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横山茂雄・ 栗山英彦ほか 『コンスピリチュアリティ入門』 : 私が反省させられた本

書評:横山茂雄、栗田英彦、堀江宗正、竹下節子、辻隆太朗、雨宮純、清義明『コンスピリチュアリティ入門 スピリチュアルな人は陰謀論を信じやすいか』(創元社)

「宗教現象」については、かなり幅広く勉強していて、それなりに自信も持っていた私だが、本書には教えられるところが多々あり、特に、横山茂雄と栗田英彦による「巻末対談」には、私がこれまで軽んじてきた部分が、いかに重要なものであったかをズバリと指摘され、反省を余儀なくされた。

まず最初に、本書の内容を大雑把に紹介する「紹介文」を引用しておこう。

『 コンスピリチュアリティに関する初の論考集

「Qアノン」、新型コロナ生物兵器説、自然食、イルミナティ、そして爬虫類系宇宙人による人類の支配。
政治的影響力を持つまでに至った陰謀論と、その背景にあるとされるスピリチュアルな世界観。
この2つをともに論じることを可能にする注目の視座「コンスピリチュアリティ」を日本で初めて紹介した論集。』

冒頭から「Qアノン」が来て、最後は『爬虫類系宇宙人による人類の支配』なんて話までも論考の対象にしているのだから、いかにも「アメリカの知的水準の低い人たちの話」だと、そう思った人は少なくないはずだ。
かく言う私も、そう思った。

しかし、『イルミナティ』や『爬虫類系宇宙人による人類の支配』なんていう「トンデモ」は別にして、「Qアノン」の問題は、今後のアメリカの動向、ひいては今後の世界情勢にも関わる問題だから、ひととおりのことは知っておくべきだろうとそう考えて、本書を読むことにした。

また、本書を代表する執筆者として、私が、「小説家」として尊敬する「英文学者」で「オカルト研究家」でもある、横山茂雄が名を連ねていたのも、決定的に大きかった。
私は、この人を書き手として信頼していたから、いまだ読めてはいないものの、この人の書いた「オカルト関係書」も、ほぼぜんぶ買ってはいたからだ(つまり、今のところ、読んだのは小説の2冊だけ)。

そんなわけで、言うなれば、やや「上から目線」で本書を読み始めたところ、これまで知らなかったことが、ポツポツと出てきて「なかなか勉強になるな」とか「けっこう、問題を多面的に捉えていて、公正な学術書だな」などという感想を持ちながら読み進めていったところ、前述のとおり、最後の横山茂雄と栗田英彦による対談で、私は、ど直球の批判を受けることになり、反省を強いられてしまった。

だが、その「巻末対談」の部分について書く前に、それ以前の前提的な議論のいくつかを、簡単に紹介しておきたい。

まず、表題となっているコンスピリチュアリティ」とは、何なのか?

これは、宗教学者の栗田英彦の「巻末対談」での言葉がわかりやすいだろう。

『この言葉はシャーロット・ウォードとディヴィッド・ヴォアスが、‘The Emergence of Conspirituality’(二〇一一)という論文で提示した造語ですが、この論文が、スピリチュアルがリベラルで、陰謀論が右派的で、それがくっついてびっくりですね、みたいな内容で。』(P239)

つまり、「コンスピリチュアリティ」とは、「陰謀論(conspiracy theory)」と「スピリチュアリティ(spirituality)」という2つの言葉を合成した「造語」なのだが、その意図するところは、栗田の指摘するとおり、本来は「右派」(特に男性)に見られる「陰謀論」と、本来なら「リベラル」(特に女性)に多い「スピリチュアリティ」という、「真逆」だと見られていた2つの流れが、近年の「Qアノン」なんかでは一体化してしまっており、驚くべき新現象だから、それを「コンスピリチュアリティ」と名付けて、考えてみてはどうか、というのがウォードとヴォアスの提案なのである。

ところが、「新現象」としてわざわざ名付けられた「コンスピリチュアリティ」というアイデアには、批判も少なくない。

例えば、「陰謀論」の方もそうだが、特に「スピリチュアリティ」の定義がきわめて曖昧で、二人の言うそれは、イメージ先行の偏ったものでしかなく、およそ学術的な概念とは言い難い、といった批判。
あるいは、「陰謀論」と「スピリチュアリティ」の結びつきというのは、何も昨日今日に始まったことではなく、ずっと昔からあったことでしかない。それを「新現象」のごとく言挙げするのは、基本的な誤認もいいところだ、という批判などだ。

ドナルド・トランプの支持者集団として大きな影響力を発揮し、死者4人を出した「合衆国議会議事堂襲撃事件」を引き起こした「Qアノン」の言説などを瞥見すると、なるほど、陰謀論とスピリチュアリティが結びついていて「それをコンスピリチュアリティと呼んだのか。うまいこと言うねえ」と感心させられてしまうのだが、たしかに「スピリチュアリティ」という言葉が指示するものはきわめて広範で、人によって意図するところは、けっこう大きく違っており、実質的には「(厳密な)定義は無い」に等しいし、学術用語としての「スピリチュアリティ」や、英語圏で使われるそれと、日本でよく使われるようになった「スピリチュアル」とは、決して同じ内容のものではない。

