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南伸坊 『オレって老人?』 : 弱きを助け 強きを挫け。


 書評:
南伸坊オレって老人?』(ちくま文庫)

ひさしぶりの南伸坊である。初期の著作はたいがい買っており、そのあともテーマによって買ったり買わなかったりして、たぶん新刊で最後に買ったのは『仙人の壷』(1999年)のはずだ。だから、それからでもすでに四半世紀が過ぎていることになる。

今回読んだ『オレって老人?』も、初版の刊行は「2013年」で、私が今回読んだ「ちくま文庫」版も「2016年」の刊行。つまり、本書の初版を刊行した頃(収録文を書いたのは、当然その前の10年間くらい)からしても、すでに10年ほど経っているし、その頃の南伸坊は、すでに60代も半ば。今年、77歳になられたそうだから、今や完璧な老人で、私よりもひと回り以上の年寄りだ。本書に収められた文章にも、たしか「後期高齢者になった」というような文章もあるから、本書刊行当時は、すでに「老人」だという自覚は、十分にお持ちだったのであろう。

そんなわけで、本書には、著者50代半ばから60代半ばまでの「老人」関係の文章と、それに関連する「老後生活」関係の文章が収められている。
そして、タイトルは『オレって老人?』という疑問(質問)形になっているものの、著者は、著者が「老人か否か」の判断を読者に委ねるつもりはなく、あくまでも「こんな私を老人と思いますか?」と問うているように見える。

(南伸坊には、おじいさん本が何冊かある)

言い換えれば、著者の基本的なスタンスは「歳をとったんだから、老人らしい老人になろう」という「積極的」なものであって、「老人は老人らしくしている方が良いだろう」的に消極的なものではない。「せっかく老人になったんだから、老人を満喫しなければ損だ」というような感じなのである。
だから、そんな著者のスタンスを、著者は「読者の皆さんは、老人らしいと思いますか? それとも老人らしくないとお感じですか?」と、そのように、挑発的に問うているのである。

そして、以上のような読解において私は、「少なくとも本書収録文執筆当時の南伸坊は、少しも老人らしくない」と評価する。「老人ぶろうとするような奴が、老人らしいわけがないだろう」ということであり、一一なんだ、私自身のことではないかと、ハタと気付かされるのであった。

なにしろ私は、還暦を迎えた途端に、自身のことを「老人」だとか「汚い年寄り」だとか書いているのだから、これは一種の「自慢」なのである。
「老人」ぶりたくてしょうがないから、最近では、昔は興味のなかった「老人・隠居」関連の本を読んだりしているのだ。

そんな私は、若い頃は、よく年長者に噛みついたものだが、これは「歳をとってるからって威張んなよ。こっちが若いからといって舐めんなよ」という意識があったからに違いない。「若いからといって、お前たちみたいに無駄に馬齢をかさねたやつらになど負けはしない」と、そういう対抗意識があったのだ。

もっとも、私が噛みついたのは、何も年上ばかりではない、全方位で年齢性別関係なく噛みついたのだが、こちらから積極的に噛みついたのは、年長者や有名人や上司という、能力がなくてもそうした属性だけで尊重されているような「権威者」だけである。
つまり「女・子供(年下)」は、向こうから突っかかってこないかぎり、こちらから仕掛けることはなかった。なぜならば、それをすると「男だからと威張っている」とか「年上だと思って威張っている」などと、不本意なことを言われかねないからである。
要は「弱い者のイジメ」をしているような構図になってしまうので、向こうから仕掛けてこないかぎりは、こちらからは仕掛けなかったのだ。
差別的に聞こえようが「女・子供の一般人」など、私の「敵ではない」と言うか「敵にも値しない」と、そう思っていたのである。

で、実際に還暦をすぎて、何の肩書きもない「無権威」の「老人」になったからには、もう「女・子供」に遠慮することはない。
なぜといって、私より年下の「女・子供」が社会の中心にいて、自分たちが社会を回しているみたいな顔をしているのだから、そういう威張った奴らは「女・子供」であろうと、遠慮なく容赦なく批判しても、決して「イジメ」にはならないからである。
若い頃は「女・子供(年下・後輩)相手では、遠慮なくビシビシやりづらいよなあ」と思っていたのが、今ではそうした遠慮をする必要が無くなって、やりたい放題やれるようになったのだ。だから、これを存分に楽しまない手はないのである。
ちなみに、ネットの良いところは、普通は相手の「年齢性別」が不明なところであろう。そのあたりでの無用の気遣いなしに、同じような扱えばいいからだ。

