#3 成人。
成人しました。
やったー!めでたい!!よっ成人!!!
無理やりテンションを上げてお祝いムードにしてみようと試みましたがこのままいくと150字で死にかねないのでやめます。
もう成人の日から4カ月経つし。
大学やら帰省やらのタイミングが絶妙に合わず式には参加できませんでしたが、午前式だった高校時代の友人と午後から合流してプリクラを撮り、高校やら公園やらで写真を撮り、ちょっといいご飯を食べに行きました。
プリクラとか本当に久しぶりで、振袖なのも相まってオロオロしてしまいました。
どうぶつの森でキャラクターがオロオロしたリアクションをとるあれを三次元で再現してしまっていたような気がします。(伝われ。)
割と頻繁に連絡を取っている友人だったので新鮮味みたいなものは特になく、「新成人」という少しキラキラした称号に酔って内容のない馬鹿みたいなことをタラタラ話していたら気付けば23時近くでした。
彼女とはいつまでも馬鹿みたいなことで笑い合っていたいなと思ったりしてます。えへへ。
前撮りのお話。
振袖をレンタルしたお店がレンタルのみ(前撮りや当日の着付けなどがプラン外)のお店だったのでイマドキ女子っぽくInstagramでフォトスタジオを探してDM経由で予約しました。
イマドキじゃん。(?)
チェーン店ではなさそうで、当日のスタッフさんはメイクさん・着付けのお姉さん・カメラマンさんの3名のみで、少人数で和気あいあいと撮影をする感じでした。まじで楽しかったです。ほんとに。好きな音楽とかかけてもらったりしちゃって。もう最高。優しい空間ありがたい。
普段は撮る側に回ることが多いというか、趣味で人や物をパシャパシャしてるので自分が被写体だとどう立ち回ればいいのか分からずアワアワしてしまいましたが、それでもすごく楽しい時間でした。
割と自由にさせていただけて、メイクだヘアセットだ撮影の様子だを娘同様カメラが趣味の父がちょこちょこ撮影するのを許していただけたり、家族写真を撮っていただけたり、「花束を渡したい」というサプライズのお願いにも全面協力していただきました。感謝してもしきれません。(バカデカ段ボールを別室に保管したり両親の視線を誘導したり、サプライズの様子まで写真に収めていただいたりと本当に全面協力という言葉以上に全面的に協力をしていただきました。ありがたい…。)
写真も所謂「エモい」感じで、花瓶から生花を都度カットして、手で持ってみたり、顔を隠してみたり、挙句お花を咥えてみたり、二度とないくらいお花と触れ合わせていただきました。お花咥える人生なんて想像してなかったよね~。
撮影のときは内心はてなマークがたくさんだったんですが、やっぱり写真になると「なんかいい感じ」なのでプロってすごいです。(とは言えお花を加えた顔面を晒す勇気はないのでジェラトーニと戯れる私をあげてみます。)
帰りには使わなかった生花を花束にしてプレゼントしていただいたりもして、恥ずかしくて顔から火が出そうだけどとてもいい経験が出来ました。幸。
お祝い。
ゲームセンターと高校と公園と…当日振袖を着て街を闊歩していると、見ず知らずの方からいくつか「おめでとうございます。」の言葉をいただいてしまいまして、素敵な文化だなぁと思いつつ、果てしなく人見知りなのでキョドってしまいました。
嬉し恥ずかし人見知りでドギマギしてしまってまともなお返事を出来なかった駅前の公園にいたおじいさん、ごめんなさい。
それから公園でわざわざお母さんの影に隠れながらも「お姉さん可愛いね!」って話しかけてくれた少女、笑顔で「ありがとう」が精一杯だったけどお姉さんはあなたの言葉がとっても嬉しかったです。ありがとう。
お母様も娘さんにお声掛けしつつ、お祝いの言葉をくださいまして、本当にありがとうございました。
当日の公園のおじいさんや女の子然り、レンタル振袖屋さん然り、フォトスタジオのスタッフさん然り、着付けをお願いしたサロンさん然り、わざわざサロンさんの最寄りまで出向いてお花をくださった中学時代の先輩然り…ありがたいことに挙げたらキリがないほど度々お祝いの言葉をいただけまして。
「こんなにお祝いされるのはこの先出来たら嬉しい卒業式とあるか分からない結婚式くらいでは?」と思いつつ、「20歳になった“だけ”なんだよなぁ...。」とも思いつつ、理解はできるしありがたいし嬉しいけれど、そんなにお祝いしていただけるほど出来た成人ではないんです…という申し訳なさに似た感情を抱いてしまいました。
素直に人からの好意や善意を受け取れなくて悔し苦しいです。(嬉恥ずかしみたいに言うな。)
成人だからもう大人だね。
幼少期に見た成人の日に振袖を着て歩いていたお姉さんだとか、二十歳を超えた年の新年の集まりでお酒を飲んでいた親戚のお兄ちゃんだとか、大学1年生のときに関わりがあった2年の先輩だとか…20歳はもっと大人だと思っていました。
何を以て「大人」とカテゴライズするのかは分からないし、そもそも明確な判断基準が過去の自分にあったとも思えないけれど、でも今の自分があの頃思い描いていた「大人」になれているかと考えると、それは何らかの基準を用いなくても違うなと思ってしまいます。
思想とか無意識的なこだわりとか、そういう個人的な基準みたいなものが私の中には存在するような気がします。
「まぁこんなもんだよね!」と楽観的に考えればいいレベルの話だとか、「意外と大人ってこんなもんなんだなぁ。」って自分の基準を自分で作るとか、そういうのが人よりもちょっと苦手なように感じてます。
相対評価をして劣っている部分だけにスポットを当ててしまっているのだろうなと、客観的かつ自尊心総動員で考えれば思わないこともないですが、常にそういうメンタルで生きていると心が過労で死にかねないので難しいなと思ったりします。
成人したのでもう少し生きやすい人間に
意識的になっていけたらなの気持ちではあります。
あと面白くて読みやすい文章を
書けるようにもなりたいです。
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