横山茂雄・ 栗山英彦ほか 『コンスピリチュアリティ入門』 : 私が反省させられた本
書評:横山茂雄、栗田英彦、堀江宗正、竹下節子、辻隆太朗、雨宮純、清義明『コンスピリチュアリティ入門 スピリチュアルな人は陰謀論を信じやすいか』(創元社)
「宗教現象」については、かなり幅広く勉強していて、それなりに自信も持っていた私だが、本書には教えられるところが多々あり、特に、横山茂雄と栗田英彦による「巻末対談」には、私がこれまで軽んじてきた部分が、いかに重要なものであったかをズバリと指摘され、反省を余儀なくされた。
まず最初に、本書の内容を大雑把に紹介する「紹介文」を引用しておこう。
冒頭から「Qアノン」が来て、最後は『爬虫類系宇宙人による人類の支配』なんて話までも論考の対象にしているのだから、いかにも「アメリカの知的水準の低い人たちの話」だと、そう思った人は少なくないはずだ。
かく言う私も、そう思った。
しかし、『イルミナティ』や『爬虫類系宇宙人による人類の支配』なんていう「トンデモ」は別にして、「Qアノン」の問題は、今後のアメリカの動向、ひいては今後の世界情勢にも関わる問題だから、ひととおりのことは知っておくべきだろうとそう考えて、本書を読むことにした。
また、本書を代表する執筆者として、私が、「小説家」として尊敬する「英文学者」で「オカルト研究家」でもある、横山茂雄が名を連ねていたのも、決定的に大きかった。
私は、この人を書き手として信頼していたから、いまだ読めてはいないものの、この人の書いた「オカルト関係書」も、ほぼぜんぶ買ってはいたからだ(つまり、今のところ、読んだのは小説の2冊だけ)。
そんなわけで、言うなれば、やや「上から目線」で本書を読み始めたところ、これまで知らなかったことが、ポツポツと出てきて「なかなか勉強になるな」とか「けっこう、問題を多面的に捉えていて、公正な学術書だな」などという感想を持ちながら読み進めていったところ、前述のとおり、最後の横山茂雄と栗田英彦による対談で、私は、ど直球の批判を受けることになり、反省を強いられてしまった。
だが、その「巻末対談」の部分について書く前に、それ以前の前提的な議論のいくつかを、簡単に紹介しておきたい。
まず、表題となっている「コンスピリチュアリティ」とは、何なのか?
これは、宗教学者の栗田英彦の「巻末対談」での言葉がわかりやすいだろう。
つまり、「コンスピリチュアリティ」とは、「陰謀論(conspiracy theory)」と「スピリチュアリティ(spirituality)」という2つの言葉を合成した「造語」なのだが、その意図するところは、栗田の指摘するとおり、本来は「右派」(特に男性)に見られる「陰謀論」と、本来なら「リベラル」(特に女性)に多い「スピリチュアリティ」という、「真逆」だと見られていた2つの流れが、近年の「Qアノン」なんかでは一体化してしまっており、驚くべき新現象だから、それを「コンスピリチュアリティ」と名付けて、考えてみてはどうか、というのがウォードとヴォアスの提案なのである。
ところが、「新現象」としてわざわざ名付けられた「コンスピリチュアリティ」というアイデアには、批判も少なくない。
例えば、「陰謀論」の方もそうだが、特に「スピリチュアリティ」の定義がきわめて曖昧で、二人の言うそれは、イメージ先行の偏ったものでしかなく、およそ学術的な概念とは言い難い、といった批判。
あるいは、「陰謀論」と「スピリチュアリティ」の結びつきというのは、何も昨日今日に始まったことではなく、ずっと昔からあったことでしかない。それを「新現象」のごとく言挙げするのは、基本的な誤認もいいところだ、という批判などだ。
ドナルド・トランプの支持者集団として大きな影響力を発揮し、死者4人を出した「合衆国議会議事堂襲撃事件」を引き起こした「Qアノン」の言説などを瞥見すると、なるほど、陰謀論とスピリチュアリティが結びついていて「それをコンスピリチュアリティと呼んだのか。うまいこと言うねえ」と感心させられてしまうのだが、たしかに「スピリチュアリティ」という言葉が指示するものはきわめて広範で、人によって意図するところは、けっこう大きく違っており、実質的には「(厳密な)定義は無い」に等しいし、学術用語としての「スピリチュアリティ」や、英語圏で使われるそれと、日本でよく使われるようになった「スピリチュアル」とは、決して同じ内容のものではない。
