京城日報に見る金日成関連の報道:普天堡襲撃と死亡記事
北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)関連のことを調べていると、「普天堡(ポチョンボ)の戦い」(보천보전투/普天堡戰鬪)の話に時々出くわします。
金日成率いる部隊が「日帝強占勢力」を相手に大勝利をおさめた戦い……ということで今日の北朝鮮では「神格化」されている事件です(この名にちなむ有名な楽団なども存在します)。
この事件に関しては、日本語のWikipedia記事も存在します。が……。
どうもその日本語版Wikipedia 記事の内容が、あからさまに低クオリティでありまして(2024年7月現在)。
ならばと、自分で「京城日報」の記事を確認してみましたところ。
自分がこれまで読んでいた話──「日帝統治期に流布していた金日成のイメージはこのようなものだった」という解説──と、実際の紙面に見られる金日成像との間にずいぶんズレがあるように思われましたので。
以下に、関連記事を文字起こししてみることにしました。
《その1》は、普天堡襲撃事件(私にはこの表記がニュートラルなように思われるので、主にこのように記載します)の発生を伝える1937年6月6日づけ京城日報の記事。
《その2》は、金日成死亡(!?)を伝える1937年11月18日づけ京城日報の記事です。
(補足:《その2.1》として、月刊「鉄心」の「金日成匪討伐詳報」という記事の紹介を追加しました。)
(なお、当時は、同じ日付の夕刊と朝刊があった場合、時系列的に夕刊が先の発行です。その点にはご注意ください。例えば6月6日づけの夕刊=6月5日の遅めの時間に発行。)
文字起こしは、主に私のエネルギー的な理由で、紙面すべてではありません。主だった部分に限っています。
元記事も画像として貼っていますので、適宜参考としてください。記事を読むには十分な解像度と思います。
《その1》
普天堡襲撃事件の発生を伝える1937年(昭和12年)6月6日づけ「京城日報」(夕刊)記事。
共産匪二百名越境し郵便所、学校等を襲う
雑貨商を銃殺の上放火
惠山鎭上流普天堡を全滅
【惠山鎭支局発至急報】四日午後十時ごろ鬼気迫る鮮満国境の暗夜を衝いて突如、惠山鎭の六里上流咸鏡南道鴨緑江岸支流普天堡(堡田)に東北人民革命軍団第一師長金日成の率ゆる約二百名の大共産匪団が越境来襲し、軽機関銃を六箇所に据え付け警察官駐在所に主力を注ぎ一斉乱射を浴びせ多数を頼んで死物狂いとなって逃げまどう住民を尻目に金品を掠奪しさらに本府農事試験場北鮮支場、郵便所、普通学校、森林保護区、面事務所、警察官駐在所、消防会館等主なる官署をはじめ民家、商店に火を放って焼打ちこれを全焼せしめ惨虐の限りを尽した、同部落は内地人二十六戸五十名、朝鮮人二百八十四戸千三百二十三名、満人二戸十名からなる国境の村は第二の東興事件に一瞬にして修羅場と化し全部落は共匪に蹂躙されて終った、電線を切断されたため隣接との連絡の途を失い詳細の事情判明しないが、賊団は部落全滅を認めるやラッパを吹きながら対岸に遁走した、急報により惠山鎭から守備隊○○名、塩谷署長以下○○名出動目下追撃中である、この襲撃に匪弾を浴びて判明した死者は雑貨商羽根小三郎氏(三五)は即死、箭内巡査の長女エミ子さん(二ツ)は腰部に盲貫銃瘡を負い重傷、姜喆重巡査は右瞼に軽傷を受けた
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(語彙の補足)
※匪……「匪賊(ひぞく)」の略。
ひ‐ぞく【×匪賊】
徒党を組んで略奪・殺人などを行う盗賊。
(コトバンクより)
※「共(産)匪」……共産主義を奉ずる匪賊、の意。共産主義の立場に立つ武装集団、ゲリラ勢力、政治団体などを罵って言う語。
※【盲管銃創(盲貫銃瘡)】
銃弾が身体を貫かず、体内にとどまっている傷。
(コトバンクより)
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(途中の記事は省略……「もし」余力あれば、いずれ書き足すかもしれません。)
