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竹村和子 『フェミニズム』 : 真の「フェミニズム」を知るべし。

書評:竹村和子『フェミニズム』(岩波現代文庫)

「フェミニズム」という言葉だけなら、「誰でも知っている」といっても過言ではないだろう。
日本でこの言葉が使われだしてからでも、かなりになるはずだし、特にインターネットが普及して以降、この言葉を文字列として目にする機会が増えたので、多くの人は、この「カタカナ言葉」に馴染むようになったのではないだろうか。

しかし、よく見かけるとか、おおよそのことは知っているなどと言っても、「フェミニズム」が「どういうものなのか」を、具体的に知っている人は、男女ともに、ほとんどいないのではないか。

例えば、「哲学」という言葉なら誰もが知っているけれど、その「言葉」を知っていることと、「哲学する・できる」こととは、まったく別の話だ。
「哲学」ということを、まともに考えたことのない人たちは、「哲学」という「言葉」は知っていても、「哲学する」ことはできない。なぜなら「哲学とは、どういう営為なのか」ということを知らないからである。

喩えて言えば、生まれてから一度も「アトランティス人」を見たことがない人でも、その言葉さえ知っていれば、なんとなく「イメージ」だけはできるだろう。だが、それを「絵に描け」と言われた場合、それっぽいものをでっち上げることはできても、やはり、見たことのないものは描けないのである。
一一しかしながらそれでも、私たちは「アトランティス人」という「言葉」さえ知っていれば、なんとなく「アトランティス人」を知っているような気分でいるのだ。

で、これは「哲学」も同じである。
「哲学という営為」を知らなくても、「哲学」という言葉を知っていれば、なんとなく「哲学」を知っているような気分になっている。

だが、「では、哲学をしてください」と言われても、普通はできない。
せいぜいが「深く考えればいいんですね」とそう確認して、深く考えようと試みることくらいしかできないだろう。だが、「深く考えること」イコール「哲学」ではないことは、誰もが漠然とは理解しているはずだ。

例えば、「水槽に、腹を横にして浮かんでいる金魚」を見て「これは、まだ生きているのだろうか? それとも死んでしまったのだろうか?」といくら「深く考え」てみても、それは「哲学している」のではない、ということくらいは分かるはずだ。
そして、哲学とは、「そもそも、生とは、死とは、時間とは、美とは、存在するとは、何なのだろうかなどと、そう根源的に問うような、思考的営為のことだ」と説明されれば、なるほどとは思うのではないだろうか。

そしてこれは、「哲学」だけではなく、多くのことについても言える。
私たちは、その「言葉」を「知っている」というだけで、それをなんとなく「理解している」つもりになっているのだけれども、じつのところ、多くのことを「理解していない」のであり、その意味において、そのことを「知らない」のである。

私たちは、「哲学」のことをほとんど知らないし、「生きる」とは何か、「死ぬ」とは何か、「美しい」とは何かなどなど、多くのことを知らない。

当然のことながら、「フェミニズム」なんてものについては、ほとんど全然知らないのだが、それでも「知っている・つもりになっている」のだ。

例えば、「フェミニズムとは何か?」と問われれば、男女を問わず、「女性の権利の獲得運動、または、そのための思想」くらいのことまでなら、もしかすると答えられるかもしれない。

これは、たしかに間違いではないのだけれど、しかし、まったく不十分だというべきであろう。
それは、「サラブレッド種の馬」をして、「馬」そのものだというようなものだ。しかし、馬には「しまうま」をはじめとしていろんな種類があり、「馬」とはそれらを全部ひっくるめたものを指す言葉であって、決して「サラブレッド種」のことだけを指すのではない。

もっと噛み砕いて言えば、「日本人」というのは「隣に住んでいる山田一郎さん」のことではない。
たしかに「隣に住んでいる山田一郎さん」も「日本人」だが、正確には「日本人の一部分」であって、「日本人」そのものではない。

藤子・F・不二雄ドラえもん』より、右が、隣の小池さん。山田一男さんではないが日本人)

同様に、「フェミニズム」とは、「女性の権利の獲得運動、または、そのための思想」そのものではない。

たしかに「女性の権利の獲得運動、または、そのための思想」というのは、「フェミニズムの重要要素」ではあるけれど、しかしまたそれは、あくまでも「一要素」であり「一部分」であって、「フェミニズム」そのものではないのだ。

つまり、「フェミニズム」という「言葉」を知っている人の大半は、男女を問わず、「フェミニズム」のことを「ほとんど知らない」のであり、「隣の山田一郎さん」個人をして「日本人とは、隣の山田一郎さんである」と思っているようなものなのである。

