#異世界サウナ 全話まとめ読み版
異世界で追放されても、サウナさえあれば幸せです
ーできれば水風呂と外気浴スペースもつけてくださいー
第一話
鳥も獣も、空を駆ける竜もみな寝静まり、虫の声と木の揺れる木のざわめきしか聞こえない夜更けの森。緑の月の光も届かない、背の高い木々の作り出すくろぐろとした闇の中を、一人必死に走る若い女がいた。
粗末な外套では隠しきれない、上等な夜着と靴が、森の泥に汚れていく。
「もう嫌、なんで私ばっかり!あんなブサイクと結婚するなんて、絶対にごめんですわ!」
はぁ、ひぃ、と息を切らせ、漏れ出る恨み言を支えにしてなんとか走る女。しかし運動に慣れていない体はすでに限界が近く、脚も動きを止めようとしていた。
疲れ切った体、どろどろの服、社交界でも評判の長い金髪は、汗でべっとりとうなじに張り付いている。女はついに膝を折った。地面に手をつき、息を整えながら考える。
(うえー、全身気持ち悪い……汗で服が重い……お風呂に入りたいですわ……)
疲れ切った頭は、城の自室にあった、薔薇を浮かべた猫脚のバスタブを思い起こす。一日の終りに、香油をたらした風呂でのんびりと体を休めるのが女の日課だった。今だって、普段どおりにしていれば、ゆっくりと湯につかったあと、ふかふかのベッドで眠っているはずだったのだ。
(だめだめ、逃げるって決めましたのよ、私!ここでがんばらないと、あのヘチャムクレと結婚させられるハメになりますわよ!がんばれ私!)
自分に言い聞かせて顔についた泥をぬぐい、視線をあげた時、女の鼻が場違いな香りをとらえた。
「……お風呂の、匂い……?」
森の湿った土の匂いに混じって、どこからか香りがする。湧いている湯の、やわらかい香り。目を凝らせば、木々の向こうに小さな明かりが見える。
こんな、魔族もやってくるような森の奥で誰が。猟師の山小屋だろうか。あるいは……。幼い頃に乳母から聞いた人食い魔女の昔話を思い出し、女は身震いした。
「姫様ーっ!セレーネ姫様ーっ!」
遠くから足音と、女を――フィン王国国王の三女、セレーネを――探す声も聞こえてきた。時間にも猶予がない。何より、全身が風呂を求めている。抗いがたい欲求に身を任せ、体をひきずって明かりに向かっていく。
明かりと香りの源は、木で作られた小屋だった。おどろおどろしい魔女の家でなかったことに、セレーネは胸をなでおろした。明かりは小屋の扉に作られた窓から漏れている。セレーネは、素朴な木製のドアを叩いた。
「もし、どなたの家か存じませんが、私を一晩――」
そこまで言ったところで、ドアが内側から開いた。セレーネはつんのめり、室内に倒れ込んでしまう。
「おい、お前」
そして、それを上から見下ろす者がいた。男だ。粗末な服を着て、がっしりとした無骨な髭面の男。影になっていて、セレーネからは表情が伺いしれない。
「あ、あの、私けっして怪しいものではなく、えっと、そう、隊商!隊商からはぐれてしまったのですわ、それで」
「そういうのはいい」
男は見下ろすのをやめ、入り口にあるカウンターの奥へと歩いていき、そして言った。
「入浴か?宿泊か?」
「え」
カウンターには『サウナ&スパ みなの湯』と書かれていた。
「ここはサウナだ。入浴か、宿泊か。選べ」
セレーネは、『サウナ』なるものは、どこかで言葉だけ聞いたことはあるものの、何か知らなかった。しかし、『スパ』には心当たりがあった。
世間には『公衆浴場』というものがある、と家庭教師のアミサから聞いたことがある。自宅に水道を引けない者や、家を持たない貧しい者が利用する、大人数で使う風呂だとか。家族以外の者に肌を晒すなど、あまりにも猥雑すぎてセレーネは想像したこともなかったが、そうせざるを得ない貧しい者もいるのだ、とアミサは言っていて、ぼんやりと「かわいそうだなあ」などと思った記憶がある。
「ですから、一晩かくまってもらえればよくて」
「一晩……宿泊だな。じゃあ、その服を脱げ」
「ふ、服を、ぬ、脱げですって?!」
セレーネは思わず顔を真っ赤にして叫び、そして自分が追われる身であることを思い出して口を抑え、小声でまくしたてはじめる。
「この無礼ものッ!淑女に服を脱げなどと!よっくもまあそんな下卑たことが言えますわね!このケダモノ!そんなに私のは、は、裸が見たいのなら、邪竜の首級のひとつでも上げてから……」
「いや、汚れてるから脱げと言った。この服に着替えろ。女の更衣室は右だ」
男はわめくセレーネの眼前に、清潔そうな麻の服の入ったカゴをつきつけた。
「利用中はルールを守ってもらう。守れない場合は出ていけ」
そしてそのまま、カウンター奥の壁にかかれた文字を示しつつ、淡々と続ける。
ルール1:風呂やサウナには基本的に裸で入ること。
ルール2:サウナの中で諍いを起こさないこと。
ルール3:サウナストーブに水をかける時は周囲にことわること。
ルール4:水風呂に入る前に汗を流すこと。
ルール5:主人及び従業員の指示に従うこと。
「そして最も重要なルールだが……」
男の説明を聞き、フムフムとルールを読んでいたセレーネの耳に、別の声が飛び込んだ。
「セレーネ様ーっ!城にお戻りください!」
追っ手だ。もうかなり近い。風呂だというならそこに入ってしまえば、見つかることもないだろう。幸い、女と男で浴室を分けるぐらいの分別はあるらしい。
(あのヘチャムクレに肌を見せるぐらいなら、誰とも知らぬ貧しい女に見られるほうがまだマシ!犬にでも見られたと思って、耐えてみせる!)
「あ、ありがとうございます!説明はもうけっこうですわ!」
セレーネは慌ててカゴを男から奪い取り、更衣室に駆け込んでいく。
男は、それを見送りながら、
「ごゆっくり」
と声をかけた。
セレーネは更衣室に入った。狭い部屋で、一角には素朴な棚があり、そこに脱いだ服などを置いておくらしかった。部屋の奥の扉の向こうから、森でかいだ風呂の匂いが漂い、セレーネの心を少し落ち着かせた。
外套、そして汗に濡れた夜着と下着を脱ぐ。靴も先程更衣室に入る前に脱いでいたので、セレーネは全裸になった。形の良い胸と、日焼けとは無縁の白い肌、体毛の手入れに余念がない腕と脚、そしてここのところの食べすぎで少し気になるお腹が、外気に晒される。
「ああっ!やっと解放されましたわ♪はやくお風呂に入ってしまいましょう!」
扉のわきにタオルが積み上がっていたので、それを取って浴室に入ると、数人は使えそうな広い洗い場と、大きな浴槽がセレーナの視界に入った。床はタイル張りで清潔で、室内は灯火クリスタルのあたたかな光で満たされていた。
「まず体を洗え」
「ひゃっ?!」
突然男の声がしたので、セレーネは驚いて足を滑らせそうになった。出どころをさぐると、『御用の際はこちら』と書かれた伝声クリスタルが緑に光っていたので、そこから声が聞こえているのだと知れた。
「石鹸もある。体を洗うためのスポンジもある。すべて清潔にしてるから安心して使え」
そこまで一方的に告げ、クリスタルの光は消えた。セレーネは大人しくその指示に従う。石鹸はセレーネが普段使っているものに比べても遜色ない品質でよく泡立ち、体を洗うと気持ちよかった。勢い余って髪まで同じ石鹸で洗ってしまったが、後悔はなかった。
汗を流して浴槽につかる。
「っふううううううーーーーーっ……」
セレーネの口から、思わず息が漏れた。湯は適温よりも少し熱めだったが、疲れ切った体にはちょうど良い温度だ。疲れが全身から抜け出ていくような感覚。香油も薔薇もない風呂だったが、今まで味わった中で最も良い風呂だ、とセレーネは思った。
しばらくそうして浸かり、ぼんやりと浴室内を見回すと、入ってきた扉とは別の扉があることに気がついた。扉の上には『サウナ』と書かれていて、隣には浴槽がもう一つある。
ざば、と湯からあがるとセレーネは伝声クリスタルを押し、光がともると男に尋ねた。
「あの、『サウナ』というのは一体何かしら?」
「……中にいる女に、使い方を聞け。体をふいてから入れよ、俺は忙しい」
それだけ言うと光が消えた。
(不親切な男だわ。こんな夜中に何を忙しくしているのかしら……。それに、他に人がいたなんて。でも、使用人の類なら、まあ良いか……)
そんなことを考えながら、言われたとおりに体をタオルでぬぐって、セレーネは『サウナ』の扉を開ける。
ドジュウウウウウッッ……。
扉を開けた瞬間、何かが焼けるようなの音とともに、熱気がセレーネの肌を包んだ。
「うわアツっ!?」
思わず後ろに飛び退くセレーネ。サウナの中は熱気と湿度に満ちており、薄暗かった。そしてその中から、女の声が聞こえた。
「何してるの、入りなよ……温度がさがるだろ」
不思議なトーンの声だった。子供のようでもあり、大人のようでもある。無礼な言葉遣いがひっかかるものの、それが男の言っていた『中にいる女』のようだった。セレーネは、おそるおそる熱気のこもった部屋の中に入っていく。
「きみ、サウナは初めてかい……じゃあ、ボクが入り方をおしえてあげる」
サウナの中心には、熱を発する石の詰まったストーブらしきものがあり、それを囲むように、ひな壇状になっている椅子があった。
声の主は、部屋の奥の上段に座っていた。セレーネの目が薄暗い室内になれていくと、彼女の姿がわかって、思わず息を呑んだ。
小柄だが肉付きの良い体に、褐色の肌。白くウェーブした髪に、身長に似つかわしくない豊満すぎるほどの乳房。そして彼女の頭には、兎のような長い耳が生えていた。
「あ、ま、魔族ッ?!」
「マ族じゃあない……ボクはウ族の魔術師、ウラ・キャス・ハラウラ」
「なんでこんなところに魔族がッ?!まさか、あの男も魔族ですのッ?!私に何をしようと言うのッ?!」
セレーネは護身用のナイフを取り出そうと腰に手をやるが、当然そこには何もない。すべて更衣室の中だ。狭い室内、逃げ場はない。
不意に、どこかで読んだ童話を思い出した。料理店の奇妙な指示に従っていくと、最後には美味しく料理されて魔族に食べられてしまう、という。セレーネの背中が、熱気の中にも関わらず総毛立つ。
しかし、ハラウラと名乗った兎耳の女は、そんなセレーネを笑って手で制した。
「『ルール2:サウナの中で諍いを起こさないこと。』……かりにボクが腹ぺこでも、ここでキミをいただこうとはしないよ……絶対に。それに、ボクはここの従業員だ」
身構えるセレーネの前に、椅子をぴょんと飛び降りて歩み寄ってくるハラウラ。胸が激しく揺れる。彼女もまた、当然裸だった。
「だ、だとしても、なんで魔族なんかと一緒に」
「まあ、座りなよ、お客さん……『ルールを守らないなら出ていけ』って主人も言ってたはずだよ……今、追い出されると困るんだろう」
ハラウラは、サウナの壁にも書かれているルールを示す。そこには、先程セレーネが聞きそびれた『最も重要なルール』が書かれていた。
ルール0:サウナの中では種族・性別・身分を問わず、みな平等である。
「ボクのことはハラウラって呼んで……次、魔族とか言ったら、追い出すからね、セレーネ」
魔族――長らく人間と敵対し、王族や各地の領主が小競り合いを繰り広げている異形の蛮族たち。その姿かたちは様々で、まるきり巨大な動物のような生き物から、ひと目見ただけでは人間と区別のつかないものまでいるという。どんな魔族もおしなべて凶暴で、理性がなく、人間を喰う。夜になると町の外には魔族が出るので、一人で街を出てはいけない。セレーネは親にそう教えられて育った。
しかし、今彼女の前にいる魔族……「ウ族のハラウラ」と名乗った兎耳の女は、口調こそくだけていて変に古めかしいものの、従業員として丁寧に、セレーネにサウナの入り方を教えている。
「サウナは、蒸し風呂ともいって、この熱い中で汗を流すことを楽しむんだ……真ん中のストーブに水をかけると、熱い蒸気が部屋中にまわって、汗が出る」
ハラウラがストーブに水をかけると、ドジュウウ、と音をたてて蒸発していく。すぐにセレーネの頭や背中に、熱い水蒸気が感じられる。
「……それだけですの?」
「ここではそれだけ。ただ汗をかく……」
香油もなし、薔薇もなし、ただ座って熱さに耐えるというのは、セレーネには少し退屈なように思えた。
「体があったまって、汗をかいたら、外に出る……そのあと、隣にある水風呂に入って体を冷やすんだ」
「……水風呂?せっかく体を温めたのに、水浴びをして冷やしますの?なんで?」
不可解な行為に、思わず疑問を挟んでしまうセレーネ。
「うん……こうして説明していると、いかにも変てこだけど。冬場に冷たい体で温かい風呂につかったり、夏場に熱くなった体で水浴びをすると気持ちがいいだろう……そういうものだと考えてくれるかい」
「はぁ……」
魔族の風習はよくわからないな、と思いつつ、セレーネはその言葉を飲み込んだ。
『ルール0:サウナの中では種族・性別・身分を問わず、みな平等である』。
平等という言葉は、セレーネにはいまいちピンとこなかったが、以前家庭教師のアミサに「同じように扱う」という意味だと聞いたことがあった。男女や身分はともかく、魔族までも「同じように扱う」のは、どうすればいいかよくわからなかったので、とりあえずその言葉だけでも言わないようにした。追い出されてはかなわない。
「水風呂からあがったら、外に出る」
「外?!裸で建物の外に出ますの?!おかしいわそんな事!」
「落ち着きなよ……どこからも見えないようになってる。浴室の延長みたいなものさ……裸で風にあたるんだ。しばらくしたら、またサウナに入る。これを一巡として、何回か繰り返す……説明は以上だ。まあ、一回やってみない……」
「……わかりましたわ……」
そこからしばらく、無言の時間が流れた。ストーブの石が温められるチリチリという音と、二人の息遣い、わずかな汗を拭う音、外の風呂に流れる水の音。それ以外は静寂だった。魔族と人間、女同士、裸で狭い部屋で汗を流す。危害は及ばないであろうことはわかったが、なんとも奇妙な空間だった。
「あなたみたいに、言葉を話せるま……えっと、『人間以外のもの』がいるとは思いませんでしたわ」
「そうだろうね、セレーネ……きみの立場なら、知る機会も、必要もなかっただろう。咎めはしないさ……」
「なぜ私が、セレーネだと?」
「ボクは魔術師だからさ……それもかなりの腕っこき。千里眼ぐらいはお手のものなわけ。まあ、娼婦でも姫でも、王様でもこじきでも、ここでは関係ないけど……」
「それは、ルールがあるからですの?」
「それ以前に、サウナの中では全員裸なのさ……身分なんて、どうやって証明するというんだい」
確かにそうだ、とセレーネは思った。今この部屋に、自分の身分を示すものなど、どこにもない。そう思うと、なんだか少し開放感があった。もとより、城から逃げてこんな状況なのも、身分に縛られた結果なのだから。
「……それで、これは何分ぐらい入っていればいいのかしら」
またしばらくして、セレーネの全身に汗がふきだし、息がだんだん苦しくなる。ハラウラは壁にかけられた時計……おそらく12分で一周するそれを示した。
「まだ3分だよ……無理は禁物だけど、6分から7分ぐらいは入る。苦しかったら、濡れたタオルを口にあててみるといい……」
ハラウラの肌にも汗が流れ、みっちりとした褐色の両乳房の間にたまっていく。セレーネが、持ち込んだタオルを自分の口にあてると、幾分息苦しさがやわらぐようだった。
また無言で時が過ぎる。そうしていると、先程ハラウラが身分の話をしたせいか、セレーネの脳裏にいろいろな思いがよぎっていく。
(なんでお父様の都合で、あんな初対面の男と結婚しなければならないのかしら)
(きっと子供もかわいくないわ。そもそも、あんなのに抱かれるどころか、肌を見せるのも御免ですわ)
(でも、逃げてきたのは、いけないことだったかもしれませんわ。お父様にも我が国にも、迷惑がかかるかも、この先どうなるのかしら?)
(真ん中のお姉さまもまだ未婚だというのに、なぜ私が結婚しなければならなりませんの?順序でいえばそちらが先だというのに)
(私ばかり、貧乏くじを引いている気がしますわ。私が何か悪いことをした?あの時も、武勲をあげた者に私を妻に差し出そうとして)
(私は悪くないですわ!お父様に嫌われてもいないはずだし)
(じゃあ何がいけないの?)
「セレーネ、そろそろ出ない……鼻水がでているよ。それはよくない」
ハラウラの小さな手が、セレーネの頬を叩いた。慣れない運動の疲れと、風呂とサウナのあたたかさで、半分寝てしまっていたようだ。
「ずいぶん考え込んでいたね……」
「ええ……これだけ熱かったら、水風呂にだって入れそう」
二人はサウナ室から出て、かけ湯で汗を流す。そして、いよいよ水風呂に入る。
「大丈夫、少しぬるめにしておくよ……さあ」
浴室との気温差で、水風呂の上にはもやがかかっているように見える。夏であっても、こんな冷たい水に入るなどセレーネは未経験だったが、火照った体を抱えた今は、ひどくその冷気が魅力的に見えた。
ハラウラが手をひき、二人は同時に冷たい水に足を踏み入れた。
水風呂。セレーネにとっては、冬に教会で身を清めた時の、体が芯まで凍るような、痛みすら感じる冷たさを思い起こさせた。ふつうなら、こんなものに喜んで入ることなどしないだろう。
しかし、十分すぎるほど熱くなった体は、籠もった熱を解放したくてたまらなくなっていた。
「さあ、セレーネ……キミは水風呂に入れる。きっと気持ちいい……夏の水浴びみたいに、すうっと熱がひいていくよ。それに、しばらくすると、体のまわりの水がぬるまって、ちょうどいい温度になるんだ……」
そうして水風呂に、足を踏み入れる――。
◆◆◆
「サウナは入ったことあるけど水風呂は苦手」という人も少なからずいるだろう。確かに、冷えた水の中に体を沈める行為は、いかにも辛そうで、一見して罰ゲームのように思えるかもしれない。しかし、水風呂はサウナと外気浴とセットになる大事な要素である!ぜひ苦手意識を克服してほしい!
