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トルストイの日露戦争論/エピグラフの機械翻訳 第九章分

・「トルストイの日露戦争論」は、各章に多量のエピグラフが付されているが(第十二章を除く)、平民社訳、あるいはその底本となった英訳からは省かれている。
 そのエピグラフ部分を訳してみようという試み。

・タイトルに「機械翻訳」と銘打ったように、機械翻訳によるざっくり訳を想定。ただし、既存の翻訳が特に問題なく引用できそうな場合は、そちらを使用。

・各引用文の最初にある(1)(2)(3)…の番号は、記事作成などの都合上、当方で付したもので、原文にはない。

・その他、原文にない要素を加える場合もある。
 (聖書からの引用の場合、原文に章・節番号がなくても、それを付加する、など。)

・誤訳を見つけた場合、こっそり修正すると思います……。

第九章エピグラフ


(1)

兵役を拒否した農民の手紙。

 《1895年10月15日、私は兵役義務に出発するよう召集された。くじを引く番になったとき、私はくじを引かないと述べた。役人たちは私を見て、互いに話し、なぜくじを引かないのかと私に尋ねた。
 私は、誓いを立てることも銃を持つこともしないからだと答えた。
 彼らは、それは後の問題であり、くじを引かねばならないと述べた。
 私は再び断った。すると彼らは村長にくじを引くよう命じた。村長がくじを引き;No.674と出た。彼らは書き留めた。
 軍の長官が入ってきて、私を執務室に呼びつけ、尋ねる:誓いを立てたくないだなどと、誰がお前にそんなあれこれを教えたんだ?
 私は答えた:福音書を読んで自分で学びました。
 彼は言う:お前自身でそんな風に福音書を理解できるとは思わん。そこに書いてあることはみんな分かりにくいからな;理解するためには、たくさん勉強しなければならん。
 それに対して私は述べた。キリストが教えたのは知識ではありません。なぜなら最も単純で、文盲の人々が、彼の教えを理解していたからです。
 それから彼は兵士に、私を部隊に送るように述べた。兵士と一緒に厨房に行き、そこで昼食をとった。
 昼食後、彼らは私に尋ね始めた、なぜ誓いを立てないのか?
 私は述べた:福音書に述べてあるからです:《一切誓いを立ててはならない》。{註 i}
 彼らは驚いた;それから私に尋ねた:一体そんなことが福音書に書いてあるのか? うーん、見つけてみろよ。
 私は見つけ、読み、彼らは耳を傾けた。
 ─ そうだとしても、やはり誓わないことは許されない、責め殺されるので。
 私はこう述べた:地上の生命を滅ぼす者は永遠の生命を受け継ぐ。{註 ii}》

 《20日、私は他の若い兵士たちと共に列につかされ、軍規を聞かされた。私は彼らに、私は決してそのようなことはしないと述べた。彼らは尋ねた:なぜ?
 私は述べた:なぜならクリスチャンとして、武器を持ち歩いたり、敵から身を守ろうとはしないからです。なぜなら、キリストは敵をも愛するよう命じたからです。彼らは述べた:ああいったい、お前一人だけがクリスチャンだとでもいうのか? 我々皆だってクリスチャンではないか。私は述べた:他の人たちについて私は何も知りません。知っているのは自分についてだけで、私がする、そのことをするようにキリストが言われたということです。
 軍の長官は述べた:もしお前が教練をしないなら、私はお前を牢屋で腐らせてやる。
 それに対して私は述べた:お望みになることを私になさってください、でも私は軍務はしません。》

 《今日、委員会が検分した。将軍は将校たちに言う:どんな信念がこの若造に服務を拒否しようと決めさせるんだ? 何百万もの人間が服務するというのに、彼一人が拒否する。彼を枝むちで打ちすえるのが良い、そうすれば彼は自分の信念を捨てるだろう。》