つまり、もともと曖昧な概念なのに、それを安易に他の言葉と掛け合わせて新しい言葉を作っても、目新しさこそあれ、結局は議論を混乱させることにしかならない、という批判は、納得のいくものである。
真面目な研究者からすれば、ウォードとヴォアスの提案は、新奇さに衒う「ウケ狙い」のスタンドプレイにさえ見えたのではないだろうか。

したがって、本書『コンスピリチュアリティ入門』も、「コンスピリチュアリティ」という概念を自明のものとはしてはおらず、「コンスピリチュアリティ」という曖昧な言葉が指し示す問題の難しさを、この言葉を手掛かりにして考えようとした論文集だ、とでも言えるだろう。

執筆者は、

横山茂雄:英文学者・オカルト研究家・小説家
栗田英彦:宗教学者
堀江宗正:宗教学者
竹下節子:文化史家(主に、フランス・キリスト教)
辻隆太朗:宗教学者
雨宮純 :オカルト・スピリチュアル・悪徳商法研究家
清義明 :ノンフィクションライター

の7人で、私はこれまでに、横山茂雄、堀江宗正、竹下節子の3人の著書を読んだことがあり、栗田英彦については、雑誌掲載論文を読んだことがある。辻隆太朗、雨宮純、清義明の3人は、本書が初見である。

 ○ ○ ○

本書の「目次」は次のとおり。

『 【目次】
はじめに(辻隆太朗)
コンスピリチュアリティとは何か(辻隆太朗)
神真都Qと陰謀論団体とコンスピリチュアリティ(雨宮純)
コロナ禍とコンスピリチュアリティ――コロナ死生観調査から(堀江宗正)
宗教と陰謀のブリコラージュ(清義明)
フランスとアングロサクソンのコンスピリチュアリティはどう異なるか(竹下節子)
巻末対談:コンスピリチュアリティは「新しい」のか?――陰謀論の現在(横山茂雄×栗田英彦) 』

まず、辻隆太朗の文章で「コンスピリチュアリティ」の、基本的なところを押さえることができる。

雨宮純の文章では、「日本におけるコンスピリチュアルティ界隈の現状」を知ることができて、読み物としてとても興味深い。
特に、私がこれまでノーマークだった政党「参政党」が、実は、もろに「コンスピリチュアリティ」的な思想を持つ、問題の多い政治思想集団であることを知らされて驚いた。
そう言われれば、ほとんど聞いたこともない政党なのに、街宣車を駐めての街頭演説などでは、不似合いに多くの支持者が街宣車を取り巻いていたのに、違和感を感じたことがあったのだが、あれはこの政党のカルト性から出た動員力だったのかと、納得させられた。

(参政党の街宣に集まった人々)

堀江宗政の文章は、宗教学界をリードする正統派学者らしく、統計資料を駆使して、本当に「陰謀論・スピリチュアリティ・インターネット」は「つながっているのか?」という疑問を呈している。要は「イメージ(印象論)だけで、物を言っていないか?」という、学者らしい忠告である。

清義明の文章は、タイトルどおり、「コンスピリテュアリティ」現象とは「宗教と陰謀論のブリコラージュ(寄せ集め仕事)」に過ぎない、とするものだ。要は、「手近にある、あれやこれや」を適当に組み合わせて「作った(厳格性を欠いた)道具」だ、ということである。

竹下節子は、キリスト教の研究者で、主に「フランスのキリスト教」を研究しているので、「フランスとアングロサクソン(英米)」の違いと、そこから来る「コンスピリテュアリティ」についての需要の差異、およびその現状について語っている。

そして、横山茂雄と栗田英彦による「巻末対談」では、「コンスピリテュアリティ」云々というよりは、近年使われるようになった「スピリチュアリティ」自体が、昔からの「オカルト」の範疇のもの、という歴史的パースペクティブのもとに、その「普遍性と強靭さ」を、真剣に捉えなければならない、とする議論である。

そのことを、横山は、特に世間では馬鹿にされがちな「爬虫類系宇宙人(レプティリアン)」の問題に象徴させて、「はたして、知識層ではなく、今の世俗化された(信仰心を失った)大衆にとって、目にも見えない神や悪魔の存在と、レプティリアンの存在の、一体どちらに、リアリティを感じられるだろうか?」と問い、栗田の方は、「学問」というものの「価値中立性」という「理想」が強調され過ぎて、無難に「事実並列型相対主義」の判断停止に陥ってはいないか、と「コンスピリテュアリティ」の問題を通じて、「学問」のあり方について、再考と自覚を促している。

どちらも、「既成の(業界的)常識」に安住することなく、「現実」を直視した上での問題提起として、時に冗談めかしたやりとりとは裏腹に、大変「重い」内容を語らっている。

このあたりについては、私の下手な要約では、到底その真価は伝わらないと思うので、少々長くはなるが、二人のやりとりをそのまま引用した上で、私の思ったところを書いていきたい。

