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個室、シェーンベルク

ひばりん

 東京でいいことがあったかと訊かれれば、たぶん沢山いいことがあったけれど、沢山いやな思いもしたから、思わず歪んだ表情になってしまうよ。

 ひとは、いやな思いをすると、心がどんどんいやな方に傾いて、酒を飲んだり性を買ったりギャンブルに走ったり、心だけでなく行動までいやな感じになっていく。それで一層心をいやなものに貶めながら、これまで沢山の人が東京に呑まれていった。そういう暗いエネルギーが東京渦をぐるぐると搔きまわしている。

 いやな心になったとき、いやな場所に引き寄せられるのは、ひばりんもふつうの人も同じ。でも、引き寄せられた先の所でしていることは、ふつうの人とは違うと思うから、その話を書く。

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 いやな思いをしたとき、ひばりんの場合は、「個室ビデオ店」に入る。飲む・打つ・買うがすごく得意なほうではないので、個室ビデオ店みたいなリスクの低そうなところに引き寄せられ、吸い込まれる。

 ふつうのひとは、個室ビデオ店に入ったら、通常6枚まで借りられるとんでもなくエッチなディスクを選び、部屋に入ってそれを眺めて、とんでもなくエッチな気持ちになり、スッキリしたり、あるいは、もっとつらい気持ちになったりする。新海誠監督作品『天気の子』の主人公は、金がなくて個室ビデオ店とかネットカフェで寝泊りしていた気がするが、彼もまたとんでもなくエッチな映像を眺めたにちがいない(新海誠の描く♂主人公は、全員スケベ野郎だからな)。

 ひばりんは違う。

 エッチなディスクには目もくれず、(BDデッキのリモコンの方ではなく)テレビのリモコンの「入力切替」を押して、インターネットモードにする。

 YouTubeのアイコンを押して、「S」「h」「o」「e」・・・「Shoenberg Op.11」と検索欄に入れる。だいたいはじめにヒットするのがポリーニの演奏だからそれを聴く。それでいいんだ。それがいいんだ。なにか仕掛けを作るでもなく、楽譜に忠実で、スムーズな演奏。

https://youtu.be/VeTFxbsVGrI

 はじめて個室ビデオ店でシェーンベルクを聴いたのはいつのことだったか、覚えてない。働き始める直前くらいのことだったかもしれない。ほんとうにどん底みたいな気分で、命からがら吸い込まれたその個室で、意味もなくネットサーフィンしているうちに、はじめてOp.11に辿り着き、その日繰り返し聴いて、60分550円の時間制限がきたから、店を出た。

 すると、心が清らかなんだ。宗教とかそういう意味を押しつけようとしてくる何かとはたぶん違って、すごく空虚で、掃除をした後の部屋というか、まだ誰も入居していない空のアパートの部屋のようにガランと抜ける感じになって、心が片付いた。

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 いやな思いをしたときに、心と行動がいやな方に流れていく。川の流れのように低きに流れていく。ひばりんの場合は、低い方向のその先にシェーンベルクという空虚な穴が空いていて、ぜんぶそこに流れ去っていく・・・。

 だから、シェーンベルクを一心に聴く。聴いて心のなかを空にする。それが、ひばりんの個室ビデオ店での過ごし方だ。わざわざ個室ビデオ店で聴くのだ。そうでなければ効果がないと思っている。どうだ、ふつうの人とは違ったろう(ろう?)。

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 この曲が書かれたのは、「けいおん!」というアニメが日本で放映されたののちょうど100年前、1909年のことだそうだ。

 虚子が『俳諧師』という小説を発表した年でもある。俳句の方はともかく、小説制作にはまだ慣れていなかった虚子が自伝ネタで書いてしまったおもんない小説(失礼)だけれど、その中にこんな一節がある。
 
「『塀和君などはまだ少しの濁りも無い、所謂清水の境界だ。羨ましいな。増田でも塀和君でも一旦僕等の眞似をしようものなら忽ち取返しのつかぬことになつてしまふ。餘程氣を附けないと險難だよ』と五十嵐は言葉をついでぢつと考へてゐたが、急にカラン/\といつもの通りの高笑ひをして『併し勝手だよ。塀和君でも墮落したけりや勝手に墮落するサ。世の中が何んだあ、つまらない、やッつけるサ。』」

 1909年から、東京はなにひとつ変わらないのだ!

