イキウメ「外の道」観劇感想(ネタバレあり)


とてもとても怖かった。
劇が終わったときに、あんなにほっとしたのは初めて…。
でも、その怖さこそがこの劇のパワーなのだと感じた。文化芸術は、心に揺さぶりをかけ、日常を見つめ直す視点を与えてくれるものだけれど、この劇は、そのパワーに溢れていた。まさに「新たな目」を、見ている者が手に入れてしまう、そんなお芝居だったと思う。


妻や恋人、母や息子を、毎日「見ている」と思っている。だから「知っている」と思っている。
だけど本当は、そう思い込んでいるだけで、何も見えていないし何も知らないんじゃないか。隣にいる人は、本当に自分の知っている「その人」なのか?
そう考え出すと、そもそも私達が腰掛けている日常や世界が全て、誰かの作り出した脆弱なものだということに気づく。それは、心の芯から怖いことだ。



「人の仕組みの中」にいれば常識人、「人の仕組みの外」に出れば狂気の人。
狂気の側の世界に取り込まれたようで始終ゾワゾワしながら見ていたが、周囲の常識人達から狂人扱いされる寺泊と山鳥が、「あいつら分かってないよね」的ににこやかに語り合うシーンでは妙にほっとしてしまった。それは劇を見ている私が、すでに人の仕組みの「外」側に立たされてしまったが故の安堵感だ。
常識人と狂人、本当はどちらが正しいかなんてわからない。そもそも、常識人同士でも見えているものが違うのだから、常識人と狂人の境も曖昧だ。自分を少女と思い込む老婆はある人から見れば確かに少女だし、不倫なんてしていない妻はある場面では確かに他の男と抱きあっているし、あり得ない死因は無かったことにされたけれど確かにガラス片は皮膚を透過して政治家を殺した。誤配はクリスマスパーティーの如き娯楽で、息子は見ず知らずの放浪者である。
日常には本当は秩序のほころびが沢山あって、その外へ、ふいに私達は投げ出されてしまう。



繰り返す空鳴りは「この世界」が崩れていく音であり、空鳴りが高まればそこを出て、生まれ直さなくてはならない。それは、繰り返す陣痛の中で産道の向こうへ出ていくことに似ている。
というイメージで見ていたため、「死ぬよ」の合唱は予想外すぎて背筋が凍った。でも見終えた今は、「ある世界で死ぬ」ことがつまり「別の世界で生まれる」ことなのだという表現だったのではないかと解釈している。

(寺泊たちのいた世界は死後の世界で、そこで暮らしていた魂が、世界の秩序の崩壊を感じ取りそこを出ていくことが、「この世に生まれる」こと。転生を描いているから冒頭の包容シーンは「久しぶり」で始まる…という解釈も考えたのだが、飛躍しすぎだろうか。)



存在への懐疑と超現実がないまぜになる世界観は、安部公房や中島敦などの近代文学を読んでいるようだった。
それでいてこの舞台は、笑いと、怖さと、希望が、すごい密度で凝縮されている舞台だった。(特に「ゴハイ」のシーンは面白すぎて声を出して笑った)役者さんたちの緩急ある巧みな演技と気迫が、面白いのに怖い、怖いのに感動するという、濃い劇後感をもたらしてくれた。イメージの危うさと、だからこそある希望を体験することができた。


世界や秩序や存在は疑わしい、そしてある日突然崩壊する。
その度、私達は生まれ直す。怖くても、美しいものを夢見て。


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