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金は廿七歳の青年
地理に通じて神出鬼没
堡田事件の首魁と見られている共産匪主金日成は満洲事変直後対岸東辺道に現れ、当時共産匪と縁林仲間に羽振りをきかせていた東北人民革命軍第一師司令李江光の仲間に飛び込み、○○団の支援を得て、常に鮮内の撹乱、朝鮮独立を叫ひ、さらに東辺道の赤化に努めている不逞漢である、彼の密林に於ける動作は実に機敏で日満両当局とも彼の全貌を掴むことが出来ず、討伐は苦心の連続線で、今日に至るも逮捕出来ず、咸南警察部の苦心によって昨年末始めて判った彼のアウトラインは次の通りである
彼は平南平壌出身で、本年二十七歳の白面の美青年である、父親も日韓併合をきらって満洲に渡り、馬賊の頭目となった、緑林生活の訓練を受けてた金は十五歳の時モスコーに行き兵事訓練専門の学校に学び、廿二歳の時再び東辺道に現れ、父子二代に亘って反満反日戦の第一線に起った、新しい戦闘法と武器を持つ金日成の人気は鴨緑江一帯を縄張りに遂に東北人民革命軍第一師司令李江光に代って共産軍の実権を握り、頑強に日満、鮮の討伐隊の癌となっている
討伐隊は一度も金日成一派の本隊と正面衝突をしていない、この事実は日満両軍とも地理にうとく到る処に密偵か居り確実な情報は金日成一派にに集まる為討伐隊の苦心は今日まで水泡に帰している
彼の命令で発砲襲撃を敢行さるのは常に鮮内の駐在所及びその他の公共団体か、若く里密林を舞台としている密輸業者に限られている、彼は長白、臨江両県境の奥地に本拠を要し、警戒員に捕った密輸業者の話によると
そこには学校、市塲、散髪屋、浴塲、兵事訓練塲等があり、小いながらも共産都市を建設していり、その上附近には有望な金山砂金鉱があり、これがため金の一派は金には困らない状態である
同所は地図にも明記されていない不便極まる個処であるだけ、国境警察官を始め満軍の討伐の苦心には深い同情を持たれている
(語彙の補足)
※緑林
《前漢の末期、王莽の即位後、王匡・王鳳らが窮民を集め、湖北省の緑林山にこもって盗賊となり、征討軍に反抗したという、「漢書」王莽伝下にある故事から》盗賊のたてこもる地。また、盗賊。
(コトバンクより)
※ば‐ぞく【馬賊】
〘 名詞 〙 馬に乗って荒らし回る盗賊。特に、清代末ごろから、中国東北部に横行した盗賊の集団。
(コトバンクより)
※赤化
(赤旗を旗印とするところから)共産主義化すること。 共産主義的な思想・政策・社会機構などを認めたり、それを推進する運動をしたりすること。(コトバンクより)
付言しますと、これは多くの場合、反共産主義の立場から用いられる言葉。また、共産主義者を「赤」(あか)などと呼ぶこともあり、こちらは明確に悪口のニュアンス。
(この後の記事は省略……「もし」余力あれば、いずれ書き足すかもしれません。)
翌朝の続報。
《個人的感想》
・この記事に書かれている被害がどれほど正確なものかは分かりませんが、ともあれ「普天堡の戦い」について、日本側の報道がしっかり残っていることに、まずは注目すべきでしょうか。
・普天堡は記事によれば千人以上の人口を擁する集落。その「普天堡を全滅」と見出しなどにある一方、これも記事によれば、判明している死者・重症者・軽症者が各1人ずつ。スケール感が全く合わない気がします。ただ、記事にもあるように通信が途絶していたようですから、あくまで混乱の中での第一報に過ぎないと見るべきでしょうか。
・日本側の報道ですから、当然にこの襲撃は悪事、「不逞の行為」として記述されています。一方で、朝鮮の民衆にとっては支配勢力に対し、せめて一矢なりと報いんとする義挙と映ったことは確かでしょう(その人気ゆえに、彼は後に北朝鮮の首班となるわけです)。
・この記事には、この時点で判明、あるいは推測されている金日成のプロフィールが記されています。
そのあたりの記述を読むと、少なくとも治安当局(日帝側)にとって、すでに金日成はかなり「名の通った匪賊の頭目」であり、正体を探られるような身だったことが分かります。
・つまらない疑問かとは思いますが、そもそも襲撃が「金日成率いる東北人民革命軍団」によるものだということはどうして分かったのだろうと。この事件の場合、捕虜から聞き出したという形ではないでしょうから。宣伝ビラをまいたり、何らかの名乗りを上げつつの襲撃だったのでしょうか。