 《オリホヴィクはアムール河に送られた。汽船の中では誰もが断食礼{註 iii}をしていたが、彼は拒否した。兵士たちは彼に理由を尋ねた。彼は説明した。兵士のキリル・セレダが話に割って入った。彼は福音書を開き、マタイの第五章を読み始めた。読み終えてから、彼は話し始めた:ここでキリストは誓約、裁判、戦争を禁じておられるが{註 iv}、我々はこれらすべてを行い、合法の行為とみなしている。そうして群れになりひしめき合って立つうち、兵士たちは、セレダの首に十字架が無いことに気づいた。彼に尋ねた:お前の十字架はどこだ?
 彼は言う:トランクの中です。
 彼らは再び尋ねた:いったいなぜお前はそれを首に掛けないんだ?
 彼は言う:私はキリストを愛しているので、キリストが磔にされた道具を身につけることはできません。
 それから二人の上等兵が入ってきて、セレダと話し始めた。彼らは彼に述べた:お前は近頃、断食礼をしていたのに、一体なぜ今になって十字架を投げ捨てたんだ?
 彼はこう答えた:当時私は暗がりにあって、光が見えなかったからです。しかし今は福音書を読み始め、これらすべてをクリスチャン式に行う必要がないことが分かりました。
 彼らは再び尋ねた:つまり、お前もオリホヴィク同様に、服務しないということか?
 彼は、するつもりはないと言った。
 彼らは尋ねた:なぜ?
 彼は言った:なぜなら私はクリスチャンであり、クリスチャンは人々に対して武装してはならないからです。
 セレダはオリホヴィクと一緒に逮捕され、ヤクーツク州に追放された。彼らは今もそこにいる。》

書籍『П. А. オリホヴィクの手紙』より


(2)
《1894年1月27日、クルスク県の元・村の教師ドロッジンなる人が、ヴォロネジ刑務所の病院で肺炎のため死亡した。彼の遺体は、監獄で死んだ全ての犯罪人の遺体がそこに投げ込まれるのと同様に、刑務所墓地の墓に放り込まれた。だが一方で、これは、時に人生に現れる、最も神聖で、高潔で、真実な人々の一人であった。

1891年8月、彼は兵役義務を勤めるよう召集を受けたが、すべての人々を兄弟であると考え、殺人と暴力は良心と神の意志に反する最大の罪であると認識し、兵士となって武器を持つことを拒否した。全く同様に、彼に不道徳な行為を要求しうる他の者たちの権力のもとに自分の意志を委ねることを、罪であると認識し、彼は宣誓をも拒否した。暴力と殺人を生活の基礎とする者達は、最初1年、彼をハリコフの独房に収監した後、ヴォロネジの懲治大隊に移送し、そこで15ヶ月の間、彼を寒さと飢えと独房監禁によって痛めつけた。とうとう、継続的な受難と苦難によって彼の労咳(ろうがい)が進行し、彼が軍務に不適だと認定された時、一般の監獄に移送することが決定され、そこで彼はさらに9年間服役せねばならないはずだった。だが、極寒の日に彼を大隊から監獄に拘引するにあたり、警察職員が不注意により、防寒着なしで彼を連れ運び、警察署のそばの通りに長く立たせたため、彼は凍え、肺炎となり、それから22日の後に死亡した。

死の前日、ドロッジンは医師に述べた:「私は長くは生きなかったけれど、自らの良心に従い、自らの信念によって行動したという意識を持って死にます。もちろん、これについては他の人たちがより良く判断できます。多分……いや、私は思います、私は正しいと」、と彼は肯定的に述べた。》

書籍『ドロッジンの生と死』より


(3)
《6:11 悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。 6:12 わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。 6:13 だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。 6:14 立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、 》
(6:15 平和の福音を告げる準備を履物としなさい。)

エフェソの信徒への手紙


以下、第九章本文(平民社訳)。



(註の前の付言)

本編第一章やエピグラフ第一章を扱った回にも補足を入れておきましたが、春秋社訳編『平和論集』に収められている「悔改めよ」では、エピグラフもちゃんと翻訳しています。
ただ、どういう訳か第九章のエピグラフだけ抜けています。
(大正時代の本だから、検閲とかにあったのかもしれません。)

さて、全てがちゃんと翻訳された「パーフェクト版」の訳書も、私が知らないだけで、あるいは存在するのかもしれません。
ただ、そうであってもなくても、ここに私が第九章エピグラフの訳を載せれば、「悔改めよ」(爾曹悔改めよ/汝ら悔い改めよ)日本語訳の全パーツがネット上に揃うことになります。責任重大かもしれません(^_^;)。

話変わって、ちょっとしたことですが。今回の (1) では、見やすさのためレイアウトを(他の引用とは変えて、電子テキスト版ではなく)概ねトルストイ全集に合わせました。



個別の註釈の前に、全般的な話を。

この章のエピグラフ (1) (2) はどちらも徴兵を拒否した一般人に関わる文書です。
(1) はピョートル・ヴァシーリエヴィチ・オリホヴィクという人の書簡をまとめた書籍、
(2) はエウドキム・ニキーチチ・ドロッジンという人にまつわる悲しい顛末をまとめた書籍、
 ……という感じかと。

