Pretty Hate Machine: 1989
デビューに向けて
トレント・レズナーはジョン・マルムと共に、アメリカのメジャーなレーベルを避け、ヨーロッパの小さなインディレーベルを中心に10社ほどにテープを送っていた。それは想像以上の好結果となり、8つのレーベルから契約したいというオファーが届いた。当初は規模の小さなレーベルであっても契約ができれば上出来だと考えていたが、最終的にはそういうレーベルで12インチ・シングルを出す必要はないという結論に至った。
そうした音楽活動と同時に、契約に向けての地道な営業活動も欠かさなかった。例えば音楽業界の人々が集まるセミナーでナイン・インチ・ネイルズのロゴと「Get F***ed」と書かれたコンドームを配る、などということもやっていた。
初めてのツアー
ナイン・インチ・ネイルズはクリス・ヴェレナをバンド・メンバーに加えたラインナップでライブ活動も行っていた。1988年にカナダのNettwerkというレーベルからスキニー・パピー(Skinny Puppy)が行う北米ツアーのオープニング・アクトとして出演するオファーが届いた。しかし自分たちはスキニー・パピーに見合ったバンドではないということ、当分の間はレコードのリリースができず、ツアーにかかる費用を捻出できないということで一度は断った。しかしその後にスキニー・パピー側から、現在のオープニング・アクトが気に入らないのでこのツアーの残りの日程はナイン・インチ・ネイルズにオープニング・アクトを務めてほしいという話が届いた。これがナイン・インチ・ネイルズの初めてのツアーとなった。
ツアーの話を承諾したものの、準備に残された時間は2日ほどしか無かった。編成したバンドは三人編成で、ラインナップはレズナーが歌とギター、ヴェレナがキーボード、ドラムはSlam Bamboo時代のバンド・メイトであったロン・ムサラ(Ron Musarra)だった。ナイン・インチ・ネイルズがオープニングとして参加した日程は10月27日から11月11日で、少なくとも7公演を行った。
ツアーは思うようなものにならなかった。請われてツアーに加わったにも関わらず、スキニー・パピー側から雑に扱われたこと、準備不足がたたってはじめのいくつのかのライブは思うようなパフォーマンスができなかった。しかしそれは自分たちの抱えている問題を可視化できる良い体験であった。その体験を通して徐々に良いパフォーマンスができるようになり、最終的には得るものが多いツアーとなった。
そしてツアーが佳境に差し掛かったニューヨーク、アーヴィング・プラザでのライブが終わったあとにTVTレコーズ(TVT Records)から契約の申し入れがあった。オーナーのスティーブ・ゴットリーブはレズナーの才能を非常に高く評価しており、レズナーは契約に同意した。
TVT レコーズとの契約
TVTレコーズの母体は1984年にゴットリーブが設立したTeeVee Toonsで、1986年にTVTレコーズに名称を変更した。TeeVee Toons時代の1985年に「Television's Greatest Hits」という1950年代から1960年代のテレビ番組の人気曲を収録したコンピレーション・アルバムが大ヒットを記録したことで一躍注目を集めたレーベルだった。当時のニューヨーク・タイムズ紙は古いテレビ番組の曲を集めて売り出したことを「斬新なアイデア」として高く評価した。
TVTレコーズと契約した理由について、レズナーは少しだけ述べている。TVTレコーズがナイン・インチ・ネイルズの音楽を高く評価していたことに加え、それまで聞いたことがなかった新興レーベルでその点に興味を惹かれたこと。さらにTVTレコーズが金払いの速さを売りにしていたレーベルだったことだ。クリーブランドで苦しい共同生活を送り続けていたレズナーとヴェレナにとって魅力的に映ったであろうことは想像に難くない。しかし後年、この契約がナイン・インチ・ネイルズのキャリアを停滞させることになる。
Pretty Hate Machine
レコーディング
TVTレコーズと契約をしたレズナーはレコーディングに取り掛かる。プロデューサーの希望をレーベルから問われたのでフラッド(Flood)とエイドリアン・シャーウッド(Adrian Sherwood)にテープを送ったところ、二人から好反応をもらった。その二人に加えデペッシュ・モード(Depeche Mode)やコクトー・ツインズ(Cocteau Twins)などの仕事で名を揚げたジョン・フライヤー(John Fryer)とヒップホップ黎明期の伝説的なドラマーでプロデューサー業も手掛けていたキース・ルブラン(Keith LeBlanc)を迎えた。レコーディングはボストン、ニューヨーク、ロンドンの3か所で行われた。
フラッドとのレコーディング
フラッドの作るサウンドのファンだったレズナーはアルバムの全てをロンドンでフラッドと制作することを望んだ。しかしフラッドはデペッシュ・モードとの仕事があるために希望は叶わず、ボストンで「Head Like A Hole」「Terrible Lie」の2曲をプロデュースするに留まった。
