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溺れるはざまの書物に
とにもかくにも、日々ああしんどいなと思ってしまう。それは当たり前なことが当たり前にできなくなったから。自分のエゴで妊娠出産したのだし、受け入れるほかないのだが気持ちの整理はそう簡単につきそうにない。日々溺れて飲み込まれていきそうだ。
夫の仕事仲間の女性に、産後整体をしてもらった。整体というよりも、身体を俯瞰してみるヨガのような整体だった。終わった後はからだよりも脳がすっきりしたのを覚えている。
そんな整体師の彼女から教えてもらったのが「マザリング 現代の母なる場所」(中村佑子著)だった。内容は下記ノートの試し読みから読めますので気になる方はどうぞ。
言語化が苦手なわたしは、「ああこういうことを感じているのだ」と泣きながら思った。自分が何にもがき苦しんでいるのかを代弁してくれた気がした。印象的だった部分を抜粋しておく。
子宮という空隙は、いつか訪れるかもしれない「他者性」にむかって開かれ、その準備が毎月未遂に終わったり、宿った子を失うという可能性をも引き受けている。存在の「有」と「無」の運命を担っているという意味で、それは肉体のなかにあるにもかかわらず、世界には存在せず、名指されもしない場だ。
創造のエネルギーを孕んだ、カオティックで猛々しいノイズと、精密にプログラム化された静かな無音のような状態、この両翼で進んでいくのが、女性の身体であると言えるのかもしれない。
「子育てしていると、自分の子ども時代をもう一度演じ直すという感覚がある。自分が子ども時代に見た風景、山なら山、海なら海を、彼も同じ場所から見ている。40年経って、まったく同じではなくて、ちょっとずつずれていて、自分の身体はこれで終わっていくけれども、なるほど、再生産というのはこうして別の個体に何かが受け継がれて乗りうつって、こうして反復的に繰り返されていくことなのだと」
月に一回、血が流れる穴は、子どもが宿ると、こんどは産道となるふしぎな穴でもある。そういう穴が自分の中心にうつろに空いていることが、自分に他者への感覚をもたらす通行路になるのだろうかと思える。身体の中心に、ぽっかりと空いた場所があり、何かを待っている。それは、つねに他者への可能態として身体が開かれていることへの震えのようなものかもしれない。
人は忘却によって成り立っている。母の産道を通るときに自分自身もきっとくぐり抜けてきたはずの無数の音、不穏な音、悲しい音、喜びの音を忘却のかなたに押しやり、この地上に降りてくるのだろう。
言葉をたずさえて、言葉を支えにして生きる女性にとって、子育て期を乗り越えるのはたしかに難しい。いままで言葉をつぐむための栄養だった静かな時間は突然、授乳、おむつ替え、寝かしつけ、と赤ちゃんの短い睡眠サイクルと共に日々くるくる変化する時間になる。私はプラスのように死に追いやられるほど、言葉を失う恐怖が強かったわけではないが、それでも、出産直後にやってくる言葉の忘却期間は、とてもつらかった。
娘と私は、娘が生まれてからの二年あまり、本当にお互いの自己が溶解した、母子カプセルのなかにいた。輪郭を越え出て、溶け合っていたのだ。しかし、彼女はもう何でも自分食べるし、意思と言葉をも手中におさめている。二人は別々の身体をもつ個体となり、私たちの母子溶解の場は、こうしてほどけたのだ。
たしかに幼児の世界は、私たちがいる世界とは圧倒的に異なっているので、ふと気がつくと靄に囲まれて、あちらの世界に迷い込んで戻れない、というようなものである。靄のなかでの自己溶解の感覚は、母親の個を迷子にさせ、彷徨わせる。
引用したいところが多くなりすぎてキリがなくなってしまうのでこの辺にしておく。この本のなかで子どもと過ごす時間を「神話的」と書いていてまさにそれだと日々感じている。神話的時間に自分も飲み込まれて、子と自分の境目がわからなくなる。エヴァンゲリオンを思い出した。エヴァンゲリオンはもう何度も観ているが、産後に観たらまた見方が変わるかもしれないな。
と、時間を飲み込まれそうになっていても私は私だし、子は子だ。いつの時も、子をひとりのひととして見つめ、その選択を尊重して守れる親でありたい。