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第四波フェミニズムの嫡子・北村紗衣 : 『現代思想 2020年3月臨時増刊号〈総特集〉フェミニズムの現在』を読む(第2回)
『現代思想 2020年3月臨時増刊号〈総特集〉フェミニズムの現在』(青土社)を読了したので、今回は、332ページで32本の記事全体を通して印象に残った点について、「第2回」として書かせていただこう。
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そもそも、本誌同号の「〈総特集〉フェミニズムの現在」というのは、2020年当時、フェミニズムが盛り上がりを見せていたということから組まれた特集であり、当然、そのブーム自体は、2、3年も前からのものと見てよいだろう。
例えば、その時期のものとして、すでに私も記事にした、2019年の「日本赤十字社による献血PRポスター」炎上騒動なども発生しており、この頃、同様の「セクハラ広告狩り」がしばしば話題になったことを、記憶しておられる方も少なくないのではないだろうか。
この「献血PRポスター炎上騒動」で、主導的な役割を果たしたフェミニストは、弁護士の太田啓子と、「武蔵大学のテニュア教授」である北村紗衣の二人なのだが、当時、この二人は揃って次のように証言している。
『弁護士 太田啓子「これからの男の子たちへ」(大月書店)@katepande
@mototakiryu (略)類似の事例で批判を受けて撤回するような騒動は近年いくつもあったのに、どうして学ばないのでしょうね。
2019-10-14 22:45:43』
『saebou @Cristoforou
ちょっと前に、ややセクシーな看護師の服装で健康診断をすすめる効果についての研究が厳しく批判されてて、医療分野にやたら刺激的な宣伝を持ち込むことの倫理性についてはかなり議論があるはずなんですが、赤十字はちゃんと押さえてないのかな。jech.bmj.com/content/72/5/e1
2019-10-16 12:18:01』
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つまり『類似の事例で批判を受けて撤回するような騒動は近年いくつもあった』とか『ちょっと前に、ややセクシーな看護師の服装で健康診断をすすめる効果についての研究が厳しく批判されて〜かなり議論があるはず』とあるとおり、この種のフェミニズム的な「批判告発運動」が、2019年の前の数年間には続いていた、ということである。
そして無論これは、アメリカ発の「#MeToo運動」の影響によるものだ。
2017年10月15日、女優のアリッサ・ミラノが、映画業界(ハリウッド)内においてセクハラ被害を受けたことのある女性たちに向けて"Me too"と声を上げるようツイッターで呼びかけたことから拡大し、その結果、ハリウッドの大物プロデューサーであったハーヴェイ・ワインスタインが逮捕され有罪判決を受けるに至ったこの「#MeToo運動」から、日本の「ツイッター・フェミニズム」は、直接的な影響を受けている。
つまり、この2017年から本誌同特集号刊行の2020年頃というのは、日本でも「インターネット上を中心にしたフェミニズム」の活動が、ハッキリと活発化した時期なのだ。
しかしながら、フェミニズムが盛り上がったのは、何もこの時だけではない。
1990年代後半にフェミニズムが盛り上がりを見せたことがあったのだが、その際には、それへの反動としての「バックラッシュ」が発生し、さらにその後の安倍晋三長期政権の下で「それまでのファミニズム」は、後退を余儀なくされたのである。
したがって、その後に来た「2010年代後半のフェミニズム」の盛り上がりは、いったんは後退してしまったフェミニズムが、新たに盛り返した時期として注目を浴びたものであり、本誌同特集号のタイトルが「フェミニズムの現在」となっているのも、それは「前回のブームでのフェミニズム」とは、いささか趣きの違った特徴を、今回の「波」が持っているということを示唆したものなのである。
