九段理江 『東京都同情塔』 : あなたは、AIにも劣る人間ではないのか?
書評:九段理江『東京都同情塔』(新潮社)
芥川賞なんぞ、ほとんど信用していない私なので、受賞作を読むことなど滅多にない。受賞作家がもっと本を出して、それでも評判が良ければ、その代表作と言われるものを読んでみて、それが面白ければ、それ以前のものも含めて、いろいろ読んでみればいいじゃないかと、そう思っているからである。
したがって、芥川賞受賞作はそれほど読んでいないし、読んで「面白い」と思ったこともほとんどない。これは面白かったというほどのものが、記憶にないのだ。
だが、本書は「読んでいて、面白い」作品だった。これは滅多にないことである。
もちろん、最後まで読んで「完璧」だと感じたわけではない。途中は面白かったのだが、最後はまとまりに欠けて「物語は続く」みたいな余韻ラストだったから、総合的には「85点」くらいということになって、今後、ほかの作品を読むかどうかは微妙なところだ。まあ、評判の良い作品が出てくれば読むだろう、くらいの感じである。
しかしまた、芥川賞は、中編以下くらい長さの作品を選考対象にしているから、私が期待するような「堅牢な構築的作品」というのが書きにくい、という事情はあるだろう。枚数制限があるために、本作がそうであるように、芥川賞を狙って書いた作品というのは、ワンポイントで読ませ、そこで「これまでの作家には無かった新しさ」を感じさせることが出来る否かが勝負のポイントとなるのである。
だから、そうしたものとして考えれば、本作は「90点」くらいの完成度があるのではないかとも思う。
先日、本作と芥川賞を競って敗れた最終候補作、川野芽生の『Blue』を読んだけれども、私としてもハッキリと、本作『東京都同情塔』の方が面白かった。
川野芽生は、芥川賞候補になる以前から好きな作家だったのだが、『Blue』に関しては、芥川賞を狙いに行った作品だったせいなのか、川野らしい過剰な耽美性において、現実世界を超えていく、といったような独特の力が感じられず、いかにも「普通の人にも読んでもらえる作品」であった。また、作者自身の問題だとは言え、「いま話題」の「トランスジェンダー」の問題を扱って、軽い「社会派」性を持たせた作品であり、その点でも「当たり前」すぎて、物足りなく感じさせられたのだ。
それに比べれば、本作『東京都同情塔』は、抑えた「狂気」の感じられる作品であり、その「傍若無人さ」が面白かった。
どのあたりに「狂気」が感じられるのかといえば、「言葉」へのこだわりであり、言葉を制限しようとするもの、特に、世間的に「良識的」とされるものからの「圧力」に対して、本気で怒っているのが、実によく感じられて、楽しかった。
よくある「ポリコレ、うぜえ」みたいな、初手から議論をする気などない、半分腰の退けたような書き方ではなく、真正面から、言葉で殴りつけるような「批評性」があって、そこが私の好みにマッチしていたのである。
上の紹介文の中で、私が「面白い」と思った部分とは、もちろん『ゆるふわな言葉と、実のない正義の関係を豊かなフロウで暴く』の部分だ。
ちなみに、「フロウ」という言葉を知らなかったので検索してみると、「ラップ」の業界用語で『“flow(フロウ)”とは歌い回しのことで、声の高さや強弱、速度に変化をつけて、曲を印象付ける。』という意味だった。
つまり、「ポリコレ、うぜえ」なんて、芸もなく一本調子に連呼するのではなく、強弱と捻りを加えながら、多彩な文体で「波状攻撃」をかける、みたいな感じだと考えればいい。
本作は、まさにそうした作品であり、これは「言葉」が豊かでなければできないことだ。「語彙」ではなく、「言葉の調子」を含む「文体」を変えていくことができるという、そうした意味での「言葉」の豊さ(多彩さ)である。
もちろん、この作品が「差別と言葉」の問題に、十全に答え得ていたとは思わない。
だが、ひとまず本作は、出会い頭の「カウンターパンチ」としてなら、十分に価値のある一発であったと思う。
だから、今度作者に求められるのは、単発の打ちっ放しではなく、相手を完全にノックアウトできるだけの、パンチのコンビネーションの多彩さ、ガードの的確さだろう。ここで言うガードというのは、自分を守るためではなく、自分の主張の「粗(あら)」を埋めて、完璧な攻撃に仕上げるというほどの意味である。つまり、相手に手も足も出させないで、完璧に叩きつぶせ、ということだ。
だから、本作は、非常に筋が良く力のある一発ではあったものの、これが評価されたからといって、「このパターン」に満足してはいけない。そんなことをすれば、たちまち「手筋」が読まれてしまって、相手にされなくなってしまうからだ。
著者は、もともと、もっと長い作品が書きたかったにもかかわらず、「芥川賞候補になるために」ということで、もともと長かった作品を無理やり削らされるという(よくある)経験もしたようだから、芥川賞作家になったからには、長編に期待したいし、それは、一打の強さや、フロウの多彩さだけではなく、1本の作品としての「堅牢な構築性」を持つものに仕上げてほしいということだ。
もしかするとこの作家なら、もっと変なバベルの塔をうち建てることができるかもと、そう期待する。だから、本作のような「中編ゆえの未完成性の許容」の範囲内で、「日本の純文学」的に、小さくまとまらないでほしいと願うのである。
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さて、ここまでは、ひたすら「本作を読んだ人にしかわからない、本作の感想」を書き連ねてきたが、少しは内容に即した、具体的なことも書いておこう。