だが、それで「フェミニズムのことは、おおよそわかっている」と考えているのなら、それは「愚か」だとしか言いようだないだろう。
「ほとんど何も知らない」のに「おおよそ知っている」と思い込んでいるような人を「賢い」とは、とうてい言い難いのである。

だが、「フェミニズム」については、多くの人が「おおよそわかっている」という「誤認」を持ち、それを信じ込んでいる。
喩えて言うなら、それは、「ネッシーは実在する」と信じている人と大差がない状態だとも言えるだろう。実際のところ「ほとんど知らない」のに、「知っている」と思い込んでいるだけ、なのだから。

これは「フェミニズム」についても、まったく同じことなのだ。

もちろん、「フェミニズム」を専門的に研究している人や、それについて一定の知識と理解を得ようと努力してきた哲学者や思想家といった、ごく一部の人は、「フェミニズム」について、かなりのところを知っているだろう。

竹村和子は、ジュディス・バトラーの訳者としても知られている)

だが、インターネット上で「フェミニスト」を名乗っている人の9割以上は、「フェミニズム」の何たるかを知らないまま、自己都合解釈による「偏頗なフェミニズム」を語っているにすぎない。

それも、「フェミニズムの一部」ではあるけれども、「フェミニズム」を総体的に理解した上での、「フェミニズム」そのものではない。
ネット上の「フェミニスト」の大半は、「日本人とは、隣の山田一郎である」と思い込んでいるような人たちなのだ。

どうしてそうなのかと言えば、自称「フェミニスト」の多くは、「女性の権利獲得運動」に忙しくて、「フェミニズムとは何か」などと考えたり、勉強したりはしている暇がないからだ。
喩えていうなら、「金儲けに忙しくしている人」が「人としての倫理=人として正しく生きるとは、どういうことか」などということは、なかなか考えないし、だからこそ「立派そうなことを言っているわりには、人の道を踏み外したようなことをする人も少なくない」というのと、似たようなことなのである。

「自分の利益獲得」のために忙しい人は、「視野狭窄」に陥りがちであり、その場合、当然のことながら、「他人の権利」を見失いがちである。
だから、悪気もなく、むしろ良いことをしているつもりで、「他人の権利」を踏み躙ったりもする。

だから、自称「フェミニスト」にも、そういう人は多い。

しかし、「他人の権利を踏み躙る」ようなことをするのは、その人が「フェミニスト」だからではなく、じつは「フェミニズムのことを、よく知らないで、フェミニストを名乗っているだけの人」だからである。

「フェミニズム」についての「全体観」を持って、それに配慮している「フェミニスト」ならば、「他人の権利を踏み躙る」ようなことはしない。

なぜなら、「フェミニズム」とは、「女」として「他者化」された人たちが、「人間としての権利を取り戻そうとする運動とその思想」なのだから、それを生きようとしている人が、他の人を「他者化」して疎外し、その存在を踏み躙ることなど、できる道理がないからである。

したがって、「他者の権利」に配慮できない「フェミニスト」というのは、じつのところ「偽フェミニスト」に過ぎない。
自分では「フェミニスト」のつもりなのかもしれないが、実際には「フェミニストではない」のだ。

喩えばそれは、むかし実在した「葦原将軍こと葦原金次郎」のようなものである。
「葦原将軍こと葦原金次郎」は、自分のことを、本気で「天皇の御落胤」だと信じ込んでいた、狂人だ。
その狂気が、何に発するものなのかは諸説あるのだが、彼の「頭が狂っていた」という点では、意見の一致を見ていた。

(葦原将軍)

で、同様に「フェミニズム」のこと(を総体的に)知らないのに、知っているつもりで「フェミニスト」を名乗っているような人は、実質的には「フェミニスト版葦原将軍」だと考えていいだろう。

自己について、重大な誤認をしているのに、そのことに気づかないまま、「余は将軍であるぞ」とか「私はフェミニストだから」などと真顔で言っているのだから、その「自己誤認」の原因が、病理学的なものなのか、性格的なものなのか、あるいは、自己利得のための自覚的虚言なのかといった違いはあるにせよ、「自己認識が狂っている」という点では、大差はないのである。

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で、最近私は、こうした「フェミニスト」に絡まれた。
それは、誰あろう「武蔵大学の教授」である、北村紗衣という人である。

この人は「フェミニスト」を名乗り、「フェミニスト批評家」を名乗って、著書も刊行している「有名人」なのだが、その「フェミニズム」理解は、極めて「偏頗」で古臭い。

大学教授であり、自ら「フェミニスト」を名乗っているのに、彼女の語る「フェミニズム」とは、所詮「女性の権利の獲得運動、または、そのための思想」の域を、まったく出ない。
その意味で、彼女の言う「フェミニズム」とは、「日本人とは、隣の山田一郎さんである」というレベルのものでしかないのだ。