横山 まったく時代が大きく変わっちゃったという印象ですね。リベラルの人々が管理統制の強化を訴えて、リベラルの側から「信心に凝り固まっている」とみなされる人々が管理統制を拒否しているわけだから、このコロナ下で、陰謀論がいっそう加速するというのも故なしとしない。日本にはそういう原理主義的な宗教、宗派の人々の数は少ないけれども、信仰とは無関係に管理はいやだという人はかなりいるはずですよね。
栗田 そうですね。管理社会化という問題はすごく大きいと思います。結局、左翼もリベラルも管理社会化に与してしまう。左翼における管理社会の問題は、ソ連のスターリン体制における官僚主義や全体主義からすでに現れていて、このスターリン主義を批判するところから、新左翼とか全共闘のノンセクト・ラディカルとかが登場してくるわけです。
 けれども、新左翼にせよノンセクトにせよ、大学自治会を奪取するとスターリン主義的に振る舞ってしまうし、その極限に連合赤軍事件もあった。そこから逃れるべく、太田龍や全共闘の活動家で気功指導者になった津村喬といった人たちは、スピリチュアルのほうに流れていきます。太田は先に言ったような(※ どんどんオカルトの方へ流れるという)軌跡を辿りますし、津村の気功は身体の「自主管理」ということを目指すものでした一一それでも本質的に逃れられるかどうかは検討されるべきですが。
 ともあれ、この種のスピリチュアリティには、本質的にこうした集団や社会の管理からの解放という側面があります。ですから、反ワクチンに行くのはわりと必然的だと思うのです。こういう、反ワクチン派が持つ反管理社会の側面、あるいは肌感覚でワクチンを強制されるのが嫌だと感じる人々のメンタリティとかを理解しない人が、大衆レベルだけでなく知識層に結構いる印象があります。
 ちなみに、アメリカの方が反管理の意識が強いですよね。政治的にも連邦制度を取っていて、各州の自治も強く、思想的にも社会民主主義的なリベラルだけでなく、リバタリアニズム(自由至上主義)の伝統が強固にある。
横山 信仰の自由という意識も重なるしね。これに関わることでは、反知性主義の問題もあるでしょう。
 アメリカにおける反知性主義というのは、それなりに伝統と思想的基盤があって、権威主義的な知的エリートに対する不信を示す言葉なんだよね。つまり、超エリート校で高等教育を受けた、体制側の人間たちは信用できないし、真の知性は高等教育の外で育まれるはずだという信念なんですよ。ある意味、それは正しいところもあるわけだし。
栗田 私自身は反知性主義という言い方は使わないようにしていますけれども。
横山 誤解を招きやすいからね。
栗田 日本だと意味が全然変わってしまって、侮蔑的なラベリングみたいな感じで使われているでしょう。
横山 頭でものを考えない人、馬鹿げたことを信じている人というのが、もっぱら反知性主義の意味になっちゃっている。それではただの「バカ」の言い換えだよ。そうじゃない、もっとラディカルの意味を孕むものなんですよ。
栗田 かなり注釈をつけてなら使えると思いますけども、注釈なしで反知性主義というのは、誤解を招くし、まあ使わなくても説明できることが多いですし。
横山 戦後の日本では反知性主義の伝統は弱いけれども、とはいえ、知的権威に対する反感はかなり広く存在するんじゃないかな。この点をリベラルの人はあんまり理解していないのでは。
 彼らは例えばレプティリアンとかいうようなことを信じる人の存在自体を見下しているしね。そういう人たちが世間にはごく普通に存在するという事実をしっかり受けとめられなくて、しかも、教育すれば「治る」と思っている。
栗田 ですよね、本当にひどい啓蒙主義ですよ。
横山 僕なんか十代の終わりからそういう世界(※ オカルト界隈)に触れてきたから、かなりの数の人たちが学校で受けた教育とは全然相容れないことを信じているという事実を少なくとも実感はしている。
 リベラルの人たちは、そのところを理解していない上に、しかも先ほど言ったように管理統制を訴えるとなると、やはり強い反感を持つ層が出てきて、そうした人たちが陰謀論に走るというのは、本当にわかりやすい。
栗田 素朴な啓蒙と管理はおそらくセットですよね。ワクチンも正しい知識をみんなに教えれば、反ワクチンにならないはずだと本当に思って、一所懸命ツイッターとかいろんなところで啓蒙しているんですけど、多分あれは逆効果。
 そもそも知識の体系が違うんだという理解をリベラルは持たないといけないんですよ。多様性とか言うならば、その上で、異質なものとどう対立しつつ共存するかが課題になるはずです。むしろ、リベラルから批判されている側のほうが逆に、相対主義的な視点を持っている可能性がある。
 信仰を持っている人なんかは、自分のほうが社会的には異端視されているという認識があるだろうし、陰謀論を信じている人たちもテレビとかに出てくる情報と自分の情報が違うということまでは認識している。つまり相容れない二つの、あるいは複数の思想があるということを、陰謀論を信じている人たちのほうがわかっているのに対して、リベラル側、啓蒙側はわかっていないということが、現状の一番の問題点ではないかと思うんですよね。
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横山 その問題は大きいでしょう。例えば統一教会問題で霊感商法が問題となっていますが、大昔から、宗教、オカルトと「詐欺」には密接な関わりがあるわけで。
栗田 その通りです。心霊治療でトリックを用いることはよくあることですし、それでも「治った」とか「救われた」と思われることもあります。例えばレヴィ=ストロース『構造人類学』でよく知られていますが、懐疑的青年のケサリードが、トリック暴露のためにシャマンの弟子になったけど、トリックを使って心霊治療するうちに人々に呪術師として尊敬されていってしまうという話があります。
 それに、宗教では基本的に何かを売るときには、霊的な何かでプラスアルファの価値をつけて売るんだから、霊的な何かを信じない立場からしたら、すべてが詐欺的になる(※ 御守り、御札など)。そうすると統一教会のいわゆる「霊感商法」や「高額献金」の問題は、程度の差こそあれ、本質的には宗教全般にも拡大されるわけです。
 正体を隠した布教が云々されますが、もともと統一教会は公然と布教していたのが左翼とジャーナリズムの批判に対応してそうなっていったわけですし、そもそも伝統仏教や神社神道は歴史の授業とか様々なパブリックな空間で「文化」として教えられて圧倒的優位を持っているわけです。こういう世間的バイアスによる格差を無視して統一教会を「カルト」「反社会的」と決めつけ、その手口だけを「詐欺」や「マインドコントロール」扱いすることには問題があると思います。実際、「カルト」も「マインドコントロール」もジャーナリストや批判者の言葉であって、中立性が求められる宗教学の論文では使われることが少ない言葉です。
 けれども今、宗教界に関わりを持っていたり、信教の自由の侵害を懸念する宗教学者や宗教関係者は、カルトやマインドコントロールの概念の使い方についていろいろ言いながらもそれらの言葉を使って、統一教会の問題が宗教全体の批判へと向かわないように、非常に防衛的に言説を組み立てていると思うんですよね。これはもちろん、宗教学者として理解できるし、一理あるとも思うですけれども、統一教会側から見ると、こうした言説は非常に欺瞞的に映るでしょう。
 しかし、そのようにしていかないと今度は統一教会批判者から「なんだ? あの統一教会の仲間たちは!」と見えてしまうわけですね。そう見えるのは単純化しすぎだ、間違いなんだと言っても、構造的にはそういう振る舞いをしてしまっているなら、虚しい抗弁にしかなり得ない。しかもそれが大学教授や研究者のような知的エリートによるものなので、ますますエスタブリッシュメントへの疑いが強まってしまう。そうなると、宗教学者も陰謀論のピースになっていくかもしれませんね(笑)。
 そうならないように、宗教学者が率先して統一協会に厳しい措置を求める動きを起こしています(二〇二二年一〇月二十四日、島薗進氏と桜井義秀氏が会見し、宗教研究者二十五人の声明として国に解散命令請求も視野に入れた対応を求めている)。これは、オウム真理教事件のとき、宗教学者がオウムに寛容だったことに対してかなり大きな批判を浴びたこともトラウマとしてあるのでしょうが、オウム事件や九・一一(※ 9・11)以降に管理社会化が急激に進んだことを考えると、簡単に政府や法に解決をゆだねることには十分注意しなければならないと思います。
横山 そう、管理統制の強化とつながる問題だという点は少なくとも認識しておく必要があるでしょうね。』(P260〜264)