・「彼の密林に於ける動作は実に機敏」「地理に通じて神出鬼没」「本年二十七歳の白面の美青年」というような描写は、私にとっては興味深く感じられます。
敵方に出し抜かれて、捕えることができずにいるという場合は、相手をいかにも有能に(ついでに、カリスマ性のあるイケメンとして)描くほうが、むしろ「してやられている」日本側の面子もそれなりに立つ。そんな力学というか、配慮あってのことかとも思うのですが。
近年の、とにかく敵をひたすら醜く醜く描こうとする(なんというか、「アメリカン」な?)態度よりは、この方がよっぽど健全なように思われます。
こうした「美風」がまた見直される日が来ることを、私としては祈りたく思います。
・年齢を27歳としていることは、後の記事との関係で覚えておきたいポイントです。
・カリスマ性ある若きパルチザンリーダーだった金日成。そんな彼も、後に権力の座につくと堕落し、最悪の独裁者となっていった……というストーリーが、この記事を読むと容易に頭に浮かんできます。
さすがに安直すぎる想像ではあるでしょうが。一方で、最初からロクでもない人間だったに違いない、と見るのも、(相応の根拠があるのでなければ)やはり安直な想像と言えるでしょう。
《その2》
金日成の死(!?)(討伐隊による殺害)を報じる1937年(昭和12年)11月18日づけ「京城日報」(朝刊)記事。
鮮満国境住民の苦悩今や解消
共産匪金日成の死
朝鮮軍当局談
=十七日朝鮮軍当局談=金日成匪は予て鴨緑江対岸長白、撫松県に蟠居しコンミンテルンの使嗾の下に所在の住民に対し共産主義を皷吹し反満抗日的機運の醸成に努め或は殺戮掠奪の限りを尽して無辜の民を苦しめ、時としては日満軍に対して不逞を策するので満洲国の治安を著しく脅威しありしが、情報によれば去る十三日満軍討匪隊は金日成の所在を確め、之を攻撃し激戦五時間の後遂にその首級をあげ凱歌を奏したり、果して然らば久しく彼らの桎梏下に苦悩せし住民の喜びは元より、鮮満国境の治安に大なる関心を有する朝鮮軍当局の喜びに堪えざる所にして満洲討匪隊の苦心と努力に対し敬意を表する次第である
父子二代の不逞
普天堡襲撃の張本
緑林の英雄?として東辺道を股にかけた金日成とはどんな男か、彼の生れは咸南と云い、或は平南出身との説があり、国境警察官の調べによると咸南説が有力で、それ以上は判明しないと云う匪賊らしい生立ちである、金日成は幼時父につれられ越境し、東辺道を根拠とし、○○革命運動を起し、金日成の父親はその首領となっていた、○○運動が対岸に拡大するにつれて赤色魔が彼らの背後に現れ共産思想を煽りたてた、赤色に染まった金日成は十九歳ころ人民戦線のメッカ、モスコーに潜入、在露十ケ年、この間に共産大学に学び、更に赤衛軍に入隊、反日運動の実践者となった、満洲事変勃発するや直に東辺道に帰り、王鳳閣、曹国安等の匪賊団と聯合し、ここに反満抗日軍を起し国境線を荒し廻っていた、緑林唯一のインテリ金日成の勢力は忽ち仲間の首魁に押され約六ケ年に亘って、頑強に反満運動を続け『共匪金日成』の名は全満洲に響き亘り討伐隊をしばしば困らせ、殊に今春咸南の国境第二線普天堡を襲撃し、これがため勇敢に国境線を死守した惠山鎭署員にも数名の犠牲者を出した程であった、父子二代に亘って抗日反満を続けた金日成も勇敢な討伐軍に追い詰められ遂に三十六歳を一期に悪の夢を精算、波瀾ある生涯の幕をとじた
上記記事に先立つ、金日成の死の第一報。
《個人的感想》
・金日成の死亡記事とは一体どういうことか??
別人と取り違えた。むしろ、「その後の金日成」が別人。全くの誤報。
……いろいろ可能性は考えられるのでしょうが、私にはもちろん何も結論めいたことは言えません。
そういうことは専門の研究者の方にお任せしたく思います(^_^;)。
(この報道が、朝鮮から見て対岸の、満洲側からの連絡に依拠していることには注意する必要があるかも。)
・注目したいのは、記事中「36歳」と明記されていることです。
つい半年前の記事では27歳とあるのですが、その後、新情報が得られたのでしょうか?