そしてその今回の「波」の特徴とは、それまでの、いわゆる「第三波フェミニズム」のような「女性の社会的な権利や地位の獲得」を中心とした「政治性の強い運動」、印象としては「うるさいおばさんたちの運動」ではなく、インターネット上での言論活動を中心として、流行文化などにもコミットする、もっと若い世代の、「キラキラした(オシャレな)印象のフェミニズム」といった、ポピュラリティの強化されたものであった。
したがって、この2010年代後半からの、「新たな傾向」を持ったフェミニズムの波を「第四波フェミニズム」と呼ぶ者もあれば、Twitter(現「X」)などのSNSを駆使して展開されるフェミニズムとして、蔑称的に「ツイフェミ」と呼ぶ者もある。
しかし、この「2010年代後半からの新たな傾向を持ったフェミニズム」については、フェミニズム嫌いの男性だけではなく、「第三波フェミニズム」にコミットした女性たちからの批判も、決して少なくはない。
というのも、この「第四波」的なものには、「第三波」的な「女性の社会的な権利や地位の獲得」については、「すでに一定の成果を勝ち得た」と考える傾向の、「ポストフェミニズム(フェミニズム後のフェミニズム)」という性格が含まれるためだ。
つまり「すでに女性は、社会の中で男性と対等に闘えるようになってきたのだから、あとは女性個々が努力して、自己実現を果たすべきだ」とするような、競争主義的な「ネオリベラル・フェミニズム」という性格が含まれていたのである。
私が、以前、ナンシー・フレイザー他による著書『99%のためのフェミニズム宣言』のレビューで紹介した、「リーン・イン・フェミニスト」の代表選手と言ってよい、Facebook社取締役理事ともなったシェリル・サンドバーグなどは、まさにこの「ネオリベラル・フェミニスト」の代表格でもあれば、「ポストフェミニズム」の代表選手でもあったのだ。
つまり、完全にイコールというわけではないけれども、「第四波フェミニズム」とは、「ネオリベラル・フェミニズム」的に「ポスト・フェミニズム」的な「ポピュラー・フェミニズム」であり、新自由主義的な「個人主義」「実力主義」的な性格が強いのである。
したがって、「いまだ女性の権利は、十全に確保されたわけではない。その権利を得たのはごく一部の者に限られる」と考え、「フェミニズムとは、一部女性の権利の獲得を目指すものではなく、人種や階級と交差したところで、すべての女性の権利の獲得を目指すものだ」と考えるような「第三波フェミニズム」的な人たちには、当然のことながら、この「第四波フェミニズム」的な傾向を、丸呑みすることはできなかった。その「新たな傾向」の存在事実は認めても、それがネオリベラリズム(新自由主義)にスポイルされた、「フェミニズムと呼ぶに値しないもの」だとそう考えて、これを批判したのである。
そして、ここまで紹介すれば、前述の「北村紗衣」が、日本における「第四波フェミニズム」を象徴するような人物であるというのは、もはや明白なはずだ。
なにしろ北村紗衣は「Twitterのフォロワー5万人」のインフルエンサーで、メディアにも露出し、映画批評など軽めのエッセイを収めた著作を何冊も刊行しており、そのたびに「ジュンク堂書店」などで記念イベントをやって、若いファンを集めているような人物なのである。
また、たいへん興味深いことに、北村紗衣は、そんな自分を「インフルエンサー」だと評した、映画マニアの須藤にわか氏を、「自分はインフルエンサーではなく、シェイクスピアの研究家だ」と激しく非難して、この「インフルエンサー」という表現を撤回させたりしている。
言うまでもなく、「シェイクスピアの研究家」であることと「インフルエンサー」であることは、並立可能である。たしかに、そういう人物が滅多にいないというのは事実で、日本ではたぶん北村紗衣ただ一人なのかも知れないのだが、それにしてもどうして、北村紗衣は「インフルエンサー」と呼ばれることに対して、このように激しい拒否反応を示したのであろうか?