まずは、自分が普段入っているより長くサウナに入り、体をしっかり温めることだ。セレーネが期せずしてそうなったように、十分に体を熱すれば、水風呂に入りたいという気持ちも湧いてくるはずだ。
次に、明確なマインドセットを持つことだ。ハラウラがセレーネにかけた言葉の通り、①水風呂に入れる②体の熱がとれる③しばらく入っているといい温度になる、という3つの事項を頭に入れておこう!水風呂に入った後、どうなるかを知っておくと、冷たさにも『覚悟』ができて、入るのが楽になる。
また、いきなりサウナからの水風呂に挑戦するのではなく、温度の高い風呂で体をしっかり温めてからの水風呂で、体感しておくのも良い。
話の本筋からはそれるが、僕(作者)もサウナに凝る前に東京都・高円寺の『小杉湯』で、45度を超えるあつ湯と水風呂の交互浴を体験していた。これが実に気持ちが良いのだ!サウナに目覚めた今でも、定期的に通いたくなるほどなので、読者の皆にもぜひ体験してほしい。
ちなみに、ここまで水風呂を推しておいてなんだが、水風呂は日本独自の文化で、サウナの本場・フィンランドにはない。(彼らはサウナから直接冬の海に飛び込んだりするが、それは一部の物好きのすることだそうだ)サウナ全体の歴史から見ても水風呂は新参ものなので、入れなかったからといってサウナ体験を否定するものでもないのだ。あたたまった体から直接外気浴をして、のんびり熱を放出するのを楽しんでも良い。
なぜ日本独自の文化である水風呂が、セレーネやハラウラたちの住む世界に存在するのか?いずれ物語の中で述べる時が来るだろう。
◆◆◆
「っひゃっ、ひゅああぁぁぁ……」
「……ふーーーっ……」
きりきりと冷えた水が二人の体を拒絶するように冷やす。セレーネの耳には、自分の心臓がばくばくと跳ねている音が聞こえるほどだ。
「はひっ、はひっ」
ゆるんでいた神経が、突然訪れた体の危機に一気に活動を始めるようだった。一方で、体からは急速に熱がひいていき、夏の日に氷室に入ったような心地よさすらあった。隣のハラウラに目をやると、慣れているのは落ち着いた様子で、首まで水風呂に沈めていた。
「きみも落ち着いて……深呼吸をするんだ」
セレーネはうなずき、なんとか深く息をつきはじめる。鼻から吸って、口から吐く。呼吸に集中していると、だんだん心拍も落ち着いてきて、体のまわりがじんわりと快適な温度になっていくのがわかる。拒絶していた水がセレーネを受け入れたような、そんな感覚があった。
「あ、ぬるくなってきましたわ……」
「そう、『羽衣』って主人は言ってる……気持ちいいでしょ」
息をするのも楽になってきて、次第に緊張が解けていく。体から力が抜けて、筋肉の奥に籠もっていた熱さまで吸い取られていくようだ。そうしているうちに、体中を流れる血液がひんやりとしてきて、吐く息までも冷たくなっているように感じられてくる。セレーネは水風呂の縁に頭をあずけ、心地よい息を吐いた。
「吐く息が冷たくなってきたかい……じゃあ、出ようか。入り過ぎは禁物だ……体を拭いて、外気浴に行こう。いいだろう?」
「ええ……もうここまで来たら、恥ずかしいとか言っていられませんわ」
二人はサウナの横にあった扉を開け、小さな庭のようになっている場所に出た。寝転がれるような椅子が4つほど並べられており、それぞれそこに体を投げ出した。
もう深夜といってもいい時間帯で、空には緑色の月がかかっている。月の光の下で裸になるなど、セレーネにとっては初めての経験だった。
「不思議……私、裸で外に出てますわ……」
「気持ちがいいだろう……どんな生き物も、生まれたときは裸なんだ……だからたまには、そのままの姿になるのがいいのさ……」
「ええ、とっても気持ちがいい……♪外で裸になるのが、こんなに気持ちよかったなんて……」
ゆるやかな調子だったハラウラの声が、さらにとろけているのがわかった。火照ったような冷えたような、不思議な体温の体を、こちらもゆるやかに、夜の風がなでていく。ハラウラの長い耳が、それにあわせてぴくぴくと揺れた。
風の音や感覚、月の光、おだやかな呼吸で揺れる自分の胸、そういったものをなんとなく感じていると、意識がぼんやりしてくるのがわかった。
(ああ、なんだろう。頭から力が抜けますわ)
(私、ずっと力が入っていた……)
(いろんなことが不安で、面倒で……)
(そうか、ずっと不安だったんですわ、私)
走り疲れ、サウナで熱せられ、水風呂で冷やされた体が、平常に戻っていく。同時に、頭はほとんど何も考えていない状態になって、いままで考え続けていて見えなかった色々なことが、見えるようになってくる。
(結婚……王族に生まれた以上、完全に思い通りにはならないでしょう)
(私、それが嫌で、相手の人のことなど、ちゃんと考えたことがなかったかも)
(……それでも嫌だったら、ちゃんとお父様に言おう……逃げたりしないで……)
セレーネは、昔こっそりと覗き見た洗濯場の様子を思い出した。もみくちゃに洗濯された服が、アイロンでのばされ、ノリがきいて、きれいになっていく様子。
「ねえ、セレーネ……きみ、明日にはちゃんと帰れるかい」
横からハラウラの声がした。セレーネは、ゆっくりと首を縦にふる。
「なら、今日はゆっくりお休み……ボクは、きみがよく眠れるよう、準備しておくよ。あと何回か、手順を繰り返して……ゆったり、ととのうといい。ここで寝てしまわないようにね……」
ととのう。その言葉が、今のこの状態を指しているということは、セレーネにもわかった。
遠くのほうから、人の声がするような気がする。そうか、私は逃げ出してきたんだった。明日には戻るから、今は――。
「ああ……クセになりますわ……♪」
その少し前。小屋の前には、篝火を焚いた兵士の一団がいた。それに相対するのは、無骨な大男……『みなの湯』の主人だった。
兵士の中のひとりが、男に向かっていらだたしげに告げる。
「もう一度言うぞ、主人。足跡からみて、セレーネ姫様がここにいるのは確実である。フィン王の名において、施設の捜索を行う故、戸を開けろ」
男は意に介さぬ様子で、淡々と答える。
「何度でも言う。今日は貸し切りだ。お前らのような輩を、入れるわけにはいかない」
「ぐぬぬぬ、話のわからん奴め!事ここに及んでは問答無用、力ずくで入らせてもらう!!王に背いた報い、しかとその身に受けるがよい!」
しびれを切らした兵士たちが、いっせいに剣を抜いた。いくつもの刃が、炎を受けてぎらりと輝く。
しかし男は表情を変えない。やれやれといった様子で、手近な棒を手に掴む。
「もとより、追放された身だ。王だの姫だの、知るものか……だが、客は守る。誰にでも、安らぐ権利がある」
入り口を守るようにして、男が立ちはだかり、言った。
「『絶界のユージーン』の名に臆さぬ者のみ、来るがいい」
――
セレーネが『みなの湯』に来る1年ほど前。フィン王国の王城、謁見の間にて。
北方サウ山脈に住む邪炎竜ナストーンを討伐した騎士、ユージーンが凱旋し、フィン王に成果を奏上していた。しかし、騎士の一言によって、謁見の間の空気は凍りついていた。
「今、なんと申した」
「魔族の殺戮をやめていただきたい、と。『なんでも褒美をとらす、望むなら娘と結婚も許す』と、ご自身でおっしゃったではありませんか」
「……貴様の功の大きさを鑑み、一度はその妄言を許そう。真意を申せ」
フィン王は、わけのわからないものを見る目で、救国の英雄を見下ろした。
ユージーンは、帯同していた魔術師に目配せをする。魔術師が頭を覆っていたローブを脱ぐと、謁見の間に動揺が広がった。小さな体に兎の耳。明らかに魔族の風体だった。
「この者は、ウ族のハラウラ。こたびのナストーン討伐の最大の功労者であり、彼女の氷の魔術なくして任を遂げること叶いませんでした」
護衛の兵士が王と騎士の間に割って入り、現れた魔族の動きを警戒する。ユージーンはそれを意に介することなく、喋り続ける。
「北方サウ山脈の周囲は、ご存知の通り魔族の縄張りです。かかる地を抜けんとする私を、多くの魔族が支援してくれました。彼ら・彼女らの助けなくして、私はここにおりません。褒美というならば、私のみでなく、魔族の全てに」
謁見の間のどよめきはおさまらない。
そもそも単騎でのナストーン討伐は、英雄視されている成り上がり騎士、ユージーンを疎んだフィン王が課した無理難題だというのは、この場の全員が暗に知るところだった。任を辞せば彼の名誉は地に落ち、引き受けて死ねば魔族掃討の旗印になる。しかし、無傷で帰還するのは、完全に王の思惑の外だった。
王は苦虫を噛み潰したような顔をして、言い放った。
「……騎士ユージーンは、魔族の呪法により狂を発した。騎士の任を解く故、疾く失せよ」
「陛下」
「失せよと言っている。ここで汚らしい女魔族とともに切り捨てぬことを、王の海より深き慈悲と心得よ」
「……きっと後悔する時が来ます」
ユージーンは剣を置き、ハラウラとともに謁見の間をあとにする。その背中に、王は最後の言葉をかけた。
「剣しか知らぬお前が、この先どう生きようというのだ」
ユージーンは、振り返らずに言った。
「そうだな……サウナでもやるさ」
それ以降、絶大な武勲をあげた騎士ユージーンは、歴史から姿を消した。
――
時は戻り、場所は『みなの湯』入り口。
「ユージーンだと?『邪炎竜殺し』『一人陸軍』『生きる防衛線』の英雄『絶界のユージーン』だと?え、英雄の名を騙る不届き者、成敗してくれるッ!」
「……吠えてないで、来たらどうだ」
喚き立てる兵士の隊長は剣を抜き、しかしそれ以上間合いを詰めることができない。兵士たちは6人、圧倒的な数的優位にも関わらず、誰もがここを押し通る自分を想像できないのだ。見えない壁に阻まれるが如き、隙のない防御。界を絶つという二つ名は伊達ではない。
「隊長、これでは……」
「王国兵士の精神を見せろッ!行くぞッ!!」
隊長は不安げな声の兵士を一喝し、それを合図に6人の兵士がいっせいに、ユージーンを囲むように襲いかかった。
しかし、囲むことはできなかった。踏み込んだ瞬間、1人が武器を失い、1人が吹き飛ばされ、1人が地に叩きつけられていた。隊長は、一瞬で自分の周囲から部下が消え、我が目を疑う。
「……どれだけ戦力差があって、負けるとわかっていても、戦わなければならないし、部下にもそうさせなきゃならない……いやな仕事だ。おれにも覚えがある」
兵士の一人から奪った盾で、たやすく残りの3人を受け止めながら、ユージーンは陰鬱につぶやいた。
「まあ、おれは負けたことはないけど」
そして、盾でその3人をはらいのけた。鎧を着た屈強な兵士3人を、盾を持つ片手のみで。
「ぐうっ……まさか、本物……?!」
「……お前らの剣も盾も折った。魔族にでもやられたと言うといい。それで逃げ帰る言い訳が立つだろう」
鋼鉄の武具を踏み砕き、兵士たちへ放りながら、ユージーンは告げる。
「安心しろ。客の安全は守る。明日の朝には王都まで送り届ける。お前らも早く帰って……風呂にでも入るんだな」
圧倒的な力の差。邪竜を倒し、文字通り国を救った英雄を前にして、兵士たちは散り散りに逃げ出した。同じように背を向ける隊長に、ユージーンが思い出したように付け加える。
「あと。裏にまわった『別働隊』の奴らも、止めたほうがいい。彼女はおれと違って、お前らになんの感情も持たないからな」
同時刻、『みなの湯』裏手。
「なあ、姫様がこの風呂屋にいるって本当か?」
「マジらしいぞ。あー、どっかの隙間から見えねえかなあ、姫様のハダカ」
二人の若い兵士が、別働隊として建物の裏手に回り込んでいた。万が一姫が逃げ出した時、確保するためだ。
「俺、3人いる姫様の中でセレーネ姫が一番好きだな」
「お前はガキのころからセレーネ様に入れ込んでるよな」
「ああ。あの金髪、美しい肌!ハダカが見られたら死んでもいい!」
馬鹿げた会話の合間に、
「へえ……そうなんだ」
不意に、冷たい風が二人の間を通り抜け、不思議な声がした。
「……今、何か聞こえたか?」
「わ、わからねえ。ていうか、なんか急に真っ暗になったな」
「ああ、何も見えねえ、しかも何か寒いし……」
視界が闇に覆われ、急激に体温が下がっていく。一気に冬の雪原に放り込まれたような、芯まで冷える感覚。暖を取ろうと顔に手をてた時、兵士の一人が気がつく。
「違う……暗くなったんじゃあない……目が、目が開かねえんだッ!俺の両目がッ!まぶたが凍って、くっついて離れねえッ」
「さ、寒い……口が、舌が、喉が凍ってッ……た、たいちょ……」
極寒の世界。極度に冷えた空気が、草木を凍らせパキパキと音を立てる。人間の目や口の水分を凍らせていく。体温が急速に低下し、兵士たちの意識を閉ざしていく。
「霧氷の魔術『散華(チルアウト)』……静かにしてね。セレーネが好きなら、なおさら……いま、あの子は、うんと安らいでいるんだ……」
倒れ伏す二人の耳に、その言葉だけが届く。それを最後に、ふたたび静寂が訪れる。
「……さて、ベッドメイクをしないと」
ウ族の魔術師、ハラウラは、作業着に着替えて、従業員の仕事に戻った。
翌朝、セレーネは昇った太陽の光で目を覚ました。深い眠りだった。教えられたとおりに、サウナ・水風呂・外気浴を3周ほど繰り返すと、あとは倒れるように眠りについたのだった。
「起きたかい、セレーネ……ずいぶんよく眠っていたね」
「おはようございます。久しぶりにちゃんと眠れたような気がしますわ……体も、まだぽかぽかしているよう」
食堂のような場所に、エプロンをつけたハラウラが朝食を用意していた。隣の席では、主人――ユージーンがもそもそとパンを食べている。
「よかった……サウナには、疲れをとり、眠りを深くする効果もあるんだ」
用意された食事は、パンとバター、牛乳のみという、王城で供されるものと比べてずっと質素なものだった。しかしセレーネはそれを一切れ口に運ぶと、豊かな風味に思わず声をあげた。
「こ、これ、こんなに美味しいパン、どこで?」
そのまま、淑女にあるまじき大きな口で、残りのパンにかぶりつく。
「別に、普通のパンだ。お前、最近ちゃんと飯を食ってなかったんじゃないか」
相変わらずの朴訥な声とともに、男が二つ目のパンを彼女に差し出し、セレーネは夢中でそれを口に入れた。
「確かに、最近は規則的にお腹が空くこともなくて……こんなにお腹が空いて、食べるものが美味しくて、子供のころに戻ったようですわ」
「子供のころ、か……それは良いね。自分が自分にもどったってことだ……」
ハラウラは、コーヒーを用意しながら、穏やかな表情でセレーネに笑いかける。
「どんなに美味しい料理も、からだが受け入れる状態でなきゃ、味がわからないものさ……逆もしかりだね」
「ええ、なんだかとても素晴らしい朝……♪」
窓の外から差し込む朝日も、活動をはじめた鳥や竜の声も、なんだか心地が良い。セレーネは大きくのびをした。
「もう一つ食うか」
「いただきますわ」
またパンを差し出す男の髭面が、少しゆるんだ気がした。セレーネは彼の顔を、はじめてまじまじと見た。
「昨夜はほんとうに焦っていて。無礼をお許しください……あなた、もしかして。どこかでお会いしたことが?」
「いや、いい」
あとの質問には答えず、男は牛乳を飲み干して、席を立った。
「また、疲れたら来い」
背中越しに聞こえる男の声に、セレーネは微笑んでうなずいた。
「じゃあ、セレーネ、気をつけて。また、いつでもサウナに入りにくるといい……その『鍵の腕輪』を使えば、どこからでもここに来られるから……」
森から少し離れた街道沿い。セレーネは昨夜随分走ってきたつもりだったが、夜が明けてみれば王都からはそれほど離れていなかったようだ。明るい空に、高い城がよく見える。
ハラウラは、フードを深くかぶって、セレーネを見送っていた。通りかかった荷馬車の御者に金子を握らせ、王都までセレーネを送ることを約束させる。
「そういえば、キミの服……代金がわりにもらったけど、ほんとによかったのかい」
「ええ、私、大事なことに気が付きましたの。あなたのおかげで」
「ぼくの……?」
セレーネは、おいてきた服のかわりに、ハラウラのサイズのシャツとスカートを身に着けている。体格が随分違うので、腕やお腹やふとももの肌が大部分さらけ出されていた。
「肌を露出することは、すばらしいことですのよ!!!」
「え……」
ハラウラのフードの奥の顔が、予想外のことにこわばる。
「外気に肌を晒すことが、あんなにも気持ちが良いなんて!今だって、太陽が全身にぽかぽかと当たって最高ですわ!殿方の目を気にして肌を隠すなんてもったいない!これからは露出の時代ですわよ!!」
「……その方向にめざめるのは、ぼくもちょっと予想外だったなあ……」
たのしげに白い腕をひろげるセレーネに、ハラウラは苦笑する。
「とにかく、またきてね……まってるから」
「ええ、ぜひまた。旦那様にもよろしく」
「……旦那様?」
フードの奥で、ハラウラが怪訝な表情をする。
