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何で愛知って豊○市が多いの? 【歩いて目指せ日本橋8日目】

この記事は、江戸時代の旅人みたいな放浪の旅に出たいと思い立った人生どん詰まりの京都在住OLが、京都三条大橋から東京日本橋までを徒歩で旅しようと試みた18日間の記録です。


【ルール】

①東海道上に設けられた53の宿場町を通り、京都三条大橋から東京日本橋を徒歩で旅する。
②通行止めなど余程の理由がない限り、「東海道」以外の道を歩くことは禁止。道を間違えた場合は、間違えた地点まで戻って歩き直す。
③移動手段は基本徒歩。徒歩で渡れない三重〜愛知間の移動のみ電車OK。
④各宿場町では、歌川広重の浮世絵集「東海道五十三次」と同じ構図で写真を撮る。

【前回の記事】


 

三河国・藤川宿(愛知県岡崎市)

藤川の東棒鼻(宿場町の東側の出入り口)

ご無沙汰です。藤川宿まで戻ってきました。前回の旅は6月半ばだったのですが、酷暑の中20キロ以上歩き続けるのは命取りなので、夏の間は京都に引きこもっていました。涼しくなったら歩こうと思っていたら、早いもので年末です。ここからは日の短さと寒さとの戦いです。
今回は、藤川宿から赤坂、御油を経て吉田宿に向かいます。総距離は20キロ程度と街道歩きにしては短めですが、翌日に予定している移動距離がえげつないので、控えめにしておきます。まずは、藤川宿から8.8キロ離れた赤坂宿へと向かいます。

三河国・赤坂宿(愛知県豊川市)

江戸まで76里(296キロ)と朝から現実を突きつけられて泣きました。そんなにあるの?
江戸時代の建物を復元して無料休憩所として開放するのは東海道あるあるです


まだ朝で体力が有り余っているので、あっさり赤坂に着きました。

多色擦りのマンホール大好きです

赤坂のマンホールには、歌川広重が描いた赤坂宿の旅籠の光景があしらわれています。右半分にいるのは、身支度中の飯盛女(めしもりおんな・宿場町の私娼)です。
今回の旅の範囲である、赤坂から吉田までの区間は、「御油や赤坂、吉田がなけりゃ、なんのよしみで江戸通い」と詠まれるほどの遊興地で、飯盛女を抱えた宿が多く立ち並んでいたそうです。明治に鉄道のルートから外れた為、今は閑静な住宅地になっていますが、江戸時代は夜な夜なパーリナイだったと思うと面白いです。

隣の御油宿のビフォーアフターです


浄泉寺

推定樹齢270年のソテツ


浮世絵の中心にあるソテツは、現在は浄泉寺の境内に移されていました。この東海道の旅のルールの1つ「歌川広重の浮世絵と同じ構図で写真撮影」の赤坂宿編は、この蘇鉄の写真でクリアとしました。復元された建物はあれど、広重の浮世絵の被写体の大半は現代に残っていないので、こうして広重が実際に目で見て描いた実物を見ることが出来るのは貴重です。

大橋屋(鯉屋)

蘇鉄の他に、広重の浮世絵のモデルとなったとされているのが、旅籠・大橋屋です。なんと、2015年まで現役の宿泊施設だったそうです。現在は無料見学ができる他、地域の方向けのイベント会場として活用されています。

次の御油にむけて、600m続く松並木に沿って歩きます。この松並木は国の天然記念物にも指定されています。


三河国・御油宿(愛知県豊川市)

東海道 今も昔もゆっくりと!