それはたぶん、北村紗衣自身が、自分のことを、「資本主義」経済体制に取り込まれて「フェミニズム・マインド」(反差別精神)を失い、すっかり「ネオリベラル・フェミニズム」に染まった「ポピュラー・フェミニズム」的存在であり、「ポスト・フェミニズム」的な「リーン・イン・フェミニスト」にほかならない、「第四波フェミニズム」の象徴的な人間であると、そんな「自覚」を持っているからだろう。
もちろん、北村紗衣自身は、今も「ジェンダーバイアス是正の必要性」を説いており、「ポスト・フェミニズム」的にあからさまに「フェミニズムは、すでに達成された。あとは個人が努力してキラキラと活躍する地位を、自力で獲得しなければならない」などと言ってはいない。
しかし、なぜそれを言わないのかと言えば、それは無論、そこまで言ってしまうと、資本主義格差社会において、おのずと「社会的地位を得られない多くの女性」からの反発を招くと、そう認識しているからだ。
実際、北村紗衣は、前述のシェリル・サンドバーグが、そのわかりやすい「エリート主義」によって、多くのフェミニストから批判された事実を知っているので、その同じ轍を踏むまいと、今も常識的な「ジェンダーバイアス是正の必要性」を説いているだけなのだ。
『 しかしながら、『LEAN IN』(※ シェリル・サンドバーグの著書)に対しては刊行当時から批判もあり、そうした批判は経済や社会の変化とともにどんどん強まってきています。ミドルクラスの白人で、仕事で出世したいと思う女性だけをターゲットにしたものであり、結局は企業に都合が良いだけの著作だというのが主な批判でした。ベル・フックスは刊行後にこのような観点から批判を行い、サンドバーグを「えせフェミニズムの新しい顔」と呼んでいます。』
しかしだからこそ、その「本質」であるところの「インフルエンサー」という属性を不用意に突いてしまった須藤にわか氏に対し、北村紗衣は激しく反発して、これを否定しようとしたのだ。
「フォロワーが5万人」もいて、そのフォロワーに向けて毎日のようにツイートしている北村紗衣は、客観的事実として「インフルエンサー」の一人であり、普通ならその事実を否定しなければならない理由もない。
そう呼ばれることへの好悪はあるにしろ、客観的事実として「インフルエンサー」と呼ばれたことに対し、それを否定するというのは、明らかに「不合理な行動」なのだ。
例えば、北村紗衣を「武蔵大学のテニュア教授」だとか「軽いエッセイ本を何冊も刊行しているネット・アイドル」だと評しても、それは間違いでもなんでもない「事実」であり、北村紗衣は、それを合理的否定することはできない。なのにどうして、そうした自身の「ポピュラリティ」を否定しようとするのか?
一一それは無論、自分の「ポピュラリティ」とは、「学者」としての実力によるそれではなく、「新自由主義的資本主義」に迎合した「タレント学者」のそれであるという事実を自覚し、それに「やましさ」を覚えているからである。
つまり、「本当のこと」であるからこそ「やましく感じているところ」を突かれたものだから、これに激しく反発し、そうした「正当評価」を、力尽くで打ち消そうとしたのだ。
閑話休題。
そんなわけで、私の見立てによれば、その「ネオリベラル・フェミニズム」で「ポピュラー・フェミニズム」で「ポスト・フェミニズム」で「リーン・イン・フェミニズム」的な性格を持つ「第四波フェミニズム」は、一一すでに「衰退期」に入っている。
そしてその切っ掛けとは他でもない、北村紗衣が主導した、2022年の「呉座勇一を名指しで告発したオープンレター(女性差別的な文化を脱するために)」における「やりすぎ」だ。
この「オープンレター」事件の経緯については、「小山(狂)」氏による次のnote記事「オープンレター騒動を簡単にまとめてみた」を参照していただくとして、要は、呉座勇一に「女性蔑視的な発言」があったことは事実だとしても、北村紗衣たちは、そのことですでに謝罪していた呉座に対して、「オープンレター」というかたちでの「ネットリンチ」の「公開処刑」を加え、呉座の社会的地位や職まで奪ってしまったという、そんな「過剰報復」が問題なのである。
で、このことに対しては、当初から「やりすぎだ」という批判があり、しかも「オープンレターへの署名には、でっち上げがあった」という事実まで露見するに至り、この「オープンレター」は、その中身をすべて「消去」され、まるで無かったことのように、「証拠隠滅」されてしまったのだ。
