見出し画像

1月17日

阪神大震災から30年とのことで、テレビやラジオでも「あの日」の特集をしています。
私が住んでいる大阪市は、地震による被害は大したことはありませんでしたが、私たちの住んでいるエリアは地震直後から15時間ほど停電してしまいました。

あの朝、早朝激しい揺れで目が覚めました。
同じ布団で寝ていた2歳になったばかりの長男も目を覚まして
「こわいーこわいー!」と泣いていました。
私は2人めの子供を3月に出産予定でもうすぐ臨月という頃でした。
すごく長い間揺れていたように思います。
「タテ揺れ」というものを初めて経験しました。
棚から物が落ちる音や何かが割れる音が聞こえました。

揺れがおさまるとすぐにテレビをつけましたが、その時点ではどこが震源地かも分かりませんでした。
そして10分ほどで停電してしまってテレビは見られなくなりました。
まだ夜明け前で暗くて寒くて心細かったです。
二世帯住宅で義父母と同居していましたが、2階で寝ていた義父母はあまり酷い揺れは感じなかったそうです。
2階と4階では揺れ方がそんなに違うのかな?と思いましたが今なら分かる。
あの人たち、鈍感なのです。

夜が明けると当時サラリーマンだった夫は奈良市の会社に行ってしまいました。
夫が通勤に利用していた大阪市バスと近鉄電車はこの日も運行していました。
まだ独身で同居していた義妹はアルバイトに行きました。

午後、義父母宅のリビングに納戸から石油ストーブを出して来てつけました。
石油ファンヒーターは電気がないと使えないけれど石油ストーブは使えたからです。
暖房はそれしかないので、晩ごはんは義父母宅に集まって食べました。
近くに住んでいた叔母(義母の妹)夫婦もいっしょに、石油ストーブの火とランタンの灯りで、電気の切れた冷蔵庫の中の食材をせっせと料理して食べました。幸いガスは無事でしたが、水道はポンプが電動だったので屋内の水栓からは水が出ず、ポンプを経由していない屋外の水道まで水を汲みに行きました。
叔母夫婦宅はマンションだったので停電したらもうお手上げだったのです。

夜になって夫が帰って来て
「大変なことになっている!」と言いました。
停電していて、インターネットもなく、世の中がどんなことになっているのか夜まで全く分かりませんでした。

夫が出勤すると「よう来れたな!」と会社の人に驚かれたそうです。
夫は勤めていた会社の奈良支社勤務でしたが、奈良県内から通勤している人の中にもその日は来られない人が多くいたそうです。
そして神戸支社の人と全く連絡が取れなかったそうです。神戸支社は建物が壊れて震災をきっかけに無くなってしまいました。

真っ暗な夜は怖かったです。小さな余震はひっきりなしだし、時々大きな余震もあるし。

21時頃に電気が復旧しました。
部屋が明るくなって、テレビをつけて、夫の
「大変なことになっている」というのがどういうことか分かりました。

3月に無事次男を出産して。
次男が幼稚園に入って、時々「あの日はどうしてた?」という話になりました。
同じ学年の子を持つ私たちはあの日、乳児を抱えていたか、臨月の妊婦だったかでしたから。

いいなと思ったら応援しよう!