斯くや在らん
20歳。
そこが区切りだと思っていた。
日が昇って、暮れるまで。1日がとても長く、1週間が息切れするほど長く、1ヶ月を大人にとっての一節ほどにも長く、1年をただ耐え忍ぶものだと感じていた頃。
死にたいわけじゃない。別段死ぬほど苦しいこともない。何なら寧ろ、環境は恵まれていた。
でもこのまま、自動的に死ぬまで1日1日を耐えねばならないのだと思うと、この先の果てしなさに押し潰されそうだった。
区切りだと思っていた20歳を既に過ぎ、半ば惰性で生きる今になって、矢の如く過ぎ去る1日の中にあっても、朧げながらも遠くに人生の終わりを捉えられるようになった。
今になって、昔の自分が人生の果てしなさに絶望してしまった理由も、当時よりは理解ができるようになった気がする。
インスタントな絶望の理由は、単純な残り年数の違いと、生きることは辛く苦しいことなのだという思い込みがあったからだろう。
私がまだ自分で靴も満足に履けない歳の頃、言葉もそれほど知らないながら、ぼんやりと考えたことを今でも覚えている。
薄緑のカーテンから朝日が差し込んでいた。
スーツに着替えた若い父と、今より髪の長い若い母が、床に座る私の頭上で何やら話していた。
弟は母の背で泣き声もあげずに寝ていた。
父は仕事をするために、扉の外の私の知らないどこかへ毎日出て行く。
母はずっと、私と弟と家にいた。
表情の見えない父母をぼんやりと見上げ眺めながら、時々家に来る祖父母を思い出していた。
そうして、私は、
「ああ、こうして生きていくしかないんだ」
と思った。
死の概念はまだ知らなかったと思う。
しかし、ただ何となく、私はいずれ父のように扉の外へ出ていかなくてはならない時がくるのだろうと思った。父も母もいずれ祖父母のようになり、そしてその先は…と考えようとしたところで、わからなくなったことを覚えている。
言語で考えていたわけではなかったが、どうしてかその時の景色と思考を今でも覚えている。
自我を持ち始めた頃には、気づくと浅瀬の海に放り込まれており、地平線の果てを目指せと言われているようなものだった。
なぜ目指すのかの理由も知らず、なぜここで溺れ死んではいけないのかと問えば、それは苦しいことだから、間違っているからだと言われるだけだ。
苦しみながら泳ぎ続ける理由など、例え果てに辿り着けど見つかるはずもないのに。
だからこそ、自分で一つの目標地点を設定する必要があった。
私の場合、それが20歳だった。
死のうと思ったわけじゃない。
ただ、遠すぎず近すぎない、目を凝らせば見えるところに息継ぎできるところが欲しかった。
そうしないと進めないと思った。
顔を出したそこから見渡した時に、あまりに先が暗く、進んだところで何も得られないようだと判断したなら、止めようと思っていた。
人生を降りようと思っていた。
溺れ死ぬまで泳ぎ続けることが、正しいことだとどうしても思えなかったのだ。
死に瀕する身内を見て尚、いや見たことでさらに増して、より鮮明になった。
生きることに意味はないと。
しかし、遺された者の打ちひしがれようを見て、自分が死ぬことよりも、その後の親や兄弟が私が死後どうなるかの方が恐ろしくなった。
でも今はもう、半ばどうでもよくなった。
どうせ生きるしかないなら、苦しいことや嫌なことはできるだけ避けたい。
どうせ苦しいなら、早く終わってほしい。
私は私のしたいことがしたい。
したいことがないなら、何もしたくない。
義務の発生する権利はいらない。
眩しい日差しも、冷たい風もいらない。
苦痛を耐え抜かないと得られないものはいらない。
ただ寝ていたい。