ところで先日、「武蔵大学の教授」で「フェミニスト」の千田有紀が、『LGBT異論 キャンセル・カルチャー、トランスジェンダー論争、巨大利権の行方』(鹿砦社)所収の論文「フェミニズムの再生を求めて」の中で、次のようなことを書いていた。

『何か書くたびに、男性研究者が女性研究者に難癖をつけるのは、言いたくないが「権力勾配」を考えてもハラスメントなのではないか。』(P72)

端的に言って『何か書くたびに、男性研究者が女性研究者に難癖をつけるのは〜ハラスメント』ではない。自意識過剰なだけだ。

理論的な闘争においては、「男女」は関係なく、その「女性研究者」の書いているのが「批判すべきことか否か」が問題なのだ。
つまり、「くだらないことばかり書く女性研究者」なのであれば、男女の別なく、当然「研究者か否か」にも関わりなく、そいつが「何か書くたび」に、批判すべきなのである。

もちろん、批判された当人は、自分の非を認めずに『難癖』だと言うこともあるだろうが、そんな奴だからこそ、徹底的に批判しなければならないのだし、千田有紀の場合も、その疑いが濃厚なのだ。
なにしろ、この文章でも書いているように、自身が、ある「女性研究者」からしつこく批判されたら『反論や批判を嫌がらせとして使うこと』(P71)は、よろしくない、などと書いているのだから、要は、「男女を問わず」、自分のことを徹底的に批判するのは「反論や批判」であろうと、それは『嫌がらせ』なのだと、そんな自分勝手なことを言っているだけなのである。

言うまでもないことだが、「反論や批判」をされて気持ちが良いというような人間など滅多にいない。
つまり、「反論や批判」をされれば、「男女を問わず」たいがいの者は「不愉快」なものであり「難癖」だと言いたくもなろう。
だが、みずからが、無反省の「独善」に陥らず、「真理」を探究しようと思う気持ちがあるのならば、「他者の批判」は必要不可欠なものと考えるべきで、それが、自分の望むところより「多い」からといって、それが「ハラスメント」だなどという理屈にはならない。女ぶって甘えるな、である。

そんな不平不満を口にする前に、自分の方が「問題だらけなのではないか?」という自己懐疑を抱いて然るべきなのだが、この「武蔵大学の教授」で「フェミニスト」である千田有紀には、それがまったく理解できないようなのだから、こんな馬鹿への批判は、一度で済ませずに徹底的にやって然るべきことなのだ。
こんな馬鹿が、「大学教授です」「フェミニストです」などと威張っていることを許すのは、世のため人のためにもならないのである。

それはちょうど、千田有紀と同じく「武蔵大学の教授」で「フェミニスト批評家」を自認する北村紗衣を、私が徹底的に批判するのと同じことだ。
こういう馬鹿は、決して反省することはないのだから、世のため人のために徹底的に批判して、その馬鹿ぶりを周知徹底すべきなのである。

ちなみに、北村紗衣がどれくらい馬鹿なのかについては、私は北村紗衣研究家」としてたくさん「研究論文」を書いているから、本稿末尾に付した「北村紗衣批判関連レビュー」のリンクをご利用いただきたい。
だが、ここでは、北村紗衣の、典型的な「物言い」を示すものとして、わかりやすい実例を挙げておこう。

北村紗衣
2024年8月27日 09:36

須藤にわかさん、あなたは私が「お姫様になることが女性の権利向上と考えているフシがある」などと私が思ってもいないことを言って人格攻撃を行いました。それが弁護できることだとでも思っているのでしょうか。フェミニズム観の違いに逃げようとしても無駄です。
年間読書人さんの、私の本を切り刻むというコメントは通報いたしました。』

この「上から目線の物言い」は、どうだろうか。自分を何様だと思っているのだろう?

