「可哀想な私」の再生産
中学生くらいからことある毎、書いた文章の一文である
最近、恋人さんに家庭環境逆マウントしてしまうのが嫌で嫌で、色々考えていた
家庭環境逆マウントは元彼から散々されていたから、自分はそんなことしないなあと思ってたのだけど、ずいぶん私もコンプレックスというか、色々拗らせてるんだなあと最近感じました
そのコンプレックスがまだ自分の中で燻ってる理由として、ずっと、「可哀想な私」でいることが、生きるための手段だったのでは、と思いました
小学生の頃から、書類のために別で呼ばれたり、いろんな奨学金を渡り歩いた学生生活だったりとか、キリスト系団体のキャンプで六年間くらいにわたって「お金がない子」としての枠で通っていたりとか(別に周りの子に知られるわけでもないが)
「お金がなくても、チャンスはあるし、なんでもできるよ」というような母の投げかけの「お金がないよ」という部分だけ、残り続けてしまっているのだと思う
「可哀想な私」であることは多分その時点では事実で、奨学金がもらえなければ塾にも行けなかっただろうし、バイト詰めの大学生活を送らなくても済んだし、理系学部くらい高い大学費用を半分以上賄えた幸福(それ以外にもたくさん恩恵を頂いてきている)は貧困化が進む今の社会の中では、ずいぶん上手く社会を利用して生き抜いたとも言えるだろう
社会人になって、私は普通の人(働いて、1人で暮らして、生活をしている、好きに生きている)で、友達もいれば恋人もいる
それでも、大好きな姉さんと話していたりすると、「可哀想側」の持ちうる影とコンプレックスって一生付き纏う(悪いものなのか?)物なのだろうなと少し寂しくなった
もう社会では使用できない「可哀想な私」カード、早く断ち切って「面白い私」カードとかで人生を決済していきたいなあ
間が合う人ってこういう、なんかやるせない経験をしてる人が多い傾向ではあると私は思っているのだけど、
人間みんなどっかしら抱えてるよって言われて、そんなこと分かってるよって思いながら、反論できない自分の方が悔しかった
惨めでありたいのか、それが生き方なのか
だから時々人間を辞めたくなるのではないか、
不幸に沈むことに慣れすぎて、幸福は青い薔薇だと思っているのか、
塗り絵で薔薇を青く染めたところで、そいつは出てこない
可哀想な私でいることが、‘可哀想な人’とされている人への慰めなのかもしれない
分からない
VCH秋で、可哀想な人を可哀想な人のままにしない?みたいな文脈があって、もう少し話をしたかった
可哀想って思う人がいるから‘可哀想が生まれるのでは?’とか、
それなら私は自分で自分の呪いを解かないといけないね
にこさんのこのnoteも
テーマ性は全く違うが、
少し似ている気がする
でも一生かかっても、なれる気がしない
先のことなんてわからないけど
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