北村紗衣は、「Wikipedia日本語版」の「編集」にたずさわる「ウィキペディアン」としても知られる人物だが、この「オープンレター」が、現在「Wikipedia」において、どのようなものになっているかを見るだけでも、北村紗衣らが「オープンレター事件」において「やりすぎた」と感じている「やましさ」が、ハッキリと窺える。
どういうことかと言うと、このオープンレター事件は、「オープンレター」という通称的な語句では検索に引っかからないように、わざわざ「女性差別的な文化を脱するために」という語句だけで「Wikipedia」に項目登録されているのである。
しかも、この「女性差別的な文化を脱するために」には、北村紗衣をはじめとした「呼びかけ人」や、1000人を超える「署名者(賛同者)」の名前が、いっさい掲載されておらず、そこで批判された「呉座勇一」の名前さえ無い。
あるのは、「賛同者」として、勝手に名前を使用された「オープンレターの被害者」と、この事件を論評した学者の名前だけなのだ。
無論、こうした「事件・トラブル」の項目において、「直接関係者の氏名が、完全に伏せられる」というのは、当たり前の事態ではない。
事実、「オープンレター」の発起人の一人である、東京大学教授の清水晶子が、その著書で対談を行った芥川賞作家・李琴峰に対するネット上での誹謗中傷問題については、完全に、李琴峰が被害者であると決めつけたかたちで、「李琴峰」の項目に、「誹謗中傷者」とされた人物の氏名が、私がその事実を指摘した後のつい最近までは、列記されていたのである(つまり、私の批判を受けるなどして、辻褄合わせの削除をおこなったのだろう)。
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一一したがって、こうしたダブルスタンダードが何を意味するのかは、もはや明白であろう。
「オープンレター」事件は、北村紗衣たち関係者にとっては、「触れられたくない部分」なのである。
だからこそ、北村紗衣たちは、それに関する「Twitterログ」「Togetter(まとめサイト)」や「Wiki項目」の削除や改竄を行なって「証拠隠滅」を図ってきたのだが、こうした悪行が祟って、日本における「第四波フェミニズム」の印象は悪化し、もはやハッキリと退潮傾向に示しているのだ。かつての「イケイケ」的なノリの勢いが、見られなくなってしまっているのである。
(※ ここに収められていた90本以上もの「まとめ記事」が、つい最近になってすべて「削除」された)
一一そして、そうした「第四波フェミニズム」の退潮を示すひとつの証拠が、歴史学者・与那覇潤による「オープンレター事件告発書の刊行予告」である。
そんなわけで、今や「ネオリベラル・フェミニズム」で「ポピュラー・フェミニズム」で「ポスト・フェミニズム」で「リーン・イン・フェミニズム」的な性格を持つ「第四波フェミニズム」は、風前のともしびであり、これまではそのブームの勢いに「沈黙を強いられてきた人」たちは無論、「口をつぐんできたフェミニスト」たちも、北村紗衣ら「第四波フェミニズム」を、(いささか小粒だとはいえ)シェリル・サンドバーグと同様の「えせフェミニスト」として、「名指しで批判する」ようになるだろう。
なぜ、そこまで言えるのかと言えば、本稿で扱っている『現代思想 2020年3月臨時増刊号〈総特集〉フェミニズムの現在』に寄せられた「32本の記事」のうち、「第四波フェミニズム」に好意的なものなど、ほとんど無いからである。
前回「第1回」で紹介した同号冒頭の記事、鼎談「分断と対峙し、連帯を模索する。一一日本のフェミニズムとリベラリズム」の参加者である3人のフェミニスト、菊地夏野、河野真太郎、田中東子のうち、河野真太郎、田中東子の2人は、同号刊行後の2021年(令和3年)4月にインターネット上で公開された、件の「オープンレター」に参加している。
河野真太郎は「発起人」の一人として、田中東子は「賛同署名者」の一人としてだ。
しかし、そんな二人でさえ、本稿の「第1回」で示したとおり、「ネオリベラリズム(新自由主義)」的な「第四波フェミニズム」の傾向に、もろ手を挙げて賛同しているわけではなく、「問題はあるが、現状の事実として認めて、検討していかなければならない」的な「玉虫色の立場表明」をしているのである。
だから、ましてや、「市民運動」的に「女性の権利の獲得」のために、地道な活動を続けているフェミニストや、例えば「従軍慰安婦」問題や「労働者」問題に取り込んでいるような「現場のフェミニスト」たちが、「ネオリベラル」な「第四波フェミニズム」など、支持しようはずがないのだ。
