めんたね肉じゃがカレー溶け込み開陳ツイート発言考察 【 自分にめんたね思想の教育が足りないせいだから?か知らないけど、そのたとえ話 よくわからないよ】
ドロドロに 玉ねぎだけでなくジャガイモまで溶け込ませたようなカレーこそが、素材を水に浸したままのレン話状態よりずっと素晴らしいのである!って言いたいの?どういうこと? なんだったんだろう。先日の元晴フレアさんの ドラクエの皮の鎧が プライベートロジックが PLという服が どうたらこうたら
たとえ話が たとえ話として ほんとうに 機能しているの?って なんとなく思います。あ!めんたね教育がたぶん足りないせいだ。めんたね宗派の教えを教えてください!入信すればいいんでしょう?ってなりそう。
レン話師匠にはできるかどうかわからない。って書いているのに、なぜか 素材に戻っている。なんかたとえ話が こじれている気がするなぁ。ずいぶん前にあった「ぼくはミソジニーではないからぼくこそがミソジニーなのである!」にも読める長文と同じで、あるいは鈴木さんやじゃじゃまるさんに一瞬見えたことのある ねじれ文のような 矛盾文のような
なにかやっぱり 代弁ライターか 編集者がいるのかなぁ。 Aikoさんというかたは編集者のかたみたい 国語セミナーの担当みたいだけどね そのかたと関係あるかは全然わからないよね。
ここからコピペ
めんたね(あぶない)
@dmentane
誰かが言ってることの表層的な部分を自分自身の日常生活と紐づかない形で単なる知識として頭の中に入れておいて、それを機械的に順列組み合わせでつなぎ合わせて言葉として吐き出しているのがレン話師匠の論評的なツイートで、なんせ表層の言葉だけ持ってきてるからトコトン浅い。
めんたね(あぶない)
@dmentane
Replying to
@dmentane
徹底的に煮込んで、玉ねぎもジャガイモも全てドロドロに溶けて消えてなくなったようなカレーというのが、外から入ってきた知識を自分の内部にまで十分に染み渡らせて自分の思考ネットワークの一部に取り込んだものだとしたら、師匠のはまだ煮る前の具材がそのままの形で冷えて水につかっている状態。
めんたね(あぶない)
@dmentane
そういう人間は自分が既に知っていることを見かけると「うん、これはわかる!」と考え、自分がまだ知らないことに出会うと「これは間違っている!」と否定するだけか、または勝手に自分が知っていることと少し似ている部分を探して「ここを知ってる!」と思って思考が終わる。
めんたね(あぶない)
@dmentane
物事の理解とか語り方について、肉じゃがみたいにある程度味はしみ込んでいるが、具材の形をそのままゴロゴロ残した形で語るタイプの人とドロドロカレーのように完全にその人の中に溶け込んで自分自身の言葉となって出るタイプの人がいる。
めんたね(あぶない)
@dmentane
肉じゃがタイプもあまりに煮込み方が足りないと、単なるツギハギでその人の思考や感情が感じ取れない。この人、本当にわかってるのかな?と外から見ていて不安になったりする。
めんたね(あぶない)
@dmentane
話をさせると浅い人というのは、結構たくさんいるんだけど、レン話師匠のようにあんなに浅いのに自信満々に人まで一生懸命その浅い考えを開陳する人は少ない。それが彼を一流の芸人として成立させている。
普通の人たちはどこか自分の浅さに気付いており、恥じて口を閉じてしまう。
ここからコメント
どういうことなの!これは! 今日は真っ暗だから、もう 寝るしかないかと思ったけど、これは、なんかもう、たとえ話が 全然たとえになってなさすぎなんじゃないの?って思えてきてしまって、なにを どう たとえているんだろう? 筆者の意図を読み取るの、相当難しいんじゃないの?これ!