「あら、てっきり夫婦なのかと思ったのだけど……まあいいわ。ではまた!」
荷馬車が出発し、手をふるセレーネの姿が遠ざかっていく。ハラウラも、短い手を振って彼女を見送った。
「……夫婦か。夫婦……へへ、ボクとユージーンが……へへ」
ご機嫌にぴょんぴょん跳ねながら戻っていく彼女の姿は、隠形の魔法ですぐに誰からも見えなくなった。
その後――セレーネの嫁いだ隣国は、魔族との相互不干渉・融和政策を目指す世界で初めての国となるのだが……それはまだずっと先の話。
ついでに、将来ミニスカートとかチューブトップとか、そう呼ばれることになる露出の多い服が、街の女性の間で一時的に大流行になる……これはちょっと先の話。
『サウナ&スパ みなの湯』。追放された元英雄と、小さな魔族が営むやすらぎの場所。未だ過酷なことも多い世界のどこかで、今日も営業を続けている。
異世界で追放されても、サウナさえあれば幸せです ーできれば水風呂と外気浴スペースもつけてくださいー
『セレーネ姫、サウナでととのう』 終
第二話
「アミサ!ちょっと聞いてますの?アミサ!」
自分を呼ぶ姫の声に、アミサははっと我に返った。
「ああ、スミマセン姫様」
ずれたメガネを直しながら、アミサは姫に頭を下げた。
「これじゃ、いつもと立場が逆ですわね。一度休憩しましょうか?お茶でも入れさせましょう」
フィン王国の三番目の姫、セレーネは、本を閉じて召使いを呼んだ。
メガネの女、アミサは、彼女の家庭教師として、歴史や地理、世間の様々な文物について教える一方、劇作家としても活動していた。貴族や王族の間では、著名な学者や劇作家を子女の家庭教師として迎えるのが、ひとつの格式とされていた。
しかし、姫にとっては教師というよりも、物知りな年上の友人、といった様子で、普段から勉強の合間にいろいろなことを話していた。
アミサはため息をつきながら、自分の長い赤毛をくるくると指先で弄ぶ。
「こちらで雇っていただいて、身に余るほどのお給金をいただいているのはありがたいのですがねえ……長いおやすみがなくて取材旅行にいけず、アイデアが浮かばんのです」
アミサがセレーネに教えている知識の多くは、貴族である実家の財力とコネを使って、取材旅行という名の放蕩旅行を繰り返した結果、各地で蓄えたものだった。
「そんなことを言って、また異国の美男子を探したいだけでしょう」
「エヘ、まあそうなんですが……」
彼女の場合、各地で結婚相手の美男子を探し回っていた経験がもとになっているので、その知識には偏りが少なからずあった。だが、劇作家としての社会への観察眼はたしかなものだし、物語のようなおもしろい講義は、セレーネには好評だった。
「ああ、美男子が見たい……美男子のハダカ……なんて秘めやかで美しい……ねえ姫様、なにか刺激になるようなこと、ご存じないですかあ?」
セレーネは「この癖さえなければ、美人で博識で引くて数多だろうに」と思ったが、それはつつましく胸のうちにしまった。と同時に、彼女の刺激になりそうなことを一つ思い出した。
「……美男子がいるかどうかはわからないけど、気分転換になりそうな場所なら」
そして今、アミサの腕にはセレーネから借りた『鍵の腕輪』がある。一見護符のようなもののついた素朴な腕輪だが、バンドの部分は伸び縮みする螺旋状の素材(おそらく『ゴム』だ、とアミサは気づいたが、そんな珍しい素材がなぜ使われているかまではわからなかった)でできていて、護符のような部分には数字の刻印がある。護符の下には金属製の鍵がしまわれている。
セレーネが言うには、この鍵を扉に差し込むと、『みなの湯』なる場所につながるらしいが……アミサは半信半疑で、自室の扉の鍵穴に鍵を挿し、回した。かちり、と噛み合ったような音がして、扉が開く。
「うわ、ホントだ……」
「いらっしゃい」
扉の向こうは、本来つながっているはずの外ではなく、どこかの屋内だった。目の前にカウンターがあり、その向こうには大柄な男が立っている。男はアミサの腕輪に目をやった。
「見ない顔だな。どうやってそれを手に入れた」
「あ、コンニチワ~。ええっと、姫様から借り受けまして……」
「ああ……そういうことか」
男はアミサの身なりや、精巧な眼鏡を見て物取りの類ではないと判断したようだ。一方アミサの方はと言えば、眼鏡をかけ直して男の姿を見分しはじめた。
「入浴か、宿泊か……おい、何をじろじろ見ている」
「ユージーンさんですか?」
「……入浴か、宿泊か?」
アミサはカウンターにつめより、男の顔をまじまじと見上げた。
「いや、ユージーンさんでしょ。『一人陸軍』のユージーンさん。私が男性の顔を見間違えるはずがないもん。タイプじゃないけど。ほら、以前シント防衛戦の祝勝会で、いろいろ聞かせてもらったじゃないですかあ」
一方的にまくしたてるアミサに、その様子からユージーンは以前会った時のことを思い出したようだった。
「あの時の劇作家か……」
「アミサって呼んでくださいよぉ、いっしょに一晩過ごした仲じゃないですかぁ」
「バカ、誤解を招くようなことを言うな」
すりよってくる女を、ユージーンは片手でめんどくさそうに制する。するとその背後から、不思議な声が聞こえた。
「主人……そのひとは……知り合いかい……?ずいぶん、仲良しそうじゃあないか……ボクにも聞かせてくれない……その時の話……」
ユージーンの背筋が、パキパキと音を立てて、文字通り凍りついていく。冷気の魔術を放っているのは、深いフードで耳を隠した女――ウ族の魔術師、ハラウラ――だった。
「あら、ユージーンさん、お子さんがいたなって知りませんでした!お相手は?」
「ねえ、主人……知ってる人なら、歓迎しないといけないじゃあないか……教えてよ……」
「わかった、話す、全部話すから」
もう何もかも面倒になって、ユージーンはアミサを店に招き入れることにした。
「なるほど、つまりユージーンさんは、そちらのウ族のお嬢さんといっしょに、このサウナ?なる施設をやっていると。いやあ、事情通から魔族をかばって追放されたとは聞いていましたが、まさかそんな面白いことになっているなんて!」
コーヒーに遠慮なく大量の牛乳と砂糖をいれながら、アミサは目を輝かせた。
「きみ、ボクが魔族と聞いて、びっくりしないんだね……」
ハラウラは、アミサのことを不信そうに見つめながら、彼女から砂糖壺をとりあげた。
「しませんよお、別に。表向きにはすべての人族国家が魔族と対立する同盟を結んでますけど、南洋のドネシア群島やら極東のジンギス帝国やら、中央からはずれるほどそのへんは曖昧になってますからね。民衆はみんな上手くやってるんですよ。あ、これお菓子です。ハラウラちゃんだっけ?お菓子好き?これね、『ショートケーキ』っていうんだけど」
「わぁ、お菓子……!」
包みを手渡されたハラウラは、耳をピンとたてて、中から取り出したケーキを手づかみで頬張りはじめた。
「むぐむぐ……主人、いい人じゃないか、この人……ボクは誤解してたみたい。一晩中キミを取材して、英雄譚を劇にしてくれたんだろ……むぐむぐ、ふふふ、ほっぺたが落ちそうだ……」
菓子ひとつで簡単に懐柔されたハラウラ。街に買い物にもめったに行けないので、菓子はなかなか食べられないのだ。
「そう!おかげでイイ作品がかけました!お客にも大好評で。特に、『英雄』ユージーンと『勇者』モーガンが、戦いの中で美男子どうし愛を誓い合うシーンが!」
「やめてくれ、本当に。俺もモーガンも、そのせいでひどい噂になったんだから」
当時を思い出して、ユージーンは露骨に眉をひそめた。アミサはそんなことおかまいなしで、帳面に今まで聞いたことをしたためはじめる。
「ここのことを街で広めるつもりか?やめておいたほうがお互いのためだ」
「そういう可能性もありますねえ。私でも私の想像力がどんな方向にいくかわかりませんし……あ、だったらこういうのはどうです」
アミサはペンで自分の髪をまきながら、この施設の直接的な描写を避けるかわりに、取材の提案をした。ユージーンは、しぶしぶその条件を呑んだ。
アミサが提案した取材というのは、サウナにいっしょに入りながら一対一でインタビューするというものだった。『みなの湯』のルールには反するものの、女湯側には客もいないので、ユージーンは時間を限定してしぶしぶ引き受けた。
二人で更衣室に向かう途中、すれちがったク族の男性客たちがにやつきながらヤジをとばしてきたが、彼らの口にはその直後、氷の塊が突っ込まれていた。
「いいから、早くいってきなよ……アミサ、きみが変な気をおこさないって、ボクはしんじてるからね」
手のひらで氷塊をころがしつつ、ハラウラがアミサを一瞬だけねめつける。口の周りにはまだクリームがついていたので、いまいち凄みには欠けたが。
着替えを終えて数分後、二人はサウナ室の中にいた。
「おっほ♪さすが、すごい体してますねえ。筋肉バッキバキ……」
「他人の体をじろじろ見るのは、マナー違反だぞ」
ストーブに水をかけ、熱気をサウナ室に充満させながら、アミサはユージーンからサウナの入り方……サウナ→水風呂→外気浴というサイクルについても、手早く説明を受けた。サウナについて説明するときのユージーンは、いつもよりも少し饒舌だった。
「ふー、たしかに気持ちがいいですねえ。お風呂よりも体全部があったまるというか」
「顔や頭まで蒸気で熱されるからな。それに温度でいえば、90℃以上だ。風呂よりずっと高い」
アミサにとって、蒸し風呂に入るのは初めてではなかった。砂漠地帯のほうに似たような文化があり、ハンマームと呼ばれていたそれに入ったことがあったからだ。しかしそれはもっと浴室が広く、低温の蒸気だったため、湿度と温度の高い魔族式サウナは初めてだった。
体全体を包むあたたかな蒸気に、気分良く脱力していると、取材のことを忘れそうになる。アミサは思い直して、まずは軽い質問から始めることにした。
「あの、この石のストーブ……どうやって動いてるんです?水がすぐ蒸発するような温度、普通の蓄熱クリスタルでは出せませんよね。薪を燃やしているわけでもなさそうだし、気になってたんです」
しかし実際のところ、アミサはこの質問の答えに心当たりがあった。さっき見た小さな魔族の少女、ハラウラの魔術か、あるいは『電気』でなんとかしているのだろうと。後者の場合は特に珍しいものなので、自慢したいはずだ。ひとしきり聞いてやって、気持ちよく本題――なぜあの『英雄』がサウナをやっているのか?――を聞き出してやろう。アミサはそういう腹づもりだった。
「ああ、これか。ほとんどは普通の石だ。一番下の段にだけ、ナストーンの鱗が敷いてある」
「……は?何て?」
「だから、邪炎竜ナストーンの鱗。喉のところの、一番熱いやつ。倒したときに剥いできた」
邪竜といえば強大な力を持つ生きた災害。その鱗ともなれば、堅牢なること鋼を超え、柔軟なること金と並び、かつ持ち主の性質を色濃く、恒久的に宿す国宝級のお宝だ。それが何枚も、ごろごろと石の下敷きになり、熱を発し続けている。
「ええ……?!なんでそんな……」
「薪ストーブでは薪の入れ替えのたびにサウナの扉が開いて、集中が途切れる。電気ストーブも試したが、魔族の中にはあれの出す音を嫌う者もいる。ストーブから出る熱の質感も、この方式が一番良い」
「そうじゃなくてですね!ていうか他にも、伝声クリスタルとかタイル張りの床とか、どれもめちゃくちゃな値段しますよね?!お風呂場の石鹸だって頭用と体用に分かれている高級品だし!王族のお風呂ですかここは!」
驚きに声の調子をあげるアミサに、ユージーンは無骨な表情を少しだけ怪訝そうにして答える。
「サウナに集中できるように、できるだけ良い設備にしてあるだけだが。値段とかはわからん」
「わからんって、どういうことです?」
「風呂場の石細工は、ク族の石工たちがやってくれたし、クリスタルの類はネ族の領主が譲ってくれたものだ。石鹸はキ族の薬師が卸してくれるから、そんな高級品とは知らなかったな。みんな、ナストーン討伐遠征のときにできた縁だな」
「……なるほど」
アミサは得心がいった。まず、この男はおよそ通常の金銭感覚というものがない。次に、それでもこのサウナがやっていけてるのは、彼の魔族全般への人脈によるものだ。さすがに、文字通り国を救った男はコネの規模が違う。最後に、
「つまり、ユージーンさんはサウナバカなんですね」
「む。それは褒めているのか」
「驚き半分、あとは呆れ半分です。まあ、取材としては面白くなってきましたけど……でも、やっぱり気になります。なんでサウナなんですか?」
「それは……」
ユージーンは答えるより先に、12分計(精巧な時計も、かなりの値打ちものだ)
を見て立ち上がった。「続きは、外でしよう。水風呂にいくぞ」
水風呂に入った二人は、吐く息が冷えてくるまでしっかりと体を冷やし、体をふいて外気浴をはじめた。空は高く、太陽の光と風が冷えた体をなでていき、アミサはえもいわれぬ気持ちよさを感じつつあった。
「はー、なんかいいですねえこれ……冬のさむい日に、あったかい家の中に帰ってきたみたいな……」
大の字で椅子に横たわるアミサの隣で、ユージーンは椅子に座って後頭部を壁に預けている。
「水風呂は、ハラウラの魔術で作った氷で、川の水を冷やしている。彼女に連絡すれば、温度を上げたり下げたりもできる。おすすめは17度だが……」
「それも気になるんですけど、あの、サウナをやってる理由のほうは……」
サウナ室のなかで聞きかけた疑問を、アミサは再び聞いた。ユージーンは目を閉じたまま、深く息を吐いた。
「……遠征中には、本当にたくさんの魔族の世話になった。ネ族、ウ族、ク族、他にもたくさん……中にはどうしても戦うしかなかった奴らもいたが……だから、恩返しがしたかった」
ユージーンが目をあけ、遠くの空を見つめる。
「だが、俺がここまでやってこれたのは、それ以上に多くの人間に支えられてきたからだ。孤児だった俺が騎士になれたのも、武勲をやまほど上げられたのも、俺一人の力じゃない。だから、どっちもなんだ、恩返しをするなら……」
「どっちも」
アミサは思わず聞き返した。追放された経緯や、ハラウラという魔族の少女をそばにおいていることから、魔族側に肩入れしているものだと思っていたからだ。
「そう、どっちもだ。人間と魔族はまだ対立している。どっちかにつけば、もう一方からは敵になる……だから俺は、この立ち位置ぐらいがいいと思っている」
「なるほどなあ……」
ユージーンほどの戦力を持つ者なら、魔族側についたと判断されることすら国の反魔族感情を煽り、戦争へとつながりかねない。ただのサウナバカだと思っていたが、なかなかどうして自身の身の振り方を考えているようだ。アミサは、彼への評価を内心で少し改めた。
冷えていた体にめぐる血液が、じんわりと温まってきて、全身の血管が鼓動しているような感覚。取材の途中だというのに、アミサはしゃべるのも少し億劫になって、しばらく外気浴に身を任せていた。
「はあー、きもちい……」
執筆作業と座り仕事で凝り固まった筋肉に、半ば強制的に血流が巡っていくのがわかる。普段意識することのない、心臓の動き。水風呂とサウナを経由して、それがたしかにあると全身で実感する。
「いいもんですね、サウナ……」
「いいだろ、サウナ……」
アミサの肌にゆるやかな風が触れ、耳にかすかに木々の葉擦れの音が聞こえる。城からそこまで離れていない場所のはずが、どこか遠くに来たように感じられた。
(そうか、ここでは、普段あたりまえにあって感じることのないものが、感じられるんだ……旅行に行かなくても、新しい刺激は……)
普段から絶え間なく観察をくりかえしてきたアミサの思考が、少しずつ流れをゆるめ、おだやかな春の湖のようにしずまっていく。
「そろそろだな。いくぞ、もう一回……」
「あ、待って」
アミサの聡明な頭脳もゆるゆるになって、何かひっかかっていることがあるというのに頭に浮かんでこない。
(あー、なんか気になることがあったんだけど、あったんだけど……)
サウナに入ったものは、だいたいこうなってしまう。
(まぁ、いいかー。もっかいサウナ入ろう……)
◆◆◆
サウナに入っていると、このように「どうでもいっかー」の精神になることがよくある。経験者ならばわかるだろうが、本当によくあるのだ!仕事や人間関係でイライラしていても、サウナサイクルを繰り返すうちに、だいたいのことはどうでもよくなってしまう。
気分が良くなるとか、落ち着くとかではない。どうでもよくなる……これは、なかなか他のことでは体験できない感覚だ。いったいどういうことなのだろうか?
専門家によれば、このとき、人間の脳内では瞑想を行っているのとよく似た状態になっているのだという。最近の言葉でいえば、マインドフルネスの状態だ。
ここからは僕(作者)の実感によるところだが、この瞑想・マインドフルネス状態によって、ものごとへの執着の度合いが、一時的にグっと下がるのだ!