つまり、もともと曖昧な概念なのに、それを安易に他の言葉と掛け合わせて新しい言葉を作っても、目新しさこそあれ、結局は議論を混乱させることにしかならない、という批判は、納得のいくものである。
真面目な研究者からすれば、ウォードとヴォアスの提案は、新奇さに衒う「ウケ狙い」のスタンドプレイにさえ見えたのではないだろうか。
したがって、本書『コンスピリチュアリティ入門』も、「コンスピリチュアリティ」という概念を自明のものとはしてはおらず、「コンスピリチュアリティ」という曖昧な言葉が指し示す問題の難しさを、この言葉を手掛かりにして考えようとした論文集だ、とでも言えるだろう。
執筆者は、
の7人で、私はこれまでに、横山茂雄、堀江宗正、竹下節子の3人の著書を読んだことがあり、栗田英彦については、雑誌掲載論文を読んだことがある。辻隆太朗、雨宮純、清義明の3人は、本書が初見である。
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本書の「目次」は次のとおり。
まず、辻隆太朗の文章で「コンスピリチュアリティ」の、基本的なところを押さえることができる。
雨宮純の文章では、「日本におけるコンスピリチュアルティ界隈の現状」を知ることができて、読み物としてとても興味深い。
特に、私がこれまでノーマークだった政党「参政党」が、実は、もろに「コンスピリチュアリティ」的な思想を持つ、問題の多い政治思想集団であることを知らされて驚いた。
そう言われれば、ほとんど聞いたこともない政党なのに、街宣車を駐めての街頭演説などでは、不似合いに多くの支持者が街宣車を取り巻いていたのに、違和感を感じたことがあったのだが、あれはこの政党のカルト性から出た動員力だったのかと、納得させられた。
堀江宗政の文章は、宗教学界をリードする正統派学者らしく、統計資料を駆使して、本当に「陰謀論・スピリチュアリティ・インターネット」は「つながっているのか?」という疑問を呈している。要は「イメージ(印象論)だけで、物を言っていないか?」という、学者らしい忠告である。
清義明の文章は、タイトルどおり、「コンスピリテュアリティ」現象とは「宗教と陰謀論のブリコラージュ(寄せ集め仕事)」に過ぎない、とするものだ。要は、「手近にある、あれやこれや」を適当に組み合わせて「作った(厳格性を欠いた)道具」だ、ということである。
竹下節子は、キリスト教の研究者で、主に「フランスのキリスト教」を研究しているので、「フランスとアングロサクソン(英米)」の違いと、そこから来る「コンスピリテュアリティ」についての需要の差異、およびその現状について語っている。
そして、横山茂雄と栗田英彦による「巻末対談」では、「コンスピリテュアリティ」云々というよりは、近年使われるようになった「スピリチュアリティ」自体が、昔からの「オカルト」の範疇のもの、という歴史的パースペクティブのもとに、その「普遍性と強靭さ」を、真剣に捉えなければならない、とする議論である。
そのことを、横山は、特に世間では馬鹿にされがちな「爬虫類系宇宙人(レプティリアン)」の問題に象徴させて、「はたして、知識層ではなく、今の世俗化された(信仰心を失った)大衆にとって、目にも見えない神や悪魔の存在と、レプティリアンの存在の、一体どちらに、リアリティを感じられるだろうか?」と問い、栗田の方は、「学問」というものの「価値中立性」という「理想」が強調され過ぎて、無難に「事実並列型相対主義」の判断停止に陥ってはいないか、と「コンスピリテュアリティ」の問題を通じて、「学問」のあり方について、再考と自覚を促している。
どちらも、「既成の(業界的)常識」に安住することなく、「現実」を直視した上での問題提起として、時に冗談めかしたやりとりとは裏腹に、大変「重い」内容を語らっている。
このあたりについては、私の下手な要約では、到底その真価は伝わらないと思うので、少々長くはなるが、二人のやりとりをそのまま引用した上で、私の思ったところを書いていきたい。
「リベラルな知識層」が、「非科学的」と呼んでいいようなこと信じる人たちに対し、「正しい知識」を与えることで啓蒙ができ、自分たちの世界観の側に統一できると素朴に信じていること自体が、「現実が見えていない」証拠であり、「傲慢な錯誤」でしかない、という指摘である。
たしかにそうだ。