いや、そうでもなかった。要はさ、自身の経験などと 読書などから得られた知識や経験を結びつけた上で語る話というのは 価値が高いんですよっていう話だと思うんだけど、それを 肉じゃがやカレーにたとえているのが、全然 、一見 たとえとして美しそうに見えても、全然、たとえになってない気がするんですよね。
たとえるなら たとえばこうなんじゃないの? なんか ツギハギみたい なのだとしたら、肉じゃがじゃなくて、たとえばこの人は「お寿司を握るのって ただ単に、ご飯を丸めて 切った魚の切り身をのせれば、いいだけでしょ? 食べられればなんでもいいじゃない ?」みたいに この人は思ってない? みたいな感じなのでは。
なんの例がいいんだろう。ドロドロカレーって、 それ、煮込みすぎじゃないの?それ煮込みすぎた悪しき例じゃないの? それだとたとえば、本を読んでその本のレビューや感想文を、自身の過去や経験と結びつけて書くはずが、本の紹介というジャガイモやニンジンなどの素材の部分を無視して、ほとんど存在消しちゃうかのようにして、Amazonの本のレビューで、もはや 自分の過去や 自己紹介などの 自己語りをしちゃうような 事故みたいなレビューのようなものなんじゃないの? じゃがいもまでが溶けて無くなるほどの カレーやシチューや肉じゃがって、とてもいいものだとは思えない。なのに、なんかそれをいいたとえに使っているのかなんなのか、よくわからない。だから、このたとえ話 奇妙なんだと思う。
わざわざ こんなこと書いてしまったなぁ。バカだなぁ。じぶんは。
添削せずにはいられないのかも!だってあまりにも、おかしい、奇妙だからだ。おかしいって、おもしろいっていういみじゃなくて、奇妙だっていう意味でおかしいって言ってる。
肉じゃがとカレー たとえがおかしい。
それこそ めんたねあぶないアカウントの中の人は、肉じゃがやカレーのこと、わかって言ってるのかな?大丈夫?ってなりそう。
中の人が何人かいるかもしれないし、ゴーストライターやゴーストアドバイザーもいるかもしれし、思考の外注してるのかもしれないし、その辺は、わからないけど、でも最終的に投稿するのってきっと、本人なんでしょう?
もしたとえば 勝手な想像だと、パソコンメールで送られてきたら、それをコピペして投稿するだけ だったりするのかなぁ?
それともあれか、ツイッター内のDMで送信してもらえれば、それをコピペしたっていいし 鍵アカ作って、やりとりでもすれば、投稿をコピペするだけとかもできそう。
めんたね「レン話師匠こそが 長文で自らツッコミどころを作る天才なのである!」うん。そうだと思う。だってツッコミどころ、こないだのミソジニーのときと同じくらいあるもん。
ドロドロカレーにたとえたら、だめでしょう。それこそ、だめになっちゃってるよね。素材 は いい話なんだけど、ツギハギで、その話、だめになっちゃってると思う。まさに自分自身の行動を そのたとえ話で 自己紹介しちゃっているのでは? 恐ろしや、でもおもしろいかもしれないけど、でも、おそろしや、わらえるかもしれないけど、でもおそろしいよちょっとこれ。
その素材、ほんとうにいい話なんだよ。 だって、主張をするとしたらやっぱり なにか本を読んだときに、自身の今までの経験や価値観や 過去の出来事とか 将来のこととか いろんなことと 自身のことや背景と 本の内容を結びつけて ぼくわたしは こう考えました!こう思いました!こうしようと思いましたとか、こうとらえられるようになりました!とか、そういう感想文やレビューって すごい価値が高いものだと思うんですよ。だから、それを述べるための素材のキーワードが混じっているのに、なのに、なんか、自己紹介になってる、なんかおもしろいというか、不思議。やっぱりゴーストライターさんが いるのかなあ?
めんたね「レン話師匠はたとえ話がたとえ話などには決してなってなどいないのだよ!」と昨日?言ったばかりで、元晴フレアさんの昨日のたとえ話や、今回の肉じゃがカレー「開陳」ツイート。
すごい 伏線回収がこんなに近いだなんて なんでなんだろう。最終回や打ち切りが近いっていうこと? そんなことはない?
そういえば、今日、テレビを少しみたら面白かった。コンビみたいな人が出てて、一方から一方への 愛がすごかった。「ぼくが お前のこと育ててやったんだよ」と言いたげに見えた。そういうの、相性によっては 「なにそれ きもちわる!そういうの、求めてないし いらないし うざったいから」になるんだけど 「ついていきます!」みたいだった。