INTPと破滅願望と就活

 破滅願望と聞けば、言葉自体に馴染みのない人でも恐らく、少なくとも健全なイメージの言葉でないことは容易に想像できるだろう。また、現代に生きる多くの人間は、薄っすらと明瞭な「死にたい」または「生きたくない」という感覚を、自分事としてか本の中、或いはSNSの吹き溜まりの中に認識したことがあるだろう。もしもこのnoteを暇つぶしとしてだろうが何だろうが開いたあなたが、「生きることは何よりも素晴らしいこと」で「死とは忌避されるべきものである」だと考える人ならば、ブラウザバックを推奨する。あなたにとって心地の良いものは、ここには全く綴られないからである。

 破滅願望というのは、とくに"受動的に"自分自身の破滅を望むことを指して用いられる。始まってしまった自分の人生について「生きたくない」と思う時間がどれほど長かろうと、自ら命を絶とうと行動を起こせるだけの絶望の瞬間風速には達しない。かと言って、自らの生ぬるい絶望を、社会に見せびらかしたり他者に振りかざしたりして消化することも望まず(noteでの自叙を見せびらかしとするなら別だが)、ただ常に"いつか"を夢想しているだけである。

 少し話は逸れるが、以前、嫌いな音楽の何が嫌いかを考えたことがある。私が嫌いな音楽に共通する要素は、かなり大雑把な括りではあるが"最近の音楽"の歌詞の中に見る、「強さを否定して弱さを肯定する方が、クールで高尚なものだ」という風潮である。虚無主義的で薄っすらと破滅願望をもつ私のような人間には心地よいものかと思われるかもしれないが、寧ろ拒絶反応が起こるのは、"自らの生ぬるい絶望”を流行のかっこいい音楽に乗せて声高に喚き散らし、似たような生ぬるい絶望を抱えた人間が群がる様が、端的に言えば気持ち悪いからだ。しかしこれは、かつて中二病であった過去がある人が、現在中二病を患っている人に対してあたりが強くなるようなものに近いのかもしれない。若しくは、自分にできないことをやってのけている人間が実は疎ましいのかもしれない。私が私の虚無主義や破滅願望について高尚なものであるとはまず思わないが、彼らが行っている自分の持つ思想に価値をつけて世に出すという行為は、生産的かそうでないかという点において、日夜ベッドの苔である私は完全に敗北している。彼らの方が生き物として適応的であるとも言える。
 U〇ERw〇rldのENという曲がテレビで流れた時に、思わず耳を塞いだのは記憶に新しい。べつにU〇ER自体が嫌いなわけではないです。東京グールの曲しか他の曲知らないけど。

 話を戻すため、タイトルにある私の就活について書くとする。
 現在、私は修士2年。つい先日恐らく人生最後の夏休みを終え、人生の夏休みの終わりも近づいている。24歳。かつての同級生の近況は殆ど知らないが、多くは社会に出ていることだろう。読みたい本を好きなだけ読み、興味の赴くまま論文を読み漁り、時々ふらふらと近所を散歩し、稀に数少ない友人と本屋と喫茶店をはしごする。そして私たちの未来について、時には哲学めいた、時にはSFめいた、七夕の短冊で見かける子どもが書いた将来の夢のような現実味のない話を日が暮れるまでする。
 ずっとこうして生きていけたらいいのに。いや、それはできない。許されない。何に?私は、私たちは何に許されないのだろう?なぜ?
 きっと誰しも考えたことがあるはずだ。それは世間体であったり、金銭面であったり、阻むものは様々あるだろうが、結局のところ人間として生きるためには、大小問わず人間によって構成される何らかの組織に所属し、その内外で少なからず交流をし、利益を循環させねばならないのだ。これはもしかしたら、私の思い込みなのかもしれない。それに本当に心の底から俗世を嫌うなら、辺境に移り住んで自給自足をするだとか、株でも買って引きこもるだとか、何かしらの道はあるはずで、それを選べばいいだけである。
 それなのに私は今、然程興味のない会社の説明会にzoomで参加してみたり、公務員の試験を受けたりしている。時間厳守の予定が大嫌いな私にとって、このひと月のスケジュールはストレスでしかない。やりたくないことのためにやりたくないことをやっている、負のスパイラルである。今までの高校や大学の受験の方がよほどマシなように思われる。進学自体に興味がなくとも、環境に恵まれていたことと学ぶことは好きであったことから、苦にはならなかった。そう、およそ全てにおいて毎回何とかなってきてしまった…というか、うまくいき過ぎてしまったように思う。私の破滅願望は、こういったところからもきているのだろう。
 何もかも取るに足らないことなのに、そう感じられるほどに自分が恵まれていることをある程度自覚しており、同時に全てを破壊してしまいたい。しかし破壊という能動的な行動を取るほど自分にも世界にも望みがないからこそ絶望もしておらず、ただ受動的な破滅を望んでいる。普段は特段、自己評価が低いわけでも高いわけでもないが、時々「こんな甘えたろくでなしはいずれ取り返しのつかない失敗をするだろう」、「今までがうまくいきすぎていた分、いつか天秤が釣り合う時が来るに違いない」と考えることがある。いずれ別の記事で書くことになるかもしれないが、私は二十歳以降の自分の人生について考えてこなかったのもあって、気分としてはすでに惰性で生きているだけの、余生のようなものなのである。若輩が何をと思われようが、20年以上、今までの人生の殆どを私はこのことについて考えてきたようなものなので、「よし!成人もしてしまったしこれからは前向きに懸命に生きるぞ!」などと、急な進路変更なぞできるわけがない。人生地獄の100年時代、酒と煙草で少しずつ寿命を縮めるくらいしかできずにいる。暫く予定で青く埋まったGoogleカレンダーが恨めしい。


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