須藤氏に対しては、ただ「問答無用だ」と言っているだけだし、私(年間読書人)についての、

年間読書人さんの、私の本を切り刻むというコメント

というのは、完全に「事実無根の誹謗中傷」でしかなく、上のように、もともと北村紗衣の方から私に絡んできたくせに、この「嘘」を徹底的に追求するようになってからは、完全にダンマリを決め込んでいる。
北村紗衣とは、そんな言行不一致の「卑怯者」なのだ。だから、容赦しない。

それにしても、「武蔵大学」って、どういうのを「教授」として雇っているのかと、そう疑われて然るべきであろう。なにしろ、「武蔵大学の看板教授」が北村紗衣なんだから、その水準や推して知るべしなのだ。

また、上野千鶴子門下生の「東大」出のフェミニストって「こんなやつばかりか?」と疑われる原因にもなろう。
この点は、千田有紀が批判している、清水晶子東大教授も含めて、系統的に検討すべき問題であろう。

ともあれ、北村紗衣による誣告」の件については、下のレビューだけでも読んでほしい。
私は、北村紗衣の、上のような誣告(事実に反する内容での管理者通報)によって、せっかく書いた、北村紗衣批判のレビューを「閲覧停止」状態に(キャンセル)されてしまったのである。

だから、北村紗衣が「謝罪」しないかぎり、私は徹底的に北村紗衣を批判し、この馬鹿女がいかに許すまじき存在であるかを周知徹底するのであり、このことは、同じく北村紗衣を批判してるはずの千田有紀の主張に反して、「ハラスメント」でも何でもないのである。

それに、千田有紀が言うとおりに「権力勾配」というものを問題にするのなら、「武蔵大学の教授」である北村紗衣千田有紀と、「無名の無職老人男性」でしかない私の場合、どちらに「権力」があって、どちらが「威張っている」かは明らかだろう。
そもそも、こっちが公然と批判しているのに、それを無視していること自体が、「大学教授」という「権威」にあぐらをかいて、私を無視して「威張っている」ということにしかならない。反論の相手を「肩書き」で選ぶことが「権威主義」でなくてなんであろう。
男が「女なんて感情の動物。アホらしくて相手にしない」と言うのと、これは同じことではないか。

そんなわけで、北村紗衣千田有紀の二人は、「キャンセルカルチャー」の是非という問題においては「立場」を異にしており、千田有紀の方が北村紗衣の「オープンレターによる呉座勇一に対する袋叩き」事件を批判してはいるものの、両者は「女性という被害者性」を嵩に着た「権威主義者」であるという点では、まったく同じことなのである。

そんなわけで、私は「老人」になったおかげで、頭の悪い女からの「男だからといって威張っている」などという「誹謗中傷」に対するガードが硬くなった。
もともと私は、スーパーマン式に「古いフェミニスト(女性尊重論者)」であるし、昔、友人の女性のブログが「ネトウヨ」の集中攻撃に晒された際には、救援に駆けつけて、私が前面に立って大暴れしたものだから、それを評して『白馬の騎士のような人』と、当時、東浩紀が中心となって行われていた、ネットに関する「学際的研究」の中で、私をそう形容した言葉も、ちゃんと活字になって記録されているのである。

そんなわけで、私は「男は、自分が矢面に立ってでも、弱い女性を守るべき」だという「古い倫理と美意識」を持っている人間であり、だからこそ、ロイス・レインを守る「スーパーマン」式だと、そう言うのである。

だが、私が女性を守るのは、女性が、男よりは「腕力的に弱い」からであり、さらに、その腕力的な弱さもあって「社会的に劣位に置かれて、不利益を被ってきた」からである。つまり、長らく「男性優位社会」であったからこそ、男は女性を守るべきだし、その不平等の是正もなされてきたのだが、当然のことながら、男と同程度に、女性の中にも馬鹿は少なくないから、女であれば、男に何を言ってもかまわないと勘違いして「威張り」始める者も出てきた。
当然、こんな「勘違い野郎」は、男であろうと女であろうと「差別なく」批判して、その「勘違い」を正すべきなのだ。

具体的に言えば、北村紗衣千田有紀のような輩は、徹底的にその「勘違い」を正すべきで、こういう輩も「弱い女のうち」だからと言って看過放置すべきではない。

なぜなら、こういう輩の存在こそが「女は甘やかすとつけ上がって、ろくなことにならない」という「男性側の女性蔑視を助長する」要因にもなって、「当たり前の女性たち」に不利益をもたらすことになる蓋然性も、決して低くはないからである。

実際、古い「男性優位社会」に懐かしさを感じているような、ネトウヨ などの「ヘタレ男」たちは、こうした一部の「頭の悪いフェミニスト」の例をもって、「フェミニスト全体」を敵視し、それを理由に開き直って「やっぱり女は男に従っていればいいのだ」などという、男として恥ずべきことを主張するようにもなってきている。
したがって、こうした現象には、「一部フェミニストによる、謙虚さを欠いたやりすぎ」への「反動」という側面のあることも、私たちはハッキリと認識して、正すべきは、男女ともに正すべきなのである。