「リベラルな知識層」が、「非科学的」と呼んでいいようなこと信じる人たちに対し、「正しい知識」を与えることで啓蒙ができ、自分たちの世界観の側に統一できると素朴に信じていること自体が、「現実が見えていない」証拠であり、「傲慢な錯誤」でしかない、という指摘である。

たしかにそうだ。
私自身、長らく「宗教批判」をやってきて、例えば、キリスト教徒の人に「イエスが死刑になって、死後三日に復活し、肉体を持ったまま天に昇ったなんてこと、事実だと信じられますか? マリアが処女懐胎しただけではなく、イエスとは違い、神でもなんでもない、人間の一人である彼女までが、肉体を持ったまま天に昇ったなんて話、信じられますか? そんなの信じられるようなら、あなたは現代人ではないですよ」などと批判しても、ほとんど何の効果もないことは、嫌というほど実感させられてきた。
彼らにすれば「それとこれとは、話が別」だと、平気で考えられるのであり、それが「あり」なら、どんなことだって許されることになり、「論理的な矛盾(一貫性の欠如)の指摘」や「議論」なんてものは、まったく無効ということになってしまうのである。

(マリアの被昇天)

だから、そんな人が、世界中に大勢いる以上、「コロナワクチン」に「陰謀」を見る人がいるというのは、しごく当たり前なことでしかなく、「神や悪魔の存在を信じるキリスト教徒」なんかよりは、ずいぶん「まとも」な人たちだとさえ言えるだろう。

だが、この程度のことにさえ気づかないで、ちゃんと科学的に説明してあげれば理解できるはずだなんて、多くのリベラルな知識人は、迂闊にも信じてしまっている。
それができるんなら、バチカンに行って、ローマ法王に「神や悪魔なんて実在しません」と説得してきてから言え、ってことにもなるのだ。