おどろくほど自分の心を客観視できるようになり、サウナに入る前には一大事に思えていたことや、ずっと悩んでいたことを――例えば仕事でミスしてしまったこと、恋人ができないこと、小説の執筆が進まないこと、その他諸々を――まっさらな視点で考え直すことができる。もしかしたら、これは『悟り』に近い状態なのかもしれない……なんてことを思うほどに、サウナによる瞑想効果は劇的だ。
本当に瞑想をして、これだけの効果を得るにはかなり訓練を積む必要があり、人によって向き不向きがあるそうだ。しかし、サウナに入れば、だれでも手軽に瞑想状態になることができる!悩むことの多い現代人にはありがたいことだ。
ただし、もちろん「どうでもいっか」状態になったところで、問題そのものが解決するわけではない場合も多い!サウナには体調や自律神経をととのえる効果もある。
リフレッシュしてがんばっていこう!そう思わせてくれるものが、サウナにはあるのだ。
◆◆◆
「はっ!そうだ」
どうでもいっか〜、の精神になってから2,3周のサウナルーティンを終え、室内の休憩スペースで憩っている時、アミサは自分が気になっていたことを思い出した。
「どうしたんだい、アミサ……」
ちょうどハラウラが飲み物を持ってきていたので、アミサは彼女にも聞いてみることにした。複数の視点からの情報は大切だ。
「……なるほど、主人がサウナをやっているわけ、か」
「そう。一緒に働いてるんだし、何か聞いたことない?」
ハラウラは目を閉じて思案しているようで、長い耳をひくつかせる。
「魔族への恩返しのため、ヒトと戦争をしないようにするため……ボクはそう聞いてるけど」
「私もそう聞いた。でも、それならサウナである必要がない」
「うふふ。それはほら、主人はサウナがめっぽう好きだから」
苦笑するハラウラに、アミサは首を振った。
「でも、王や敵対したままの他部族から目をつけられる可能性を考えれば、『ユージーンさんが』サウナをやってる理由にしては、ちょっと弱いんじゃないですかねえ」
「そうだね……主人がいれば、魔族もヒトも、暴れたり悪さしたりはできないだろうし……こうやって、誰もがゆっくりできる場所にするため、なんじゃないかな……それか……」
「それか?」
ハラウラの耳と目線がぴくりと揺れた。そして少しためらった後、こう切り出した。
「……ぼくの当て推量になるけど、それでもいいかい?」
「もちろん」
「主人は……誰かを、待ってるんだと思う」
ハラウラは少し俯いて、ぽつりと呟いた。
「ほぉ〜〜~~おンッ?」
劇作家の観察眼は、その時の彼女の表情を見逃さなかった。
「誰かっていうのは男性ですかねッ?!美男子ですかねッ?!」
「い、いや、そこまでは知らないよぉ」
急にテンションの上がったアミサに、ハラウラは思わずたじろぐ。
「だって……ここ、毎日24時間やってるんだよ。いくら魔族とヒトの動く時間が違うとはいえ、毎日やる必要はないじゃないか。たまには休んだっていいのに……それに、主人が番台に立っているときは、いつも……なんだか、何かを待ってるみたいなふんいきだから……」
「うんうん、なるほどなるほどッ!!ハラウラさんはその『誰か』に嫉妬してるんですねッ!!」
「な、なんなのさ、きみは……」
ハラウラは迫ってくるアミサから目をそらし、耳を両手でぺたんと抑えた。おそらく人間でいうところの顔を覆う仕草にあたるのだろう。
「ボクはそんなこと、いってないじゃないのさ……」
「ええッ!見ればわかりますともッ!!実にいじらしくて良いッ!種族を超えた恋、実に良いテーマですッ!」
「ううーっ、それ以上言うと、ひどいぞっ!凍らせてしまうぞっ!」
アミサがにやにや笑いながら帳面にペンを走らせていると、
「それぐらいにしておけ。追い出すぞ」
ユージーンの大きな手が、帳面を取り上げた。アミサは抗議の声をあげつつ、ハラウラにやりすぎた、と頭を下げた。
「それで、さっきの話なんですけど、実際のとこどうなんです?聞いてたんでしょ?」
「む。誰かを待っている、か……」
ユージーンは帳面を返し、ハラウラをなだめながら、アミサのほうには目を向けずに答える。
「……お前だって脚本を書くときに、『どんな客に見てほしいか』ぐらい考えるだろ。それと同じようなものだ」
「つまり、『みんなに喜んでもらう』ためにも、『誰か』を思い浮かべてやっている、と?」
ユージーンはうなずいた。そして、どこか遠くを見るような表情をした。
「誰にでも安らぐ権利がある……。どれだけ重い使命を持っていても。ここに来た時だけは、肩の荷をおろして安らいでほしい……そのためにも、『みなの湯』は、いつでも誰でも、安らげる場所でなくてはならないんだ」
基本的には無表情だった彼の顔が、このときだけは明確に、寂しげなものになったので、アミサはそれ以上聞くのをやめた。彼女にだって、それぐらいの分別はあった。
「あまり憶測でものを書き立てるなよ。お前はおかしな女だが、そういうことはしないと信じてるからな」
そう言ってユージーンは帳面を返した。すでに窓の外は日が傾きかけていて、アミサは急いで帳面をしまいこんだ。
「あぁ、もうこんな時間でしたか。ここで受け取るのはあくまで刺激とイメージだけ、そう決めていましたから。……いつか、その人にも来てもらえるといいですね」
「……ああ。そのためにも、もっと良いサウナにしないと……そうだ、最後に。何かサウナに活かせそうなものを知らないか?これだけ話したんだ、少しはこっちにも利益があってもいいだろ」
アミサは少し思案すると、思い出したようにかばんから小さなビンを取り出す。
「そういえばこれ、姫様から預かってたんでした。姫様お気に入りの、バラの香油です。石にかける水にたらしたら、いい香りが楽しめるんじゃないですか?」
「へえ、香油か……たしかに、いいかもね。キ族の薬師も、たしか何種類か持ってたはずだよ……」
上品なバラの香りに、ハラウラはうっとりと目を細める。
「助かる、セレーネにもよろしく伝えておいてくれ」
「ええ、それはもう。じゃあ、さっそく執筆にもどりますね。劇ができたら、見に来てください。お菓子も用意して待ってますから」
「お菓子……!」
アミサは一礼して、目を輝かせるハラウラを背に『鍵の腕輪』で帰っていく。
「……さて、仕事に戻るか」
ユージーンはそれを見送ると、いつもの無表情で店の裏手にもどっていく。そして、すれ違い様に、ハラウラの頭を耳ごとくしゃりと撫でた。ハラウラはうれしそうに彼の後を追い、また『みなの湯』の慌ただしい夜が始まる。
その後ーー「浴場を舞台にすれば美男子の裸を描き放題」と気が付いたアミサが、過激すぎる内容の劇を書いて物議をかもすのだが、それは少し後の話。
ちなみに、彼女はその後「人間と魔族の種族を超えた恋愛物語」を描いて大受けし、国を巻き込む騒動になるのだがーーこれはまだずっと先の話。
『サウナ&スパ みなの湯』。追放された元英雄と、小さな魔族が営むやすらぎの場所。未だ過酷なことも多い世界のどこかで、今日も営業を続けている。
異世界で追放されても、サウナさえあれば幸せです ーできれば水風呂と外気浴スペースもつけてくださいー
『セレーネ姫、サウナでととのう』 終
第三話
錬金術師、メッツは疲れ切っていた。
普通の金属から金を作り出す崇高な実験が彼の使命だが、それにも先立つ金銭が必要だ。昨日から夜通し副業の薬品作りを作り続け、ようやく一段落したころには日も高くなってしまっていた。
「お、メッツくん。君も徹夜明けかい?」
「アミサさん、お疲れ様です」
空腹に耐えかねて訪れた馴染みの酒場には、彼の飲み友達の劇作家、アミサもいた。朝食には遅く、昼食には早い中途半端な時間には、彼らのような生活サイクルの乱れた者が酒場に集まりがちで、二人が顔見知りなのもそういうわけだった。
「そうなんですよ。最近薬の売れ行きが悪くて……香水やら化粧品やらまで作らなきゃいけなくて」
「それは災難だね。なんで?」
メッツはため息をつきながら、酒場の店主にエールと揚げ芋を注文した。
「それが、なんだか得意先の薬屋が仕入れを絞ってるんですよ。別の生産者が卸し始めたみたいで」
「うそ!君のより品質が良くて安いのなんて、なかなか作れないでしょ」
アミサが驚いて上半身を乗り出すと、彼女の胸の谷間が強調される格好になった。メッツは思わず顔を赤くしてうつむいてしまう。街に来るまで、高名な老錬金術師に指示して森の中で過ごしたせいで、年頃の女性と接することに慣れていないのだ。アミサは彼のそんな反応が面白くて、ちょっかいを出しているところがある。
「そ、そのはずなん、ですけど、ね……あ、君も、ってことは、アミサさんも?」
「ん。今日は一日おやすみだから、一本かきあげてきちゃった」
「そ、そのわりには元気そうじゃない、ですか」
肌もつやつやで、といいかけて、メッツは自分の意識が余計にアミサの谷間にいってしまいそうだったので、口をつぐんだ。
「そうなの。最近サウナってのにハマっててね。頭スッキリするし血行もよくなるし……まあ、徹夜明けにいくのはあまり良くないんだけど」
「サウナ?」
アミサが言うには、サウナというのは風呂の一種らしい。
「やっぱりさ、我々知的労働者は休息に気をつかうべきなんだよ。頭脳を効率的に休めてね」
メッツはあまり風呂に時間をかける方ではなかったので、わざわざ外の風呂に入りに行くというのは馴染みのない習慣だった。アミサも同様だと聞いていたので、彼女にそこまで言わせる『サウナ』というものはメッツの好奇心を刺激した。
「アミサさんがそこまで言うなら、行ってみようかな……」
そうして、メッツはサウナ『みなの湯』に向かうことになった。
「こうして、石に水をかけて蒸発させることで、サウナ室の中に熱気が満ちる。これで体を温めて、十分温まったら外にある水風呂で体を冷やし、その後外気浴をする。これが基本的な流れだ」
「は、はあ……」
数時間後、メッツは『みなの湯』のサウナに、主人の大男といっしょに入っていた。ちょうど番台が入れ替わるタイミングだったので、使い方を教えるために彼も同行したのだが、小柄なメッツにとっては大人と子供ほども差がある大男が隣にいるのは、いささか落ち着かなかった。
「……あの劇作家の紹介だと言っていたな。どういう関係なんだ?」
熱された水蒸気にむされていると、メッツは主人に話しかけられた。
「ええっと、飲み友達というか……」
「同業者か?」
「いえ、錬金術師です」
「ほう」
それで会話は終わり、しばらくサウナの中には静寂が戻った。ときおり、二人が汗をぬぐう音だけが聞こえる。
「そうだ」
思い出したように、主人が椅子の下から一つの小瓶を取り出した。ふたをあけると、豊かなバラの香りが漂う。どうやら、香油のようだった。
「錬金術師なら、こういうのも詳しいか?」
「わあ、上質な香油ですね」
メッツは目を輝かせた。こんなところで、自分が作るよりも高品質な香油を見ることができるとは思わなかったからだ。
「バラの香油は特別な製法が必要なので、作るのが難しいんですよ。しかもこんな良いもの、どこで?」
「ちょっとした貰い物でな……これを、蒸発させる水に加えようと思うんだが、問題ないか?」
少し考えて、メッツはうなずく。
「ここまで上等な香油なら、変な不純物もないと思いますから、吸う空気に混ざっても大丈夫でしょう。少量からがいいとおもいます」
「わかった、ありがとう」
店主が桶の水に香油をたらし、かきまぜ、そこからひとすくいしてストーブにかける。
「うわあ、すごく良い香り……」
「これは……良いな」
水蒸気に乗ってサウナ室全体に、バラの良い香りが広がった。ほんの少量にもかかわらず、蒸気とともに広がる香りは圧倒的で、二人はうっとりと目を閉じた。
その時、サウナ室の扉が開く音がした。
「あら、良い香りね」
メッツが視線を扉のほうにやると、そこにいたのは、
「え、お、おお、女??!!」
緑の長い髪、なめらかな白い肌、ゆたかな曲線を描く体。男湯にいるはずのない客がそこにいた。当然のように裸だったので、メッツはあわてて後ろを向く。
「……悪いがここは男湯だ。女湯にいってくれ」
「番台の兎ちゃんに許可はとったわよ」
男二人の言葉も意に介さず、女は長い足で歩を進める。
「だって私、マンドラゴラだもの。男も女もないわ」
「ま、マンドラゴラ?!」
マンドラゴラ――植物のような姿をした魔族の人間側からの呼び方で、正しい名前はキ族という。
「まあ、私はキ族の中でも『背高き者』……樹木に近いから、半ドラゴラといったところなんだけど。フフ」
しなやかな足取りでサウナ室に入っていくマンドラゴラの肌は、よく見れば白樺の木材のように木目が入っていた。肉付きの良い女性の体型に見えていた胸や臀部も、動きに合わせて揺れることはなく、硬質な木のカーブであることがわかる。
「……なるほど、サレイは枯れたか」
「そう。あなたに世話になった301番目の株が大地に還ったから、代わりに『引き継いだ』私が挨拶に来たの。私は北の森の白樺・338番目の株……ササヤって呼んで」
「わかった」
「わかったじゃないでしょぉ!?魔族!女!なぜ!?」
驚いたのは錬金術師のメッツだった。当然のように魔族の女が裸で男湯に入ってきたので、泡を食って己の下半身を手で隠していた。
「別に、人間以外が使わないなんて、言ってないだろ」
そう言いながら、主人は平然とサウナ室に掲げられたルールを指した。
ルール0:サウナの中では種族・性別・身分を問わず、みな平等である。
「そうよ。私、人を食べたりはしないわ。安心して」
初めて間近で目にする魔族は、遠目に見れば人間の女性にしか見えず、しかも穏やかで、人語を流暢に話している。メッツは師である老錬金術師に、『人語を操る魔族もいる』と聞いたことは会ったが、まさかこんな場所で遭遇するとは思っても見なかった。
「だ、だとしても女じゃないか!」
「あら、そう見える?それなら良かったわ。ヤスリもカンナも上等なものを使ったもの。見て、この滑らかな仕上げ♡」
ササヤは蠱惑的な表情でメッツに擦り寄り、すべらかな体を押し付ける。
「お、お前っ、な、何」
「ふふ、もっと見て♡触って♡」
「……落ち着け。お前、木の股とかスケベな大根で興奮する質か?ササヤもからかうのはやめろ」
主人が間に入って、呆れながら二人を引き離す。ササヤはわざとらしく頬を膨らませた。
「いいじゃない、有名な木工職人に削り出してもらったのよ?ほら、ここの股の部分なんて、木目がちょうど……」
「いいからやめろ、追い出すぞ……メッツ、おれ達は水風呂だ」
「は、ひゃい」
メッツは促されると、逃げるようにサウナ室から飛び出した。いつのまにか、体はすっかり熱くなっていた。
「ふうううーーっ……あー、冷たい……」
「落ち着いたか」
外の水風呂に浸かる男二人。初心者であるメッツのために幾分ぬるめ(18℃)に設定した水風呂は、いろいろな意味で熱くなりすぎたメッツの体を心地よく冷やした。
「はい、すみません……あれ、なんなんですか」
「キ族は基本的に性別の概念がない。各地の森の中心にある巨木からの株分けで殖える。今は女湯のほうにおしゃべりなネ族……猫型魔族のおばさま方が入っているから、ハラウラもこっちに入ることを許したんだろう」
魔物の中には、匂いに敏感なものも多いという。ササヤも独特の甘い匂いを発していたが、魔族避けの香に似たような匂いのものがあったことを、メッツは思い出した。その材料のひとつが『マンドラゴラの体液』だったことも。
(体液……)
「キ族の『背高き者』……人間にはレーシーと呼ばれる、樹木に似た特性を持つ者は、自分の体を削って形を整える風習があり、削り出しが良いほど美しいとされている。だとしても、あれだけ人間に似せているのは珍しい。何か理由があるに違いないが……少なくとも、お前みたいなのをからかうためだけではないだろう」
「……そうですよね、どれだけ人間に形が似ていても、人間じゃないのですから、変な目で見ることはないですね……」
二人は水風呂からあがり、体をふくと長椅子に仰向けに寝転んだ。
メッツは目を閉じて、水風呂で冷やされた体がゆるやかに元通りになっていくのを感じる。大きく感じられる脈拍にあわせて、空間に体が発散していくような、奇妙な開放感を覚えていた。
「あー……なんか、すごい」
「すごいだろ、サウナ……」
メッツの疲れ切った脳が、凝り固まった筋肉がほぐれていき、水風呂の清新な水を取り込んだように、健康な状態を取り戻していく……そんな気持ちにすらなるほど、疲弊した体にサウナは、劇的に効いていった。
ふわふわとした感覚のなかで、五感は研ぎ澄まされる。遠くの鳥の声や木の葉擦れの音が聞こえ、どこかで嗅いだことのあるような、さわやかな甘い香りが……。
「どう?いい香りでしょ」
「うわあ!」
目を開けたメッツの眼前に、ササヤの顔があった。裸で四つん這いになって、彼の体の上におおいかぶさっている。サウナ室から出てきたササヤの体には、ところどころ水滴が残っていて、ボディラインを強調している。緑の髪のように見える葉も、濡れて体に張り付き、どことなく扇情的な雰囲気を醸し出していた。
「ねえ、いい香りじゃない?それとも、人間はあまり好まない香り?」
「だ、だから離れろって……!離れ……」
メッツがササヤを押しのけようと体を起こすと、接近することで甘い香りはさらに強くなった。そして、そこでメッツは思い出した。この香りは、以前確かに嗅いだことがある。
「お前、もしかして最近薬屋に薬を卸してる……?」
「そうよ。キ族は薬や石鹸なんかを作るのが得意なの」
街の薬屋が、メッツの薬の代わりに売り始めたのが、この香りのついたものだった。
「魔族由来の素材が使われているとは聞いたが、まさか作っているのが魔族本人だったとは……どうりで安いわけだ、材料費がかからないんだもんな」
「あら、もしかしてあなたも薬師なの?」
「僕は錬金術師だ!副業で薬も作るけど、お前のせいで商売あがったりだよ」
「あらあら、そうだったのね。なんだか申し訳ないことをしたわ。他の部族の木工師を雇うのに、お金っていうのがたくさん必要だったのよ」
ササヤが心底申し訳無さそうにしているので、メッツはそれ以上何も言えなかった。彼女の作る薬の質が高いのは確かで、安くて質がいいなら薬屋がそれを選ぶのも当然だからだ。
「そうだ。ユージーン、ここで使う香油の件、この子にお願いしたら?私、しばらくお金はいらないもの」
「……む」
名前を呼ばれた主人――ユージーンが目を開け、少し考えるような素振りをみせた。メッツはその名前を聞いて『英雄』ユージーンのことを思い起こしたが、まさかこんなところで風呂屋の主人をやってるわけがない、と思い直した。
「そうだな……では、二人の製品を比べるというのはどうだ?」
「比べる?」
「香油はもともとサレイに頼んでいたものだったが、代替わりの後だし、ササヤの腕も確かめたい。一方で、さっき香油の品質をひと目で見極めた、メッツの錬金術師としての技術も気になる……だから、2週間後のこの時間、それぞれの作った香油を持ってきてくれ。実際にサウナで使ってみて、どちらを仕入れるか決めよう」
2週間後、『みなの湯』サウナ室。キ族の薬師ササヤと、人間の錬金術師メッツが、作った香油を手に訪れた。だが、サウナ室に集まったのは彼らだけではなかった。
「泥臭いク族のオジサンはともかく、アタクシは香りにはこだわるわよ。香木とか大好きだし」
「マタタビくせえネ族に、匂いの何がわかるってんだ!」
「ふむふむ、ネ族とク族っていうのは仲が悪いんですねえ」
「うふふ、楽しみだなあ……いい香りがするサウナなんて、ウ族の村にもなかったからね」
狭いサウナ室に並んだ、ク族の男性、ネ族の女性、ウ族の女性(ハラウラ)、そして人間の男女(アミサとユージーン)。今回はササヤとメッツを含め、全員タオルを巻いている。
「誰にでも安らぐ権利がある……人間の好みだけを聞いても、不完全だからな。今回は種族・性別入り混じった5人で評価することにした」
「よろしくね♡」
「よ、よろしくおねがいします」
タオルを巻いたアミサの体が目に入ってしまい、メッツは少し目線をずらす。
「では、先にササヤの方からやってみてくれ」
「わかったわ。ええっと、お客さんはワンちゃんにネコちゃんに兎ちゃん……じゃあ、じゃあ、これとこれと……」
ササヤは取り出したいくつもの香油瓶から、水桶にいくつかの香油を迷いなくたらしていく。驚いたのはメッツだった。
「こ、これだけの種類の香油から、アドリブで組み合わせを?」
「ええ、ティーツリーはワンちゃんには合わないし、ネコちゃんは香木系の香りのほうが好きだし……この配合ならみんなハッピーになれるわね♡」
「へえ、さすがキ族の薬師……山のほうにも噂が届くだけのことはあるね……」
ハラウラが鼻を鳴らしながらうなずく。キ族は代替わりのたびに記憶を引き継ぎ、同じ職業に就いていく。何百年も引き継いだ薬師としての記憶が、アドリブでの香油調合を可能にしているのだった。
「じゃあ、いくわよ。いっぱい気持ちよくなってね♡」
ササヤは水桶から大きな柄杓で水をすくいとると、ストーブの石にあびせかけた。
ドジュウウウウッ……。
ストーブから蒸気がたちのぼり、たちまちサウナ室を包み込んでいく。同時に、華やかな香りが強く漂った。
「ふわあ、花畑にいるみたいだにゃあ~」
ネ族の女性が大きく息を吸い込み、リラックスした様子で喉を鳴らす。
「これはすごいですねえ♪たくさんのお花の香りが、いっぺんに……」
アミサも体についた水滴をぬぐいながら、思わずうっとりと目を細めた。客はみな芳醇で複雑な花の香りにつつまれ、気持ちよさそうに蒸気に身を任せる。
「そう!今回の香りは、たくさんの森の花から取った安らぎの香り……それに、一年に一度咲く私の花からとった香油を混ぜてみたの♡いい香りでしょう?」
「そうか、これは『マンドラゴラの花』か!そんな貴重な素材を、惜しげもなく香油に……」
『マンドラゴラの花』といえば、錬金術師の間では有名な高級素材だ。ササヤの言ったように一年に一度、最も活力が盛んな年齢のマンドラゴラからしかとれないものだからだ。
「いいのいいの。どうせまた作れるし。それより、メッツも楽しんで♡ほら、たくさん味わってちょうだい♡」
ササヤは再びストーブに水をかけ、タオルでメッツにむかって扇いだ。濃厚な香りに包み込まれ、メッツはいっとき勝負もわすれて心をとろけさせた。
(ああ、すごく良い香りだ……それに、いつもより香りが強く感じられる……)
◆◆◆
サウナで一度アウフグース(ロウリュ)のサービスを受けた読者なら、「サウナの中ではより香りを強く感じる」という、メッツと同じ現象に心当たりがあるのではないだろうか?あるいは、逆にサウナで隣に座った人のイヤな匂いがキツく感じられたことはないだろうか?そう、サウナでは香りや匂いは、外よりも強く感じられるのだ!
