一枚のタオルが教えてくれた『何もできない人間』の価値
記憶を掘り起こすきっかけ
沖縄ではついに25℃という夏日を目前にした、とある暖かな夜。
私は翌日から5日間家を空けるため、必死で洗濯機を回し、掃除機をかける慌ただしい時間を過ごしていました。
洗濯が終わったばかりの衣類を干していると、洗濯カゴの中から最近目にしていなかったタオルが顔を出したのです。
先日棚の奥から何気に引っ張り出し、洗濯機に放り込んだライオンが刺繍された淡い黄色のタオル。
"あぁ、これを使っていたのはもう15年も前なのか・・・懐かしいなぁ。"
このタオルは、沖縄に移住して最初の3年間母と過ごした時に『私(わたし)専用』として使っていたものでした。
移住4年目で異動になった私は、母を沖縄本島に残し一人石垣島へ。
異動があった最初の年末、本島の家に帰ってくると『私専用』として使っていたライオンタオルが棚の奥深くにしまわれていることに気づいたのです。
私「・・・・このタオル、使わないの?」
母「だって、それを見てると寂しくなるから」
当時の私は「こいつは何を言ってんだ?」という感想が出てくる以外に何も感じることはありませんでした。
社会人2年目の7月に鬱病を発症した私は、その後双極性障害へ振れながら”寛解”、つまり症状が出ず人並みに過ごせるに至るまで5年間半の歳月が必要でした。
つまり、移住して母と暮らしていた3年間の半分は鬱状態。
特に母と2人で過ごした期間はどん底で、食事も摂れずやせ細り、その姿はまるでどこかの飢餓難民のよう。
そんな私の毎日は、職場と家を往復し、じっと過ごしているだけの本当に無意味なもの。
自分を「役立たず」と追い込んだ結果鬱病になり、「出来損ない」、「給料泥棒」、「無価値」と日々自ら言葉を浴びせ、生きている理由も分からず過ごす日々。
母はそんな私と二人きりで暮らしていたので、とても息の詰まる思いだったことでしょう。
家事を一切せず、笑いもせず、抜け殻のようになった娘の世話だけをして過ごす母。
ライオンのタオルは、そんな生気のない日々の風景の一つでした。
タオルに刻まれた記憶
さて干そうとタオルを手にとった時、私はあの日の母の言葉を頭の中で再生していました。
『・・だって、それを見てると寂しくなるから・・』
母と過ごした時間の中で、私は母にとって世話を必要とするだけの肉の塊・・・
・・ちょっと待てよ。
母が私の使っていたタオルを見て「寂しい」と感じた気持ち。
"鬱病者の世話をしなければいけない"という「憂鬱」でもなければ「イライラ」でもない、彼女がタオルに投影する「寂しさ」の正体・・・。
そうか。
虚ろな表情しか出来ず人の世話で生き延びるだけの存在だったけれど、その時の私は”一緒にいるだけで価値がある”存在だったのです。
母にとって大切な価値を失ってしまったからこそ、タオルに私を投影し、その寂しさを感じていた。
そうか、そうだったんだ・・・
ただ生き延びるだけの無意味だと思えた日々は、母にとってそんな意味があったのか。
お母さん、あれからもう12年が経ったけど、今やっとあなたが当時の私に見出してくれていた価値を知ることが出来たよ。
あなたは見たくないと言ったけど、このタオルはあなたが私に見出した価値の象徴なんだ。
本当に、ありがとう。
あんなにもどうしようもない、無価値だと自らを責め続けていた私に価値を与えてくれていたなんて・・・本当に、ありがとう。
「自分の存在価値を見いだせない」人へ
自分の価値を見いだせない、無価値だと思っている人へ伝えたいこと。
それは「そう思っているのは自分だけなんだよ」ということです。
例え病院で寝ているだけになったとしても、あなたを思う家族、友人がいる。
家族に何もできなくても、生きているからこそ家族がまとまっている、そんな存在であることもあるでしょう。
家の中で引きこもっていたとしても、生きている限り、人とのつながりは断たれない。
生きるためには食べる、食べ物をいただくことは生産する人、流通に関わる人を養い、料理を作ってくれる人との関係を結ぶことにもなる。
一見何もしていないように見えて、実は身近な人の心を支え、つながる人々の生活を支えている。
生きているだけで、人には必ず価値がある。
何も出来ないと思えても、積極的に価値を生み出す必要は全くないのです。
もしも無価値で生きるのが辛いと思えるならば。
あなたが生きることで、つながっている大勢の人のことを思い出してください。
そして何より、あなたの身近な人のことを思い出してください。
あなたは生きているだけで、人へ大切な贈り物ができる存在なのです。
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