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他人への期待
ある人は言う「勝手に他人に期待するから、勝手に裏切られた気になって悲しむのだ。だから初めから他人に期待してはいけないんだよ。」
だけどわたしはそれを、まだ消化出来ていない。
他人に期待するとは
例えばわたしが職場で誰かに「おはよう」と声をかけたとする、わたしは当たり前にその人から「おはよう」とかえってくることを期待する。
だが、その人は「…っす」と答えたとしよう。
わたしは「なぜ挨拶もまともにできないんだこの人は。嫌な気分だわ!」と若干の苛立ちをおぼえてしまう。
これはわたしが「勝手」に他人に期待した結果、裏切られたということなんだろうか。
己の中の常識である所の「挨拶をされたら挨拶で返す」という固定概念すらも、わたしは期待してはいけないのだろうか。まあそもそも、それこそが自分の常識を他人に押し付けているだけということなのかもしれない。
“この人は挨拶を返してくれるだろう“は、わたしが勝手に作り上げた偶像であって、そうでなかった時に苛立つのはおおよそお門違いといったところなのだろう。
初めから「この人は挨拶もまともに出来ない人よね。」と考えていれば、「…っす」と答えられても苛立つことは無い。それが他人に期待しないということなのか。
本当にそうなんだろうか。どこか他人を見下し諦めているように思えないだろうか。
挨拶の見返りを求めるのはあさましい考えだろうか。
こんな思考で他人と接する事が、果たして正しいのか。わたしはいまだに分からない。
友人や恋人が素敵であればあるほど、わたしは期待してしまう。その優しさを。楽しさを。
1歩踏み止まり、どんなに仲が良かったとしても他人であることを確認する。わたしは無意識に期待している。
「ねえ、今度遊ぼうよ」などと連絡すれば、はいか、いいえと返答が当たり前に返ってくることを期待している。ちがう。これは期待なのか?
誰に対しても、どうせ連絡してもかえって来ないだろうと「期待しない」でいたら、そんな人に遊ぼうよなどと誘ったりはしない。そもそもがないのだ。
友人や恋人に対して「この人から別に連絡返ってこなくてもどうでもいいや」と、期待しないでいることをわたしは出来ない。どうでもよくないから友人なのだ。どうでもよくないから恋人なのだ。
他人に期待して勝手に裏切られて傷つくことを恐れてはダメだ。リスクなしに他人と関わろうなどと考えるからいけなかった。いいじゃないか勝手に落ち込むなんておおいに結構。相手にそれを悟られず自分の中で上手く消化していく。伝わらなければ思考は自由だ。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
頭の中がグルグル思考していて、まとまらないままですが残します。いつかなにか良い答えがでたらいいなと思っています。「正解」なんてないのかもしれませんけれど。
またいつか。