012 天平勝宝
天平勝宝
天平勝宝(てんぴょうしょうほう) 749年−757年
奈良時代
天皇:孝謙天皇
出典:不明
身長・誕生日・性格
148cm
8月19日生まれ
他人とは違ったことをしたがる。
見上げるほどおおきいものが好き。
年号について
前回の天平感宝に続く四字年号です。改元理由は聖武天皇が譲位し、孝謙天皇即位。金の献上で改元から譲位のタイミングが早かったので、天平感宝は約3ヵ月の短い年号になってしまいました。
天平勝宝4年に、東大寺の大仏(盧舎那仏)がついに完成、開眼供養が行われました。
同8年に聖武太上天皇が崩御すると、孝謙天皇は独自の政策を実行し始めます。
翌9年には、聖武太上天皇の違勅により皇太子になっていた道祖王(ふなどおう)をなかったことにして、大炊王(おおいおう)を皇太子に立てます。どちらも天武天皇の孫ですが、大炊王は孝謙天皇が重用していた藤原仲麻呂とめちゃ仲が良い人物だったんです。
同じ年に、橘奈良麻呂の乱が起こります。
※橘奈良麻呂のお父さんは橘諸兄(たちばなのもろえ)で、聖武天皇時代に左大臣をしていました。
橘奈良麻呂の乱を簡単に説明するとこんな感じです
〜743年(天平15年)〜
橘奈良麻呂「聖武天皇が病気でヤバそうだ!次の天皇は黄文王にしよう。阿倍内親王(孝謙天皇)が皇太子だけど、女性で1代限りになっちまうからやっぱ男じゃないと!」
〜749年(天平21年・天平感宝元年・天平勝宝元年)〜
孝徳天皇「即位したぞよ!」
藤原仲麻呂「全力で支えますぞ!!」
橘奈良麻呂「は?」
〜756年(天平勝宝8年)〜
橘諸兄「朝廷の悪口言ったのチクられたんで辞めます」
道祖王「聖武太上天皇の遺言なんで、皇太子になります!」
〜757年(天平勝宝9年)〜
孝謙天皇「道祖王はちょっとね。大炊王にしましょう」
藤原仲麻呂「君主が言うならそうしましょう。大炊王、めっちゃいいとおもいますよ😏フフッ」
橘奈良麻呂「親父の諸兄は死んじゃうし、仲麻呂たちムカつくしもう我慢ならん!」
こんな感じで奈良麻呂は仲麻呂を排除しようと不満を持つ者達を集めて挙兵することにします。
孝謙天皇は謀反の噂を聞くと、「皆が逆心を抱くのをやめて、朝廷に従いなさい」との詔勅を発します。
でも、その後すぐにまた謀反の参加を呼びかけられたとの情報が入り、当人の小野東人を捕らえ、翌日訊問します。
右大臣藤原豊成・中納言藤原永手「お前...…謀反すんの?」
小野東人「いやいやいやいや!ないです!絶対ない!ないないない!!」
その報告を受けた孝謙天皇は仲麻呂を傍らに置き、塩焼王・安宿王・黄文王・橘奈良麻呂・大伴古麻呂を前に「謀反の企ての報告は信じない」と宣命を読み上げました。
そのあとすぐ、右大臣の藤原豊成を訊問から外して、もう一回小野東人たちを拷問にかけました。すると、
小野東人「そうです!すんません!謀反しようとしました!!
橘奈良麻呂と大伴古麻呂と安宿王と黄文王とみんなで仲麻呂潰そうとしました!!
大炊王なんか皇太子にするのはやめさせて、
右大臣の藤原豊成に仕えて天下に号令、天皇やめさせて次の天皇を
塩焼王、道祖王、安宿王、黄文王の中から決めようと思ってたああああ!!!」
この供述で、奈良麻呂をはじめ、名前が挙がった人物はみんな逮捕されました。
聴取に対し奈良麻呂は「だって政治が無道なんだもん」と話したそうです。
こうして孝徳天皇・藤原仲麻呂の政治体制は固まっていったのです。
そんな仲麻呂も、反乱を起こすことになるのですが...…😨
実は天平勝宝年間は、天平勝宝7年以降、「年」を「歳」としなさいなんてよくわからない勅命が出されたので、天平勝宝七歳・天平勝宝八歳・天平勝宝九歳という表記が正しいのです。
でもこの記事ではわかりにくいので「年」で統一して表記しています。
結局、次の天平宝字の改元で「歳」はやっぱやめて「年」に戻したようなのでご安心を。
(この時代麻呂麻呂すぎて誰が誰だか分からなくなります💦)