪獣出現」との報を受けて、いつもどおりに出撃した源田首相は、「かいじゅうたん」の、その愛らしい姿や人間の幼児そのものの様子に、一目でメロメロになってしまい、とうてい攻撃などできないと、いったん帰投することになった。
その頃、「かいじゅうたん」が出現した山奥に、直径80メートルを超える巨大な竪穴が発見され、その奥を調査したところ、そこには、金銀や宝石などの財宝が大量に置かれているのが発見された。
同時に、近くの湖に向けてセットされていたカメラには、「人間の母親」そっくりの姿形をした巨大怪獣の姿が映されており、しかも、その怪獣は、明らかカメラに向かって、意識的なお辞儀をしてから、湖底へと去っていったのである。
つまりこれは「この財宝を置いていくので、これでしばらくの間、この子の面倒を見てやってくれ」というお願いだと、そう解されたのである。
そこで、元保育士である源田首相は、母親怪獣が迎えに来るまでの、「かいじゅうたん」の保育計画を決断する。
さて、ここまでが、第1、2話であり、第3話は、お腹を空かせた「かいじゅうたん」に、どのようにして食事を与えるかという「まんま計画」が描かれ、第4話では、夜の寒さに震える「かいじゅうたん」に、なんとか巨大布団を与えてやりたいと奔走する源田に対し、「あなたは、怪獣の托卵の偽計に引っかかっているだけだ」と非難する女性科学者が登場する。
だが、その女性科学者も、最後は、「かいじゅうたん」の「偽計」を超えた「子供らしさ」を否定できず、源田に協力して、無事に布団を与えてやることができる、というお話になっている。
そして、この第4話の終わりには、源田の「保育作戦」を認めず、「かいじゅうたん」の抹殺を企む人物が登場したところで、「次巻に続く」となるのだ。
このように、本作は言うなれば「巨大な幼児」をどのように保育するのかといった、まさに「荒唐無稽」な「保育ギャグ漫画」なのだが、私が本作の表紙を見たときに、最初に考えたのは、第4話のテーマとなる「偽計」問題だ。
というのも、特撮テレビドラマ『ウルトラマン』の「巨大フジ隊員」登場以来、「巨大な人間の姿になりすまし、人間(やウルトラマン)からの攻撃を防ぎ、フリーハンドでの破壊活動を行う、という偽計を用いる宇宙人(侵略異星人)」というエピソードは、「ウルトラシリーズ」において、時々扱われたものであったからだ。
そしてその場合は、やはり、いかにも攻撃しにくいということで、「成人男性」ではなく、フジ隊員のように「成人女性」かつ「身内の人間」の「巨大化」が多かったように思う。
このパターンの話は、結局のところ、背後で操っていた宇宙人を攻撃することで、操られていた人物を救出するとか、「宇宙人が化けている」というのを看破することで、その「偽装」が解除された後、本性を表した「グロテスクな宇宙人」を攻撃して退治することで、めでたしめでたしとなる。
つまり、そんな巨大人間は存在しないとしても、もしかすると、宇宙人の超科学によって人間が巨大化させられたのかも知れず、仮に「宇宙人が化けている」だろうとわかっても、やはり人間の姿のままでは攻撃しづらい。まして「女性」の姿をしていれば尚更だ。
また仮に、ここに等身大のフジ隊員が出てきて「あれは偽者よ、攻撃して!」といったところで、どっちが本物かはわからないから、人間の姿のままでは、とても攻撃できないのである。
そんなわけで、この「宇宙人が化けた巨大人間」というパターンは、人間の側にドラマ的葛藤が生まれるので、面白い設定ではあるのだが、その一方で、あまり頻繁に使われるものでもなかったようだ。
で、その理由を考えてみると、やはり、話があまりにも生々しくなりすぎるから、なのではないだろうか。
ドラマの上では、正体が暴かれて「グロテスクな宇宙人」の姿に戻るから、攻撃もでき退治することもできるのだが、そもそも「元の姿」を現さなければ、とてもではないが攻撃はできない。
また仮に、その正体が「人間そっくり」だったら、はたして攻撃ができるだろうか、という問題もある。
さらに言えば、宇宙人が「フジ隊員を巨大化させたのかも知れない」と考えることができるのであれば、「正体を現した宇宙人」の姿が、本当の「正体」だという保証があるだろうか。
例えば、巨大化させたフジ隊員を、宇宙人の姿に見せかける、ということもできるのではないだろうか。
一一しかし、そこまで疑い出したら、何も攻撃できなくなってしまうというのが、たぶん「にせウルトラマン」問題の本質なのではないかと思う。
つまり、「巨大フジ隊員」問題とは、「にせウルトラマン」問題の変奏だと考えるべきなのかも知れない。
で、こうしたデッドロック的な問題をはらむ「巨大フジ隊員」問題を、さらに押し進めたものとして考えられるのが、この「かいじゅうたん」なのだ。
人間の生活とは相容れない「巨大生物=怪獣」が、「成人女性」どころか、「幼児」そっくりだったら…。
しかも、その行動が「人間の幼児」そのままであり、「悪意のないもの」だったとしたら一一。
はたして、そんな「巨大幼児」を(尻尾が生えているという理由くらいで)、ミサイル攻撃したり爆撃したりして、惨殺することなどできるだろうか?
これは、そういう、ある種の「思考実験」なのである。
で、自分の問題として考えてみると、子供が好きな私には、とても「かいじゅうたん」を虐殺することなどできず、まさに源田首相の行動をなぞってしまうだろう。
それがいかに、傍目に「滑稽なこと」だとしても、ギャグでもお笑いでもなく、それしかできないじゃないかと、そう思うのだ。
所詮本作は、そうした「人間の生物学的なジレンマ」を極端化して、ギャグに変えた漫画にすぎない。
だが、本作において、あまりにも幼児らしい可愛らしさをふりまく「かいじゅうたん」に、手もなく感情を揺さぶられてしまう読者のひとりとしては、動物的な本能とは、斯くも根深く、その意味で恐ろしいものなのかと思わないではいられなかった。
もう、完全にお手上げの降参だ。
泥くささの残る絵柄に注文を付けつつも、最後に私に残されていれたのは、何も考えずに、「かいじゅうたん」の愛らしさを愛でながら、この泣き笑いのギャグ漫画を楽しむことだけだったのである。
(2024年11月26日)
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