つまり、まだまだ「男性優位社会」の弊害が残っているとは言え、男と見れば相手かまわず「女性蔑視」だ「ミソジニー」だなどと、お得意の「印籠」を振り回しては決めつけ、男を誹謗中傷するような女や、「被害者アピールしなきゃ損だ」みたいな「アイデンティティ政治」に明け暮れるような類の人間の存在は、結局のところ、社会の健全な「平等実現」に益するものはない、ということなのである。

かつての「ウーマンリブの女性たち」や「フェミニスト」たちは、圧倒的な「男性優位社会」の逆風の中で、女性の権利獲得のために闘ってきた。

それに比べれば、大学で「フェミニズムを研究しました」というような「フェミニスト」とは、言うなれば「乳母日傘で育てられたフェミニストみたいなもの」でしかないのだから、「虐げられている」と感じる男たちが増えて、本気で「暴力」に訴えるようになれば、その時にはすでに遅いということも考えなければならない。「男は怖い」と口で言っているだけでは、済まされなくなるのだ。

つまり「男女平等」は、これまでのような、やむを得ない「女性主導」ではなく、これからは「男女が協力」して進めなければならないものなのである。そうでなければ「分断」しかもたらさないし、最後は「力づく」の勝負になる恐れだってあるのである。

だから、「人間同士の、当たり前の礼儀」くらいは、男女ともに弁えなければならず、「男社会の被害者である女だから、男に対しては何を言っても良い」ということには、当然ならない。
かつての被害者が、過剰報復によって「加害者」になってしまうことなど、いくらでもある。そして、その場合、罰せられるのは、加害者の方なのだ。

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さて、ここで、本書の収録のエッセイ「ケンカに弱い考え方」を、短いものなので、全文引用して紹介しよう。

『 ケンカに弱い考えかた

 私はいままでケンカで人をぶったことがなくて(正直にいうと中学一年生のころ、ケンカになって相手を机にねじ伏せ、グーでぶちそうになったことはある)が、パンチを入れようとしたところで私はひるんで、最後は結局、相手の顔をグーでそおっと押すような形になって、その子に笑われてしまった。
 あ、いま思い出したが、小学校の六年生くらいの時に、クラスメートの女の子の弟(二年下)がナマイキな目でこっちを見たので、「のやろう……」と思ってちょっとおどかしてやれ、と思い、
「なんだそのツラは」
といってグッと近づいた途端、逆手に捩り上げられちゃって、てててててってもんのすごくカッコワルイことになっちゃったことがある。
 私は、全然ケンカのセンスがないのだ。けれどもケンカの強そうなヤツがえばってて、みんながそのいいなりにならなきゃいけないっていう状態がダメだ。
 たしかに、ケンカが強くて、どうかして実力を行使したいと思ってる人間がそこにいるとしたら、なるべく刺激しないで、場合によったらちょっとご機嫌もとって、あばれないようにしておく、というのが賢いやりかただとは思うんだけど、そうしてる間がものすごくイヤだ。
 それで、ついつい「なんでみんな、コイツに遠慮してんだ」みたいなことを言いたくなってしまう。
 ケンカが弱いくせにそうなのだ。どういうことなんだろう? 本当の自分は、ケンカも強いし、正義の味方だと思いたいのだろうか?
 それとも、本当にケンカが強くなってエバリたいのだろうか? まア、けっきょくのところケンカが強くなったことは、これまでただの一度もないんだから、本当のところはわからない。
 ところで、世の中の人の大部分は私のように、実力行使をしない人であると思う。つまりケンカの弱い人々だ。
 それから、学校の先生や、マスコミの人や、世の中の常識をリードしているような人々も、たいがいケンカの弱い人々が大部分なのではあるまいか?
 こんなことを言い出したのは世の中の常識が、いま、ケンカの弱い人の理屈になっていはしまいかと思うからだ。
 私はコドモの頃から、ケンカの強い人は、強きを挫き、弱きを助ける、そういう人が本当なのだとマンガや映画でおそわったのである。
 ケンカが強いと思っていい気になっているようなヤツは、いつか、もっと強い人にこらしめられるのだ、という風に習った。
 これはとてもいい教育であったと私は思う。
「そんなこといったって、現実はそうじゃない」
という人がいると思う。たくさんいると思う。それは、ケンカの弱い人の意見なのである。ケンカの弱い人は、しばしば賢い人が多いので、そのように言うことが賢いことのようになってしまったが違う。
 どんなにバカっぽくても、昔の少年漫画や、剣術映画のように、カッコイイのは、気はやさしくて力持ち、強きを挫き弱きを助ける、ケンカが強くてもエバラない、これが本当のカッコイイ人だ。というのを周知徹底しないといけない。
 と私は思う。
 ケンカに弱いと「ケンカに弱くてどこが悪い」という風にゴーゼンとできない。
 それで、考えがひねくれてしまうのだ。そんなことを、自衛隊と大相撲のカワイガリ問題について考えていて思ったのだった。』(P61〜64)

