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目に見えるものだけが全てじゃない「アーティスト」としてのNCT127
人に要求、期待するということは、自分も要求、期待される立場であるかもしれない。常に対象がいるなら、反転した自分が映し出される。
このタイトルにしたのは、私が大好きなNCT127、そして悠太くんについて、語りたいと思ったから。
今回は、その中でも、私が誇る最高のアーティストである、中本悠太さんに関連したお話である。
ちなみにこの写真は、中学の時に作った信楽焼のバラの箱。何回見てもいい色味してる。流石信楽焼。そして焼いてくれた方。
さて、あるツイッター界隈では、
ヘチャンをかまってあげて。
ジョンウを可愛がってあげて。
特定のケミだったりシパの類が嫌いだ
というようなツイートを見かけたことがある。このツイートがなんでタイトルに繋がるねんて思うけど、繋がる。chain, reaction 繋がる連鎖(気になる方はぜひNCT127のchainという曲を、いや、全曲をご視聴ください)
今はファンとアイドルとの交流がオンラインに限定されていたり、
アイドル、アーティストのコンテンツだけを観ることでしか、「アイドル」を捉えきれないからこその上記に挙げた言葉だと感じる。
でもコンテンツを見るたびに
悠太くんは本質的に、助け合うということを理解している、と思う。
彼はラジオや何かで、「おれを好きになってくれる人は優しい人しかいない」と時々語る。
上記の本質的な、助け合う、ということについて整理したい。NCT127を好きになってから1年半、たくさんの超えるべき壁のようなものが、彼らにも、私たちファンの間でも起こった。と思う。そして、今でもファンな方は、彼らを一心に好きなのだろう。ある意味。
理解したいから。応援したいからか。
よく思うのが、自分自身が相手のことを理解しようとして行動していないのに、相手のことを全てわかったかのように勘違いしていることが多いんじゃないか、ということだ。
今時性格やら血液型やらという概念で自分のことも定義づけするような機会がある。しかし、人間は生年月日や出生時間で人の選択肢が個々に与えられているならば、そんな簡単に定義づけはできないと思うのだ。人は変わるものかもしれないし、結局本質的なところは変わらないかもしれない。全ての選択肢を選ぶか選ばないかは自分だから。
けれど、そういった、「アイドル」として画面に出ている以上、それが彼らのすべてじゃないということだけは述べておきたい。
彼らには彼らの時間とそれに伴った軋轢が生じたり、相手を受け入れる自分を持っていたりする。人間だから。
その壁を乗り越えて同じゴールを達成するために、本質的に、助け合いたいと思っている。はず。(ゴールというのは、簡単に例えれば、1位を獲る、であったり、もっとファンが増えてほしい、とか。)
相手を理解することを諦めるんじゃない。その真逆だ。(いい意味の諦めも個人によって、状況によってはあると思うけれど。)
じゃないと、今回のstickerという活動で韓国の音楽番組を総なめできるわけがない。そこには、
悠太くんがラジオでも言っていたように、「楽しもう」というようなマインドを持っている彼らがいるからこそ、
そしてそのように思える時までに至った過程があるからこその結果ではないのか。
ファンが過激にとやかくいうようなことは何もないと思うのだ。この考えの方、御手を挙げてくださいませ。
諦めではなく、もっと知りたいと思うからこそ、応援したり、好きでいたりするんじゃないのか。私は、もっと知りたいし、その音楽やパフォーマンスのエネルギーを私の「人生」において糧にさせて頂きたいし、彼らには幸せでいてほしい。それだけだ。
話は戻る。結論、そのファンがツイッターで呟く、特定個人への「要求」「期待」は、時には毒となって自分に返ってくる、と。
ファンとは、良くも悪くも愛の証である。と思う。
そして、無意識的な「不満」「生理的な不快感」を、相手への「要求」や「期待」という名の言葉で正当化したり、昇華していないかどうかを、本当にそのグループを応援しているなら、考えたほうがいいと感じるのだ。(日常でも同じことだと思う。)
グループを応援しているのか、それとも個人を応援したり、好きでいるのかということが焦点ではなく、問題だと感じることは、
その「アイドル」を好きな自分を、何かの言葉で正当化しているということ。
つまり、コンテンツ内で、何か気に入らないと自分が不満や不快感に襲われたから、そのメンバーに対してよくない言葉を呟く。こういったことの悪循環について、自分の負の感情のエネルギーを出すことであるから、疲れないのだろうか、とは思う。
誤解、偏見は自分の価値基準で、考え方そのものだと思う。アイドルを応援する上での弊害に感じる。特定のメンバーだけを好きになって、他はしーらない、なんてことありますか?人によってはありますよね。ちなみに蛇足だが私はない、と言いたい。
想像する。私たちがコンテンツで観ている以上に、彼らの生活がメインにあって、彼らの中でしかわからないことがたくさんあるということ。もちろん、彼らはそういったことを承知の上で、ファンを心配させないようにしたり、言葉を尽くしてくれたりするのではないかと勝手に想像してみる。bubbleとかあるし。
簡単で当たり前ではないシンプルな結論。
悠太くんは、私たちファンの見えないところで(ここ強調したい)、メンバーを助けている。
コンテンツでも言っていたが、助けたいと思う人は?の質問で誰かを選ぶときに、「辛い時があれば、みんなを助けたい。」という前置きを置いている。この言葉が彼の根本にあると思うのだ。
※追記 そして今回も、個人のストーリーで謝罪するような事態が起こった。
このNCT全体で集まるという数少ない機会の場で、ファンの前で、各々のコンディションが影響して、テンションが上がったり、突拍子もない気になったり、普段と違うことをしてしまったという行動が、
不謹慎なことにタイトルに繋がった、ということになるのだろうか。(彼らの意識の差もあると思う。)
状況把握、理性、機転は、人によって発揮する時、しない時が違う。だからこそ、それを諌めたメンバーは素直にすごいと感じる。
謝罪文を早期に挙げたことが大きい。後から状況把握をして反省したということは、それを俯瞰して見てくれるメンバーやスタッフがいるということだろう。
なんでも過度なことはよくない。愛も怒りも。
とにかく、私が言いたかったことは、まだまだある。まだまだあるが、ここらへんにしておく。基本見る専な私だったが、そろそろ語ってみたいと思い、書いてみた。
私も、自分に余裕が出たなと思ったら、みなさんのnoteを見たいし、いいねの超速爆押しを遂行したいなあ。
書きたいことがありすぎた。地球に感謝。
Thanks a lot.