また、「統一教会問題」についての栗田の指摘も、きわめて正しい。
これについては私も、自身が「宗教2世」であるマンガ家・菊池真理子の著作を論じて「いわゆる宗教2世たちは、統一教会は無論、その他の宗教のあり方をも批判するその一方、宗教信仰そのものは否定しないのだが、結局のところこれは、保身的な誤魔化しではないのか」と批判したことがある。
要は、自分たちの被害さえ回復されるのなら、宗教がその性質上、今後も必然的に引き起こすであろう被害には目を瞑ろうという態度なのではないか、という趣旨の批判である。結局、被害者ヅラして訴えてみても、自分のことしか考えていないのは、同じじゃないか、ということだ。
(※ 「信仰を、子供に強制してはいけない」という「宗教2世」の主張は、「嫌がっても、信仰を持たせるのが、結局は本人の幸せのため」だと信じる宗教の本質に反している。この誤認迷妄を失効させるには、信仰そのものを否定しなければ、決して本質的な解決にはならない)

また、最近刊行された「統一教会問題」本で、上にも名前のあがった宗教学者・島薗進や櫻井義秀らによる、NHKでの「討論番組」を書籍化した『徹底討論! 問われる宗教と“カルト”』島薗進釈徹宗若松英輔櫻井義秀、川島堅二、小原克博・NHK出版新書)も、注目すべきであろう。

私は、島薗の本も何冊かは読んでいるし、基本的には「良識的な宗教学者」であると肯定的に評価してもいるけれど、しかし島薗には「スピリチュアルブーム」に警鐘を鳴らす内容の著作もあって、もちろん本人は「無宗教」であり、「スピリチュアリティ」など信じてはいない。

だから、厳密に言えば、この討論会で「スピリチュアリストである若松英輔」と同席して、仲良く「統一教会」だけを批判することで、「正しい宗教(性)」を守ろうとするというのが、そもそも「偽善」であり「欺瞞」なのだ。

宗教学者は「信仰者でもなければ、宗教否定者でもない(宗教の内側の人間でも外側の人間でもない)」という、どちらでもないという立場を採っているのだが、実際のところ、そんな「立場」など、原理的に存在し得ない。
結局は、「宗教」的なものを、「現実」として認めるか、「幻想」として否定するかの、二択なのだ。その判断をするから、信仰をしたりしなかったりという「選択」が、現になされているのである。

それに、「信仰者(宗教者)」の側からすれば「信仰を持っていない者(信じていない者)に、信仰の真実がわかるわけなどない」と考えるのは当然だし、逆に「非信仰者(宗教否定者)」の側からすれば「信仰を持っている宗教学者が、信仰を客観視することなどできるわけないのだから、そんな宗教学者など、そもそも偽学者だ」ということになるので、「信仰」を持っていようがいまいが、「宗教学者」とは、万人が納得する「客観的な判定者」という立場には、原理的に立ち得ない。

つまり、「宗教学者」というのは、自身がそういう「中途半端」な(八方美人=八方ブス・的)存在であるという事実を重々自覚した上で、「可能なかぎり客観的たらん」とすべきなのだが、実際問題として、「信仰を持たない(宗教を信じていない)宗教学者」であっても、世には「信仰者」が山のように存在する現実を前にした時、基本的にはそれを「全否定」することができない。
「比較的マシな宗教とそうでない宗教はあるけれども、宗教というのは、原理的にすべて幻想であり迷妄であるという点では、まったく同じである」と(私と同様に)思ってはいても、決してそれを明言したりはしない。

そう正直に言えないからこそ、既成の社会規範からはみ出してしまった宗教だけを、スケープゴート的に「批判」することで、自分たちの存在意義を誇示し、本来的な不作為のアリバイとするのだが、そんなものは所詮、「学問的態度(客観的態度)」ではなく、身過ぎ世過ぎのための「政治的態度」でしかないのである。

したがって、栗田も言っているとおり、宗教学者には「宗教を全否定する」ことができない。何故ならば「それを言っちゃあ、おしまい」で、研究も何も成立しないから、日頃は(NHKのテレビ番組『こころの時代』的に)「できるだけ良いところを見る」ようにするのだが、当然これは「客観的な見方」とは言えない、「宗教」の側に立ったもの、でしかない。

だから、宗教学者にできることは、そうした「欺瞞」を抱えていることを自覚した上で「身の程を知って、ものを言う」ということしかないのだ。
自分たちが「(責任を有する)立場」(=信仰者または宗教批判者)を引き受けないで、曖昧に本音を韜晦しながら、それでいて「客観的な権威的判定者」のごとき顔をするというのは、昔の、キリスト教内における「異端審問官」と、なんら変わらないという事実を直視すべきなのである。

