見出し画像

022 承和


承和

承和(じょうわ) 834年−848年
平安時代
天皇:仁明天皇
出典:不明
別読み:しょうわ

デザイン:響雷レオ

身長・誕生日・性格

179cm
2月14日生まれ
豪快ワイルドおじさん。
細かいことは気にしない性格。

年号について

淳和天皇が譲位し、仁明天皇(にんみょうてんのう)が即位したことに対する代始の改元です。
仁明天皇は、淳和天皇の子どもの恒貞親王(つねさだしんのう)を皇太子にしましましたが、これは影響力を持っていた嵯峨上皇の意向によるものです。本当は自分の子どもの道康親王を皇太子にしたかったようです🧒

承和9年に嵯峨上皇が崩御すると、朝廷は恒貞親王派と道康親王派で対立するようになります。
嵯峨上皇という後ろ盾がなくなった恒貞親王派は、道康親王派に攻撃されることを恐れて、恒貞親王の側近である伴健岑(とものこわみね)と橘逸勢(たちばなのはやなり)が恒貞親王を東国へ移動させる計画を立てました🤫
しかし!この計画が道康親王派に漏れてしまいます。道康親王の叔父にあたる藤原良房と仁明天皇は、健岑と逸勢の二人が恒貞親王を奉じて挙兵するとみなして兵を出し、恒貞親王の宅を包囲しました。
恒貞親王派の藤原愛発(ふじわらのちかなり)や藤原吉野らは捕らえられて、その後健岑と逸勢も捕まり、事件は終息しました。

恒貞親王は事件とは関係なかったようですが、皇太子は廃されて代わりに道康親王が皇太子に。恒貞親王派の皇族・公卿に流罪、解官などの処分が下されました。
この事件は「承和の変」と呼ばれます。この変の結果は藤原良房の権力を爆上げしたみたいな感じでしょうか。多くの政敵を消し、皇太子の叔父になれたんですからねぇ。そもそも健岑たちは挙兵を計画してないわけで、権力ゲットを目論んだ良房が仕組んだ陰謀だったのでは……とも考えられています🪤

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?