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ノーム・チョムスキー 『壊れゆく世界の標』 : チョムスキーの謦咳にふれる
書評:ノーム・チョムスキー『壊れゆく世界の標』(NHK出版新書)
本書は、盟友ディヴッド・バーサミアンによる、七つのインタヴューをまとめたものである。
インタビューの時期は、2020年5月から2021年12月にかけて。
コロナ禍が全米を席巻していたにも関わらず、トランプ大統領が「あんなものは風邪と同じだ」などと大ボラを吹いていた時期(のちに、自分が罹った際には、庶民では受けられない、高度治療を受けたのは周知のとおり)から、大統領選でバイデン候補に敗れたものの、負けを認めず、支持者に対し連邦議会への攻撃を煽り、不発に終わりはしたが、アメリカ憲政史上初となるクーデター未遂を引き起こした時期を経て、そのあとは、バイデン新大統領による、トランプ路線の軌道修正と、あまり理解されてはいないトランプ路線の継承の問題などについて、いつもどおりに歯切れのよい応答をしている。
本書については、Amazonに、レビュアー「Kamusa」氏が「未だに衰えない理性への強い信念!」と題するカスタマーレビューを投稿しているが、まったくの同感である。
『久しぶりにチョムスキーを読んだってわけではないが、以前に読んだのは環境問題のやつだったので、政治的なものは久しぶり。そこにあるのは右でも左でもなく、ただ自由と民主主義と科学に重きを置いた揺るぎなき理性への強い信念である。御年90を超え、いまだ人類への希望を持ち続けるチョムスキー大老を前に、様々な事象や人物から理性への失望が湧きつつある自分が情けなくなるのである。基本的に時事問題を絡めつつのインタビューで、最も新しいものでも一年は経ってるから些か物足りなさを感じなくはないが、やはり読んでためになる一冊であった。』
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同氏の指摘どおり、本書で語られている事件自体は、すでに「過去のもの」となっている印象が強く、「目の前の難問に当惑している人々が、老賢人の明晰な話に耳を傾け、安心を得る」ためのものとしては、役に立たないだろう。ここで語られているような問題は、すでに「過去のもの」になってしまったと感じているから、ありがたみがなくなっているのである。
だが、本当にそうなのだろうか?
上に紹介した「あの時期の問題」は、はたして「すでに解決している」のか、「所詮はアメリカの話で、日本人には、もう関係がない」と言って済ませることができるのだろうか。
そうではないはずだ。
たしかに、トランプの退陣によって「当面の」最悪の危機は避けられたかもしれない。しかし、本質的な問題は、何も解決していない。
現に、再選の可能性は高くないかもしれないが、トランプは2年後の大統領選への出馬をすでに表明しているし、なにより、トランプを、いまだに「救世主」だと信じきっている人たちが少なからずいる。
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だが、そんな人たちを指して、「日本人」が「アメリカ人って、知的レベルが低い」などと嗤う資格など無いのは、明白だ。
例えば、安倍晋三元総理が殺害された事件を受けて、にわかに巻き起こった「いろいろあったけど、素晴らしい政治家だった」とか「国葬に値する総理だった」とかいった評価は、いかにも「知性を欠いた、気分だけ(情緒に流されるがまま)」の日本人が、いかに多いかを端的に示している。
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こうした人たちは、すでに「森友・加計学園問題」のことなど忘れているし、それに伴う「森友学園問題に関わる、公文書改ざん問題」や「赤木さんの自殺」のことも忘れている。
記憶の片隅には残っているとしても、それが「何を意味するものか」という思考には繋がらない、「思考不能」状態にあると言っていい(「思考停止」ではない。「停止」する以前に「作動しない」のだ)。
こういう人たちは、安倍晋三が「森友学園問題」について、国会で追及されて、
『私や妻が関係していたということになれば、それはもう間違いなく総理大臣も国会議員もやめる』
を大見得を切ったにも関わらず、殺されるまで、なんら責任を取ろうとしなかったという事実も忘れている。
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もちろん、生きていたところで、絶対に責任は取らなかっただろうし、証拠が出てきても、自分から責任を取ることなどなかったろうことは明白だ。
そんな、「殺されて当然」とは言わないまでも、「憎まれて当然」の人間が殺された途端、「ああ、いい政治家だったなあ」などと考えられるような人間に、まともな知性など、あろうはずがないだろう。
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しかし、そんな「トランプ支持者並みの、安倍晋三支持者たち(その他)」が、いまだに少なからずいるからこそ、「コロナ禍の最中に、オリンピックを強行」して「多くのコロナ患者を死に至らしめた」、時の首相であった菅義偉を、今頃になって、また持ち上げようという輩による「プロパガンダ」としてのネットニュースを、ちらほら見かけるようになった。