その理由は、我々の嗅覚の仕組みにある。我々(そして、このお話に登場する人間や魔族)は、鼻にある粘膜に空気中の香り成分が付着することで匂いを感じるが、サウナの中ではこの現象が起こりやすくなっていると言われている。
1つ目は、サウナ室内が高温高湿であるということだ。温度が高いと、匂いの成分が揮発しやすくなり、我々の鼻に届きやすくなるのだ。また、湿度が高いと、匂いの成分が空気中にとどまりやすく、同時に我々の鼻も匂い成分を感知しやすくなるのだという。部屋干しをすると匂いが気になったり、夏のほうが匂いが気になるあたり、読者も思い当たる節があるだろう。
2つ目は、サウナ室内の空気が動いている、ということだ。熱い空気は自然と対流現象を起こし、サウナ室全体の空気を撹拌するのだ。さらに、サウナ室内は換気が意図的に行われていることも多い。対流と換気が、空気中の匂い成分を運ぶことで、鼻の粘膜に付着しやすくなる。
したがって、「アロマ」と「ロウリュ」は、科学的に見ても相性がバツグンなのだ!ササヤは文字通り長年の経験から、このことを理解しているのだろう!
ちなみに、もし読者の中に、サウナでのアロマを体験してみたいという人がいたら、おすすめなのは埼玉にある『おふろcafe utatane』だ。この施設は巨大なスーパー銭湯なのだが、なんと浴室の中にサウナ小屋がある!僕(作者)が行った時には、入館の際に追加で料金を払うことで、3種類ほどのアロマオイルを選ぶことができて、このサウナ小屋でのロウリュのときに水に混ぜることができた。狭いサウナ小屋に蒸気と香りが満ちる感覚を、ぜひ堪能してほしい!
◆◆◆
その後、しばらく香りゆたかなサウナを堪能した審査員とメッツたちは、水風呂を経由して外気浴を楽しんでいた。
「ふふ……すごく癒やされる時間だったね……」
「おう!まだ体から花のイイ匂いがしそうだぜ!」
「いい香りだにゃあ~」
種族も背格好もばらばらの客たちが、それぞれの好きな体勢でととのう姿は平和そのものだった。ユージーンがその様子を見て、少し笑ったように見えた。
「あ、そういえばこれ、メッツくんとササヤさんの勝負なんでしたね。大丈夫?私、現段階でめちゃくちゃ気持ちよくなっちゃってるけど」
メッツが自分の香油の準備をしていると、アミサに話しかけられた。血行がよくなり頬に赤みがさしていて、いつもよりも美人に見える。
「だ、大丈夫です。たしかにササヤさんのはすごかったけど、こちらにも秘策がありますから」
「秘策?」
面白そうな響きに、アミサの顔がにんまりと笑う。
「ええ、これなんですよ」
メッツは、布がかかった桶の中身をちらりとアミサに見せた。
「こ、これは?!」
審査員たちはサウナサイクルを終え、ふたたび舞台は『みなの湯』サウナ室。
「人間さん、さっきの香りを超えるものを作れまして?」
「俺はさっきの花の香りが気に入ってるんだ、ヘタなもんこの鼻にかがせたら怒るぜ!」
ササヤの『マンドラゴラの花畑の香り』は審査員となった5人の客全員に大好評だった。しかしそれでも、メッツは自信をもって自分の番をはじめる。
「では、僕もやらせていただきます……」
メッツは、香油を桶にたらし、撹拌した後にすくって、ストーブにかける。
ドジュウウウッ……。
蒸気に乗って、さわやかな香りがサウナ室じゅうに広がった。
「これは……ミントだな?」
ユージーンが目を閉じたまま、にやりと笑った。
「へえ、あの嫌な匂いの草も加減すればこんないい香りになるんだな!」
「ちょっと鼻がムズムズするけど、さっきとは違う感じでいいわねえ」
ペパーミントの爽快な香りが、全員の体を包んでいく。しかし、それだけではない。メッツがこの香りを選んだ理由は、他にもあった。
「……あれ。ねえ……なんだか、体がひんやりするんだけど……どこか開いているかしら」
ハラウラがあたりを見回し、窓や扉があいていないか確かめた。
「そうですね、しかも喉や鼻がすうっとします。最近ちょっと調子悪かったから、助かるなあ」
アミサは深く息を吸って、体内の清涼感を楽しんだ。サウナ室で蒸され、体温が上がっているにもかかわらず、こころなしか涼しささえ感じる不思議な体験だ。
「ミントの香油には、肌にふれるとひんやりする効果があるの。それに、心を落ち着けたり、鼻や喉の状態をよくする効果もね。さすが錬金術師さん、いい選択ね♡」
ササヤも緑の髪をひろげて、ミントの香りを楽しんでいる。審査員たちの反応もおおむね好評だったが。
「いやあ、気持ちいいけどよお……さっきのやつに比べると、ちょっとなあ」
「そうだにゃあ、地味というか……」
ク族とネ族の二人が顔を見合わせている。それほどまでに、ササヤの香油は華やかで重厚な香りだった。ただ爽快なだけでは、印象をひっくり返すのは難しかった。
「これで終わりじゃないんだろう?さっきから気になっていたんだ、そのもう一つの桶」
ユージーンが指差す先には、布に覆われた桶がある。先程、アミサに『秘策』として見せていた桶だ。
「はい……僕が持ってきたのは、組み合わせで効果を発揮する香油なんです。では、いきますね」
メッツは細い腕で重そうに桶を持ち上げると、
「よい、しょっ!」
一気にその中身を、ストーブにぶちまけた!
ドジュウウウウッ!!
勢いよく蒸気が発生し、サウナ室内が一瞬白く覆われる。客たちの肌にあたったのは、先程と同じミントの蒸気だったが、それだけではなかった。
「えほえほっ……これは、すごく熱いね……」
「蒸気が……蒸気だけじゃねえ!こんどは、体の表面が一気にポカポカしてきやがった!」
「本当だ!それにこのスパイシーな香り……メッツくん、これは一体?!」
サウナ室の蒸気の霧が晴れると、審査員たちはメッツとストーブの方を見た。
ストーブの上からは、未だジュウジュウと蒸気が出続けている。メッツがすでに桶をおろしているにもかかわらず。それを可能にしていたのは。
「なるほど、氷か!」
ユージーンが膝を打った。ストーブの上に積み上げられていたのは、氷の山!ストーブの熱で溶け出し、持続的に蒸気を生み出し続けていたのだ。
「びっくりだねえ、ボクの作ってあげた氷を、こんなふうに使うなんて……」
普通であれば、冬以外は氷は貴重品だ。冬の間に凍らせた水を、地下の氷室などに貯蔵しておかなければならないからだ。しかし、『みなの湯』にはウ族の魔術師、ハラウラがいる。メッツは彼女に頼んで、氷を作ってもらったのだった。
「しかもこれ、ただの氷じゃないわ……この香り、このぽかぽかした感覚!あれを溶かした水で作ったのね♡」
ササヤは興味深そうに、解けていく氷を眺めていた。
「ええ?いったいなんなの、メッツくん?」
疑問符をうかべるアミサに、メッツは桶に残った氷のひとつを手渡す。
「舐めてみてください」
アミサはおそるおそる、解けかけの氷を舌にのせ、味わうや否や目を丸くした。
「ああっ!この味、生姜だあ!」
「そう!高濃度のジンジャーエキスたっぷりの氷……ミントで低下した体感温度を、氷とジンジャー成分の蒸気で一気に引き上げる!これが僕の『香油のコンボ』です!!」
◆◆◆
錬金術師、メッツの作り出した体感温度を操る『コンボ』について、ここで解説させていただこう!
読者の中には、サウナでロウリュをすることで一気に熱くなった、という経験がある人もいるだろう。しかし、実はそのときも、サウナ室の温度自体が急に上がったというわけではないのだ。変化したのは湿度、そして湿度の上昇にともない、体感温度が急上昇したのだ!蒸し暑い日本の夏を知っている者なら、湿度が高いことがどれほど体感温度に影響するか、文字通り肌で知っていることだろう。それと同じことが、サウナ室でも起こっているというわけだ。
そして、いくつかの化学物質には、体感温度を低下させたり上昇させたりする効果がある。ミントの成分、メントールは皮膚に接触するとひんやりとした感覚を引き起こし、逆に生姜の持つショウガオールをはじめとする辛味成分は、体をぽかぽかと温める。
メッツはこれを利用することで、最初はミントの冷感で体感温度を下げ、その後氷から溶け出した生姜水が時間差で体感温度を上げる、という『コンボ』を生み出した!
ついでに、この氷でのロウリュというのは、水でのロウリュより熱く感じる、というのが僕(作者)の体感である。詳しい理由はわからないが、おそらく一度で掛け終わり蒸発してしまう水よりも、じわじわ溶け出し蒸発しつづける氷のほうが、より長くサウナ室に湿度を供給できるのだろう。そして固形でばらまける分、水よりも大量にストーブに置きやすいため、蒸気も大量だ……もし周囲に氷でロウリュをしている施設があったら、ぜひ一度体験してみてほしい!
◆◆◆
錬金術師メッツの『香油コンボ』を味わった審査員たちの体感温度は急上昇し、体から汗を吹き出させていく。
「うおおおっ!めちゃくちゃ熱くなってきたっ!!」
「も、もう限界だにゃ!」
「はやく水風呂に入らなきゃ!」
審査員たちはしばらくは熱気に耐えていたものの、ネ族の女性がサウナ室を脱出したのを皮切りに、駆け出すようにつぎつぎと脱出しはじめた。全員が急いでかけ湯をしては、次の者に手桶を渡し、水風呂に順番に飛び込んでいく。
「はあ、はあ、あっつ……ち、ちなみに、水風呂にもミントの香油を入れておきました。『香油のコンボ』はサウナ室だけで終わらない……これが、僕がサウナを分析した結果です……ひぃ、もうダメ……」
「メ、メッツも早く水風呂に入って……」
最後にサウナ室から出てきたメッツも、ササヤに手をひかれ、熱さに息を切らせながら水風呂に入った。
「ふひぃ~ッ」
「ほぉ~……」
「あ”あ”~~」
水風呂に到達した者は、各々の腹の底からの声を漏らしながら、体内に溜まった熱気を開放していく。水風呂にたらされたミントの香油は、清涼感とさわやかな香りをもたらして、容赦なく審査員たちをリラックスさせていく。
「これは……すごいねえ……」
「確かに、初めての体感だ、これは」
最もサウナ経験が豊富なユージーンとハラウラでさえ、体感温度が普段よりも急速に上下する感覚は新鮮で、二人そろって目を閉じて水風呂に身を任せている。
「……やばい、もう手足が冷たくなってきた。私先に出ますね」
「お、俺もっ」
「アタクシも出、に”ぁーっっ!!風が!風が冷たいに”ゃん!」
水風呂から出た審査員たちの体に風があたると、ミント成分による清涼感が一気に増す。ネ族のつま先立ちはいよいよ激しくなり、体を震わせているものさえいる。我先にとタオルで体を拭いて、長椅子に身を投げだしていく審査員たち。メッツ自身も、以前サウアンを体感した時よりも激しく息を切らし、半ばよろけながら椅子にたどりついた。
「……」
「……あ”ー」
客も店主も、種族も男女も関係なく、全員が一様に、脱力と恍惚の境地にあった。メッツの心臓はいつも通常の倍以上は働いて内臓に血液を巡らせ、そしてだんだんとゆるやかにペースを戻していく。
「うおっ……」
「ん……」
1周目では涼しく感じた気温が、今はあたたかく感じるほどだ。体を通り過ぎる風の動きは、ミントの清涼感のおかげでさらに強く感じられる。
そうしてその後に、ととのいがあった。
「うおっ、うおあーっ」
「にゃあ~~……」
普段はいがみ合っているク族とネ族の二人が、並んで舌を出しながら喉を鳴らしている。
「あー、もう、いいや、ぬいじゃお……」
「……やめてください……」
捲れていくままになっているアミサのタオルを、メッツが力なく戻す。
「いやあ、これは、まいったねえ……」
「……むむ……」
ユージーンの大きな体に、椅子にたどりつけなかったハラウラがもたれかかっている。誰も動かない。時折魔族たちの鼻や耳、人間の足が痙攣するように動く以外は。事情を知らない者が見れば死屍累々といった様子だ。
「……そういえば、どっちの勝ちなんですか……」
メッツは深く長い息をしながら、ユージーンに尋ねた。
「……どっちもでいい……いいだろ……?」
「私は……それでいいわ……」
頭の葉をだらしなく広げて宙を見ながら、ササヤがなんとか答える。
「僕も……」
メッツも、目を閉じて快感に飲まれながら、そう漏らす。
「じゃあ、それで……」
そういうことになった。
しばらくして、全員の意識が戻ってくると、ユージーンとハラウラが人数分の水を持ってきた。
「いやあ、なんかすごいことになったにゃあ」
「あんなにグワーっときたのは初めてだぜ!」
結局サウナのととのいで勝敗は有耶無耶になったが、参加者たちは未知のサウナ体験を経て奇妙な一体感を覚えていた。ク族とネ族の二人が、水分補給をしながら興奮気味に話している。
コップに入れた水を配りながら、ハラウラはユージーンに尋ねた。
「よかったのかい、あんな適当な終わり方で……」
「ああ。もとより、勝負というわけでもないんだ」
ユージーンはハラウラからコップを受け取り、並んで座る。
「一度、やってみたかったんだ。種族や性別関係なく、サウナをいっしょに楽しむのを……」
ユージーンの視線の先には、談笑する客たちの姿があった。
「……それで、この製法を使えば、もっと純度の高い香油が作れると思うんです」
「すごいわね♡こんなの考えたこともなかったわ!」
「ねえ、それならマタタビの香油を作れないかしら?」
「俺は肉がいいな!肉の香りが一番好きだ!」
「ええーっ、そんなのムリでしょう?」
「……いや、できなくもないかも……肉の油脂を使えば……」
「マジかよ?!」
「おバカねえ、それならもうストーブでお肉焼いたらいいにゃん」
「私はソーセージがいいなあ」
「あらあら、それならローズマリーでもいっしょに焼く?」
「……そうだね。いい『ロウリュ』だった」
「『ロウリュ』?」
ハラウラが使ったのは、ユージーンにとっても耳慣れない言葉だった。古いウ族の言葉で、石に水をかけて起こる蒸気『ロウリュ』というが、皆で集まってそれを楽しむ事も『ロウリュ』と言う、とハラウラは言った。
「そうか……そうだな、いい『ロウリュ』だった」
ユージーンの表情が、その言葉の不思議でやわらかな響きに、少しほころんだ。
「またやろう」
「うん、またやろう」
その後、キ族の薬師と人間の錬金術師は、協力して様々な薬品を作り出し、多くの人間と魔族が救われることになるのだが――それはまだ先の話。
ついでに、『ロウリュ』の噂が口コミで広がり、『みなの湯』にはこれまで以上にたくさんの客が来るようになるのだがーーこれはほんの少し先の話。
『サウナ&スパ みなの湯』。追放された元英雄と、小さな魔族が営むやすらぎの場所。人間も魔族もやすらぎの蒸気で包み込み、今日も営業を続けている。
異世界で追放されても、サウナさえあれば幸せです ーできれば水風呂と外気浴スペースもつけてくださいー
『薬師と錬金術師、サウナで出会う』 終
(参考文献:Saunology サウナと香り https://saunology.hatenablog.com/entry/sauna-fragrance01)
第四話
フィン王国、王城の礼拝堂。時刻は深夜。灯火クリスタルを消し、ロウソクの明かりのみが揺れる室内で、国王は一人の男と話していた。
「サウナというものを、聞いたことがあるか?」
国王が男に切り出す。
「いいえ」
男は答えた。闇に浮かぶ彼の表情は、生気が感じられない。
「最近、国民の間で噂になっているそうだ。公衆浴場のようなものだと」
「……」
男は答えない。
「サウナとやらは、裸を外に晒し、怠惰をむさぼる、淫猥で堕落した行いだ。そして、噂の施設ではそれを人間だけでなく、魔族にも提供しているという。為政者として、余はこれが民衆に悪影響を与えないか、いささか気がかりだ……君の立場では、どうだ?」
国王が述べると、ロウソクの火がゆれて、男の姿を照らした。男は、教会の司祭の服を着ている。首にかかった聖具の示す位階は、大司祭。未だ青年といえる外見の男には、不釣り合いな高位だった。
「『禁欲』そして『魔族との関わらぬこと』……教義にもとる行いです。民に広まるのはよろしくないかと」
「そうだろう」
国王は頷き、男の耳に顔を寄せた。
「では、処理は任せたぞ」
「承知しました」
「よろしい。『世に教えの光あまねく』」
「『あまねくあらんことを』」
男は国王とともに聖句を唱えてから、深く礼をして礼拝堂の闇に戻っていく。幽鬼のような姿だ。司祭の服がなければ、誰も聖職者とは思わないだろう。
ロウソクの火がうつしだす背中に、国王は「そういえば」と彼を呼び止めた。
「そのサウナの店主は、あのユージーンだそうだ。お前、面識があっただろう?」
「はい」
「面識の内容は?」