しかしながら、それでは、そうした人たちが、本誌当号において、名指しで「日本の第四波フェミニスト」を批判しているのかと言えば、それはしていない。
これは、いかにも「日本人らしい」態度とも言えるだろうが、しかし、同号刊行当時はまだ、「第四波フェミニズム」の象徴的な人物である北村紗衣でさえ、著作を1冊しか刊行してはいなかった。つまり「第四波フェミニズムの、象徴的な人物」には、なりおおせてはいなかった段階だったのである。
本号に寄せられた、北村紗衣の文章は「波を読む 第四波フェミニズムと大衆文化」と題するもので、今となってみれば、北村紗衣の行く末を暗示するものになっている。
北村紗衣は同稿で、いまだ定説にはなっていない「フェミニズムの時期的区分」について、内外の文献に当たりながら、いちおう「4波」に分けて、それぞれの特徴を説明している。
つまり、内容的には、特にどうということのない、一種の「フェミニズム入門的な名称解説文」にすぎないのだが、同稿で注目すべきなのは、その「あとがき」にあたる「最後に」の部分で、北村紗衣が、次のように「当時の立場と心境」を語っている点である。
『最後に
異例ではあるが、著者がこの論考を書くにあたって感じた強烈な居心地の悪さについて記して本論考を終わりたい。著者は二〇一九年にウェブ連載をまとめた『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』というフェミニスト批評エッセイ集を刊行している他、Wikipedia でジェンダーバイアスを減らす活動に取り組んでおり、さらに@Cristotorouというアカウント名でTwitterもやっている。つまり、オンラインでの活動が多いフェミニストである。
連載を始め、まとめて刊行したあたりから、イベントをするたびに女性読者から楽しかったという感想を頂いたり、またTwitter 等で女性と思われるユーザからさまざまな質問を受けたりするなど、ある種の「ファン」として記述できそうな読者が現れるようになった。著者が「日本にもセレブリティフェミニズムが求められているようだ」ということを理解したのは、この過程を通してだ。著者はあまり有名ではない研究者であり、田嶋陽子やグロリア・スタイネムのようなセレブリティではない。そんな人間でもファンになってくれる読者がいるほど、日本の女性はロールモデルにできそうなセレブリティフェミニストを必要としているようなのだ。著者は知らないうちに第四波フェミニズム的な風潮の真っ只中に投げ込まれていた。
客観的な記述を心がけないといけない研究者としては、これはあまり好ましくない事態である。本論考はできるかぎり先行研究のレビューや事実の指摘にとどめたが、著者が自分でも認識していないうちに大きな第四波のうねりの中に巻き込まれていたということは書いておきたい。波を数えているうちに、波の中に入ってしまっていたのである。この論考は、波の中から書かれている。』(P54)
要は、北村紗衣は、この段階ですでに、自分が「日本のフェミニズム界」においては、あまり好ましいとは思われていない『セレブリティフェミニズム』、つまり「ポピュラーフェミニズム」の「リーン・イン・フェミニスト」の仲間入りしかけていると、そう自覚していたのである。
で、そのことに、積極的な「喜び」を表明していないというのは、先に言及したシェリル・サンドバーグなどが「フェミニズム内で、厳しく叩かれた」先例を、すでに知っていたからであろう。
しかしまた、それで北村紗衣が、「学者」に徹しようとしたかといえば、無論そうはならなかった。
北村紗衣はその後、順調に「ポピュラーフェミニズム」の道を歩み、「リーン・イン・フェミニスト」として、日本規模のものではあれ、みごとに「セレブリティ・フェミニスト」に、なりおおせたのである。
すなわちそれが、「武蔵大学のテニュア教授」で「Twitterのフォロワー5万人」の「インフルエンサー」ということであり、「新刊を刊行するたびに、ジュンク堂書店で刊行イベント」を開くような「人気者」になった、という「事実」なのだ。
したがって、これまで私が何度も指摘してきたとおり、北村紗衣が『ジェンダーバイアス』(性差別)の問題には言及しても、その他の差別、例えば「部落差別」(同和問題)、「在日朝鮮人差別」、「沖縄米軍基地問題」などには、ひと言の言及もないのは、決して、それに気づいていないからでも、無知だからでもない。