私自身、長らく「宗教批判」をやってきて、例えば、キリスト教徒の人に「イエスが死刑になって、死後三日に復活し、肉体を持ったまま天に昇ったなんてこと、事実だと信じられますか? マリアが処女懐胎しただけではなく、イエスとは違い、神でもなんでもない、人間の一人である彼女までが、肉体を持ったまま天に昇ったなんて話、信じられますか? そんなの信じられるようなら、あなたは現代人ではないですよ」などと批判しても、ほとんど何の効果もないことは、嫌というほど実感させられてきた。
彼らにすれば「それとこれとは、話が別」だと、平気で考えられるのであり、それが「あり」なら、どんなことだって許されることになり、「論理的な矛盾(一貫性の欠如)の指摘」や「議論」なんてものは、まったく無効ということになってしまうのである。
だから、そんな人が、世界中に大勢いる以上、「コロナワクチン」に「陰謀」を見る人がいるというのは、しごく当たり前なことでしかなく、「神や悪魔の存在を信じるキリスト教徒」なんかよりは、ずいぶん「まとも」な人たちだとさえ言えるだろう。
だが、この程度のことにさえ気づかないで、ちゃんと科学的に説明してあげれば理解できるはずだなんて、多くのリベラルな知識人は、迂闊にも信じてしまっている。
それができるんなら、バチカンに行って、ローマ法王に「神や悪魔なんて実在しません」と説得してきてから言え、ってことにもなるのだ。
また、「統一教会問題」についての栗田の指摘も、きわめて正しい。
これについては私も、自身が「宗教2世」であるマンガ家・菊池真理子の著作を論じて「いわゆる宗教2世たちは、統一教会は無論、その他の宗教のあり方をも批判するその一方、宗教信仰そのものは否定しないのだが、結局のところこれは、保身的な誤魔化しではないのか」と批判したことがある。
要は、自分たちの被害さえ回復されるのなら、宗教がその性質上、今後も必然的に引き起こすであろう被害には目を瞑ろうという態度なのではないか、という趣旨の批判である。結局、被害者ヅラして訴えてみても、自分のことしか考えていないのは、同じじゃないか、ということだ。
(※ 「信仰を、子供に強制してはいけない」という「宗教2世」の主張は、「嫌がっても、信仰を持たせるのが、結局は本人の幸せのため」だと信じる宗教の本質に反している。この誤認迷妄を失効させるには、信仰そのものを否定しなければ、決して本質的な解決にはならない)
また、最近刊行された「統一教会問題」本で、上にも名前のあがった宗教学者・島薗進や櫻井義秀らによる、NHKでの「討論番組」を書籍化した『徹底討論! 問われる宗教と“カルト”』(島薗進、釈徹宗、若松英輔、櫻井義秀、川島堅二、小原克博・NHK出版新書)も、注目すべきであろう。
私は、島薗の本も何冊かは読んでいるし、基本的には「良識的な宗教学者」であると肯定的に評価してもいるけれど、しかし島薗には「スピリチュアルブーム」に警鐘を鳴らす内容の著作もあって、もちろん本人は「無宗教」であり、「スピリチュアリティ」など信じてはいない。
だから、厳密に言えば、この討論会で「スピリチュアリストである若松英輔」と同席して、仲良く「統一教会」だけを批判することで、「正しい宗教(性)」を守ろうとするというのが、そもそも「偽善」であり「欺瞞」なのだ。
宗教学者は「信仰者でもなければ、宗教否定者でもない(宗教の内側の人間でも外側の人間でもない)」という、どちらでもないという立場を採っているのだが、実際のところ、そんな「立場」など、原理的に存在し得ない。
結局は、「宗教」的なものを、「現実」として認めるか、「幻想」として否定するかの、二択なのだ。その判断をするから、信仰をしたりしなかったりという「選択」が、現になされているのである。
それに、「信仰者(宗教者)」の側からすれば「信仰を持っていない者(信じていない者)に、信仰の真実がわかるわけなどない」と考えるのは当然だし、逆に「非信仰者(宗教否定者)」の側からすれば「信仰を持っている宗教学者が、信仰を客観視することなどできるわけないのだから、そんな宗教学者など、そもそも偽学者だ」ということになるので、「信仰」を持っていようがいまいが、「宗教学者」とは、万人が納得する「客観的な判定者」という立場には、原理的に立ち得ない。
つまり、「宗教学者」というのは、自身がそういう「中途半端」な(八方美人=八方ブス・的)存在であるという事実を重々自覚した上で、「可能なかぎり客観的たらん」とすべきなのだが、実際問題として、「信仰を持たない(宗教を信じていない)宗教学者」であっても、世には「信仰者」が山のように存在する現実を前にした時、基本的にはそれを「全否定」することができない。