 シェーンベルクと虚子は、二人とも1874年生まれの同い年で、1909年には、かたや11番目の作品(Op.11)を世に出し、かたや俳句から小説へとフィールドを広げようと藻掻いていた。

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 そもそもシェーンベルクという人はブラームス・フリークで、ブラームスの曲が好きで好きで仕方なく、ツェムリンスキーに出会うまでは独学し、おかげで音楽大学的なものに染まらなかったところが愛おしい。1904年ころ(つまり30歳ころ)にはアルバン・ベルクとウェーベルンという二人の若い才能に慕われ、ついにこの二人の「師匠」となった。弟子を取っていよいよホンモノの音楽家になった!という高揚をシェーンベルクが感じたかどうか、おそらく感じるタイプのひとだったろう、シェーンベルクの自意識はつねに”俺様”だったから。

 それ以降は、なんというか、その、百合かBLとしかいいようのない濃い時間を過ごした。1909年頃というのは、彼らにとってはそういう時期だ。この3人が音楽を通じてどれほど密接だったことか・・・そんな師弟関係を取り上げて、頭でっかちの音楽学者たちは「新ウィーン楽派」と呼びならわしているわけだが、楽派というより、どう考えても百合かBLだろ!(リアル同性愛だったという意味じゃなく、なんていうか、ほら、わかるだろ、わかんないやつは「響け!ユーフォニアム」か「Free!」を観ろ)。

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 ついでにいえば、アドルノという本当にどうしようもなく才能のない弟子もいて、すっとこな曲を残して、あとは音楽家ではなく音楽評論家になった。

 アドルノもまた他の弟子たちとおなじく、シェーンベルクのことが好きすぎて、でもシェーンベルクみたいにはなれずに、頭でっかちに音楽を語ることで師匠への愛を示すしかなくなったひと、要するに音楽史のサイドストーリーを生きた人だったとひばりんは思う(「リズと青い鳥」と「映画 ハイ☆スピード!-Free! Starting Days-」も観ろ)。

 ひばりんもまた、音楽をするよりも先に語ってしまいがちな人間だから、アドルノの書いたものを読んでいると共感性羞恥で心が揺れるのだけど、しかしアドルノを使って現代ポップスを語るぜ、みたいな論文を読むと、なんていうかアドルノの百合感/BL感をちゃんとわかってるのか心配になる。アドルノはあまりに思想先行で、シェーンベルクの言いたかったことや書いていた音楽とはいつもなんかズレている、そこがひたすら萌えなのに。

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 シェーンベルクは、速書きだったことを憚らずひとに自慢した人だった。じっさいめちゃくちゃ速かった。そのおかげで、彼のめちゃくちゃな精神状態と対位法技術の暴走がそのまま吐露されたような楽曲もあるわけだけれど、それも含めて彼の良さ。要するにシュールレアリスムの自動筆記みたいな制作スタイルだった。

 彼がフロイトからの影響を受けていたのは事実だ。だが、自動筆記性がはっきり自覚されていたわけではない。ウィーンの時代精神のなかで、シュールレアリスムの誕生に先駆けて、音楽制作における無意識の層をたまたま掘り当ててしまったのだろう。

 むしろクラシックの作曲家界隈には、いまもむかしも「速書きのやつのほうが作曲家として格が高い」という価値観があるから、見栄っ張りでテクニシャンだったシェーンベルクは、その価値基準に人一倍固執していただけだったかもしれない、うん、たぶんそっちのほうが正しい。彼はいつだって俺様だったから。

 とにかくシェーンベルクの手は速すぎた。

 速すぎる手からは、意識や理論を通過しない透明な無意識の対位法が流れ出る。それは美しい。

 その意味を、頭でっかちにしか音楽をみれなかったアドルノは知らない。けれど、どんくさいやり方でゆっくりゆっくりと作品を練ることしかできなかったタイプのウェーベルンは、そのことにはっきり気がついていたし、憧れと嫉妬が混ざりあった「巨大なお感情」を持て余していたに違いない・・・師匠のスピードにおいつきたくて師匠の方法をシステムにしたのが「十二音技法」だ。あれを使えば、音符を並べる順番を一々考えなくて済むからスピードアップできる。そうまでして師匠に追いつこうとしたのがウェーベルンという人なのだと、ひばりんはそう思っている。

 だから萌え的に大事なのは十二音技法とか無調とか、そういう理屈自体じゃない。それらはぜんぶ後付けだ。大事なのは、速すぎて”残像”しかみえない師匠の手の動き(マジか?)を机の横から唇を噛んでみつめるウェーベルンの気持ち、師弟の感情だ。そんなウェーベルンがいかにして死んだか、ググってみよ。

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 だから、Op.11は尊い。

 ひばりんにはわかる、Op.11もまた、めちゃくちゃな速書きで書かれたタイプの曲だ。絶対にそうだ。彼は、この曲を書いたとき、ほんとうに心が綺麗に片付いていて、空虚の一歩手前のようなところで、綺麗に鳴る音だけを並べた。

 テクニックと心の状態が調和して、音符として並んだものがこんなにシンプルであるならば、それは尊い、ほんとうに、尊い。
 
 個室、シェーンベルク。おかげで、ひばりんの人生は、どん底手前でなんとかやれています。

【ひばりんの東京×音シリーズ 第1回】

(写真:じろんぬ)

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