横山 栗田くんに送ってもらった宗教社会学の本をパラパラと読みましたけど、結局、ラベリングが多いんだよね、名前をつけて分類する。それが学問なんだなぁと。
栗田 まあ社会学系は特にそう見えますね。そういうの避けようという立場もあると思いますが。
横山 広義のオカルトを「スティグマ化された知識」と呼んだマイケル・バーカンは、その世界では権威のひとりですよね。彼は一九九〇年代以降の陰謀論の状況を「即興的千年王国主義(inprovisational millennialism)」という言葉で表現しているけどけれど、それは単純に言えば、無節操にごたまぜにしてる、ぐちゃぐちゃになっているって意味なんだよね。
栗田 そうそう。
横山 それをちょっと格好よく言い換えていましたってことにすぎない(笑)。ただ、そのぐちゃぐちゃ化っていうのは、いわゆるコンスピリチュアリティを考える場合のキーポイントでもあって、それが九〇年代以降、目立つようになったのは事実だと思うんです。
 典型的的なのはオウム真理教で、バーカンも書いていたけれども、本当にインプロヴァイゼイショナル、即興的なんだよね。何でも節操なく取り込んでしまった。そういうようなインプロヴァイゼイショナルと呼ばれるあり方、本来は同時に取り込みようもないはずのものを取り込んでいくという状況が、このところ加速しているんじゃないかな。
 その起点は確か一九九〇年前後かもしれない。そしてこれはひょっとしたら、先ほど触れた、資本主義に替わるものがもう今、誰にも出せないという状況のせいではないかと思うんですよ。つまり、対立している価値観があって、どちらかを選べばいいという状況が、九〇年代以降は明らかになくなってしまった。それでぐしゃぐしゃ化が起きてくると。どうでしょうか。
栗田 それはあると思います。ある意味、先ほど申し上げた学問の中の相対主義とパラレルということでもありますよね。学問のなかでも(※ 例えば、かつてのマルクス主義唯物論のような、絶対的な)中心軸・中心的理論がなくて行き詰まっていきますが、現実の運動のなかでも伝統宗教も新宗教も、オカルトも政治的イデオロギーも等価に並ぶようになっていく。
 そう考えると、陰謀論とスピリチュアリティの結びつきが珍しいんじゃなくて、福音派キリスト教とオカルトやニューエイジが結びつくほうが、びっくりなことないんじゃないですか?
横山 そう言えなくもない。
栗田 福音派とニューエイジの反キリスト教的な流れがごっちゃになったり共闘したりしているということのほうが、コンスピリチュアリティよりもむしろ驚きなのかもしれない。
横山 本来、敵対していたもの、相反するものを同時に取り込む人がいるということ。同時にそれは、西洋社会におけるキリスト教の位置が低下していって、どんどん世俗化が進んでいるということの表れでもあるでしょう。
栗田 確かに、西洋社会的には世俗化の問題とも言えそうですね。
横山 日本の場合、それは思想の頽落として現れているのかもしれない。例えば、日本では天皇制の問題は常に大きい問題なんですが、二〇〇〇年代に入ってから、リベラル、場合によっては左派までが天皇を擁護するようになった。共産党ですら、平成天皇を評価する。それでもってネトウヨの側が天皇を売国奴だとか反日だとか呼ぶわけよね。この顛倒ぶり。
栗田 共産党は二〇〇四年の綱領で反天皇を取り下げましたからね。
横山 共産主義者が天皇制を否定しない時代だから、そういう意味では知らないうちに社会は大きく変わっていた。
栗田 リベラルが天皇制を支持するということの意味を、リベラルを自称する人はもう少し自覚的に考えたほうがいいと思います。
横山 リベラルが天皇制を支持する、リベラルが管理統制化を声高に語る。これは本当にやばいんだという点は意識したほうが良い。
栗田「私たちは大衆の管理を進めたい体制派ですよ、リベラルじゃありませんでした」と言うなら、「そうですか、じゃあ仕方がないですね」と納得できるんですけど(笑)。
横山 ただ、これは一種のぐちゃぐちゃ化ではないかと考えると、時代を象徴している事態だと見ることもできます。
栗田 政治的には、ソヴィエト連邦の崩壊以降は、右派と左派もごちゃごちゃになっていくわけですね。
横山 もうひとつ、世俗化ということで触れておきたいのがは、レプティリアンのことですね。
栗田 そこにこだわる(笑)。
横山 知識人、もしくは「常識」のある人はレプティリアンをバカにしていますよね。わかります。それはそうです。そうですけれども、しかし、世俗化された社会で考えてみた場合、神一一あるいは悪魔一一とレプティリアンでどちらにリアリティがあるかといえば、レプティリアンということになりませんか?
栗田 まあ宇宙人ということなら、そうかもしれませんが。
横山 僕は声を大にして言いたい(笑)。知識層ではない普通の人にすれば、神や悪魔に比べるとレプティリアンには実体がありますからね。まあシェイプシフトをとやらで姿形を(※ 人間に)変えるみたいだけど(笑)、とにかく実体があるとされる存在なんだよね。
栗田 実際、レプティリアンを検索したら画像が出てきますからね。Googleで検索したらシェイプシフトしたレプティリアンの姿が出てくる。これはこれで、自然な知覚以上に人工的なメディアを介した知覚によって現実が構成されるという、メディア社会におけるリアリティの問題と関係しそうですね。
横山 で、顔もわかるんでしょ。
栗田 そう、証拠として出てくる。
横山 レプティリアンと聞いた瞬間に、荒唐無稽、リアリティがないきわみと思う人が多いかもしれないけれど、もしかしたらそうは感じない人々が少なくないんじゃないかな。でないと、例えばデイヴィッド・アイクの人気は説明がつかないのでは。
 二十世紀の終わりから二十一世紀にかけて、一部の人々にとっては、レプティリアンの方が神や悪魔なんかよりよっぽどリアリティがある存在となったかもしれないという可能性。冗談じゃなくて、こういう事態を真剣に考えたほうがいいと思うんです。
栗田 リアリティの意味による気もしますが、一理あると思います。
(※ 見出し省略)
横山 今ちょっと出たメディアの話もしておきたいですね。例えばこのところ大ヒットしている新海誠のアニメでは、神社とか巫女が大きな意味を担っていますよね。例えば『君の名は。』(二〇一六)ではヒロインがもろに神社の娘で、巫女的な体質を持っている。
『天気の子』(二〇一九)の場合も、ビルの屋上に鳥居と祠が大きな鍵、重要なシーンになっていて、「天気の巫女」という言葉も出てくる。ああいう神社の出し方を見ていると、一番ゆるいと形でのスピリチュアルのひとつの現れなんじゃないかという気がするわけです。これらの作品が国民的にヒットしているということを、現在のスピリチュアルを考える場合には念頭に置いておかないといけないのかな。
栗田 そうですね。新海監督の作品もそうだけれども、そもそも宮崎駿の作品がすでにそうでしょう。むしろ、よりはっきりとそういうものを出している。
『風の谷のナウシカ』(一九八四)にしてもエコロジカルで神話的な、陰謀論的な世界観を提供しているし、『となりのトトロ』(一九八八)にしても『もののけ姫』(一九九七)にしても、エコロジーとか神とかいった問題を直接的に出していますよね。そういう意味でいうと、近年に限った話じゃなくて、八〇年代くらいから、そういうメディアの影響があるんじゃないでしょうか。
 スピリチュアリティ的なエコロジー、さらにはすごくゆるい意味でのナショナリズムというか、自然的な故郷を愛するとかいったもの、それを根拠にして陰謀論までいかなくても文明を批判するとか科学を批判するという現象自体はメディアを通じて広がっているという気がします。そのいちばん典型的なものが八〇年代の宮崎アニメだと思います。』(P274〜278)