「比較的マシな宗教とそうでない宗教はあるけれども、宗教というのは、原理的にすべて幻想であり迷妄であるという点では、まったく同じである」と(私と同様に)思ってはいても、決してそれを明言したりはしない。
そう正直に言えないからこそ、既成の社会規範からはみ出してしまった宗教だけを、スケープゴート的に「批判」することで、自分たちの存在意義を誇示し、本来的な不作為のアリバイとするのだが、そんなものは所詮、「学問的態度(客観的態度)」ではなく、身過ぎ世過ぎのための「政治的態度」でしかないのである。
したがって、栗田も言っているとおり、宗教学者には「宗教を全否定する」ことができない。何故ならば「それを言っちゃあ、おしまい」で、研究も何も成立しないから、日頃は(NHKのテレビ番組『こころの時代』的に)「できるだけ良いところを見る」ようにするのだが、当然これは「客観的な見方」とは言えない、「宗教」の側に立ったもの、でしかない。
だから、宗教学者にできることは、そうした「欺瞞」を抱えていることを自覚した上で「身の程を知って、ものを言う」ということしかないのだ。
自分たちが「(責任を有する)立場」(=信仰者または宗教批判者)を引き受けないで、曖昧に本音を韜晦しながら、それでいて「客観的な権威的判定者」のごとき顔をするというのは、昔の、キリスト教内における「異端審問官」と、なんら変わらないという事実を直視すべきなのである。
ここで、私の胸を突き刺さったのは、横山の、
という言葉である。
たしかに私は、「レプティリアン」とか言っている人は「話にならないバカ」だと思っていたし、バカにすることはしても、批判することはなかった。「批判に値しない、あまりにもくだらない(論外な)存在」だと思ってきたからである。
だから、本書を読む前に、本書のレビュータイトルとして想定していたのは「オカルトは、楽しむものであって、信じるものではない。」といったようなものだった。
「オカルト」だろうが「スピリチュアリティ」だろうが、「陰謀論」だろうが「コンスピリチュアリティ」だろうが、そうしたものは総じて「暇つぶしのネタ」でしかなく、大真面目に信じたりするものではない。それでは、あまりにバカすぎる。一一と、そう考えていたのである。
しかし、横山が指摘するとおり、はたして「レプティリアン」は、「神や悪魔」というものに比べて、それほどバカバカしい存在だと言えるだろうか?
世界に、これだけ多くの、キリスト教徒やユダヤ教徒やイスラム教徒がいて「神や悪魔」を信じており、しかも、その他の宗教を信じている者も、「名称や設定」こそ違え、なんらかの「神や仏や祖霊」なんてものを信じており、家族が死ねば、葬式をして、そうすれば「成仏する(天国へ行く)」なんて思っているのである。
そんなもの「全部、あるわけない」というのが、現代人の現代人たる所以であるはずなのだが、そのようなものとして現代人を規定すれば、現代人は人口の1割にも満たないだろう。
つまり、人間というのは、基本的に「非理性的な存在」であり、多かれ少なかれ何らかのバカバカしい迷信を信じて生きている存在なのだから、「神や悪魔や仏や祖霊や霊魂」なんて、見えもしないものを信じる人がこれだけいるのであれば、「人間に化ける(シェイプシフトした)レプティリアン」がいると信じる人がいて、どうして彼らだけが特別に「バカ」だと見下すことができよう。
自分が「リベラルな知識層」に属する「理性的で科学的な思考のできる現代人」であると思うのなら、率先して、葬式だの墓だのといった「無意味」なことは、一切やめてみせるべきであろう。
「いや、親戚づきあいなんかの関係上、そうもいかなくてね」なんて言うのなら、人が見ているところだけは形式を整えて、あとは焼いた骨なんか、庭か床下にでも捨てればいいのである。
だが、それも「なんとなく嫌だ」なんて思う気持ちがあるのなら、「コロナワクチン」を信用しきれない人を「非科学的」だなどと言うべきではないし、「レプティリアン」を信じる人をバカにするのなら、キリスト教徒やその他の宗教信者を、同じようにバカにすべきであろう。それこそが「科学的合理主義」であり「客観的で公正な態度」ではないか。
