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強くならなければならない、だから強くなった

時々、この世のものとは思えないほどの寂しさに襲われることがある。

私は身体障害者手帳を9月に申請して、まだ結果が出ていないので、現状「身体障害者」として国から認められていない。
いくら車椅子が必要でも、玄関にスロープをつけなければならなくても、そんなに大きくまとまったお金はないし、市役所の担当者に相談したところで「身体障害者手帳がある方が補助の対象です」と門前払いされてしまう。
だから、業者さんからのご好意で貸してもらっている車椅子で、高齢の両親が運転する車に乗って通院などの外出をしている。

そうなると、自然と人との関わりが希薄になる。
友人と会えない、仕事に行けない、居場所がない状態になる。
次々に浮上する悩みを打ち明けられる人も、近くにいるわけではないし、支援の中核になってくれる関係者が全員、私の状態を見て「あなたは重度ではないから、デイケアなどに行っても結局後回しにされたり、放置されたりするだろう」と言う。
斡旋してもらったデイケア事業所の1日の流れがなかなか過密で、私はそこに行ってもスケジュールをこなせない。
となると、市内には他にもうないし、市外のことは担当の相談支援員は知らないから自分で調べてくれ、ということになる。
自分で調べたところでどこが自分に合うのかなんてわからないし、調べても斡旋してもらえないと意味がない。

…と、なんだか愚痴のようになってしまったけれど、そんなふうに、今現時点で「制度の狭間」を生きている身として、この10ヶ月間だけで本当に何度も何度も人に裏切られたし、貶されたし、見捨てられた。
行政とか、自治体とか、細かく言えば社会福祉というのは、本当に外面がいい。
しかも自分たちがクレームを入れられたり、訴えられたり、問題になって面倒なことにならないように、上手いことギリギリのラインで見捨ててくる。
市内にあるただ一箇所の事業所のパンフレットを送るとか、最低限のことはやってくれるけれど、そもそもそこに行けないとか、本当に困っていることを伝えても「それなら自分は管轄外だ」とみんなにたらい回しにされたり、物の言い方など、対応に人の心を感じられないほど、とにかく冷たい(もちろんみんながみんなそうと言うわけではもちろんないだろうけれど、少なくとも私の関わった人はなぜか全員そうで辛かった)。

そういう人々と関わって生活していると、自分の社会的立場がだんだんわからなくなってくる。
自分は何に位置付けられ、どこに身を置いて、どう生きていったらいいのか。
自分は何がしたい、より、自分には何が残されているのか、を常に考え、次第に自分が何者なのかもわからなくなってくるのだった。

「強さ」は悲しみの裏返し

私は線維筋痛症だけではなく、精神の病気も同時に患っていて、こちらはもう闘病して10年経つ。
久しぶりに人と会って話したりすると、「強くなったね」と言われることがままある。
素直に嬉しいし、他人から見て強くなったって思えるってことは多分本当にそうなんだと自信になる。

同時に、「強くならざるを得なかったんだよなあ」と思う。
10ヶ月、先に述べたような状況を乗り越えるには、とにかく必死で自分の命を守り抜くしか他はない。
実家暮らしとはいえ、家族に私の心境や痛みが100%代弁できるかといえばそうではないし、支援の手続きや申請を代行してくれる人はひとりもいない。

「12歳で親を亡くして、そのうち戦争が始まり、長女として兄弟姉妹を養うのに精一杯だった」という亡き祖母は、本当に神経が図太いというか、驚くほど楽観的だった。
物言いも強かったし、イメージ通りの「強い女性」だった。
でも、それだけ祖母が経験してきたことは、祖母の楽観さや強さに大きく影響していたのかもしれない、と今なら思う。

もともと生まれつき勝気で物言いが強かったり、あんまり物事を気にしない人もいるのかもしれない。
でも私は「自分が強くならざるを得なかった人」だからというのもあって、勝気だったり物言いが強かったりする人は、同時に悲しい過去があったり、現時点で苦しかったりする人なのかもしれない、とだんだん考えるようになった。
冷たい、とか、きつい、と言われる人ほど、本当はすごく寂しさを抱えていたり、悲しみを隠していたりするのかもしれないなあ、と思う。

私は病院で医師に診察してもらう時も、看護師さんに話を聞いてもらう時も、家族といる時も、涙を流すことは本当に減り、代わりにすごくふざけるようになっていた。
だから、もしこのまま悲しい感情に蓋をし続けたら、自分が人を泣かせる立場になってしまうかもしれない、と思い、麻痺して見えなくなりつつある本当の気持ちを母に数ヶ月ぶりに話して、数ヶ月ぶりに泣いた。

この世の中に、特に謙遜社会のこの国に、強い人なんて実は存在しない、と思うと、今まで支援関係者にされてきた冷たい対応も、全部ではなくても、何だか「仕方ないか…」と思えるというか、諦められる気がする。
今は物価高で低賃金で、大人も子どももみんな生活が大変な時代だからこそ、許しあわなきゃ行けないこともあるんだと思う。
寂しいのはきっと、私だけではない。

明日は選挙に行く。
非公認の裏金議員に2000万、のニュースを見た時、普段ニュースを見ることがほとんどないのもあってか、何だかいまいちピンとこず、「まあ、ヤバいことしたんだな、ヤバいね」という、何ともふんわりマヌケな感想しか抱いておらず、特に具体的に怒りの感情などは湧いてこなかった。
とりあえずヤバいタイミングでヤバいことしてくれたのか、そうか〜、おばかだなあ、と思っていた。
けれど、状況を自分に置き換えると「自分がどんなに懇願しても、国から1円も購入補助すらされない車椅子を、国の偉い人が議員の足の悪い娘にあげた、しかも1台2000万円」とか思ったら急に腑が煮えくり返った(ピンとこない時は、自分の大事にしているものと状況を置き換えると急に現実味を増してくるんだなあ)。
裏金なんだのは本当に人としての最低限のことだけれど、子育て支援、障害者支援、高齢者の生活の保障など、とにかく人々の安定した暮らしを実現してもらわないと困る。
そして、私のように、それぞれの制度の狭間にいる人たちの尊厳を守る社会を作れる人に、一票を投じたいと私は強く思っている。


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