まったく同感である。

私は、子供の頃はケンカに弱かった。すぐ泣かされて家に帰ってくる子供だった。
なぜ自分はケンカが弱いのか、その理由に気づいたのは、小学校も中学年になったころで、クラスメートとケンカになった時に、私はたまたま尻餅をついた体勢になり、相手が正面からかかってきたので、その腹部に正面から蹴りを入れようとして、上の南伸坊と同じように、怯んでしまい、蹴ることができなかった。

で、このことを後で「あの時、なぜ蹴れなかったのか」と考えてみると、その答えは「もしもお腹を蹴って、相手が死んでしまっては困る」という「恐れ」があったからなのだ。
そんなこと、滅多にないことだとはいえ、あったら取り返しのつかないことになるという直感が働くため、私は「本気で」「無我夢中で」「キチガイのようになって」ケンカをすることができなかったのだ。だから、ケンカが弱いという以前に、ケンカができないから、結局のところ一方的にやられ、それを我慢するから、泣かされるしかなかったのである。

だが、警察官になってしまうと、「ケンカに負けました」というわけにはいかなくなったので、どうやって相手を負かすかを考えなければならなくなった。
その結果、まずは「口で負かす」ということになる。殴り合いのケンカになれば、相手によっては負けることにもなるが、警察官がケンカに負けましたでは済まない。その結果、拳銃を奪われました、ということになりかねないからである。

(私も、吹田警察署・千里山交番で勤務したことがある。この新しい交番になる、ずっと前の話ではあるが、この事件で殺されかけたのは、言うなれば後輩だ)

だから、まずは「口で負かす」。
その第一段階は「理屈で負かす」。まず「これこれこうだから、お前が悪い。したがって、俺の指示に従え」と論破することで、相手を従わせる。時には、理屈だけではなく、情に訴える。つまり、情理を尽くす。
しかし、こうした「理屈」に従わない者も大勢いて、その場合には「私の指示に従わないと、逮捕する」と、「権力」の正当行使の範囲内で「威嚇」することにより、こちらに従わさせる。

しかし、これでも言うことを聞かない粗暴な人間を相手にするのが警察官でもあるから、いざという時は取っ組み合いをする覚悟がなくてはならないし、やるのなら決して負けるわけにはいかない。
なぜなら、前述のとおり、万が一にも拳銃を奪われたりしてはならないからである。

となればだ、やる時は、手加減をしてはならない。確実に勝たなければならないからだ。だから、相手が強ければ、警棒でも拳銃でも使わなければならないし、場合によっては殺さなくてはならない。
そうしなければならないような凶暴な相手に、むざむざ負けるわけにはいかないからだ。

しかしながら、相手が素手なのに、こちらが警棒だの拳銃だのを使えば、それは「過剰防衛」や「過剰執行」ということで、こちらが罪に問われかねないから、そこまでやる場合には、相手が複数だとか、武器を持っているとか、プロレスラーだとかいった、明らかに素手では勝てない相手である必要がある。そうなって初めて、警棒などの使用は適法だったと主張することも出来るのである。

だから、素手で勝てそうにない相手を相手にする時は、やはり「口」が必要だ。ケンカになったら負けそうだが、負けるわけにはいかないから武器を使うとしても、それで罪に問われてのでは元も子もないから、こういう場合は、ケンカにならないように仕向け、かつ相手をこちらに従わせるように仕向けなければならない。このあたりが「現場警察官の力量」なのである。

だから、いくら生意気で、こちらの言うことを聞かない相手であっても、弱い相手に対しては、本気になってはならない。
頭に血が登って、やりすぎた結果、相手が死んでしまい、「特別公務員暴行陵虐罪」の被疑者だなどということになってしまうからである。

したがって、暴力を振るうにあたっても「冷静に、相手に怪我をさせないように」しなければならない。
これは、相手を守るためではなく、自分の身を守るために必要なことなのだ。