レズナーにとってフラッドとの作業は大きな手応えのあるものだった。特にフラッドの気取らない態度(「一緒に仕事をするバンドの地位やお金のことは気にしていない」)は低予算のレコーディングにおいて大いに救われたという。そしてこのレコーディングが「Broken」「The Downward Spiral」の共同作業に繋がる契機となった。
ジョン・フライヤーとのレコーディング
レズナーはフライヤーがプロデュースしたクラン・オブ・ザイモックス(Clan of Xymox)やディス・モータル・コイル(This Motal Coil)の作品における暗さが気に入っていた。レズナーはその暗さは自分が表現する暗さとは別のものであったと言うが、それ故に化学反応を期待したのだろう。
フラッドとのレコーディングが終わった後、レズナーはフライヤーに連絡を取り、ロンドンに一ヶ月ほど滞在してアルバムを作り上げた。しかし厳しい時間の制約がある中で二人の作業のペースが合わなかった。フライヤーは週末にはスタジオでの作業を行わないポリシーだったようで、作業を進めたいレズナーとの間に溝ができていく。知り合いもいない土地で何もすることがない時間はレズナーにとって大きなストレスとなり、ホームシックのような状態になった。週末に作業ができないために作業スケジュールはタイトになった。リリース後のインタビューでボーカルのレコーディングは全てワン・テイクだったとレズナーは述べており、シンガーとしてのレズナーが優れていたことはあるにせよ、時間に余裕がなく、そうすることを余儀なくされた面はあったかもしれない。また、レコーディングの中でフライヤーが注力した、主にミックスの部分にレズナーは興味を示さなかったなど、制作のポイントにも二人の間に溝があったようだ。原因は何であれ、レコーディング作業は思うように進められなかった。
一方、フライヤーは2006年に「Sound On Sound」のWebサイトで以下のように語っている。同じようにタイトなスケジュールを過ごしているはずだが、意見がまるで違うところが興味深い。
エイドリアン・シャーウッドとの作業
レズナーはシャーウッドが制作に関わったミニストリー(Ministry)のアルバムを好んで聞いていたので、何かしら仕事を一緒にしたいと考えていた。しかしレーベル側はシャーウッドがどのような人物なのかを知らなかったために高額なギャラを出し渋ったので、アルバムではなく12インチ・シングルとなる「Down In It」をプロデュースをしてもらうことになった。レズナーはシャーウッドのスタジオ技術を学びたいと思っていたが、シャーウッドと直接会うことはできず、ミックスについて電話で話をしただけだった。
クリーブランドの「Right Track Studio」でレズナーが録音したものをニューヨークでルブランが仕上げ、それをロンドンでシャーウッドがミックスを行った。
シャーウッドによってミックスが施されたバージョンは当初に想定していたよりもインダストリアル・ミュージックの要素が色濃く出ているとレズナーは感じていた。感情的な部分を表現した人間的なサウンドと非人間的なインダストリアル・サウンドがお互いに補完し合うような形、つまり「Pretty Hate Machine」のテーマに沿ったものを望んでいたがそうはならなかった。
「Down In It」はレズナーが期待していたようなサウンドにならず、しかし業界の大先輩であり、尊敬するシャーウッドに文句を言うことなどできなかった。アルバムにはそのバージョンが収録されることになった。
「Pretty Hate Machine」の完成
ロンドンでの作業はホームシックとフライヤーとの意思疎通の不全により大きなストレスを抱えながら終了となった。フライヤーがミックスしたもので気に入らない部分があったので、レズナーはニューヨークでルブランとミックスのやり直しとオーバーダビングを行った。そして複数のプロデューサー、スタジオで作成されたものは統一感がなかったのでレズナーとヴェレナは長時間を費やしてアルバムに統一感を出すための編集作業を行った。こうして「Pretty Hate Machine」はようやく満足の行く形で完成した。
このように苦労して完成させたアルバムはTVTレコーズが想定していたシンセ・ポップ的な要素よりもインダストリアル・ミュージックの要素が強くなった。そのためにレーベルからは否定的な反応を呼び起こした。オーナーのゴットリーブは「この作品は失敗作だ」と言い放ち、レズナーに対しても「良いキャリアになったかもしれないのに自分で台無しにした」とまで言っている。
デビューシングル「Down In It」
1989年9月15日、ナイン・インチ・ネイルズはシングル「Down In It」でデビューを果たす。レーベルとの関係が悪化し期待したほどのサポートを得られず、さらにビデオ・クリップはMTVの放送コードに抵触し、一部をカットした状態でなければ放送されなかった。しかしそのように強い逆風が吹いた中でありながら、ローリング・ストーン誌のダンス・チャートでは1位、ビルボードのクラブ・チャートではトップ20にランクインを果たした。