また、そうした意味では、北村紗衣は、言うなれば「葦原教授」であり、彼女を「教授」として雇っている「武蔵大学」は、もしかすると、かの「巣鴨病院」にも似た社会福祉施設なのかもしれない。

ネットで調べてみると、まともな大学のようなのだが、実際のところはよくわからないし、自己申告を鵜呑みにすべきではない。
みんな自分のことは良く言うものだし、特にそれが「営利企業」なら、尚更だ。

いろいろと問題が噴出して話題の的になった、かの「日本大学」だって、それまでは「まともな大学」であると、自己申告の「宣伝」をしていたのだから、私たちは、そうした「宣伝」を鵜呑みにするのではなく、例えば「どんな教授を雇っているか?」「理事長は、どんな人物か?」「何を売りにした大学か?」などといったことを、よく観察し、慎重に評価すべきであろう。
どの大学も、自分のところは素晴らしいようなことを言っているが、やはり現実には、ピンからキリまであるのである。

まあ、そうした「消費者としてのリテラシー」問題は別にして、「フェミニズム」を「女性の権利の獲得運動、または、そのための思想」のことだ程度にしか理解しておらず、そんな「世間並みの理解」しか持たないのに、それでいて堂々と「フェミニスト」を名乗れるような人は、やはりどこかが「おかしい」のだと考えるべきだろう。

だが、そんな人を雇って、「教授」の肩書を与え、世間を欺くに加担しているも同然の大学だって実在するのだから、私たちは、「肩書き」や「看板」などの「自己申告」を鵜呑みにせず、よくよくその中身を検討すべきである。一一でないと、「騙される」

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「フェミニズム」は、私たちのような「非専門家」が思っているほど、「単純な思想」ではない。
それは、本書の「はじめに」の一文を読んでもらうだけで、わかるはずだ。
その十全な理解までは難しいとしても、なんとなくは感じ取ってもらえるはずだ。

