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溶けた体温、蕩けた魔法

久しぶりにnoteを開いたら、プロフィールに”19歳”と書いてあって驚いた。
19歳、ぎりぎりティーンエイジャーな感じは今の私からすると若々しく、旬の桃を連想させる。
といっても今の私と歳はひとつしか変わらないのだが、なぜだかその境目には太めの赤い線が引かれているように思える。

そんな話はさておき、今日はどうしても文字にして残しておきたくなるような大きな感情に襲われたため、am1:24、キャンドルの灯りだけの部屋でブルーライトを放つ四角に向かっている。

ヤマアラシのジレンマという言葉をご存知だろうか。
ドイツの哲学者ショーペンハウアーが執筆した、随筆集「余禄と補遺」の中にある寓話をオーストリアの心理学者フロイトが精神分析の説明に引用したのちに、アメリカの精神分析医ベラックが、人間関係における心理的距離感の葛藤を「ヤマアラシのジレンマ」と名付けたものだ。
(”ハリネズミのジレンマ”という言葉も同等の意味を待つものとして有名であるが、ヤマアラシの針は刺した相手の体に刺さったまま残るが、ハリネズミの針は刺した相手には残らない という動物学的な違いを踏まえた上で今回は”ヤマアラシのジレンマ”という言葉を用いる。)
そう、まさにここ数日間、この言葉の意味、痛み、人間関係の難しさをひしひしと感じたのだ。
今日はそこから感じたことを綴りたい。

数日前から恋人とお話合い(世間でいういざこざ だろうか)をしていて私の気分は限りなくブルーだった。

お話合いとは何ぞや、と思われるであろうから一つ弁明する。
恋人とは高校の頃から3年くらいお付き合いしているのだが、俗に言う喧嘩 というようなどちらか一方が相手に対して怒ったり感情をぶつけるイベントが発生したことがない。その代わりに相手に不満がある時はいつも、冷静に問題点を話し合い、聞き、今後どうしていけば過ごしやすくなるか考えるイベントが発生する。
なのでここではお話し合いと呼ぶことにする。

といっても、お互いにあまり不満がない私たちは、滅多にお話し合いをしない。(過去3回くらいだろうか、、、?)その、滅多にない”お話合い”、をしたものだから、すごくカロリーを消費したし、自分の直視したくない感情とも向き合う時間が必然的にできたのだ。

実は過去の恋愛にはあまりいい思い出がなく、むしろ裏切られてトラウマを植え付けられた記憶しかないので、恋愛における人間関係にめっぽう弱い。

なので心から好きな相手でも100%信用することはできなかったし、自分のすべてを曝け出して見せることもできなかった。(そもそも他人なんだから100%信用していなくて当たり前 という意見もあるだろうが、私の理想としては100%信用して心から気を許し合いたいのだ。)

そんな私が心から信頼できて、心から愛することができた人、できる人が、今の恋人である。

だからこそ、一方的に感情をぶつけて行き違うより、ちゃんと、目を見て話し合える恋人が尊く、美しいと思う。

「大切にしたいからこそ、我慢してしまうし、嫌な気持ちにさせたくないからちょっとした不満も言い出しずらい。けど、これからもずっと一緒にいたいって思うから、少し不満に思っていることも伝えてお互いがちょうどいい距離を見つけられるようにしたいって思える。」
「だから、聞いてくれてありがとう。」

こう恋人は私に言うのだ。


正直、ここまで他人と向き合うのは初めてだった。


私は大体どんな人とでもうまくやっていけるし、気に入られる。悪口を言われたってちっとも痛くない。でもそれは裏返せば、他人に全くの無関心であるということなのだ。

だからこそ、ここまで大切にしたいと思えて、直視したくない過去のトラウマや自分を見つめて、痛みを感じながらも、それでもそれよりも大切にしたい、ずっと一緒にいたいと思えるような人間がこの世にいたのか、と感慨深い気持ちになった。

恋人の言葉にあったジレンマや私の気持ちは、傷を負いながらも相手を温めようとするヤマアラシにそっくりだと思った。

その棘は、取れなくていい。
取れなくていいのだ。

刺さったまま、その痛みも全て、全てが愛おしく、自分の一部なのだ。

だから私は"ハリネズミのジレンマ"ではなく、"ヤマアラシのジレンマ"という言葉を用いた。

タイトルにある、『溶けた体温、蕩けた魔法』というのは、言わずとも知れたSumikaの名曲の曲名だ。

普段は邦ロックのバンドが歌うラブソングなんてまともに聴いていられないのだが、歌詞にハリネズミのジレンマを思わせる内容が含まれていることを思い出し、恋人と和解した帰りの車で聴きながら帰った。

私の淡い輪郭を縁取り、成長させてくれる恋人には感謝しかない。

これからもそんな素敵な恋人と、ちゃんと向かい合いながら歩んでいきたい。

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