東海道は基本5キロ以上がデフォルトなのですが、赤坂、御油間はたったの1.7キロと東海道の中で最短です。
松尾芭蕉(東海道を旅していると5億回くらい名前を聞く人)は、「夏の月 御油より出でて 赤坂や」と、距離の短さを夏の月が出ている時間の短さでたとえた句を詠んでいます。要するに「早!!!!」という意味です。もうちょいスピード感が近い例えはあったと思いますが、幻想的な一句です。私だったら「爆速で着きました」としか表現できません。情緒って大事ですね。

赤坂と御油は、元々は「赤坂御位」という1つの宿場町だったのですが、徳川家康によって「でかすぎる」と2つに分けられました。赤坂、御油自体は小規模ですが、2区間の道も合わせた1つの宿場町として見ると、確かにかなり大きいです。ただし、あまりにも距離が近いので、東からの大名は御油、西からの大名は赤坂で宿泊するようにルールを設け、住み分けがされていました。

この旅をしていた当時は、恥ずかしながら御油のごの字も知らなかったのですが、後々東海道を歩いた話を祖父にしたところ、「じゃあ御油も通ったのか」と、真っ先に御油の名前が出てきて驚きました。私が歩いたルートから少し外れたあたりに住んでいたそうです。私の親戚は全員関西におり、私自身もこの東海道の旅をするまで愛知に訪れたことがなかったので、愛知には全く縁もゆかりもないと思っていたのですが、まさか旅がきっかけで、御油との縁を知るとは思いませんでした。思わぬ形ですが、祖父の過去の話を聞くきっかけができて嬉しかったです。

先ほどの松並木にちなんだ、御油おふくの松ぼっくり形のもなかを食べました。


御油から吉田までの道の前半は国道1号線沿いで、車がとかく多くなかなか写真を撮れる状況ではありませんでした・・。後半ファミマの上に架かっていた虹だけで失礼します・・・。

三河国・吉田宿(愛知県豊橋市)

豊川にかかる豊橋(とよばし)
橋の上は風が強くてきつかった・・


吉田宿に着きました。先ほどの赤坂と御油は豊川市内の町なのですが、吉田宿は豊橋市です。豊川にかかるこの橋は幕府直轄の「天下橋」で、東海道の中でも最大規模のものでした。昔は地名をとって「吉田大橋」と呼ばれていましたが、今は豊川にかかる橋として、「豊橋」とに改名されています。豊橋市の名前もここからきているそうです。(市名との呼び分けのために、橋の方は濁って「とよばし」と読みます。)

元々は「吉田藩」と呼ばれていたこの地域ですが、明治初期に明治政府から「伊勢国(三重県)の吉田藩と被るから改名しろ」と言われ、橋の「豊橋」からとって「豊橋藩」と改名しました。これが市名として今も残っています。
豊川にかかる橋だから豊橋、その橋の名前をとって豊橋市というのは非常に分かりやすいのですが、愛知県には豊橋の名前の元になった川の名前を冠した豊川市に、トヨタのお膝元の豊田市に加え、豊明市豊山市とある中で、豊橋市も「愛知県豊○市多すぎる問題」の深刻化に一役買っています。吉田から豊橋に改名した当時は、まさか廃藩置県で愛知県が生まれ、その中に豊がつく市がいくつも誕生するとは、誰も想像しなかったでしょうからね・・・。愛知の方々はゴッチャになることはないのでしょうか?

なんとか日が沈む前までにゴールできたので安心しました。流石新幹線が停まる豊橋だけあり、宿とご飯には困りませんでした。翌日のおやつ用に例の豊橋名物も購入したので、また次の記事で紹介しますね。
そして、次回はいよいよ愛知県を抜けて、静岡県へと入ります。今後の旅のハードさは、冬の寒さと日照時間の短さにどこまで対応できるかに加え、東海道の宿場町の半分近くが集中する静岡県とどれだけ仲良くなれるかにかかっています。楽しい思い出を沢山ありがとう、愛知!そしてお手柔らかに、静岡!

資格の勉強で7月は忙しく、中々更新できなかったのですが、なんとか8月は頻度上げて投稿できる様に頑張ります・・・!
また次回も読んでいただけると嬉しいです。
寧々

愛知も後半戦です

【おまけ】歌川広重の浮世絵と同じ構図で各宿場町の写真を撮るシリーズ

赤坂宿 
真ん中のソテツは、おそらく広重が描いたものと同じだそうです
御油宿
客引きの女性と、逃げようとする男性の図が面白いです。今と全然違う・・・。
豊川と豊橋がゴッチャになりがちだったのですが、「橋を超えて入る方が豊橋市」という西からの旅人にしか通じない覚え方で区別できるようになりました。

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