トルストイの日露戦争論/「汝ら悔い改めよ」 第六章
第六章
二千年前[ぜん]、洗礼者ヨハ子{今日の一般的表記では"ヨハネ"。下註}及び耶蘇は世人[せじん]に向って曰えり、「時は満てり、神の国は近づけり、爾曹[なんじら]悔改めて福音を信ぜよ」(馬可[まか/マルコ]伝一章十五篇)」而して爾曹若し悔改めずば皆同じく亡[ほろぼ]さるべし」(路加[るか/ルカ]伝十三章五節){下註}
而も世人は彼等に聴かず、彼等が予言せし破滅は今既に眼前に在り、今の人只之を見得[みえ]ざるのみ、我々は既に亡びつつあり、故に我々は此古き(而も我々には新しき)救いの言葉を看過すること能わず、我々の愚かなる悲しき生活より流れ出ずる他の幾多の災害は姑[しばら]く之を惜くとするも、只彼[か]の軍備と及び必然的に之より生ずる戦争とは、正に相違なく我々を破滅せしむるに足れり、我々は只之を見得ざるのみ、我々が是等の害悪より免れんと欲して工夫せる幾多の方法は、悉[ことごと]く是れ無効なるを示せり、而して斯く互[たがい]に武装せる諸国民の困難なる地位は、永く其困難を加えつつ進むの外なきなり、我々は只之を見得ざるのみ、故に耶蘇の言[ことば]は何[いずれ]の時、何の人に対するよりも、今の時、我々は対して最も適切なり
耶蘇は「悔改めよ」と曰えり、即ち「各人をして姑[しばら]く其の着手せる事業を止めて自己に問わしめよ、我は何者なりや、我は何処[いずこ]より現われ来[きた]りしや、而して我が目的は如何の物ぞと、而して是等の問に答えたる後[のち]、汝の為す所と汝の目的と果して相合[そうごう]するか否かを裁断せよ」と云うに在り、基督教の精髄を知れる、今の世、今の時の各人は、其活動を止[や]むること僅々[きんきん]一秒時にして、帝王にもあれ、兵士にもあれ、大臣にもあれ、新聞記者にもあれ、姑く其の世に立つ所の資格を忘れ、自己の何者にして、自己の目的の何物なるかを、真面目に一考せば、必ず自己の行為の有益なる事、合法なる事、及び道理に当[あた]れる事を疑うに至るべし、「即ち今の基督教世界の各人は当[まさ]に自ら下[しも]の如く言わざるを得ざるべし、「我は帝王たり、兵士たり、大臣たり、新聞記者たるの以前に於て、我は先ず一個の人間なり、即ち時間と空間とに於て無限なる此宇宙に、天意に依って送られたる一有機体にして、暫く此[ここ]に止[とど]まりたる後、程なく消え行くべき者なり、故に我れ自ら我が前に置き、或は他人に依りて我が前に置かれたる、個人的社会的、乃至[ないし]全世界的なる、一切の人間の目的は、我が生命の極めて短きが為に、並びに宇宙の無限なるが為に、皆悉く無価値の者と為らざるを得ず、而して我[わ]が此世に送られたる所以は他の大目的に服従せざるを得ず、此最終目的は我身の有限なるが為に之を到達すること能わざれども、而もそは確[たしか]に存在す、(総て存在する者には目的なきを得ず)、而して我が任務は其目的の器械となるに在り、即ち我が目的は神の労働者となりて其事業を果[はた]すに在り」、而して斯く目的を理解したる上は、帝王より兵士に至るまで、今の世、今の時の各人は、其の自ら執れる、或は他より課せられたる職務に対し、全く異なりたる感を懐[いだ]かざるを得ざるべし
帝王は先ず自ら斯く言わざるを得ざるべし、「我[わ]が王冠を戴き、帝王として認識せられしより以前、我[わ]が国家の元首として其義務を果さんとせしより以前、我[われ]は只我[わ]が生活せる此の一事実に依り、我[われ]を此世に生れしめたる天意の要求を充[みた]すの約束あり、我は此要求を知るのみならず、亦深く之を感ず、そは基督教の法則に示されたるが如く、神の意に従うべき事、神の求[もとめ]に感ずべき事、隣人を愛して其為に尽し、己れの欲する所之を人に施すべき事等に在り、人を統治し、強制、処刑及び最も恐るべき戦争を命令する我は、果して能く之を為しつつある乎[か]
