谷崎潤一郎『鍵』Vol.5 夫の日記:1月13日(朗読用)1308文字
一月十三日。
………四時半頃に木村が来た。
国から、からすみが届きましたから持って来ましたと云って、そのあと一時間ほど三人で話して帰りかける様子だったので、僕は下へ降りて行って、飯を食って行けと引き留めた。
木村は別に辞退せず、では御馳走になりますと云って坐(すわ)り込んだ。
食事の支度ができる間、僕はまた二階に上っていくが、敏子が一人で台所の用事を引き受けて、妻は茶の間に残っていた。
御馳走と云っても有りあわせのものしかなかったが、酒の肴には到来のからすみと、昨日妻が錦の市場で買って来た鮒鮨(ふなずし)があったので、すぐブランデーになった。
妻は甘いものが嫌いで、酒飲みの好くものが好き、なかんずく鮒鮨が好きだ。
―――僕は両刀使いだけれども、鮒鮨はあまり好きではない。
家じゅうで妻以外にあれを食う者はいない。
長崎人の木村もからすみは好きだが、鮒鮨は御免だと云っていた。
―――木村は土産物なんか提(さ)げて来た事はないのだが、今日は始めから晩の食事をともにする底意があったのであろう。
僕は彼の心理状態が今のところよく分(わか)らない。
郁子と敏子と、彼自身はどっちに惹(ひ)かれているのであろうか。
もし僕が木村であったとして、どっちによけい惹き付けられるかといえば、それは、年は取っているけれども母の方である事は確かだ。
だが木村はどうとも云えない。
彼の最後の目的はかえって敏子にあるのかも知れない。
敏子がそれほど彼との結婚に乗り気でないらしいので、さしあたり母の歓心を買い、母を通じて敏子を動かそうとしている?
―――いやそんな事よりも、僕自身はどんなつもりなのだろう。
どんなつもりで今夜も木村を引き留めたのだろう。
この心理は我ながら奇妙だ。
先日、七日ノ晩に僕はすでに木村に対し淡い嫉妬(淡くもなかったかも知れない)を感じつつあったのに。
―――いやそうではない、それは去年の暮(くれ)あたりからだった、―――その半面、僕はその嫉妬を密(ひそ)かに享楽しつつあった、と云えないだろうか。
元来僕は嫉妬を感じるとあの方の衝動が起るのである。
だから嫉妬は或る意味において必要でもあり快感でもある。
あの晩僕は、木村に対する嫉妬を利用して妻を喜ばす事に成功した。
僕は今後我々夫婦の性生活を満足に続けて行くためには、木村という刺戟(しげき)剤の存在が缺(か)くべからざるものである事を知るに至った。
しかし妻に注意したいのは、云うまでもない事だけれども、刺戟剤として利用する範囲を逸脱しない事だ。
妻は随分きわどい所まで行ってよい。
きわどければきわどいほどよい。
僕は僕を、気が狂うほど嫉妬させてほしい。
事によったら範囲を蹈(ふ)み越えたのではあるまいか、と、多少疑いを抱(いだ)かせるくらいであってもよい。
そのくらいまで行く事を望む。
僕がこのくらいに云っても。とても彼女は大胆な事はできそうもないけれども、そういう風にして努めて僕を刺戟してくれる事は、彼女自身の幸福のためでもあると思って貰いたい。
こちらは当note管理者・甘沼が主催する、朗読イベント用の書き下し文です。
イベントご参加の方に向けて、青空文庫収蔵 谷崎潤一郎 作『鍵』を、読みやすくリライトさせて頂きました。
エントリー不要、途中参加可、タグをつけるだけのフリーイベントですので、noteの皆様も、ぜひご参加ください。お待ちしております。
原文(引用元)青空文庫
https://www.aozora.gr.jp/cards/001383/files/56846_58899.html
初出「中央公論」中央公論社 1956(昭和31)年1月、5月~12月
【朗読用書き下し文 ポリシー】
当作品は、夫の日記の部分がカタカナで書かれている為、全体的にリライトさせて頂きました。
①青空文庫を原文とする
②AIは使用しない
③難読漢字は残し、ふりがなを加える
④注釈入りの漢字は、適宜、現代漢字や平仮名に置き換える
⑤朗読時に読みやすいよう、適宜、改行、段落、読点、句読点、平仮名を加える。
【企画】眠れる森🌙まみ https://twitter.com/NemureruMami