「過去、魔族討伐の任において共闘しました」
「処理に支障は?」
そこで男は振り返り、無表情を崩さずに言った。
「ありません。何人が相手であろうと」
男の名はクラウス。教会の聖職者で、異例の若さで大司祭の地位についた。魔族討伐の任において、奇跡(教会所属者の行う魔術をこう呼ぶ)と医療の卓越した技術、及びそれらを使って後方支援を行った功績とされているが、実際にはそれだけではない。
「命にかえても、殺します」
異教徒・背信者・教会の妨げになるあらゆるものを秘密裏に処理してきた『異端審問官』。それが彼の裏の顔。事情を知るものからは、こう呼ばれる。
「頼んだぞ、『暗殺司祭』」
ユージーンはその日の夜、『みなの湯』の掃除をしていた。ここのところ魔族・人間ともに利用者が増え、掃除や対応に追われることが多くなってきた。そろそろ他にも従業員を増やさなければいけないかもしれない、などと考えながら掃除をしているうちに、すっかり夜も更けてしまった。
「まいったな……」
まだ薪割りの業務が残っているというのに、ハラウラとの入れ替わりの時間が近づいていた。施設の外に出ると、空には月もなく、店から漏れる明かりだけが、わずかに薪割り場の周囲を照らしている。
そんな中、一人の男が近づいてくるのがわかった。
「いらっしゃい……」
「こんばんは、ユージーンさん。私のこと、覚えてますか?」
細身の青年がにこやかに、ユージーンに話しかける。ユージーンは少し面食らったが、まじまじと彼の顔を見て、思い出した。
「……お前、クラウスか?」
「はい。ガダラ平原の討伐の折はお世話になりました」
クラウスは礼儀正しく頭を下げ、にこやかに微笑む。
「ユージーンさんが何やら商売をやっていると聞いたので、見に来たんです。サウナというのに、私も入っても?」
「ああ、もちろんだ。生きて顔を見せてくれただけでも、俺はうれしい」
ユージーンは珍しく相合を崩し、クラウスに背を向けて店に向かう。
次の瞬間、ガキン、と硬質な音がして、ユージーンの首元に火花が散った。薪割りに使う粗末な斧の刃が、クラウスの短剣を受け止めたのだ。
「……よく受けましたね。一撃で済ませるつもりだったのですが」
「お前から、聖職者の使う香の匂いがした」
「なるほど。では私が来た理由もおわかりですね」
クラウスは飛び退き、再び短剣を構える。
「……うれしかったんだぞ、俺は。本当に」
ユージーンも斧を構える。
「魔族と交わる者、元『英雄』ユージーン。審問を開始します。『世に教えの光あまねくあらんことを』」
「くそったれ!」
――
5年前、フィン王国と魔族支配地域の国境付近にある、ガダラ平原。人間の一団が、見通しの良い道を歩いている。
「なあユージーン、お前この戦が終わったら何したい?」
小柄な女が、大柄な騎士――ユージーンに尋ねた。
「……特にないな。強いて言うなら帰って寝たい」
ユージーンは女に一瞥もくれずに、仏頂面で答える。女は大げさに肩をすくめながら、隣を歩いていた少年にまとわりついた。
「つまんねーなーお前。クラウスはあんな大人になっちゃダメだぞ」
「はあ……」
絡まれたほうの少年は、笑いながらあいまいに答える。
「クラウスは手先が器用だし、身のこなしが良いから、腕のいい盗賊になれるよ!」
「盗賊って、人に勧める職業ですか……」
彼らが話しながらむかっていく先は、平原一帯を牛耳る魔族の本陣である。平原を奪還しようとする国王軍の騎士たちと、挟み撃ちの形になっている。
「いーんだよ、魔族とか悪い金持ちとかから盗めば。家族のために金がいるんだろ?こんなとこで傭兵まがいのことをやってるより、バカスカ稼げるぞ!」
「もうやめとけ。そろそろ待機地点につくぞ」
「へいへい。それじゃ、今日も世のため人のためにがんばりますか」
女はふてくされた様子で、クラウスから離れた。男二人は視線でコンタクトをとり、揃って苦笑する。
「……そういえば、お前はどうなんだ。モーガン」
「何が?」
「さっきお前が言っていたことだ。この戦が終わったら――」
「ああ、そうだね」
女は得物の槍を手に、振り返って笑った。
「まずは、ゆっくり風呂に入りたいかな」
――
時は戻り現在。クラウスは短剣を手に何度もユージーンに切りかかり、ユージーンはそれをなんとかいなしている。
「クラウスっ、なぜこんなっ」
ユージーンは致命傷にならないように、斧で短剣をはじき、刃の背で体を押し返す。
「あなたこそ、なぜ魔族と関わるのですか」
「受けた恩がある」
「私も同じだ。教会は私を救ってくれた。戦う場を与えてくれた。家族を殺した魔族どもを、好きなだけ殺せる理由も」
クラウスが再び飛びかかり、ユージーンの急所を狙う。
「まさか言うまいな、復讐は何も産まないなどと」
短剣を斧で受けようと構えるユージーン。しかし、刃に当たったのは肉の感触だった。クラウスの片手が斧の刃に突き刺さっていたのだ。
「なっ!?」
もう片方の手の短剣がユージーンの首元に襲いかかる。襲撃者の両目が獣のようにぎらつくのが、ユージーンにも見えた。咄嗟に全力を込め、突き刺さった斧ごとクラウスを投げ捨てる。
「さすがは元『英雄』か……次は、殺すっ…ググウッッ!!」
クラウスは不気味に笑いながら、なおもユージーンに迫る。切り裂かれた左腕が再生していく。魔術――教会が言うところの奇跡――の力だ。かつてガダラ平原の戦いでも見た、治癒の力。以前は他人を癒やしていた魔術で、自らの肉を再生しながら、突っ込んでくる。
「やめろクラウス!」
短剣を突き出す腕をなんとか捕らえ、クラウスと組み合うユージーン。かつて『生きる防衛線』とも呼ばれたユージーンの膂力は人間離れしたものだったが、クラウスはそれと互角に渡り合っている。体格からしてもあり得ぬことだったが、人間の限界を超える筋力を発揮させ、ちぎれていく筋繊維を端から再生しているのであれば道理だと、ユージーンにもわかった。
「これで終わりだアアア”ッ!!」
クラウスの目が充血し、血涙が流れる。獣のごとき唸り声とともに、ユージーンの腕を押し返す力はどんどん強くなっていく。バチバチと弾けるような音は、骨や筋が壊れては再生していく音だ。
「くそっ、お前までっ……」
クラウスの力は、すでに完全にユージーンを上回っていた。短剣の切っ先が首に迫る。
「やめろおおおおッッ!!」
ユージーンも雄叫びをあげる。がくん、と体が傾いた。
「ア”ア”ッ?!」
押され始めたのは、クラウスのほうだった。クラウスの膂力は、完全にユージーンを上回ったにもかかわらず。
「何故っ?!どこからそんな力がアッ?!」
「止まれええッッ!!」
襲撃者の表情に驚きの色が混ざったその瞬間、きん、と澄んだ音が響いて、クラウスの動きは止まった。巨大な氷塊が彼の頭に直撃したのだ。ウ族の魔術師、ハラウラの魔術だった。
「気づくのが遅れてごめん……魔術の気配がしたものだから、あわてて飛び出してきたんだ」
「いや、いい……魔族のお前が最初から割って入ったら、余計に面倒なことになっていたからな」
幸い、ハラウラが介入したことは気づかれてはいないだろう。治癒魔術の行使と全力でのせめぎあい、他に意識を向ける余裕はない。ハラウラの魔術は一瞬だった。
「主人、この人は……?」
「……昔の仲間だ。こんな戦い方をしてほしくはなかったんだがな……」
「……そう……」
ハラウラもそれ以上は聞かなかった。ユージーンの表情を見て、そうすべきでないと悟ったのだろう。
「それで、どうする?意識はしばらく戻らないだろうけど……街の近くにでも」
ユージーンは首を横に振った。
「まがりなりにも『審問』に来たんだ。サウナに入って、実情を知ってもらう……話したいこともあるしな」
クラウスが目覚めると、簡素な麻の服を着せられ、傷が治っていることに気がついた。
「起きたか」
ユージーンが見下ろしている。咄嗟に手元を探り、短剣がないのがわかると手刀で襲いかかろうとする。しかし、体は思うように動かなかった。
「やめておけ。体力が底を尽きている。治療の魔術も、しばらく使えないようにさせてもらった」
クラウスの首には札のようなものが張られ、魔力の流れを阻害していた。『みなの湯』を訪れる魔族の中には、無意識に魔術を振りまいてしまう者もいるため、このような封印の札が使われている。威圧的な入れ墨を隠すのにも使えるものだ。
「……なぜ、このようなことを」
「ここがお前の思うような施設じゃないことを、確認させたくてな。大方、『魔族と関わる』とか『裸を晒して享楽的』とかで、視察に来たんだろう、表向きは」
「……」
クラウスは周囲に目をやる。どうやら更衣室のようで、周囲に魔族の気配はない。
「表向きの仕事ぐらいやって帰ったらどうだ。そうすれば、さっきの衝突は『誤解からの行き違い』だったことにしてやる」
ユージーンの言う通り、クラウスは彼を殺せなかった時点で詰んでいたのだ。
今まで、クラウスの暗殺は失敗したことがなかった。初撃での暗殺、治癒魔術を使った強引な攻撃、司祭という立場による政治的な保護。もちろんクラウス自身の剣技と魔術の腕もあったが、そうした有利な背景をもとに、クラウスは今まで『暗殺司祭』として活動してきた。
しかし、今回は相手が悪かった。ユージーンの土壇場での力は、完全にクラウスの予想を超えていた。加えて、元とはいえ、ユージーンは英雄として今でも人気が高い。騎士団や王国から距離をおいているとはいえ、彼が暗殺されかけた事実を告げれば信じる者も多く、他の些末な目撃証言のようにもみ消すこともできないだろう。そしてその時、教会は確実に「汚れ役」のクラウスを切り捨てる。
「お互い、そうするしかないだろ。おれは人間と対立したくない」
「……いいでしょう。この首の札も、自分では取れそうにないですし」
そうして、二人は浴場に入っていった。他には人も魔族も、誰もいない。
しばらくして、二人はサウナ室にいた。ちりちりとストーブが音をたてる室内は静かで、時折汗を拭いたり、熱い息を吐いたりする音がときどき流れた。
「……なぜ、あんな仕事をしている」
「……」
「いつ聖職者になったんだ」
「……」
沈黙の間を、蒸気があがる音が埋める。随分、こんな時間が続いていた。
「……こうして十分に体が温まったら、水風呂に入る」
「水?なぜです?」
「そのほうが気持ちいいからだ」
ユージーンがサウナを切り上げると、クラウスは無言でついてくる。そのときの様子が5年前を彷彿とさせ、ユージーンは少し可笑しくなったが、顔に出すのはやめておいた。
「水風呂は入れるか?」
「……教会の儀式で、何度もやっています」
「そうか」
二人はゆっくりと水風呂に入る。冷たい水が体を包み込み、体の深いところから吐息が漏れる。
「ふうーーーーっ……」
「……っぐっ……」
クラウスがうめき声をあげた。治癒の魔術で回復したとはいえ、細かい傷に水が沁みるようだ。
「痛むのか」
ユージーンが尋ねると、クラウスは顔をそむけた。そうして1分ほど(ユージーンは普段もっと長く入るのだが)水風呂につかったあと、外気浴に出る。
「本当に、裸で外に出るんですね」
「ああ。別に室内でもいいんだが、外のほうが気持ちいい」
ユージーンが長椅子に寝転がると、クラウスも同じようにする。月のない空にはたくさんの星が見え、少し強い夜風の流れを感じる。
「……やはり、これは享楽的です。『禁欲』の教義に反します」
長椅子によこたわるクラウスの顔は、5年前とそう変わらないように、ユージーンには見えた。だが、その間に色々なことが起こったのだろう。
「だが、どうだろう。酒や異性に溺れるのとは、わけが違うと思わないか」
「……言い訳ですか?」
「まあ、最後まで聞け……酒、異性、暴食、その他贅沢。金銭欲や名誉欲。こいつらはどんどん膨れ上がって、歯止めがない。1手に入れれば10欲しくなり、10手に入れればこんどは100欲しくなる。だから『禁欲』が必要になる。俺は教会に帰依するのはやめたが、それは道理だとわかる」
そこでユージーンは一度言葉を切り、起き上がって水を飲んだ。
「サウナは、マイナスになったものを0に戻すだけなんだ。サウナに100回入ったって、0より上になりはしない。疲れて眠るのと同じだ。ぐっすり眠るのは気持ちのいいことだが、『禁欲』は睡眠までも禁止してはいないだろう」
「……ユージーンさん、そんなに喋る人だったんですね」
クラウスは立ち上がり、腰のタオルを直す。
「詭弁ですが、一考の余地はあるでしょう……ですが、『魔族との交わり』については、教会の教えはもとより、個人としても許せるものではありません」
「……その話は、次のサウナでしよう。行くぞ」
「繰り返すんですか?なんのために?」
「そのほうが気持ちいいからだ」
「……そうですか。よくわかりませんが」
2回めのサウナ。最初よりも熱気に慣れ、体温が下がった状態から開始となるため、二人は長くサウナ室に入っている。
「……だから、おれはここを開放しているだけで、人間と魔族を無理やり近づけているわけでも、魔族にだけ特別に便宜を図っているわけでもない」
「でも、実際魔族と人間がここで出会っているわけでしょう」
「それなら、教会は森や湖を取り締まるのか?」
「それとこれとは話が別でしょう」
ユージーンとクラウスの主張は平行線だった。
石に水がかかり、蒸気が立ち上る。二人は同時に息をつく。無言の時間が流れる。
「あそこまでの力があるとは、思いませんでした」
「あんな戦い方をするなら、負けるわけにはいかない」
クラウスの言葉に、ユージーンが真剣な顔で答える。
「……お前がどれだけ魔族を憎んでいようと、復讐をしようと、おれにとやかく言う権利はない。だが、自分自身をわざと痛めつけるような真似はやめろ。自分を犠牲にして……あいつみたいになるな」
はっとした表情になり、再び床に視線を戻すクラウス。
「……モーガンさん。あの噂は本当だったんですね」
かつて共に戦った戦士、『勇者』モーガン。とある事件をきっかけに、『何か』と契約して、人を超えたモノになってしまった。今は教会すらも彼女の行方を把握できていないが、噂では昼夜を問わず各地の戦場を渡り歩き、機械のように魔族を討伐して回っているという。
「ああ……これ以上、知ってるヤツに自分を犠牲にしてほしくないんだ」
「……」
二人は再び無言に戻る。ユージーンのほうが先に立ち上がり、サウナ室の扉を開けた。
「サウナは、自分自身と向き合う時間をくれる。一度、その体と向き合ってみろ」
クラウスがその言葉の真意をたしかめる前に、ユージーンは外に出てしまった。熱気のたちこめるサウナ室内に、クラウスは一人残された。
じわり、と体表についた汗をぬぐう。最初の水風呂ほど痛みは感じない。
(体と向き合う、か)
改めて自分の体を見ると、傷跡や肉のひきつれが多い。骨がいびつに繋がっているところもある。治癒の魔術により回復し、今も機能に問題がないとはいえ、外見までが完全に元通りになるわけではないのだ。心配するユージーンの反応も自然かもしれない、とクラウスは思った。
(そう言えば、最後にちゃんと風呂に入ったのは、いつだったか)
風呂にゆっくり入っている時間など、自分には必要ない。その時間があれば、自らを鍛え、魔族や異端者を殺すための術を磨くべきだ。そう思っていたので、クラウスは簡単な水浴びだけですませていた。だから、自分の体が思ったより傷だらけなことに、気が付かなかった。
じりじりと、サウナの熱気が思考を狭めていく。常に研ぎ澄ませ、周囲の情報をかき集めていた神経が、その活動をゆるやかにしていく。息が少し苦しい。汗が吹き出しているように感じる。
(――苦しい?私が?)
苦しかった。熱かった。どれも久しく味わったことのない感覚だった。仕事の遂行には不要だったからだ。そう言えば、先程外気浴をした時の心地よさも、最後に感じたのは思い出せないほど前だった。何か恐ろしいことに気がついてしまいそうで、クラウスはサウナを切り上げ、水風呂へ向かった。
外にユージーンはいなかった。ただ、外気浴用の椅子の近くに、水の入ったコップが用意されているのが見えた。クラウスは、ほてりきった体を水風呂に運び、勢いよく冷水に浸かった。
「ふうーーーっ……」
冷たい。先程と変わらない水温のはずが、はじめて冷たく感じられた。体温が急激に下がり、どくどくと心臓が脈打っているのがわかる。忘れていた感覚。自分の体に、血が流れているのだということを実感する。すると、体中にできた傷に、疼痛のような違和感があった。
(痛い……?痛くはない。冷たい?まだ入れる。気持ちいい?……わからない。これは気持ちいいのか?何故わからない?)