ここで、私の胸を突き刺さったのは、横山の、

『知識人、もしくは「常識」のある人はレプティリアンをバカにしていますよね。わかります。それはそうです。そうですけれども、しかし、世俗化された社会で考えてみた場合、神一一あるいは悪魔一一とレプティリアンでどちらにリアリティがあるかといえば、レプティリアンということになりませんか?』

という言葉である。

たしかに私は、「レプティリアン」とか言っている人は「話にならないバカ」だと思っていたし、バカにすることはしても、批判することはなかった。「批判に値しない、あまりにもくだらない(論外な)存在」だと思ってきたからである。

だから、本書を読む前に、本書のレビュータイトルとして想定していたのは「オカルトは、楽しむものであって、信じるものではない。」といったようなものだった。
「オカルト」だろうが「スピリチュアリティ」だろうが、「陰謀論」だろうが「コンスピリチュアリティ」だろうが、そうしたものは総じて「暇つぶしのネタ」でしかなく、大真面目に信じたりするものではない。それでは、あまりにバカすぎる。一一と、そう考えていたのである。

しかし、横山が指摘するとおり、はたして「レプティリアン」は、「神や悪魔」というものに比べて、それほどバカバカしい存在だと言えるだろうか?

世界に、これだけ多くの、キリスト教徒やユダヤ教徒やイスラム教徒がいて「神や悪魔」を信じており、しかも、その他の宗教を信じている者も、「名称や設定」こそ違え、なんらかの「神や仏や祖霊」なんてものを信じており、家族が死ねば、葬式をして、そうすれば「成仏する(天国へ行く)」なんて思っているのである。
そんなもの「全部、あるわけない」というのが、現代人の現代人たる所以であるはずなのだが、そのようなものとして現代人を規定すれば、現代人は人口の1割にも満たないだろう。

(面白半分では済まなくなった時に、彼らは責任など取らない)

つまり、人間というのは、基本的に「非理性的な存在」であり、多かれ少なかれ何らかのバカバカしい迷信を信じて生きている存在なのだから、「神や悪魔や仏や祖霊や霊魂」なんて、見えもしないものを信じる人がこれだけいるのであれば、「人間に化ける(シェイプシフトした)レプティリアン」がいると信じる人がいて、どうして彼らだけが特別に「バカ」だと見下すことができよう。

自分が「リベラルな知識層」に属する「理性的で科学的な思考のできる現代人」であると思うのなら、率先して、葬式だの墓だのといった「無意味」なことは、一切やめてみせるべきであろう。
「いや、親戚づきあいなんかの関係上、そうもいかなくてね」なんて言うのなら、人が見ているところだけは形式を整えて、あとは焼いた骨なんか、庭か床下にでも捨てればいいのである。