「書籍」といっても、どちらかと言うと、一種の「反戦パンフレット」に近いものかもしれません。
そして、このどちらの書籍にも、トルストイは関係しているようです。

少し話は飛びますが。
検索で、以下のようなロシア語の反戦サイトを知りました。
https://antimilitary.ru/

トップに掲げてある標語を、少し意訳すれば
《「暴力からの脱却」 アンチミリタリー・プロジェクト》
 ……ぐらいの感じでしょうか。

さて、このサイトに反戦主義者の著作一覧を掲げたページがありまして、そこにオリホヴィク、ドロッジン両氏も(トルストイその他の著名な文人たちと並んで)紹介されています。
ロシア語のページですが、興味がおありの方は、機械翻訳なども使ってご覧になると良いかもしれません。

「非暴力アンソロジー/19世紀(1815-1914年)」

そしてこのページからは、トルストイが引用した書籍のテキストのダウンロードもできるようになっていますが……!

この先は、それぞれの註釈の中で。

* * * * * * *

(1)出典である『П. А. オリホヴィクの手紙』という本についてですが。テキストデータが上記「非暴力アンソロジー/19世紀(1815-1914年)」からダウンロードできるほか、書籍そのものもネットで見れてしまいます。
まずはそちらから紹介します。

(こちらはひょっとすると Google アカウントを持っていることが条件になっているかもしれません。)

以下に貼ったページ。2つ目の中段くらいにある「⇓ pdf」マークのところでpdfをダウンロードするのが、多分一番便利なのではないかと。無料。

正式書名としては『ハリコフ県の農民であり1895年に兵役を拒否したピョートル・ヴァシーリエヴィチ・オリホヴィクの手紙』。
中身をあまり比較できていませんが、トルストイの引用はある程度の自由さをもって行っているかも。

さて、「非暴力アンソロジー」の方に話を戻すと、ここからは「doc」ファイルが落とせます。Microsoft Wordのファイル形式ですね。念のため、ダウンロードURLの直リンクも記載しておきます。
http://zpalochka.narod.ru/Olhovik_Pisma.doc

これ以外に、トルストイ研究のページに、オリホヴィクの手紙を載せているのも見つけました。

以下、引用文に少し註をつけますが、言及の度合いが高い「マタイによる福音書」を先に貼っておきます。また、以下、福音書の名前は「マタイ」などと略します。

{註 i}…マタイ 5:34 《しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。 》

{註 ii}…マタイ19:29 《わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。 》、ヨハネ12:25 《自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。》などを念頭においたものか?

{註 iii}…ここに「断食礼」とした元の単語は "говели" で、これは "говение" という行事(?)を行うことを意味する動詞のようです。しかしその "говение" がどういうものであるのか、とか、何か日本語の定訳があるのか、とか、そういうことがよく分かりませんでした。それでさしあたり「断食礼」としたのですが(この語は下でもう一度出てきます)、全く的外れな訳である可能性もあります。(下は "говение" のロシア語版Wikipedia記事)

{註 iv}…マタイ第五章は、有名な「山上の垂訓」が述べられるところ。
誓いの禁止については、{註 i}でもふれたようにマタイ 5:34 とその前後あたりに。
裁判については、マタイ 5:25 《あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。》や、同じく《7:01 「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。 07:02 あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。》あたりを、
戦争については、マタイ《5:43 「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。 5:44 しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。》あたりを、
……それぞれ念頭においたものでしょうか。


(2) 出典となっている書物『ドロッジンの生と死』。これも (1) と同様にネットで見られます。

そして、「非暴力アンソロジー/19世紀(1815-1914年)」のテキストデータ。こちらの本については普通のWebリンクです。
第一部
第二部

この本の正式書名としては『エウドキム・ニキーチチ・ドロッジンの生と死、1866-1894』。
【この先、準備中。】


(3)新約聖書から「エフェソの信徒への手紙」6:11-14の引用。少なくとも日本語訳では6:15もないと座りが悪いので、最後にカッコに入れて付しておきました。
以下に参考のため、新共同訳へのリンクを貼っておきます。

さらに余談ながら、エフェソ(エフェソス)は今日のトルコにある、キリスト教にいろいろ深い関わりのある街。と言っても、現在では遺跡が残るのみのようです。世界遺産。