冷えた血液が脳にめぐる。常に張り巡らされていた思考の糸が切り離され、解きほぐされ、収斂していく。
(ああ、そうか――)
◆◆◆
サウナで「ととのう」とはどういうことか?様々な意見があるだろうが、僕(作者)は『脳の過剰な活動が抑制される』ということだと思っている。
人間は、常に思考をめぐらせている。意識的か無意識かに関わらず、だ。解けなかったクイズの答えがある時フっと浮かんだりするのは、一度思考に入ったクイズが、ずっと無意識下で処理されているからだ。他にも、眠る前にとりとめのないことをずっと考えてしまったりとか、オフの日なのに仕事のことが頭から離れないとか、そういう経験がある読者も多いだろう。それは溜め込んだ思考が増えすぎ、脳が過剰に活動している状態だ。
サウナに入ることで、こうした雑多な思考を整理することができる。仕組みはいたってシンプルで、肉体を酷使することで、脳が色々なことを考える余裕をなくしてやるのだ。
人間の肉体と脳は密接に結びついている。体調がいいと気分もよくなるし、逆も然りだ。これを逆に利用する。肉体のほうをサウナと水風呂という極限状況に追い込んでやると、脳は様々な思考をするだけの余裕がなくなっていく。そうして物事が考えられなくなったあとに、外気浴で休憩すると、余計な思考を止めた状態を作ることが可能なのだ。例えるなら、脳というコンピューターのメモリを占有しているソフトのうち、不要なものを停止して、メモリを解放してやる、という感じだろうか。
そうすることで、脳の過剰な活動が抑えられ、頭がすっきりする。本当に必要な思考に、脳のメモリをあてることができるのだ。これが、「ととのった」状態だと、僕(作者)は考えている。(もちろん、体温を上下させてディープリラックス状態を味わうのも「ととのい」のいち側面だが、それがすべてではないのだ!)
忙しく生活と仕事におわれる現代人に、思考をととのえるサウナは良い影響をもたらしてくれることだろう。そしてそれは、政治的にも肉体的にも気を張り続けていたクラウスにも、気付きを与えるかもしれない……。
◆◆◆
外気浴を経て、クラウスは、自分の感覚を取り戻していく。
ひたすらに教会の汚れ仕事を引き受け、自らの身体を酷使していくうちに、彼の感覚は摩耗していった。魔族を殺していくうちに、自分の体や精神も殺してきたのだった。
(……選んだ道が間違っているとは、思ったことはない)
(だが……体のほうは、ずいぶん消耗していたようだ……)
サウナの中で、やわらかな湿度と熱がもたらした快感。水風呂に身体の神経がひきしめられ、同時に熱から解放される快感。それらとともに、今まで感じないように制御していた疲れや痛みが、じわりと体の奥から滲み出すように感じる。
(痛みも、辛さも、仕事には不要なものだった。だから、心が動かなくなったのか)
クラウスは息を吐いた。肺の動きにあわせて、骨や筋肉がきしむのがわかる。
「『そのほうが気持ちいい』か……」
ユージーンの言葉が、先程までのクラウスにはよくわからなかった。しかし、今ならわかる。徐々に動きはじめた感覚が、これは心地よいと告げている。
(さっさとすませて帰るつもりだったが、もう一周、いってみるか)
自分の快感のために動いたことも、覚えていないほど久しぶりだった。だが、今はそうしたいと思った。クラウスの顔に、少し人間らしい笑顔が戻った。
「……どうだった」
「魔族がいるのも発見できませんでしたし、一概に教義に反するとは言えないようですね、不服ですが……」
夜風が吹く下、露天スペースに戻ってきたユージーンと、3回のサウナサイクルを終えたクラウスが話している。クラウスの頬には赤みがさし、肌に血色が戻っていた。
「そうじゃない。気持ちよかったか聞いているんだ」
「……はい」
「ならよかった」
クラウスは、ユージーンが目を細めて笑うのを初めて見た。
「今日のところは、『持ち帰る』ことにします。そうすれば、しばらく本格的な追求はないでしょう」
「意外だな。お前が失敗したとなれば、次は僧兵の本隊か王国騎士団が来ると思っていたが」
「それどころではないんです、本隊は」
クラウスは少し迷ってから、言葉を続ける。
「……『マ族』に動きがあったんです」
その単語に、ユージーンの表情が険しくなった。
「戦争、か……」
『マ族』――人間の天敵。個体数は少ないものの、ウ族やネ族など他の種族に強い影響力を持ち、統率した異形の集団を作り上げる。その目的は、人間を襲い、食らうこと……人間はこの異形の集団を恐れ、まとめて魔族と呼んだ。
「はい。ですが、それだけではありません。今は、人間を襲えば『勇者』が現れます。だから、ここ最近は小競り合いですんできました。ですが」
「……まさか、モーガンを倒す算段が、奴らにあるというのか?!」
「まだわかりません。が、そうだとすれば人間全体の危機です」
クラウスは水を飲み干すと、立ち上がって言った。
「私は許せませんが……このサウナで、人間と魔族が交流し、平和に過ごしているとして。ユージーンさんがそれを望んでいるとして。『マ族』が本格的に動けば、いとも簡単に均衡は崩れます。気をつけてください」
更衣室に向かうクラウスの背中を見送りながら、ユージーンはつぶやく。
「誰にでも安らぐ権利がある……だが、実際にそうするのは、難しいことだな……」
クラウスが帰ったあと、姿を隠していたハラウラが戻ってきた。
「『マ族』か……。ほんとうだとしたら、大変だね……」
ユージーンが事情を話すと、ハラウラは目を伏せ、耳がぺたりと垂れた。
「戦争になるのは、できれば避けてほしいところだが……そうも言ってられないだろう。まったく……クラウスもあいつも、いつになったら安らげるんだろうな」
ハラウラは知っている。『あいつ』というのが、勇者モーガンであることを。そして、その『勇者』に安らいでもらうために、このサウナを作ったということを。ユージーンには、彼女の話題になる時だけする表情があることを。
「……ハラウラ、もし」
ユージーンがそこまで言いかけたとき、ハラウラの小さな手が彼の口をふさいだ。
「言わないでよ、主人……ボクはなにがあっても、それこそ魔族も人間も敵にまわっても、きみについていくよ」
ユージーンは少し面食らったあと、ハラウラを抱きしめた。
『サウナ&スパ みなの湯』。追放された元英雄と、小さな魔族が営むやすらぎの場所。人間も魔族もやすらぎの蒸気で包み込み、今日も営業を続けている。
しかし、彼らを取り巻く状況は、少しずつ変化していく。大きな戦争が起こるのは、もう少し先の話。
異世界で追放されても、サウナさえあれば幸せです ーできれば水風呂と外気浴スペースもつけてくださいー
『暗殺司祭、サウナを視察する』 終
第五話
「いやあ、サウナってのは最高だな。また来るよ」
「ありがとうございました」
「こんどは友達もつれてくるわね」
「またお越しください」
「楽しみだなぁサウナ、一族の間でも話題だから気になって来ちゃった」
「ごゆっくりお過ごしください」
大盛況だった。『サウナ&スパ みなの湯』は人間、魔族双方に口コミで評判が広がり、どんどん客が増えていた。今や、週末には魔族と人間が並んでサウナの前に列をつくるほどである。ユージーンがもたらしたサウナ文化は、着実に人間にも魔族にも根付いていった。
しかし、同時に問題も起こっていた。施設のほうが、客の数に対して小規模になってしまったのだ。館内が混み合えば、サウナ室や水風呂にも待ち時間が発生し、快適な導線を阻害する。それに加えて、利用者が多種多様になったことで、
「ねえ、ク族の抜け毛で排水が詰まってるのだけど」
「これはネ族のやつのだろ?」
「あのさ、水風呂もっと温度低くならない?」
「水風呂の温度低すぎる!ぬるめのがいいなあ」
「外気浴スペースのイスが足りないんだけど!」
「あのおばちゃん、ずっと洗い場独占してる」
「でっかいヤツが入ると水風呂の水ぜんぶ溢れちゃうじゃん!」
「お、溺れる!この水風呂、深いっ!」
体格や性質に差がある魔族たちから、様々な不満や要望が集まるようになっていた。ユージーンは一度対策を考えるべきだと思い、その日は午前中で営業を止めてハラウラと話し合うことにした。
夕方、店じまいの作業をしていたユージーンの耳に、ドンドンと扉を叩く音が聞こえてきた。
「……何だ、今日は休みだぞ」
「頼む!開けてくれ!」
切羽詰まった甲高い声が聞こえたので、ユージーンは扉を開ける。すると目の前にふわふわの壁があった。
「ああ、助かった!よしホロン、入るぞっ」
「……!」
ふわふわの毛皮の壁の下のほうから声がして、同時にそのふわふわが室内に押し入ってきた。
「うおっ、なんなんだ、お前っ」
それは、大柄なユージーンを超える大きさの、狼のような魔族だった。おそらくク族だろうが、ここまで大きなものは見たことがない。声はその足元からしたので、目線を向けると小柄なネ族がいた。ハラウラと同じぐらいか、耳がないぶん彼女よりも小さい。奇妙なポケットだらけの服を着ている。
「……」
ク族のほうは礼儀ただしいが、いかんせん体が大きすぎるせいで、狭い番台の前を通り抜けるのがやっとだ。ネ族はその足の間を器用にすりぬけ、店の奥の休憩スペースに駆け込んだ。番台とふわふわの壁(ク族の腹)にはさまれながらユージーンが聞く。
「お前ら、一体なんなんだ」
「悪かったな、急におしかけて。俺はラクリ、この子はホロン。頼む、しばらくの間ここに置いてくれないか?」
頭を下げるネ族――ラクリに、ユージーンは『前にもこんなことがあったな』と思うのだった。
あとからきたハラウラといっしょに話を聞くと、彼らは行く宛をなくしていたところに、人間と魔族がいっしょに経営する『みなの湯』の噂を聞いたのだという。
「宿泊ではなく、ここで働きたい、と」
「ああ。悪いけど、金は全くないからな」
「ふうん……それで、なんで群れから出てきたんだい……」
ハラウラは体格差のありすぎる二人を交互に、いぶかしげに見た。ク族もネ族も、それぞれ種族内での結束が強く、追い出されるということはほとんど聞かない。ハラウラは、彼らが犯罪者である可能性を疑っていた。
「……」
ホロンは全員の頭上で、もじもじと両手の指を絡ませる。ふわふわの毛皮に覆われていて、目元や表情は伺い知れない。
「まあ、そうか……言わなきゃ信用してもらえねえよな。俺は、群れを捨てたんだ。仕事のやりかたについていけなくなってな」
ネ族はクリスタルの採掘と加工を得意としており、多くの者が群れを作って鉱山での採掘を行っている。ユージーンも過去に交流があり、『みなの湯』で使っているクリスタルはネ族に格安で譲ってもらったものだった。
「で、この子……ホロンも同じだ。こんなナリで、力も強いけど、内気で優しい子だから戦いが嫌いで。それで、群れから逃げ出した」
ホロンがうなずき、ラクリの言葉を肯定した。ク族は群れの上下関係に厳しく、また戦に出ることを誉とする文化のため、『力持ちなのに戦わない』というのは相当白眼視されることだろう。
「気になるところはあるけど……ウソをついては、いないみたいだね……どうする、主人。人手はほしかったところだけど……」
ユージーンはしばらく考えて、ラクリに尋ねた。
「そっちのク族は、力仕事ならなんでもできそうだが、お前はどうだ?何ができる?」
「へへ、よく聞いてくれたな」
ラクリはピンク色の鼻をこすると、背嚢と服のポケットを漁って、金属でできた四角い箱のようなものを机に置く。怪訝なユージーンとハラウラの視線を受けながら、箱についた突起を押すと、ぼぼぼぼ、という音ととともに、箱の側面から熱風が吹き出した。
「うわ、なんだこれ……!」
ハラウラは驚いて、イスから飛び退いて耳を後ろに倒した。
「……これ、もしかして『機械』か?『電気ストーブ』とかと同じ?」
「へえ、兄さんよく知ってるね」
ラクリはいたずらっぽく笑った。
「俺、『メカニック』なんだ。こういう機械なら、なんでも作れるよ」
『機械』――主に金属で作られた、複雑な機構や動力を用いる装置。設計と作成には一般の金細工師や木工師が持つ以上の、逸脱した知識と能力が必要とされる。『自動車』や『銃』など、常人の理解できない機構によって動くものが多く、扱えるのはごく一部の天才、あるいは『転生者』のみとされる。
「驚いたな、機械を作れるとは。お前、『転生者』か?実際に見るのは初めてだ」
「違う違う。俺なんかが『転生者』なわけないだろ。俺はなりそこないだよ。ただ……『焼き付いてる』んだ、色々と」
『転生者』――常人の知り得ない知識や技術を持って生まれてくる者。世界におこる致命的な問題を解決するために発生し、危機にひんした人間世界を「生へと転じる」者、という意味でそう呼ばれる。というのが、ユージーンたちの持つ知識だ。
『転生者』の逸脱の度合いにも様々あり、度合いの高い者はある日、突然この世界には存在しない場所や言葉、知識を「思い出し」、別人のようになってしまうという。ラクリのように度合いが低い場合は、別人になるとまではいかないものの、少しばかり同族より浮いた性格だったり、どうしようもなく特定のものに惹かれるという形で発露することもある。
「……!……!」
「……ふうん、事情はだいたいわかったよ……」
ハラウラが耳をホロンのほうに向けて、少し笑って頷いた。
「何か言ってるのか?」
「『ラクリはすごいんだ、群れの仲間は彼のすごさが理解できなかったんだ』って。……ボクじゃないと聞き取れないぐらいの、小さい声さ……面白い子だね……」
「ホロンは、いろいろあって自分の声とか力とかを抑え込むのがクセになってるんだ。力仕事ってなったらもちろん全力でやるから大丈夫。どう?俺の機械とホロンの力、ここで使わせてくれないか」
少し考えて、ユージーンは頷いた。訳ありのようだが、人手が足りていないことも確かだ。
「……!!」
「ありがとうな!なんでもやるからよ!」
ハラウラに館内の案内をまかせ、ユージーンは店じまいの準備に戻った。
(ネ族とク族。離れたとはいえ、魔族の最大派閥にいた彼らの話を聞いておきたい。機械のほうも興味があるし……ただ、仲の悪いク族とネ族がいっしょにいるのは、気になるな)
「……ーーーーっ♪」
「う”にゃ~~っ……」
「ふうーっ……」
ホロンとラクリはハラウラに導かれ、サウナを体験していた。客はだれもいないので、貸し切り状態だ。水風呂を終え、外気浴をしている。
「……どうだい、気持ちよかったかい……」
「……♪」
「ああ、ウ族のサウナってのは聞いたことがあったけど、こんな良いもんだったとはなぁ」
3人の魔族が長椅子に横たわっている。小柄なラクリとハラウラに比べると、ホロンの巨体が際立つ。
「……ねえ、聞いてもいいかい」
「俺らがいっしょにいる理由だろ?」
ラクリがハラウラの言葉を先取りして答えた。
「……ホロンは、ク族の偉いやつの娘なんだ。それが、ネ族の……しかも俺みたいな変人とつきあってるから、群れにも居られなくなった」
「―――!」
ホロンが抗議の言葉をつぶやくが、ラクリは首を振った。要は、駆け落ちだったというのだ。恐らくユージーンも、なんとなくは気がついていたことだろう。
「それを聞いて、安心したよ……落ち着くまで、ここで働いているといい……主人もきっと許してくれる」
「……♪」
「え、いや、違うよ、違う……主人というのは、店の主人という意味で……」
「そうなのか?魔族と人間がいっしょに経営してるって聞いたから、俺はてっきり」
「やめてくれない……恥ずかしくなるだろ……」
そうして三人でくすくすと笑っていると、ラクリが思い出したようにハラウラに尋ねた。
「ところで、サウナの話だけど……あのストーブ、何をつかってるんだ?」
「ボクも詳しくは知らないけど、なんか邪竜の鱗を使ってるとか……」
「……?!」
ハラウラが答えると、二人は目を丸くした。邪竜の鱗がこんなところにあるとは誰も思わないだろうから、当然だ。しかし、ラクリは驚いただけではなかった。
「なるほど、そういうことか……でも、同じような仕組みなら……それならこっちのほうが……」
ぶつぶつと何かをつぶやきながら、更衣室のほうに戻っていく。怪訝そうな顔をするハラウラに、ホロンが耳打ちした。
「『もっとすごいストーブが作れる』……だって?」
「というわけで、作ったのがこれだ!」
ラクリとホロンがやってきた次の日。昨日突然作業をはじめたラクリが作り上げたのは、大きな金属の箱だった。箱の中には、規則正しく曲がった黒い管が通っている。
「名前は『遠赤外線ストーブ』。……どういう意味だかは知らないけどな」
ラクリに『焼き付いた』知識は、設計図と使い方のみだ。『遠赤外線ストーブ』という名前と、機械の作り方・使い方が脳内にあり、詳しい原理や引き起こしている物理現象などに関する知識は、ラクリが後天的に身に着けた内容のみである。
「『電気ストーブ』とは違うのか?」
「あれよりもっとすごいぜ」
スイッチを入れると、箱がブゥンと唸って、黒い管が赤く光りだし、すぐに周りのユージーンたちに変化があった。
「……む、これは」
「なんだか、急に体がぽかぽかしてきたね……」
箱の中の赤熱した管から発せられる熱が、体を温めていく。全身をくまなく温めるサウナストーブでのロウリュとは全く違う、まるで肉体を直接熱されるような質感だ。
「しかしふしぎだ……焚き火にあたっているみたいなのに、周りの空気はぜんぜん温まっていない。ほんとうに、ボクの体だけが温まっているんだ。魔術みたいだ」
ハラウラも感心しながら、空中に氷を作り出して、熱をあてて溶かしてみたりする。彼らの体に何がおこっているのか、この時知る者はいなかったが、それでもこの『遠赤外線ストーブ』が画期的なものであることはわかった。
◆◆◆
異世界に生きるユージーンたちには不思議な現象かもしれないが、読者の諸君にとっては遠赤外線はそれなりに耳馴染みのある言葉だろう。そして、実際に石を使ったストーブと遠赤外線ストーブでは、サウナ体験に明確な違いがあるのだ!