「ネオリベラル・フェミニスト」として「資本主義」社会の中での「上位の1%」たらんとする北村紗衣としては、そういう「資本主義の被害者=99%の人たち」に同情する気などさらさらなく、むしろ、そうした「99%」から「搾取する立場の人間」として、そういう「格差(差別)は無いと困る」という立場に立っているためである。
また、「キラキラ」することで「ポピュラーフェミニズム」の「セレブリティ・フェミニスト」になりおおせた北村紗衣としては、「第三波フェミニズム」的な「泥臭い(うるさいおばさん的な)イシュー」としての「部落差別」(同和問題)、「在日朝鮮人差別」、「沖縄米軍基地問題」などになど、関わりたくはない。
そうではなく、映画や音楽、ファッションなどの華やかなカルチャーを語り、社会問題になどには興味ない若年層をファンにすることこそが、「資本主義」社会における「勝者としての著名人(セレブリティ)」たらんとする「ポピュラー・フェミニズム」を選んだ自分の歩むべき道だと、そのように自覚されているのである。
ある寄稿者が書いているように、この特集号『フェミニズムの現在』における編集意図とは、「現在、盛り上がりを見せているフェミニズムを、この先、どのようにして発展継続させていくべきか?」という問題意識にあった。
つまり、「第四波フェミニズム」的に盛り上がっているというのは事実なのだが「これでいいのか? このままでいいのか?」という問題意識が、この特集号には、込められてもいたのだ。
だからこそ、本号を通読して驚かされたのは、寄稿者であるフェミニストの多くが、「第四波フェミニズム」的なるものを好ましいとは思っておらず、「一部の者だけが良い目を見るのを是認するようなフェミニズムで良いわけがない」と考えていた点である。
したがって、このような「ネオリベラル・フェミニズム」的に「ポピュラー・フェミニズム」である「リーン・イン・フェミニスト」の「セレブリティ・フェミニズム」でしかない「第四波フェミニズム」の退潮傾向が、ハッキリしたものとなってくれば、非フェミニストの与那覇潤だけではなく、他でもない「フェミニスト」の中からも、「北村紗衣とその周辺の、ネオリベラルなポピュラーフェミニスト」を批判する人たちが、必ずや出てくるはずである。
今は、北村紗衣を名指しにして批判する者は、マスメディア上にはいないに等しいが、北村紗衣らが「総スカン」を喰らうことになるのは、もはや時間の問題だろう。
だから私は、ここで多くの人に訴えておきたい。一一「オープンレター」の参加者は無論、北村紗衣に同調するかたちで、「ネオリベラル」な「ポピュラー・フェミニズム」に加担している、「フェミニスト」「共著者」「出版社」「書店」などについては、その「体制翼賛的な迎合ぶり」を、しっかりと記録しておいてほしい。
先の戦争において「戦争協力した文学者」の多くが、敗戦後には、手のひら返しで「平和論者」に転向したという恥ずべき歴史が、我が国にはあるように、恥も外聞もない「日和見主義者」というのは、決して少なくはない。一一と言うよりも、むしろそっちの方が多いのだ。
だから、例えば5年後くらいに「私は、第四波的な傾向は、フェミニズムのネオリベラルな資本主義的退廃だと思っていた」とか「北村紗衣なんていうタレント学者は、批判する気にもならなかった」などと、反省も無しに言い出すかも知れない人たちの「現状」を、しっかり目に焼きつけておいていただきたい。
いずれ「歳をとって、キラキラが失われた北村紗衣」が、「フェミニズムの踏み絵」ともなる時代の訪れる蓋然性は、決して低くはないのである。
(2025年2月14日)
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(※ 北村紗衣は、Twitterの過去ログを削除するだけではなく、それを収めた「Togetter」もすべて削除させている。上の「まとめのまとめ」にも90本以上が収録されていたが、すべて「削除」された。そして、そんな北村紗衣が「Wikipedia」の管理に関わって入ることも周知の事実であり、北村紗衣の関わった「オープンレター」のWikipediaは、関係者名が一切書かれていないというと異様なものとなっている。無論、北村紗衣が「手をを加えた」Wikipediaの項目は、多数にのぼるだろう。)
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