異世界で追放されても、サウナさえあれば幸せです ーできれば水風呂と外気浴スペースもつけてくださいー ①
鳥も獣も、空を駆ける竜もみな寝静まり、虫の声と木の揺れる木のざわめきしか聞こえない夜更けの森。緑の月の光も届かない、背の高い木々の作り出すくろぐろとした闇の中を、一人必死に走る若い女がいた。
すっぽりと被った外套は粗末な布でこしらえているが、その中の夜着は誰が見ても上等なもので、細く白い脚を守る小綺麗な靴も、森の泥で汚れることなど考えていないような華美な作りだった。
「もう嫌、なんで私ばっかり!あんな男と結婚するなんて、絶対にごめんだわ!」
はぁ、ひぃ、と息を切らせ、漏れ出る恨み言を支えにしてなんとか走る女。しかし運動に慣れていない体はすでに限界が近く、脚も動きを止めようとしていた。
女は、急に恐怖を覚えた。闇雲に走ってきた森の暗さ、もう城も街も遠く離れた場所に来てしまったことを、いまさら実感したのだ。疲れ切った体、どろどろの服。社交界でも評判の長い金髪は、汗でべっとりとうなじに張り付いている。
ついに膝を折り、地面に手をついた女は、息を整えながら考える。
(お風呂に入りたい……)
疲れ切った頭は、城の自室にあった、薔薇を浮かべた猫脚のバスタブを思い起こす。一日の終りに、香油をたらした風呂でのんびりと体を休めるのが女の日課だった。今だって、普段どおりにしていれば、ゆっくりと湯につかったあと、ふかふかのベッドで眠っているはずだったのだ。
いや、と女は首を振る。逃げてきたのだ。今は少しでも歩いて、距離を稼がなければ。顔についた泥をぬぐい、視線をあげた時、女の鼻が場違いな香りをとらえた。
「……お風呂の、匂い……?」
森の湿った土の匂いに混じって、どこからか香りがする。湧いている湯の、やわらかい香り。目を凝らせば、木々の向こうに小さな明かりが見える。
こんな、魔族もやってくるような森の奥で誰が。猟師の山小屋だろうか。あるいは……。幼い頃に乳母から聞いた人食い魔女の昔話を思い出し、女は身震いした。
しかし、と女はなんとか立ち上がる。もう体力は限界に近い。
「姫様ーっ!セレーネ姫様ーっ!」
遠くから足音と、女を――フィン王国国王の三女、セレーネを――探す声も聞こえてきた。時間にも猶予がない。何より、全身が風呂を求めている。抗いがたい欲求に身を任せ、体をひきずって明かりに向かっていく。
明かりと香りの源は、木で作られた小屋だった。おどろおどろしい魔女の家でなかったことに、セレーネは胸をなでおろした。明かりは小屋の扉に作られた窓から漏れている。セレーネは、素朴な木製のドアを叩いた。
「もし、どなたの家か存じませんが、私を一晩――」
そこまで言ったところで、ドアが内側から開いた。セレーネはつんのめり、室内に倒れ込んでしまう。
「おい、お前」
そして、それを上から見下ろす者がいた。男だ。粗末な服を着て、がっしりとした無骨な髭面の男。影になっていて、セレーネからは表情が伺いしれない。
「あ、あの、私けっして怪しいものではなく、えっと、そう、隊商!隊商からはぐれてしまいまして」
「そういうのはいい」
男は見下ろすのをやめ、入り口にあるカウンターの奥へと歩いていき、そして言った。
「入浴か?宿泊か?」
「え」
カウンターには『サウナ&スパ みなの湯』と書かれていた。
「ここはサウナだ。入浴か、宿泊か。選べ」
異世界で追放されても、サウナさえあれば幸せです ーできれば水風呂と外気浴スペースもつけてくださいー
セレーネは、『サウナ』なるものは、どこかで言葉だけ聞いたことはあるものの、何か知らなかった。しかし、『スパ』には心当たりがあった。
世間には「公衆浴場」というものがある、と家庭教師のアミサから聞いたことがある。自宅に水道を引けない者や、家を持たない貧しい者が利用する、大人数で使う風呂だとか。家族以外の者に肌を晒すなど、あまりにも猥雑すぎてセレーネは想像したこともなかったが、そうせざるを得ない貧しい者もいるのだ、とアミサは言っていて、ぼんやりと『かわいそうだなあ』などと思った記憶がある。
「ですから、一晩かくまってもらえればよくて」
「一晩……宿泊だな。じゃあ、その服を脱げ」
「ふ、服を、ぬ、脱げですって?!」
セレーネは思わず顔を真っ赤にして叫び、そして自分が追われる身であることを思い出して口を抑え、小声でまくしたてはじめる。
「よくわからない男だと思っていましたが、淑女に服を脱げなどと!私がやんごとなき事情で焦っているのにつけこんで、よくもまあそんな下卑たことが言えますね!このケダモノ!そんなに私のは、は、裸が見たいのなら、邪竜の首級のひとつでも上げてから……」
「いや、汚れてるから脱げと言った。この服に着替えろ。女の更衣室は右だ」
男はわめくセレーネの眼前に、清潔そうな麻の服の入ったカゴをつきつけた。
「利用中はルールを守ってもらう。守れない場合は出ていけ」
そしてそのまま、カウンター奥の壁にかかれた文字を示しつつ、淡々と続ける。
ルール1:風呂やサウナには裸で入ること。
ルール2:サウナの中で諍いを起こさないこと。
ルール3:サウナストーブに水をかける時は周囲にことわること。
ルール4:水風呂に入る前に汗を流すこと。
ルール5:主人及び従業員の指示に従うこと。
「そして最も重要なルールだが……」
男の説明を聞き、フムフムとルールを読んでいたセレーネの耳に、別の声が飛び込んだ。
「セレーネ様ーっ!城にお戻りください!」
追っ手だ。もうかなり近い。風呂だというならそこに入ってしまえば、見つかることもないだろう。幸い、女と男で浴室を分けるぐらいの分別はあるらしい。
(あの男に肌を見せるぐらいなら、誰とも知らぬ貧しい女に見られるほうがまだマシ!犬にでも見られたと思って、耐えてみせる!)
「あ、ありがとうございます!説明はもうけっこう!」
セレーネは慌ててカゴを男から奪い取り、更衣室に駆け込んでいく。
男は、それを見送りながら、
「ごゆっくり」
と声をかけた。
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