だが、それも「なんとなく嫌だ」なんて思う気持ちがあるのなら、「コロナワクチン」を信用しきれない人を「非科学的」だなどと言うべきではないし、「レプティリアン」を信じる人をバカにするのなら、キリスト教徒やその他の宗教信者を、同じようにバカにすべきであろう。それこそが「科学的合理主義」であり「客観的で公正な態度」ではないか。

一一そんなわけで、私がこれまで「オカルトなんて、真面目に論じるに値しない」とバカにしてきたのは、間違った態度だった。
「宗教批判」として、キリスト教やその他の宗教を批判するのであれば、当然、同等に「オカルト」の類いも、「真面目に誠実に」批判すべきであった。

私はこれまで、さんざ「宗教批判」をしてきたけれど、その一方で「オカルト」批判をしなかったのは、明らかに、私の中にある「権威主義」のゆえであった。
「宗教は、批判に値する巨大な敵だが、オカルトは相手するに値しない雑魚だ」という「宗教者並みの、非合理的な序列意識(差別意識)」があったのである。

実際、私の場合にも、「宗教批判」だけでは済まされない現実を前にして、「スピリチュアリズム批判」を行ってもきた。

先に名の挙った「若松英輔」への批判も、正統なキリスト教への批判ではなく、若松の「スピリチュアリズム」に対する批判であった。
若松のそれが、正統的な「宗教」ではなく、「オカルト」を聞こえよく言い換えただけにすぎない「スピリチュアリズム」でしかなく、そんなものへの批判であったとしても、私は、それを現実問題として無視できないものだと感じていたから、真面目に批判したのである。

例えば、横山と栗田の対談で語られている「新海誠」のスピリチュアリズムについても批判をし、警鐘を鳴らしてきた。

それだけではなく、本書の執筆者の一人である堀江宗正などの著作などにも触発されて、「宗教の一種だと認識されていない、スピリチュアリズムの問題」についても、いろいろと書いてきた。

それでもやはり、「UFO」だ「グレイ」だ「レプティリアン」だ「地震兵器」だなんて話になると、そこに目を奪われて、それを信じる人たちの問題を、本気で考えることを怠ってきた。
「Qアノン」が実行動で示したように、彼ら(オカルティスト)の存在は、もはや無視して済むもの、嘲笑って済むものではないという現実を目にしながらも、やはり私は、ことの重大さに気づいていなかったのである。

「宗教については、アマチュアとは言え、一家言ある」とか「スピリチュアリズムも、推し活も、宗教のうちであり、無視してはならない現象だ」などと言いながら、子供の頃に「娯楽」的に楽しんでいたようなもの(オカルトの類い)については、「娯楽対象」だと、どこか軽く見てしまっていたのである。

だが、もうそんな甘い認識ではいられないほど、そうしたものは現実の中に浸透し、とてつもなく広まっており、もはや「娯楽」の対象などではなくなっているのであろう。

それは、宗教と政治に興味を持つ私でさえまったく知られないうちに、「陰謀論的極右」の性格を有する「参政党」が、国会に議席を持つまでになっているといった事実にも示された、今ここの現実なのではないだろうか。

(赤尾由美は、右翼・赤尾敏の姪で、本人も右翼であり、しかもスピリチュアルな人。本書の出版社は、ネトウヨ本の出版社として知られる、(第2次)青林堂。)

たぶん、「宗教」であれ「オカルト」であれ「スピリチュアリズム」であれ「陰謀論」であれ、それらを、「常識的、論理的に考えて、ありえないでしょう」というような「啓蒙的批判」によって、抑え込むことは不可能であろう。
それはちょうど、政治の世界における「安倍晋三人気」とか「維新の会人気」と通ずるものだと思う。

つまり、いくら「具体的な証拠を示して、論理的に批判」したところで、多くの人たちは「信じたいものを信じ続けるだろう」ということだ。

しかし、だからと言って、そうしたものを認められない私たちとしては、それをただ黙認するというわけにはいかない。
しかしまた、こちらの意見が論理的に正しいから、無理矢理にでも「愚民たちを従わせなければならない」などという「正義感」を振り回すのも誤りであろう。

私たちは、私たちに許された範囲で、果たすべき使命を果たすしかない。
それが仮に、不合理ゆえの悲劇、例えば「ヒトラーが引き起こした悲劇」への道を歩むもののように見えたとしても、やはり、こちらの「正義」を 無理矢理押し通すようなやり方は、間違っているように思う。

(横山秀夫による、ナチズムのオカルト的人種論の研究書)

しかしまた、それも「限度もの」ではあろう。
本当に「ヒトラーが引き起こしたような悲劇」が、目の前の現実となるならば、その時は、自らの「正義」を信じて立たなければならないのであろう。
そう考える私の前には、ヒトラー暗殺計画に加担して絞首刑になった牧師、ルードリッヒ・ボンヘッファーが立っているのである。

無論、そこまでいかないことを祈りはするのだが、未来のことは誰にもわからないのだ。


(2023年4月11日)

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