一一要は、「フェミニズム」とは、「女性の権利の獲得運動、または、そのための思想」といったことに収まるきるような、単純なものではないのだ。

「日本人」は「隣の山田一郎さん」のことではなく、もっと「いろいろとある」ものなのである。

したがって、「日本人とは、隣の山田一郎さんのことだ」などと主張するような人は、仮にその人が「大学教授」であったとしても、それは「葦原教授」と考えるべきなのだ。

『 フェミニズムについてまとまったものを書くということを聞いた知人たちから、「フェミニズムに戻るのか」とか、「フェミニズムについてあなたはいったい何を書くのか」と、ときどき尋ねられる。こういった発言の裏には、セクシュアリティについて語ることとフェミニズムについて語ることはべつの問題である、あるいはセクシュアリティ研究が出現した今となっては、フェミニズムは古い批評の枠組みだ、という考え方があるように思われる。同じことが、ジェンダー研究とフェミニズムの関係、カルチュラル・スタディーズとフェミニズムの関係にも当てはまる。
 けれども他方で、ジェンダーやセクシュアリティという用語が意味している内容も、漠然とは推測されても、どこか腑に落ちないと思っている人々も多いのではないだろうか。そのような人々にとって一一ましてやフェミニズムは一過性の流行、あるいは多くの差異化軸のひとつで、それに興味をもつ人だけが論じる局所的な、あまりにも感情移入された主義や主張であると思っている人々にとって一一ジェンダーやセクシュアリティは、フェミニズムよりもさらに胡散臭い概念で、それらとフェミニズムの関係など、どちらでもよい問題なのかもしれない。
 セクシュアリティは、社会的・学問的な文脈で最近語られるようになってきた比較的新しい言葉である。セクシュアリティとはいったい何なのか。あるいはそれとの関連でふたたび呼び起こされている一一あるいは新しく意味づけなおされている一一ジェンダーとは何なのか。それよりもそもそも、フェミニズムとはいったい何なのか。フェミニズムという言葉は、本当にいまも、そしてこれからも、有効な用語でありつづけるのか。結論を先取りして言えば、わたし自身はフェミニズムという言葉は、性の抑圧的な関係機構を批判的に読み解こうとする理論的な企てにとっても、また現在の性抑圧の形態を解体していこうとする実践的な企てにとっても一一厳密に言って一一瑕疵のない最適な用語というわけではないと思っている。
 フェミニズムは英語から入ってきた外来語だが、『オックスフォード英語辞典』(第二版)によれば、ここで言うフェミニズムの意味は、「(両性の平等という理論にもとづいた)女の権利の主張」と定義されている。この定義にしたがえば、次の二つのことが前提とされる。一つは、少なくともフェミニズムが存在している社会においては、女の権利は奪われており、ひるがえって男の権利は守られていること(そう認識されていること)、もう一つは、性的に抑圧されている者(「女」と呼ばれている者)は、「女」という立場を維持したまま、その十全な権利を主張していくということである。これらの前提から類推される事柄は、社会の成員は「男」と「女」に二分され、この二つの性のあいだの力学に不均衡が生じていて、フェミニズムは、権利を奪われている女が、権利を過剰に付与されている男に対して異議申し立てをするものだという図式である。フェミニズムを語る者は、たいていの場合女ということになり、その女たちは男を「敵」と見て、男の特権に挑戦すると思われている。だからフェミニズムに直面した男は、ときに女の舌鋒に驚き、怯み、あるときは女の挑戦を、風車に挑むドン・キホーテのように的はずれなものと見なしてやりすごす。社会が一一少なくとも日本の社会が一一フェミニズムに対して抱いているイメージは、個別的な例はべつにしても、現在のところは大なり小なりこのようなものだろう。
 そのような社会の受け止め方のなかでは、たとえ男が、この性の不均衡はもしかしたら自分自身を呪縛しているのではないか、自分を「男」にしている特権が逆に自分を哉んでいるのではないかと感じはじめても、その男は、フェミニズムという枠組みのなかで思考することには居心地の悪さを感じ、「男性学」や「ジェンダー研究」という枠組みが自分にとっては適切なものだと思いがちになる。あるいは「女」と一括りにくくられても、いわゆる「女」を愛の対象にしている者は一一「男」同士のあいだでも同じことだが一一「女の権利の主張」に自分を当てはめることが、はたして適切なのかどうか疑問を覚えてくる。むしろ性的な意味づけを乱する「セクシュアリティ研究」の方が、自分が被る抑圧をもっと厳密に取り上げているのではないかと考える。あるいは同じ「女」でも、国籍や民族や職業や地域性などによって立場や条件がずいぶん異なることを痛感している人々は、「女の権利の主張」だけではもはや間尺に合わないと思い定めて、それよりも多角的で複眼的な視野をもつと思われる「カルチュラル・スタディーズ」に活路を見いだすかもしれない。
 フェミニズムという言葉が「フェミナ」(女)という語を母体に作られた造語であるかぎり、このような反応は避けられないことである。しかしこれは語源的な問題というだけではなく、「女」に対する圧倒的な抑圧に対抗してきたフェミニズムの理論や実践が、その歴史的な経緯のなかで必然的に伴わざるをえない限界である。このように、性の抑圧に対する個別的また包括的な批評理論や政治実践において、フェミニズムという語を使用することはかならずしも最適な選択ではないことを承知しながらも、それでもなおわたしは、少なくとも現在では、フェミニズムという言葉を手放したくはない。その理論は、けっしてフェミニズムを「女の権利の主張」という枠に閉じこめて、「女」を理論の基盤、あるいは解放されるべき主体として、保持したいと願っているためではない。わたしがフェミニズムという用語のもとにしばらくは思考を進めようと思っている理由は、「女」であることはたやすく身体的な次元に回収され、そして身体は還元不可能な与件だと理解されているので、もっとも根源的な本質的属性とされている「女」というカテゴリーを根本的に解体することなく、「男」に対する抑圧も、「非異性愛者」に対する抑圧も、また性に関連して稼動している国籍や民族や職業や地域性などの抑圧も、説明できないのではないかと危惧しているからである。』(P Ⅲ〜Ⅶ)

本書の初刊は「2000年」。もう、四半世紀も前の本である。

それでも、多くの人にとっては、この部分だけで、すでに「難解」に感じられるはずだ。だが、私はもう、これを噛み砕いて「解説」したりはしない。
「フェミニズム」のことを「本当に知りたい」と思う人が、本書を買って読めばいい。本書は、それに値する「名著」である

ただひとつだけ指摘しておけば、著者の竹村和子は、ここで、

『けっしてフェミニズムを「女の権利の主張」という枠に閉じこめて、「女」を理論の基盤、あるいは解放されるべき主体として、保持したいと願っているためではない。』

と書いているのに対し、先の、北村紗衣武蔵大教授は、まるでそうすることが当たり前ででもあるかのような顔で『フェミニズムを「女の権利の主張」という枠に閉じこめて、「女」を理論の基盤、あるいは解放されるべき主体として、保持』しているという、その事実に気づくべきだろう。

同じように「フェミニズム」や「フェミニスト」という言葉をつかっていても、ここには「対極的」と言ってよいほどの、大きな開きがあるのである。



(2024年9月27日)

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