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「意外に良かった、菅政治」というわけだが、あの傲岸不遜だったわりには、最後は自民党内でも総スカンを喰らい(麻生太郎にはカマされて)、魂が抜けたような顔になって辞めていった菅義偉を、もう忘れてしまえるのが、「トランプ支持者並みに、健忘症のひどい安倍晋三支持者たち(その他)」であり、わざわざ安倍晋三の祭壇に花を手向けに行ったような、何も考えていない「物見高い人たち」なのである。
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そんなわけで、アメリカにおいては「トランプの退陣により、当面の危機は回避された」とは言っても、本質的な問題はそのまま残っているし、それは日本においても、まったく違いはない。
要は「馬鹿は馬鹿のまま」であり、何も学ばないのだから、危機は、いまだにそのままだ、ということである。
だからこそ、私たちは、「鋼の男」チョムスキーの謦咳に触れる必要がある。
私は「もう、こんな馬鹿ばかりの世界にはうんざりだ。人類はなど滅びてしまった方が、他の生物のためにもなるし、いっそ清々するから、我が後に洪水よ来たれ!」と、まったく本気で考えてしまう。
だが、私がそのように望まなくても、すでに人類は「洪水=終末」の危機にさらされている。
そうだ。本書でも問題の中心となっている、「地球温暖化=気候変動」という喫緊の問題だ。
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アメリカでも日本でも、権力者たちは「自分たちの目先の利益」のことしか考えていない。
正しいことをやって「権力を失っては、何もできないから、元も子もない」という程度の言い訳くらいはできるのかもしれないが、その結果、一部の金持ちや企業を喜ばせ、自分も潤う政策ばかりを選んだ結果、結局は「地球温暖化」に何の手も打たないまま、人類は皆「一蓮托生」で滅ぶという、愚行を犯すことになる。一一私たちは、着実に、その道を歩んでいるのだ。
だから、私たちが、トランプや安倍晋三や菅義偉といった「最低の政治家たち」を問題にするのも、実は、彼らのやっていることの個々が問題だというよりも、彼らのやっていることが、いずれも「人類の破滅」を、着実かつ力強く、引き寄せるものだからなのだ。
個々の政策に対する賛成反対のレベルを超えて、彼らには、「人類破滅」の対する根本的な認識や責任意識が欠けているという点において、致命的なのである。
そして、言うまでもなくそれは、彼らを支持する人々についても同じなのだ。
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このように考えていくと、やはり、少なくとも私は、絶望的な気分にならないではいられなくなる。「なんで、人類になんか、期待できるものかよ」と思う。
しかし、そんな私の弱った心に、チョムスキーは「しっかりしろ」と揺るぎない声を掛けてくれる。
『一一陰鬱な時代であるいま、多くの人々にとって明るい未来が待っているとは思えないものです。何があなたに希望を与えてくれるのでしょうか? これはお馴染みの質問でしょうが、私もほかの人々と同じように、この質問を問いかけたいと思います。
私に希望を与えてくれるのは、想像に絶するほどの厳しい環境下でも、人々が権利を獲得しよう、正義を行なおうと奮闘している事実だ。彼らは希望を手放していない。インドの農民もそうだ。あるいは、ホンジュラスで貧困にあえいでいる人々も。彼らは決してあきらめない。だから、彼らよりはるかに恵まれているわれわれがあきらめることはできない。
もうひとつの理由は、希望を持ち続けるほかに選択肢がないからだ。希望あきらめるのは、最悪の事態が起こるのに協力しよう、と言うのと同じことだ。あきらめたら、その選択肢しか残らない。目の前にあるチャンスを生かす気はないというのは、最悪の事態が最短で起こるのに手を貸すと言うに等しい。しかし、選択肢はもうひとつある一一最善を尽くすことだ。インドの農民たちのように、ホンジュラスの貧しい小作人たちのように、世界中でつらい境遇に瀕した人々のように、最善を尽くそう。そうすればひょっとして恥じることなく生きられると感じられる、まともな世界、よりよい世界を実現できるかもしれない、と。
そうなると、選択の余地はない。だから、選ぶのは簡単だ。希望を持つしかないのだよ。』(P265〜266)
チョムスキーがいつも引用する、アントニオ・グラムシの言葉。
『知性の悲観主義、意志の楽観主義』
その「両立」は、この言葉を「知っている」だけでは、とうてい実践できないし、保持することすら困難だ。
だから、どうしようもなく弱い私は、何度でもチョムスキーの前に頭を垂れて、その言葉に耳を傾けざるを得ないのである。
(2022年11月23日)
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