デビューアルバム「Pretty Hate Machine」
1989年10月20日に「Pretty Hate Machine」がリリースされた。UKではナイン・インチ・ネイルズの人気が出始めた後の1991年10月12日にリリースされた。
日本盤は更に遅く、1992年にエム・エム・ジー株式会社よりリリースされた。発売当時のバンド名の日本語表記は「ナイン・インチ・ネールズ」で帯のコピーは「”不気味なエレクトロニック・ビートとギター”そして”懐疑と冒涜の性的歌詞”のジャンクの中から全世界へ衝撃のデビューを飾った”NIN”」だった。
フォーマットについて
CD/アナログレコード/カセットの三種類がある。
CDは北米・南米・欧州・アジアの各地域でリリースされている。日本においては2000年代後半からSHM-CDでもリリースされた。その他、再発のタイミングでラベルのデザインが変わっているものやジュエル・ケース仕様のバージョンもある。
アナログについてはすべて12インチのLPでアメリカ、カナダ、イングランド、ドイツでリリースされた。ピクチャー・ディスクでリリースされているものは海賊盤だ。
カセットはウクライナ、韓国、マレーシア、メキシコでのリリースが確認されている。メキシコ盤については曲目がスペイン語で書かれているものがある。
収録曲
どの地域、フォーマットのリリースでも収録曲に変わりはない。ただし2010年にリリースされたリマスター盤にはクィーン(QUEEN)のカヴァー「Get Down, Make Love」が追加収録されている。
1. Head Like A Hole(4:59)
2. Terrible Lie(4:38)
3. Down In It(3:46)
4. Sanctified(5:48)
5. Something I Can Never Have(5:54)
6. Kinda I Want To(4:33)
7. Sin(4:06)
8. That's What I Get(4:30)
9. The Only Time(4:47)
10. Ringfinger(5:40)
1989年、オルタナティヴ・ロックとヒップホップ
「Pretty Hate Machine」がリリースされた1989年、ビルボードのチャートにはベテランのロック・バンドやメタル・バンド、R&Bといった顔ぶれが多く並んでいた。一方でビルボードを眺めているだけでは掴みきれない新しい音楽も力強く芽吹き始めていた。「Pretty Hate Machine」は音楽リスナーの保守化が行き着くところまで進んだような中で、同時に新しいサウンドも探し求められている、そんな時代にリリースされた。
1989年はアメリカのアンダーグラウンドで後に「オルタナティブ・ロック」と呼ばれるサウンドがオーバーグラウンドに出てくる寸前だった。
もっともR.E.M.はインディーから叩き上げですでに成功をつかんでいたし、レッド・ホット・チリ・ペッパーズ(Red Hot Chili Peppers)やジェーンズ・アディクション(Jane's Addiction)のようにファンクとハード・ロック、パンクをミックスした独特のスタイルを貫きながらすでにメジャーとの契約を勝ち取り活動をしているバンドもいた。アンダーグラウンドでその名を知らないものはいなかったであろうソニック・ユース(Sonic Youth)も「Daydream Nation」の成功を手にしてDGCとの契約を結んだ。
そしてこの年からわずか2年後にロックの主流を一気に塗り替えるニルヴァーナ(Nirvana)は「Pretty Hate Machine」の2ヶ月前にデビュー作「Bleach」をリリースしている。
だがなによりもこの当時、素晴らしい作品を作り続けたのはヒップホップのアーティストだった。ランDMC(RUN-DMC)にLLクールJ(LL COOL J)、ビースティー・ボーイズ(Beastie Boys)、エリック・B&ラキム(Eric B & Rakim)、パブリック・エネミー(Public Ememy)、そしてギャングスタ・ラップのオリジネーターであるN.W.A.の登場で、ヒップホップはロックのリスナーを一気に奪った。
ターンテーブルでレコードを楽器のように扱うスクラッチ、ロックが歌うことよりも真実味のある過激さ、もしくは楽しげなリリックをラップというスタイルで聞かせ、他人の楽曲の一部をサンプリング技術を用いて切り抜き、コラージュし、ループさせて全く別の曲にする。ヒップホップは多くのリスナーが思い浮かべる楽器で演奏されることもなく、歌でもなく、譜面に起こせる音楽でもなかった。従来の音楽のあり方から大きく外れているのに、ダンス・ミュージックでありポップ・ミュージックだった。ヒップホップは既存の音楽の価値観を根底から揺さぶり、音楽の定義を根本から問い直す刺激的なアヴァンギャルド・アートでもあった。
