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短編小説「forget」

普通の人間がこのどうしようもない世界で生きていくためには、たくさんの感情を捨てなければならない。

誰かを愛すること、誰かに愛されること。
傷つかないために、傷つけないために。


いくつもの諦めや後悔や、悲しみの中で私たち人間は手放していく。もう二度と同じ事を繰り返さないようにと、大切な何かを手放していく。

ーそうして出来上がった人間が住む場所がここだ。




私はこの場所がとても嫌いだ。誰も笑うことも、泣くことも無い場所。唯一あるのは上辺の優しさだけ。それに虚しさを感じることも無い。

私はこの場所がとても好きだ。誰も私を泣かせたりしないし、離れていくことも無い。本来なら何かに対して『好き』や『嫌い』という感情そのものが、この場所には必要ないのだ。それではなぜ私がここにいるのかということになる。私が今感じているこれは一体何なのかということになる。

私はここから抜け出したいと思っているのだろうか。
こんなにも居心地のいい世界から、元の世界に戻りたいと思っているのだろうか。

全てを置いてきてしまった。"自分がどうしたいのか"を言葉にすることを、忘れてしまった。私の言葉で傷つけてきた人達の顔を、忘れてしまった。自分の言動や選択でどこかの誰かが負った悲しみや、憎悪を想像することを忘れてしまった。


あの頃の私は、この世界の中心は自分であるかのように思っていた。私の人生なのだからと、勝手なことを繰り返した。主人公だった。ただ、アニメや漫画の世界のように、私を止めてくれる人も、叱りつける人もいなかった。いや、正確には居たのかもしれないが、私の心がそれを受け入れなかっただけなのかもしれない。

とにかく気づいたら私は、一人だった。

一人になって初めて、自分の浅はかさに気が付いた。遅かった。きっと誰かに愛されていたことも理解できないまま、手を伸ばした先にいつもあると思っていたものが、今は何処にもないのだということに、いままで気づいていなかった。ひとしきり泣いた後、
ー目が覚めたらここに居た。


そしてこの世界で過ごしていく中で、感じていた"違和感"は少しづつ"日常"になりかけている。誰もが心の中の大事な感情を持つことの無い世界は、初めは何処か寂しくもあった。みんな幸せそうに笑う世界が、私には恐ろしかった。だけどどうだろう。みんな自分を守るために必死に生きているだけだ。誰も傷つかない。傷つくことは無い。誰かの幸せによって損をする人もいない。全員が手を合わせ祝福する世界だ。

きっとこの世界で誰かが自ら命を絶ったとしても、遺書にはこう書かれているだろう。

『私が幸せになるために死ぬのだ。』と。


決して悲観などはなく、感じることも無く、さもそれが美しい選択なのだと、心の底から思いながら死んでいく。誰も悲しむことは無い。もしこの話がおかしいと思うのなら、これを読んでいる貴方がまだ、こちらの世界に来る必要がないからだ。


私も少しずつ、こちらの世界に馴染んできている。いつかきっと元の世界にいる貴方達のことが、理解できなくなるのだろうと思う。どうしてそんなに居心地の悪い世界で、泣いたり、怒ったりして悲しみの感情を持ち続けるのか。どうして手放さないのか。私にはそれが何故なのか、知っていたような気がするけれど、今となってはわからなくなってしまった。何より大切だったはずの誰かの顔が、思い出せないままだ。忘れてしまいたかった存在だけが、いつまでも心に残っていて、その誰かは今日も静かに泣いている。


最後まで読んで頂きありがとうございます。
またいつか。

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