一一そんなわけで、私がこれまで「オカルトなんて、真面目に論じるに値しない」とバカにしてきたのは、間違った態度だった。
「宗教批判」として、キリスト教やその他の宗教を批判するのであれば、当然、同等に「オカルト」の類いも、「真面目に誠実に」批判すべきであった。
私はこれまで、さんざ「宗教批判」をしてきたけれど、その一方で「オカルト」批判をしなかったのは、明らかに、私の中にある「権威主義」のゆえであった。
「宗教は、批判に値する巨大な敵だが、オカルトは相手するに値しない雑魚だ」という「宗教者並みの、非合理的な序列意識(差別意識)」があったのである。
実際、私の場合にも、「宗教批判」だけでは済まされない現実を前にして、「スピリチュアリズム批判」を行ってもきた。
先に名の挙った「若松英輔」への批判も、正統なキリスト教への批判ではなく、若松の「スピリチュアリズム」に対する批判であった。
若松のそれが、正統的な「宗教」ではなく、「オカルト」を聞こえよく言い換えただけにすぎない「スピリチュアリズム」でしかなく、そんなものへの批判であったとしても、私は、それを現実問題として無視できないものだと感じていたから、真面目に批判したのである。
例えば、横山と栗田の対談で語られている「新海誠」のスピリチュアリズムについても批判をし、警鐘を鳴らしてきた。
それだけではなく、本書の執筆者の一人である堀江宗正などの著作などにも触発されて、「宗教の一種だと認識されていない、スピリチュアリズムの問題」についても、いろいろと書いてきた。
それでもやはり、「UFO」だ「グレイ」だ「レプティリアン」だ「地震兵器」だなんて話になると、そこに目を奪われて、それを信じる人たちの問題を、本気で考えることを怠ってきた。
「Qアノン」が実行動で示したように、彼ら(オカルティスト)の存在は、もはや無視して済むもの、嘲笑って済むものではないという現実を目にしながらも、やはり私は、ことの重大さに気づいていなかったのである。
「宗教については、アマチュアとは言え、一家言ある」とか「スピリチュアリズムも、推し活も、宗教のうちであり、無視してはならない現象だ」などと言いながら、子供の頃に「娯楽」的に楽しんでいたようなもの(オカルトの類い)については、「娯楽対象」だと、どこか軽く見てしまっていたのである。
だが、もうそんな甘い認識ではいられないほど、そうしたものは現実の中に浸透し、とてつもなく広まっており、もはや「娯楽」の対象などではなくなっているのであろう。
それは、宗教と政治に興味を持つ私でさえまったく知られないうちに、「陰謀論的極右」の性格を有する「参政党」が、国会に議席を持つまでになっているといった事実にも示された、今ここの現実なのではないだろうか。
たぶん、「宗教」であれ「オカルト」であれ「スピリチュアリズム」であれ「陰謀論」であれ、それらを、「常識的、論理的に考えて、ありえないでしょう」というような「啓蒙的批判」によって、抑え込むことは不可能であろう。
それはちょうど、政治の世界における「安倍晋三人気」とか「維新の会人気」と通ずるものだと思う。
つまり、いくら「具体的な証拠を示して、論理的に批判」したところで、多くの人たちは「信じたいものを信じ続けるだろう」ということだ。
しかし、だからと言って、そうしたものを認められない私たちとしては、それをただ黙認するというわけにはいかない。
しかしまた、こちらの意見が論理的に正しいから、無理矢理にでも「愚民たちを従わせなければならない」などという「正義感」を振り回すのも誤りであろう。
私たちは、私たちに許された範囲で、果たすべき使命を果たすしかない。
それが仮に、不合理ゆえの悲劇、例えば「ヒトラーが引き起こした悲劇」への道を歩むもののように見えたとしても、やはり、こちらの「正義」を 無理矢理押し通すようなやり方は、間違っているように思う。
しかしまた、それも「限度もの」ではあろう。
本当に「ヒトラーが引き起こしたような悲劇」が、目の前の現実となるならば、その時は、自らの「正義」を信じて立たなければならないのであろう。
そう考える私の前には、ヒトラー暗殺計画に加担して絞首刑になった牧師、ルードリッヒ・ボンヘッファーが立っているのである。
無論、そこまでいかないことを祈りはするのだが、未来のことは誰にもわからないのだ。
(2023年4月11日)
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