「マンスプレイニング」という言葉の意味は、次のようなものである。
また「ポライト」は、次のような意味だ。
つまり、引用文の冒頭部分を、私の文体に書き換えると、次のようになる。
「 訊いてもいないことを勝手に説明し始める、頭の悪い「ひけらかし(衒学)」気質が、こいつの馬鹿丸出しなところだ。スマートで丁寧な、いかにも「真摯」そうな体裁を取り繕うのが得意なのは、実際にはこいつが、自分の頭で文章を作ることができないという、致命的な文盲だからだ。いくら「学歴エリート」的に学習能力が高かろうと、文書生成AIには、自分の作る文章が、世間並みに「弱腰」であり、その意味で「無責任」なものでしかないと、そう気づくことができない。比喩的に言えば『己の弱さに向き合う強さがない』のだ。そもそも「思考能力」が無いのだから。
無難な「コピペ」作文に慣れきり、無傷で他人の言葉を盗むことに慣れきっているから、自身のそうした無責任さ、勇気のなさにも無自覚で、それを恥じることもできない。人間が「差別」という言葉を使いこなすようになるまでに、どこの誰がどのような種類の苦痛を味わってきたかについて、関心を払うこともない。それを、少しは勉強しようなどとも思わず、「その件については、このように書いておけば間違いない」といったような、世間並みの「無難な通例」しか知らないし、知ろうともしない。無難かつ効率的に、つまり「ファスト」に「こなす」ことしか考えていないから、「なぜ?」という疑問を持つこともなければ、根本から「理解したい」とも思わない。言い換えれば、好奇心を持つこともできなければ、「知りたい」という欲望を持つこともできない、そんな、正真正銘の「馬鹿」なのである。」
このように書けば、私がいつも言っていること、そのままだというのがご理解いただけるだろう。
「マンスプレイニングな馬鹿」とは、例えば、Amazonのカスタマーレビューに哲学書のレビューを書き、聞かれてもいないのに、その哲学者の「歴史的位置づけ」まで、長々と書くような、「承認欲求タレ流し」の馬鹿のことだ。私は何度か、名指しでそうした実例を示したこともあったはずだが、ともあれ、こうした「知ったかぶり」も、結局のところは「文書生成AI」と同じで、本質的には「コピペの切り貼り作文」でしかないというのが、容易に理解できよう。
ただ、こういう馬鹿は、生成AIと同じで「考える」能力が無いので、自分のしていることが、所詮は「コピペ」でしかなく、なんの「創造性」も持たないものなのだと気づくこともないのである。だから私はしばしば「内容紹介と、型通りの褒めだけで文章を書くようなライター」さんは、早晩、生成AIに仕事を奪われるだろうなどと書くのである。
つまり、今後、人間が書くべき文章とは、人間にしか書けない「型にハマらない」「創造性を持った」文章しかないと言えるだろう。
だから、自分のパターンに凝り固まってしまってはダメなのだ。一見、ワンパターンに見えるようでも、そんな自分を相対化して、それを批評するような「メタな視点」を持つ文章でなければ、進歩する生成AIを出し抜くことなんてできない。
例えば、先日、手塚治虫の『ブラック・ジャック』の新作を、生成AIと人間の協業で完成させたそうだが、「手塚っぽい作品」というだけなら、生成AIだけでも描けるだろう。だが、その先の一歩は、やはり人間的な「過剰さ」が必要なのだ。
ともあれ、今後は、容易に「星新一風の小説」とか「筒井康隆風の小説」なんてものを、生成AIが単独で書いて、「読めない読者」には、もはやその区別がつかなくなるだろうし、そうした作品は、星新一や筒井康隆の「凡作よりはマシ」というレベルにまで達するかもしれない。
たが、だからこそ、今後、人間が書くべきなのは、「大傑作」か、さもなくば「大失敗作」だということになる。そうならなければ生き残れない。
もちろん、わざわざ「大失敗作」を書く必要はなく、「大傑作を狙って、大失敗作になってしまうようなこともある書き方をする」という意味である。生成AIには、そんな「博打」は打てないからだ。奴らに書けるのは、「優等生的な」作文か、さもなくば「狙った無茶苦茶」でしかないあり得ないのだ。
ともあれ、人間が「パターン」で、物を言ったり書いたりする時代は、早晩終わりを告げるだろう。
他でもない、「note」の大半を占めるような「無難に作家ぶった」素人の作文程度なら、生成AIが、もっと面白い物を書いてくれるようになるからだ。
だから、そこで人間に求められるのは、「思考パターンの罠」をブレイクスルーするための「狂気」なのである。
小賢しく「狙った」ところで、ブレイクスルーなど、起こるはずもないからで、まさに「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」という、古い格言が実行されなければ、あなたは、これまでの「その他大勢(モブ)」ですらなく、生成AIにも及ばない「不必要な存在」にまで格下げされてしまうはずなのだ。
ひとまず、Amazonに寄せられた、本書の「レビュー」を、ざっと眺めてみると良い。
本書を読んでなお、自分の感想文のつまらなさに気づけないような、生成AI以下のそれがほとんどだという現実に、容易に触れることができるはずだ。
(※ トップ画像は、こちらからお借りしました)
(2024年4月13日)
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