そういう時代にヒップホップの生き字引とも言えるキース・ルブランを制作陣に迎えたことは最適だった。おそらく彼の影響によってリズム・トラックはブレイクビーツの発想を元にしたループを中心に据えて作られ、ダンサンブルな要素が濃くなっている。また、サンプリングが「Pretty Hate Machine」にどれほど重要な影響を与えたのかについては、以下のレズナーのコメントからも伺い知れる。
作品の内容について
「Pretty Hate Machine」は耽美主義と欧州的とも言える密室で作られたようなミステリアスな雰囲気をまとい、ヒップホップの斬新さにハード・ロックの騒々しさ、そして観客が共に歌えそうなキャッチーなメロディと冷徹なリズム・マシーンのリズムが見事にミックスされた傑作となった。ライブで定番となった曲も多く、レズナー自身もこの作品をずっと気に入っているようだ。
後年の作品で聞けるハイファイな音像に比べるとインディー作品らしいローファイな雰囲気も残っており、そこが好きだというリスナーも多い。攻撃的な部分は後年の「Broken」以降の作品に譲るものの、「Head Like A Hole」「Sin」「Down In It」でその片鱗は味わえる。そして「Sanctified」「Some thng I Can Never Have」「The Only Time」「Ringfinger」の薄暗く甘美な雰囲気の曲もアルバムの大きな魅力となっている。
自らの日記をもとにしたと言う歌詞の内容は、自分の内面について掘り下げつづけた後年の作品と比べると外界に向いている。それは宗教の矛盾、うまく行かない人間(恋愛)関係にをテーマにしたものが多く、その内容はどこか自己陶酔的で甘ったれた雰囲気を持つ青年文学のようであり、それ故に抗し難い魅力を感じさせる。
リリース後の反響
「Pretty Hate Machine」は評論家や音楽メディアから称賛された反面、ビルボード誌のチャート・アクションは寂しいものであった。前述したように、時代は新しいサウンドを求めていた。しかしツアーでの公演数も数多くはないし、TVTレコーズとの関係も悪かった。ナイン・インチ・ネイルズの音楽はまだそれほど多くの人に届いてはいなかった。1989年の間にはビルボードの200位以内に入ることもできなかった。この時のナイン・インチ・ネイルズは「小さなインディーレーベルからデビューした、少し変わった音楽を作った新人バンド」でしかなかった。
パブリック・イメージへの戸惑い
レズナー自身のミステリアスな雰囲気と挑発的な言動、節々に感じさせるテクノロジーへのマニアックな言動で、そのイメージはサイバーパンクの世界におけるレジスタンスのようだった。実際にドレッドヘアにコンバット・ブーツ、ボロボロのカーゴ・パンツやダメージ・ジーンズ、カットソーを身にまとうレズナーからはメインストリームに反抗する若者といった雰囲気があった。一方で陰気で自死につながるような自己破壊的な雰囲気もあり、そうしたところに惹かれたファンも多かったと言う。ただしレズナー本人はそうしたパブリック・イメージに強い違和とそこから生まれるプレッシャーを感じており、しばしばパブリック・イメージを拒否する発言をしている。
「Pretty Hate Machine」プロモーション・ツアー
ナイン・インチ・ネイルズはアルバムのリリースから2日後にプロモーション・ツアーに出た。ツアーは1989年10月22日から12月29日の日程で、東海岸地区に限定されて行われた。
バンドメンバーはリチャード・パトリック(ギター)、ニック・ラッシュ(キーボード)、クリス・ヴェレナとトレント・レズナーの4人となった。なお、ラッシュについてはバンド初期のアートディレクターでもあったゲイリー・タルパスと併用された。
アルバムは評論家や耳が肥えたリスナーからは好評だったので、ツアーに対する期待は高かった。そして開始されたツアーの内容も好評だったようで、クリーブランドの「Scene」誌は12月29日のツアー最終日を前にして大きな期待を込めた記事を掲載している。
デビュー曲「Down In It」はアンダーグラウンドのリスナーからの支持を勝ち取り、アルバムとそれに伴うツアーは評論家、ファンから強く支持された。ただしその支持がチャートアクションに反映されないことはゴットリーブを大いに苛立たせていた。そのためゴットリーブおよびTVTレコーズはナイン・インチ・ネイルズの創作面に強く介入をし始める。自分の言う通りの路線で作品を作れば売れる、と言うことだ。
アルバムのリリース早々に次作へのプレッシャーをかけられ、さらに創作面でも自由を奪われると感じたレズナーはレーベルに強く反発し、より一層対立していく。バンドとレーベルの間で大きなフラストレーションを抱えたまま、次のツアーが始まろうとしていた。
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