「人は我之を為さざる可[べか]らずと云う、されど神は全く異なりたる何事かを為さざる可らずと云う、故に我は国家の元首として、強制の行為、租税の賦課、処刑及び隣人を殺戮する戦争を命令せざる可らずと説かるるも、我は之を為すを望まず、又之を為すこと能わず」
人を殺さざる可らずと教えられたる兵士、戦争の準備を為すを以て其職務と為せる大臣、及び戦争を煽動せる新聞記者、其他何人[なにびと]にても「我は何者ぞや」「我が人生に於ける到着地は何ぞや」と自問したる者は、必ず亦右の如く自答せざるを得ざるべし、斯くて国家の元首は戦争を宣言するを止め、兵士は戦闘する事を止め、大臣は戦争の方法を準備するを止め、新聞記者は之を煽動するを止むるに至らば、何等の新らしき制度、施設、権力平均、裁判等を用いずして、戦争のみならず其他一切の災害に関し、今人[こんじん]の自ら陥れる此の絶望の現状を破却するを得べし
されば、言少[げんすこ]しく奇なるが如しと雖[いえど]も、人の自ら招ける災害、就中[なかんずく]最も恐るべき戦争より免れんとする最有効策は、決して一般に対する外的方法に在らずして、只単に各個人の良心に訴うるに在り、即ち一千九百年以前、耶蘇に依りて提唱せられたる「皆人[みなひと]悔改めよ」而して我は何者なるか、我は何故に生活せるか、我は何を為すべき乎[か]、為すべからざる乎と自問せしめよ」の言に在り
※洗礼者ヨハ子(ヨハネ)……"子" は変体仮名(元の出版物では大きさがやや小さい)。本テキストではやむを得ず、漢字の「子」で代用しました。
洗礼者ヨハネは著名ですが、念のため解説を貼ります。
※「二千年前〜十三章五節)」……本章の最初のパラグラフ。ここにおいて、本論文のタイトルである「悔改めよ」の言葉が登場します。
これは文中にあるように「マルコによる福音書」1:15 及び「ルカによる福音書」13:5 からの引用です。
この引用こそいわば本論文の「肝」と見做しうるものなので、参考のため本節の原文、英訳をそれぞれ以下に掲げておきます。
一見して分かりますが、「悔い改めよ」にあたる元のギリシア語の単語 "μετανοειτε" (メタノエイテ)までわざわざ書き添える力の入れようです(平民社訳ではカット)。
なおまた、聖書の引用箇所の現代日本語訳とオリジナルのギリシャ語も、その後に添えておきます。
(以下、太字強調は私が行ったもの。)
ロシア語原文
英訳
引用箇所の現代日本語訳(新共同訳)とギリシャ語(コイネー)原文(NA28)
なお、ギリシャ語文(NA28)については以下から取得しました。
(直接関係ありませんが、検索途中で次のような興味深いpdfも見つけたので、併せてご紹介しておきます。
「ギリシャ語原語による新約聖書」 "The New Testament in the Original Greek", 1881)https://ia600704.us.archive.org/7/items/newtestamentinor01west/newtestamentinor01west.pdf
ところで上記の引用箇所ですが、出来れば聖書中どのような文脈で表れるのか確認したいと思われる方もいらっしゃるでしょう。つきましては、新共同訳のリンクを貼っておきます。
「マルコによる福音書」
「ルカによる福音書」
(さらに書いておくと「悔い改めよ」はマタイ3:2 などにも出てきます。が、ここではこれ以上は触れずにおきます。)
さて、それで。
「マルコ」の方の引用は特に「文脈」というほどの前後の記述はありませんが、「ルカ」の方は、ちょっと(信者でない者には)文脈が分かりにくいですね。
これについて、パッと検索して出てきた次のページが──標準的な解釈なのか、そうでもないのか、私には全く分かりかねますが──割りと本論文の趣旨にも合う気がします。なので、解釈の例として一応ご紹介しておきます。