だから私は、暴れる被疑者だの泥酔者だのを制圧した場合、逆関節を取るというような、高度なテクニックを必要とするものではなく、体重を生かして相手の背中に馬乗りになり「キャメルクラッチ」を仕掛けるのを常とした。要は、私の「得意技」だ。
逆関節は、下手をすると、相手を骨折させてしまうが、「キャメルクラッチ」なら、相手は両腕をロックされて使えなくなるし、顎を捉えられて海老反りになるから、苦しくて抵抗できなくなる。
無論、これもやりすぎると窒息することになるから、ときどき緩めてやることが必要なのだが、それをやるためには、やはり「冷静な判断能力」が必要なのである。

そんなわけで、ケンカというのは、やる時には徹底的にやらなければならない。中途半端にやるべきではない。
しかし、相手を殺してしまっては、「やりすぎ」だという世間からの処断は免れないから、
北村紗衣のような「キャンセル」では、ダメなのだ。
「やりすぎ」だから、いつまでも非難されるのだし、当人も「オープンレターには触れるな」などと、人に言わなければならなくなるのである。

そんなわけで、肝心なことは、ケンカとは、やるからには勝たなければならないけれど、しかし、やりすぎてもいけないし、ましてや、北村紗衣のように「卑怯な手」を使ってはならない。
それを使えば、自分が悪者にしかならないからである。

つまり、ケンカというのは、あくまでも「正義の味方」として「弱き者」の立場に立って、フェアに戦わなければならない。
ちょっと不利な立場でやるくらいの方が、かえって、気兼ねなく「全力が出せる」というものなのである。

だから、南伸坊が言うとおり、

『どんなにバカっぽくても、昔の少年漫画や、剣術映画のように、カッコイイのは、気はやさしくて力持ち、強きを挫き弱きを助ける、ケンカが強くてもエバラない、これが本当のカッコイイ人だ。というのを周知徹底しないといけない。』

ということになる。
そうでなければ、勝っても意味がない。

その時はそれで良くても、きっと後世に「悪名」を残すことになるだろうし、死んでからならそれでもかまわないとひらき直る者もいるかもしれないが、そういう人は、歳をとって、権力の座から降りることになったら、確実に復讐されるだろう。自業自得なんだから、復讐されればよいのである。

そんなわけで、人間は『気はやさしくて力持ち、強きを挫き弱きを助ける、ケンカが強くてもエバラない』人でなければならない。
だからこそ私も、性別年齢肩書きを問わず、基本的には誰にも同じように丁寧に、しかし過剰に遜ることもなく、フランクに話す。やりとりをする。
しかし、いったん、相手を批判対象認定したら、ネトウヨでもAmazonでも大学教授でも、男でも女でも年上でも年下でも、そうした属性に関係なく、徹底的に、遠慮なくやるし、やってきた。
それは、私とやりとりをした人なら、誰でも知っていることであり、私はこれでネットの30年をやり通してきたのである。

しかし、南伸坊の言うとおり、『世の中の常識が、いま、ケンカの弱い人の理屈になってい』る。
だから、北村紗衣千田有紀のような、頭の悪い女が、「女性」であることを振り翳し、やたらに「ミソジニー」だ「権力勾配」だと、たまたま性別が女であることを盾に「被害者アピール」をして、気の弱い男たちを、恫喝する。

だが、すでに書いたとおり、そんな態度は、自分で自分の(仲間である女性の)首を絞めるようなものなのだ。
日頃はヘタレのくせに、制服を着た途端に強くなる警察官と同じようなもの。
また、そんなやつは、相手がその「制服」に頭を下げているということにも気づかないでふんぞりかえり、おだてられて勘違いしたあげく、弱みを(キンタマを)握られて、良いように利用されるなんて体たらくにもなるのである。

だから、南伸坊の言うとおり、人間は、男女を問わず、『どんなにバカっぽくても、昔の少年漫画や、剣術映画のように、カッコイイのは、気はやさしくて力持ち、強きを挫き弱きを助ける、ケンカが強くてもエバラない』そんな人間であるように、努めなくてはならないのだ。

私が「スーパーマン」のように、と言うのは、そういうことであり、今どきは、女性に対しても、「ヒロイン」ではなく「ヒーロー」という言葉が使われるのだから、女性に対しても、「スーパーウーマン」「スーパーガール」ではなく、弱きを助け強きを挫く、紳士的な「スーパーマン」たれと、そう求めるべきなのだ。「紳士的」という形容さえ、女性に使ってもかまわないのである。


(2024年11月25日)


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