#-3 etude バンカラウォーカーについて閑談
スプラトゥーンというゲームが好きだ。
その最新作であるスプラトゥーン3の設定資料集第二弾「バンカラウォーカー」が発売された。(発売されたのは2024年12月11日なのだが、私のSNSマイルールにより一か月後にこの記事を投稿している)
そういう訳でその感想、特に「#-3 etude」について綴っておこうと思う。
#-3 etude
エチュード。フランス語で「下絵」「即興劇」「練習曲」などを意味するらしい。イイダとミズタの過去、タコゾネス兵として過ごしていた時代を描いた短い小説だ。
これには参った。とりわけ良かったね。スプラトゥーン関連の文章じゃなかったとしても、強く惹かれたと思うよ。
ゲームの小説だけれど、どこか本質を鋭く突いているようだ。
ちなみに283ページだ。読んでいない人はいないと思うが、いるなら今すぐ読んでくれ。悪いことは言わない。
スプラトゥーンの世界は無論、架空のファンタジーだ。
この小説は、空想の、タコの話だ。
それでも、いや、だからか。この小説はひどく心を打った。
あまりにも、リアルだ。あまりにも、人間的だ。
好きだった部分をどうにも共有したいがために、いくつか引用をする。
鏡と写真
一つ目は、ミズタが写真を撮りたがらない理由の心情描写だ。
なんて人間的なオクトリングなんだ君は。
コンテンツの特性上、キャラクターの深層心理を大胆に描写した資料は数少ない。それが負の感情となれば尚更だ。
だからこそ、私のようなオタクにとっては貴重で有難い栄養源である。
そして、この見事に的を得た表現が素晴らしい。
鏡の中の自分と、写真に映る自分。我々人間も感じる違和感を、過不足なく表現している。
当たり前のようだが、人間は見慣れたものに愛着を抱くらしい。だから毎日のように鏡で見ている自分の顔には、自然と慣れや愛着が湧く。
しかし、写真が写すのは見慣れた私の顔ではない。
左右反転されるだけで、自分の顔はひどく不格好に見えてくる。奇妙な位置にパーツが付いており、味気ない表情でフィルム越しに現実の私を見つめる。
これは私ではない。
そう思いたくとも、時代は理性が感性に勝る時代である。客観が主観を上回る時代である。感情を持たぬ中立的な写真の方がより”正しい”ように感じられるのは、現代人にとっては自然な反応ではないだろうか。
それは現代人にとって、ひどく不幸なことであると思う。
また、ここでいう「写真」とは、つまりミズタにとって「他人の目」であるのかもしれない。
ミズタの内面、内心などこれっぽっちも知らない連中に、勝手に「不良」と表象されること。それもまた、写真と似たようなものなのかもしれない。
自分という存在が、自分自身の手を離れ、他人の評価だけが独り歩きしていく。
「客観的な」評価が、「客観的な」写真が、『ボクが本当のミズタだ』と脅しをかける。
もしかするとミズタは、そんな風に感じていたのかもしれない。
客観性が本来のミズタ自身を食い潰して、我が物顔で「ミズタ」を演じるようになっていく。いつしか、ミズタは自分でも自分を不良だと形容するようになる。
客観性という名の暴力が、そこには在るのかもしれない。
何はともあれ、そのような仄暗い感情を、あの世界で、ミズタが抱えていたということ。そのことが途方もなく、私を嬉しくさせる。スプラトゥーンの世界は楽しいだけの世界ではなく、思索の許される、奥行のある、ある種の現実世界なのだと。
三脚とカメラ
二つ目。ミズタとイイダが写真を撮るため、三脚とカメラを用意するシーン。
少し分かりやすすぎるくらいの比喩表現。
まぁ勿論、優等生イイダと不良ミズタの対比だろう。
存外、こういうハッキリとした暗喩も私は好きなようだ。(ハッキリとした暗喩という矛盾はここでは置いておく)
才能と心の拠り所
三つ目。イイダが転属になり、好きな機械いじりも音楽もできなくなりそうだという話を受けた、ミズタの心象。
イイダちゃんのような天才ではないけれど、この状況は理解に容易い。
周囲の大人が評価しやすい才能を持ち合わせてしまった子供は、不運だと、私は思う。劣等生というレッテルを張られる子供と同じくらい、不運だ。
なぜって、大人が評価する部分以外は、簡単に捨象されてしまうからだ。
イイダちゃんのように、エリートであれば、エリートだと表象される。エリートであることとは関係の無い部分(ここでは機械いじりや音楽)は、彼女の一部分としては表象されない。
他人に勝手に自分を捨象され、エリートである自分を造りあげられてしまう。優秀さとは関係の無い部分––––個性とでも呼ぼうか––––は、捨てさせられる。
そうやって生きていると、いつの間にか、その捨象の方が自分の本質のようになっていく。自然発生的に湧き上がる自分の個性を、自ら捨象し、溝に捨ててしまうようになる。
少し、偏った、個人的な見方になってしまったかもしれない。
だが、他人から勝手に自分自身を捨象されること。それは、”エリート”のイイダにとっても、”不良”のミズタにとっても、同じことだったのかもしれない。
総括
長々と書き連ねてしまったが、イイダとミズタの関係性を描いたものとしても、修辞的な面でも、とても良い文章だった。
スプラトゥーンの世界観は細部までとても作り込まれている。だからこそ、その世界やキャラクターの迫真性は半端ではない。
本当に、キャラクターが”生きている”と信じさせてくれるのだ。
やっぱり私は、そんなスプラトゥーンの世界が大好きだ。
また、今まで私はミズタというキャラクターを特段好きだとも嫌いとも思っていなかった。が、この小説で印象がガラッと変わってしまった。このような思索に耽る一面も持つ人物だったとは。
おそらく彼女のことをこれ以上深堀りするコンテンツを待つのは、望み薄だろうと私は勝手に思っている。ただ、この小説によってミズタというキャラクターが私の心に刻まれたことは、ここに記録しておこうと思う。
やはり私は小説が好きだ。このようなゲームのコンテンツにおける短い小説から純文学まで、皆同様に好いている。
小説では、普段知り得ない他人の意識を知ることができる。他人が物事をどう考えるか、知ることができる。
それはつまり誰かの人生を知る手段である。誰かの人生を知るということは、畢竟、誰かの生き方を学ぶということだ。
混沌とした世の中をどう生きて行けば良いものか、皆目見当もつかない私にとって、これは道しるべのようなものだ。羅針盤のようなものだ。北極星のようなものだ。
くどくなったが、要するに、私の人生には小説が必要ということだ。
追記:マンタローの話
「#-3 etude」とは別に、とても好きなところがあったので書き留めておこう。
180ページ、マンタローの紹介欄だ。引用する。
分かります? この繊細さと図太さの華麗な協奏曲。
アンチコメで三日寝込む癖に、世界的アーティストに対してはこれ以上褒めないで欲しいって思ってんですよこのマンタ。嗚呼流石バンカラの雄。そういうところが好きだよ。