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027 貞観
貞観
貞観(じょうがん) 859年−877年
平安時代
天皇:清和天皇、陽成天皇
出典:不明
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身長・誕生日・性格
175cm
5月20日生まれ
笑い上戸。酔っていなくてもよく笑う。
年号について
清和天皇即位の代始の改元です。文徳天皇の崩御によってわずか8歳の惟仁親王が清和天皇として即位したのですが、実は文徳天皇は暗殺されたのではないか……?という疑惑があったりしちゃってます☠️
立太子の時点では、惟仁親王は生後8ヵ月でした。完全に赤ちゃんです🍼
本当はもっと有力な皇位継承者の惟喬親王がいたんです。でも自分の孫推しの藤原良房によって惟仁親王が皇太子に。
このとき文徳天皇は「惟仁の立太子まあいいよ。いいけどさ、惟仁まだちっちゃいしさ、惟喬をとりあえず中継ぎで皇位継がせようよ。んで、惟仁はおっきくなってからにしようよ……」みたいなつもりだったようですが結局叶わず。
その後、文徳天皇が突然死したわけなので、どーしても孫の惟仁親王を天皇にしたかった良房の暗殺では……なんて噂されてるんですね。怖いってば。
貞観8年(866年)に「応天門の変」が起こります。
応天門は平安京の大内裏の内側にあった門でかなり重要な門です。それが炎上したところからこの事件は始まります🔥
大納言の伴善男(とものよしお)が、左大臣の源信(みなもとのまこと)が放火したんだ!と告発します。
けど、太政大臣の藤原良房は源信の無実を訴え、逆に源信の失脚を狙った伴善男の犯行だ!と告発。
最終的に伴善男・中庸(なかつね)親子、紀豊城(きのとよき)・夏井兄弟などなどが首謀者とされ流罪になりました。
真相はわかりません。でもこの事件により、名族だった伴氏と紀氏は没落、藤原良房は清和天皇から摂政の地位を与えられたのです。
摂政は天皇の代わりに政務を処理する役割で、良房は天皇と同等の権限をゲットしたことになります。良房の意向が朝廷の意向、藤原氏の天下を決定づける出来事が応天門の変だったんですね。
良房は貞観14年(872年)に亡くなり、あとを養子の基経が継ぎます。基経の妹の子である貞明親王(さだあきらしんのう)が皇太子とされました。
貞観年間には、隕石が落ちたり富士山噴火したり、東北地方震源のでかい地震が来たり……。天変地異が続発です☄️🌋
大荒れの国は幼い天皇の目にはどう映ったのでしょうね。