もっとも、この記事にあるプロフィール──19歳でモスクワに渡り、10年をソ連に過ごし、帰国後は6年ばかり満洲を「荒らし回った」──からすれば、当然それくらいの年齢でないと計算が合わなくなりますが。
・ともあれ、27歳にせよ、36歳にせよ、比較的若い「英雄」像であるとは言えるでしょう(当時は数え年でしょうから、今日的なカウントよりさらに若い)。
・当時の朝鮮民衆の間では、金日成は老将軍としてイメージされていた、というような記述を、いくつかの本で見たことがあります。(註)
それはそれで事実なのかもしれませんが。それは少なくとも当時の日本側の報道とは大きく異なる金日成像であるとは言えるでしょう。
・ちなみに「我々が知る」金日成は1912年4月15日生まれなので、普天堡襲撃事件の時には25歳(数えで26歳)。「京城日報」の最初の報道とは、大きく違わない年齢ということになります。
・年齢以外にも、今回の2つの記事に書かれている金日成のプロフィールは「我々が知る」金日成のそれと、いろいろ異なる点があります。その理由についても、専門の研究者の方にお任せしたく思います。
・全く個人的な好みの話ですが。
『三十六歳を一期に悪の夢を精算、波瀾ある生涯の幕をとじた』
この表現は──まぁ当時の定型的な言い回しなのかもしれませんが──なんとも浪漫チックな香気が高く。ちょっとクラッと来ます(苦笑)。
* * * * *
少し話を変えて。
こういうパルチザン行動というのは、そもそもどういう戦略的意図を持って行われるのでしょうか。
私は軍事的なことはあんまり分からないのですが。
戦闘での勝利を積み重ねて、「日帝側の統治機構」に風穴を開ける。そこにすかさず自分たちが入り込んで、難攻不落の「革命根拠地」を作りあげる。そこから朝鮮の独立闘争を指導する……みたいな流れを目標としていたものでしょうか(毛沢東が井崗山で行ったようなこと。あるいは、ずっと後にカストロがキューバで行ったようなこと)。
だとしても、大して後が続かず、普天堡の戦いは(少なくとも結果的には)、一つのデモンストレーション、あるいは象徴的な蜂起というのに留まったようです。
《その2.1》
「金日成匪討伐詳報」
【補足】
月刊「鉄心」に「金日成匪討伐詳報」という記事が載っているという話があったので、読んでみました。
──いきなり話を飛ばしましたが。さかのぼって注釈的なことを書きますと。
・月刊「鉄心」は満洲国軍の機関誌的な雑誌……のようです。
・同誌は(私の他の記事で散々扱ってきた)「国立国会図書館デジタルコレクション」に入っているので、アカウントさえあれば自由に読めます(下記リンク)。
https://dl.ndl.go.jp/pid/2385512
・奥付けによれば当該誌の編集者は「治安部参謀司調査課」。
当該記事が載っているのは1937年(康徳4年=昭和12年)11月号の70ページから。
執筆者は「歩兵第七団本部」となっています。
さて、内容ですが。
討伐隊がそれなりの大物っぽい敵指揮官を射殺した、という内容のルポルタージュのあと、次のようなまとめが書かれています。
《因に匪主金日成なることは彼が昨年六月及八月の二回に小営子部落を襲撃したる際部落民を糾合講演(宣伝)したるに依り其人相を詳知せる多数土民の証言あり
又撃弊したる時当差の「金師令死了」の自然的連呼に依り証明せらる》
戦地ではやむを得ないことなのでしょうが、人物照合については状況証拠に頼る面が大きかった感じを受けます。
「実はこの時射殺したのは金日成ではない別人であった」という話が出ても、そこまで不思議ではない状況かな、と。
・ルポルタージュは11月14日ぐらいまでのことが書かれているのに対し(金日成射殺は11月13日のこととなっています)、掲載号の印刷日は「康徳四年十一月十日」とあって、時系列的に合っていない感じですが。
昔(今でもそうかも)の雑誌の奥付に記載する「印刷日」は形式的なものであって、実際の印刷・流通の時期とはことなる……というようなところでしょうか。(2024.8.9)
※「当差」…… [名](男性の)使用人.下僕.
(コトバンクの中日辞典より)
(註)……例えば「漫画韓国の歴史 22巻」(ほるぷ出版、1996年)のp32など(下は同書より)。
なお、「京城日報」の閲覧方法等については、下の拙稿などを参考にしてください。