石のストーブの場合、水をかけることで熱い空気や水蒸気が室内を対流し、サウナ室全体を温めることになる。これは対流熱による加熱で、結果、全身を包み込むように温められる。
対して遠赤外線ストーブの場合、ヒーターから放たれた赤外線があたった体を温める。これは輻射熱と呼ばれるものだ。原理的には電子レンジでの加熱と同じで、電子レンジで物を温めたあと、庫内の空気が熱くなっているわけではないということからも、モノが直接温められている、ということがわかるだろう。(もちろん、石ストーブの熱された石からも赤外線は放出されており、ストーブとの距離が近いと輻射熱もビンビンだ)
この2つのストーブが、どんな差をもたらすのか……これから物語の中で語っていくことになるだろう。後半の解説パートに続く!
◆◆◆
「このストーブのほうが、体がすぐに温まって、効率的だろ?あんな石のストーブより、こっちのほうがいいぜ。邪竜の鱗がすげぇのはわかるけど、そもそも水をかけないと部屋が熱くならないなんて、面倒で非効率的だと思わないか?」
鼻を高くして言うラクリに、ハラウラは少し眉を潜めた。それを見咎めたホロンが、大きな手で彼の顔を挟み、諌めた。
「……!……!」
「えー、だってよお。サウナってのは体を熱くして、水風呂に入ればいいんだろ?だったら、こっちのほうがいいって」
ユージーンは少し考え込んで、ラクリに向かって言った。
「……このストーブと今のストーブでサウナをやって、比べてみよう。そうすれば、それぞれの良さがわかるはずだ」
一行は再びその日の午後を休業として、サウナストーブを比べてみることにした。サウナ室から一度ストーブを取り出し、遠赤外線ストーブを導入する。ホロンが軽々と石の詰まったストーブを持ち上げたので、ユージーンとハラウラはかなり驚いた。
遠赤外線ストーブは前方にあるものがあたたまるので、ユージーンたちが座っている椅子の反対の段に箱が乗せられ、スイッチが入れられる。ブゥン、と音がして、赤外線の照射が始まった。
「やはり独特だな。体の前面だけがあたたまる」
ユージーンはときおり体の向きを変え、両面を焼くように体温を上げていく。そこからまたしばらくすると、徐々にサウナ室内の温度も上がっていくが、石のストーブに水をかけた時ほどではない。赤外線があたって温められたサウナ室内の物が、空気を間接的に温めているのだ。
「……♪」
「なるほど……毛皮が厚い種族にとっては、こっちのほうのほうが温まりやすいのか……」
体のほうはじんわりと温まっていくが、空気のほうはそこまで熱くならない。暖炉の前にいる時のような不思議な熱の質感だ。次第に全員が汗をかきはじめ、そしてサウナ室を出て水風呂に入る。
「ふう……なかなか温まったな」
「そうだね……汗の出方も、いつもと違ったみたいだ」
体の熱気を水風呂に溶かしながら、ユージーンとハラウラはゆるやかに息を吐く。
「だろ?やっぱこっちのストーブのがいいって」
「……そうだな、なかなか良い。そもそも、今まで石のストーブ以外を知らなかったから、新鮮な気分だ」
ユージーンは少し嬉しそうに語り、水風呂を出て外気浴に向かう。
「次は、石のストーブに戻してみよう」
しばらくして、ついでに軽く清掃と石の点検を終えたストーブが、サウナ室に戻される。ナストーンの鱗を熱源にして石が温められていく。
「やっぱりそうだ。この方式だと、石が温められるまで時間がかかるぜ。遠赤外線ストーブなら、スイッチを入れればすぐなのに」
確かに、ナストーンの鱗が高熱を発しているとはいえ、石の全てに熱が回り切るまでには時間がかかるようだった。ユージーンは、ラクリの言葉にうなずきながら、水をストーブにかける。
ドジュウウウウッ……。
瞬間、部屋の中に熱い蒸気が満ちる。ユージーンたちの背中や顔を包み込むように、対流した熱気がゆっくりと降りてくる。
「……うん、やっぱりボクは、こっちのほうが馴染みがあるな……水をかけるというのは、魔術的にもとくべつなことだからね、一種の祈りというか……思いを宿すというか……」
ハラウラが耳をひくつかせながら、軽くうつむいて蒸気を背中に受ける。ホロンは頭の位置がどうしても高くなりすぎるため、3人の対面の席で横になっていた。
「ラクリ、お前もやってみたらどうだ。ロウリュ」
「ああ、やってみるよ」
柄杓と桶を渡されたラクリは、水をすくい取って、熱された石にかけていく。水が石にあたり、蒸発していく音。石の間で沸騰した水があげる、細く甲高い鳴き声のような音。また一段室内の温度が上がり、その変化を肌で感じる。見えない熱気の塊を、背中に感じる。
「違いがわかるか?」
ユージーンの言葉に、ラクリは目をつむったまま答える。
「……全身がやわらかく温められる。これはストーブの仕組みの違いだろうな。あとは……ロウリュの音と、温度の変化……」
「そう。たしかに体を温めるだけなら、非効率的な手順かもしれないが……その手順のおかげで生まれているものもあるんだ」
ふたたびサウナ室に静寂が戻る。
◆◆◆
物語で一同が体験したように、遠赤外線ストーブの場合、空気が熱くならないので、石のストーブと違ってサウナ室内の温度は全体的に低く、比較的長い時間入っていることができる。
しかし、空気の温度が上がることは、決してデメリットではないのだ!体を熱気が包み込めば、全体がまんべんなく温められていくからだ。これは、直線的な熱の放射しかできない遠赤外線ストーブに比べて、石のストーブにしかない特徴だ。
また、遠赤外線ストーブは比較的温度を一定に保ちやすいという特徴もあり、サウナ室内の温度は管理しやすくなるだろう。一方で、ロウリュをすることで、体で室温と湿度の変化を味わうことができるのは石のストーブの魅力でもある。
つまり、どっちもそれぞれ良いのだ!個人のサウナの入り方や好きな温度によって、石ストーブと遠赤外線ストーブのどちらが好みかは変わってくるだろう。そしてもちろん、この2つを両方搭載していいとこどりをしている施設もある!
僕(作者)は蒸気の感触が好きなので石ストーブとロウリュのほうがお気に入りだが、最も普段遣いしている銭湯サウナ・渋谷『改良湯』では遠赤外線ストーブで焼かれている。どちらも違う熱の質感を感じることができて良いものだ。
ちなみに、池袋『かるまる』などで体験できる薪サウナは、中で燃えている薪の焚き火の輻射熱が遠赤外線ストーブと違って指向性が弱いため、部屋全体にまんべんなく熱が放射されており、石ストーブとも遠赤外線ストーブとも違ったサウナ体験が楽しめる。機会があれば、ぜひ体験してみてほしい!
◆◆◆
「ホロンの言う通りだったな。悪かったよ、石ストーブのことバカにするみたいに言って」
外気浴で風を受けながら、ラクリはユージーンに言った。彼は長椅子のかわりに、ホロンの腹の上に横になっている。
「いや、いい経験だった。サウナの可能性が、これで一段広がった気がする」
「そうだね……ホロンやほかのク族みたいな、毛皮のあつい種族でもすぐ温まれるストーブなんて、はじめてだし……」
「……♪」
4人の見上げる空は少しずつ日がかたむきつつある。夕方の風が、それぞれの肌に心地よかった。
「思えば、今まで色々な相手から、サウナの新しい可能性を教えてもらっていたな……」
ユージーンがつぶやく。香油で香りを良くすること、みんなで集まってロウリュを受けること、そして今回、新しいサウナのあり方を知った。
「ラクリ、お前の機械づくりももちろんだが……物事を変えていける考え方は、俺にはないものだ。ホロンといっしょに、協力してくれないか」
「もちろんだ、何でもするぜ!な、ホロン」
「……!!」
居場所がみつかったことに喜ぶ二人。彼らも元いた群れを追放されてきた身だ。ユージーンもハラウラも、それぞれの居場所にいられなくなって、『みなの湯』をはじめた経緯がある。誰にでも安らぐ権利があるのだ。たとえ追放されても、周囲に馴染めなくても、サウナが全てを受け止めるように。
「よかったじゃないか、主人。ずっと先になるかと思っていたけど、これだけぴったりの人材が揃えば」
「ああ、願ってもない。アレをやろう」
「アレ?」
聞き返すラクリに、ユージーンはにやりと笑って答える。
「『みなの湯』大改装計画だ」
『サウナ&スパ みなの湯』。追放された元英雄と、小さな魔族が営むやすらぎの場所。新しい仲間を加え、ついに誰もが安らげる場所を目指した改装が始まる!
異世界で追放されても、サウナさえあれば幸せです ーできれば水風呂と外気浴スペースもつけてくださいー
『ラクリとホロン、サウナに加わる』 終
参考文献:
サウナと熱 熱の種類(https://saunology.hatenablog.com/entry/sauna-heat01)
遠赤外線サウナについて考えてみよう(https://saunology.hatenablog.com/entry/sauna-heat04)
第六話
「はあ、疲れましたわ……」
フィン王国国王の末娘、セレーネは、私室でひとりため息をついていた。早朝からの謁見と要人との会食を終えた彼女は、ようやく緊張から解放され、服を脱ぎ捨てて大きなベッドに寝転んだ。
『みなの湯』でサウナを体験して以来、人目につかない場所ではほとんど裸で過ごしているセレーネ。それからもちょくちょく息抜きに『鍵の腕輪』を使ってサウナに行っていたのだが、ここ一ヶ月は改装中ということで、繋がらなくなっていたのだ。何か他の気晴らしは、アミサでも呼んでお茶にするか、などと考えていると、自室の扉の下から一通の封筒がすべりこんできた。
封蝋も何もないそれを手に取ると、隅に小さく『みなの湯』と判が押されていたので、セレーネは中の紙を取り出す。
▲▼▲▼ サウナ&スパ みなの湯 新装開店のお知らせ ▼▲▼▲
日頃『サウナ&スパ みなの湯』をご愛顧いただき、ありがとうございます。
本日、海月の12日、当店は設備を一新し、新装開店いたしました。
従来のサウナに加え、さらに充実した水風呂と外気浴スペース、新たに設けた男女共用スペースの大型サウナやジャグジー、そして館内の休憩スペースでお楽しみいただける飲食メニューの追加など、お客様の疲れを癒やし、明日の活力となるため、全体に大幅な改良を加えております。
新装開店記念に、こちらのチラシをお持ちいただいた方について、入館料を無料とさていただきますので、ぜひお越しください。
「新装開店ですって?!これは行かなければですわ!」
セレーネは服を急いで身につけ、荷物をまとめて『鍵の腕輪』を使い、るんるんで『みなの湯』へと入っていった。
「いらっしゃいませーー!」
セレーネを元気よく出迎えたのは、見知らぬ小さな店員だった。ネコのような外見をした魔族で、『みなの湯』と書かれた薄手のシャツを着ている。腰には重そうな工具が入ったベルトが見えた。
「ええっと、こんにちは。今日は入浴なのだけれど……店主の方はいらっしゃるかしら?」
魔族の店員は、すぐにセレーネの身につけた『鍵の腕輪』を見て得心がいったようで、大きな声で店主を呼びに行った。少しして、ユージーンがカウンターの裏手からのしのしとやってきた。
「姫様じゃないか。こんなにすぐ来てもらえるとはな」
「ごきげんよう、ユージーンさん。改装が終わったというので、飛んできましたの。最近は街にもサウナ施設ができているようですが、私はお忍びでも行けませんもの」
セレーネのあとからも、チラシを持った人間や魔族がぞくぞくと来店し、魔族の店員がそれをてきぱきとさばいていた。
「それで、こちらの方は?」
「ああ、ネ族のラクリだ。今までは改装の準備に回っていたが、今日からは接客も担当している……もうひとり、ク族のホロンというヤツも増えた」
「まあ、そうなんですのね。確かに、最初に来た時と比べると、ずいぶん人気になっていらっしゃって」
「ありがたいことにな。俺も仕事があるから、案内はハラウラにさせよう。じゃ、ごゆっくり……」
ユージーンはそれだけ告げると、忙しそうに室内に引っ込んでいった。
さっそく更衣室に入ると、入り口にはサイズ別の館内着が入った袋が並んでいた。「極小」「小」「中」「大」「極大」「翼穴あり」など様々なサイズが揃っている中から、「小」の袋を手に取り、大小様々な棚のようなものが並んでいる一角に向かう。ロッカーというらしい。鍵穴に『鍵の腕輪』を差し込むと、戸が開いた。
「ほぉーっ、なかなか立派になったもんじゃのお」
セレーネの隣のロッカーを使った女性は、あたりをきょろきょろと見回しながら、ロッカーの中に服を放り込んでいく。彼女の腕にも、『鍵の腕輪』があった。
「お、なんじゃ。貴様も『腕輪』持っとるのか?いいよなぁこれ。他の客の貸し出し用の腕輪と比べると、トクベツ感もあるし」
人懐っこい笑顔を見せる女性に、セレーネも軽く答えて微笑んでみせる。彼女の頭にはねじれた角が生えており、身長はセレーネよりも少しだけ高い。薄青いような黒いような、不思議な色合いの肌をしている。
(アミサが言っていた、山岳地方のヤ族の人かしら……言葉遣いも独特だし、腕も足もお腹も狩人のようにひきしまっているし、きっとそうね)
「ワシ、ショチト。貴様は?」
「セレーネです」
互いに裸で名乗り合っているところに、馴染みのある声が聞こえた。
「セレーネ、来てくれたんだね……うれしいよ。それに、ショチトも。常連がいっしょにいてくれるなんて、案内する手間がはぶけたよ……」
「ハラウラ!ひさしぶりですわね!新しい服、似合ってますわよ」
「来たなウサ公、さっそく案内してくれ!ワシははやくサウナに入りたくてウズウズしとるんじゃ!」
現れたハラウラは、ユージーンやラクリとおそろいのシャツを来て、二人を出迎えた。服をほめられると、照れくさそうに耳を倒した。
「それじゃあ、新しくなった『みなの湯』を、ごあんないしよう……水着を持って、ついてきてね」
「内風呂の部分は、あんまり変わっとらんのう」
「うん、ここはここで、導線が完璧だから……変わったのは、この外なんだよ」
セレーネとショチトは、内風呂の洗い場で体を洗うと、従来のサウナ室を通り過ぎた。ハラウラの案内で、以前は外気浴スペースへの出口だった扉に手をかけ開くと、外気浴スペースへの道が二手にわかれていた。分かれ道になっている正面には、簡易的な棚があり、そこに水着やタオルを置いておけるようになっている。
「さ、水着を着て……右に出ると、男女共用のスペースになっているんだ……」
「まぁ!だから水着が必要だったんですのね。なかなか思い切った改装をなさったのね」
「ああ……最初に決めたルールと食い違うから、主人は悩んだみたいだけど。結局、『男女でいっしょに利用したい』っていう声が多かったのもあって、ルールのほうを整備することにしたんだ……」
「ワシは男にハダカ見られても別にいいんじゃがのー」
セレーネは胸と尻を覆うだけの高露出で高性能な水着(セレーネ自身がプロデュースした今年の流行りだ)を身に着け、雑に布を巻いただけのショチトとともに、『これより先男女共用:水着着用のこと』と書かれた扉を抜けて外に出た。
「わあ、すごい!」
「ほぉー!こりゃ立派じゃのー!」
二人は思わず声をあげた。日差しがあたたかに差し込む森の一角は、タイル張りに舗装されていて、公園か庭園のようになっていた。奥にはには大きなサウナ小屋が見え、それを中心にして、長椅子や簡易的なベッドが並ぶ外気浴スペース、そして不思議な形をした水風呂らしきものがあった。
「おい、あれはなんじゃ?池か?水風呂か?」
ショチトの指差した、サウナから見て反対側には、四角い池のようなものが作られ、なみなみと水が張られていた。数人の男女が、その中で泳いだり、浮きにつかまってのんびりと浮いている。
「ふふん、よくぞ聞いてくれたね……あれは、巨大水風呂、通称『プール』だよ。潜ってもいいからぬるめの水風呂としても使えるし、ああやって水遊びをすることもできるんだ……楽しそうだろう?」
ハラウラは胸を張って答える。その横を通り抜け、ショチトはすでにプールに駆け出して飛び込んでいた。
「うひょー!きもちいいーっ!今日みたいに暑い日には最高じゃのーっ!!」
『トビコマナイデクダサーイ』
ビビーッ、と警笛のような音がして、共用部と男女別区域を仕切る壁の上にある像から、謎の光線がショチトに照射される。
「ひゃあ!驚いた、なんじゃこれ」
「飛び込んじゃだめだよ、あぶないだろ……あれは魔術の『使い魔』だ。ボクはあんまり詳しくないんだけど、主人の知り合いの魔術師からいくつか譲ってもらったみたい。こうやってあぶないことをする人を見張ったり……」
『ノゾカナイデクダサーイ』
話していると、後ろで共用部分の壁を飛んで越えようとしたト族の女性が、光線で撃ち落とされた。
「……ああやって、不埒なやからを成敗してる……ひどい行いをすると、それだけ強い光線がくるから、きをつけて」
「ふうん。便利なもんじゃのう……母上にたのんで、どこぞから手に入れてみるか……」
セレーネもプールにつかって、漂っていた浮きに体を乗せてみる。何度か川や海に水遊びに行ったことはあったが、こうしてのんびりと漂うのはまた別の気持ちよさがあった。
「それじゃあ、ボクはサウナのほうにいくけど……二人は、もうちょっとプールで遊んでいく?」
「あ、サウナ!そうじゃそうじゃ、サウナに入りにきたんじゃった。行くぞセレーネ、サウナに!」
ショチトはざばざばと水をかきわけ、プールからあがってサウナのほうに向かっていく。
「……にぎやかな方ね。あの方も常連ですの?」
「ああ、会ったことはなかったかい?夜遅くにくるから、きみとは入れ違いなのかも……サウナ、きみも行くかい?」
「ええ。あの小屋、もしかしてまるごとサウナ室ですの?」
スペースに点在する給水所で水分を補給しながら、三人はサウナ小屋へと向かっていく。
三人はサウナの入り口でタオルをとり、中に入る。タオルもサイズが豊富で、羽や角や尻尾を守るために巻きつけられる長いタオルもあったが、ショチトは「いいんじゃそんなもん」と無視して突っ込んだ。
サウナ小屋の中は広く、ひな壇のようになった椅子が長く横に伸びている。薄手のタオルのような布――サウナマットがしかれ、数組の男女や友人同士が談笑していた。一段一段がかなり広くなっているため、寝転がって熱と湿度を味わっている者もいる。それぞれが、思い思いにサウナの中で過ごしていた。
「このサウナはあんまり熱くないんですのね」
「うん……ゆっくり過ごしてほしいからね。自慢の『遠赤外線ストーブ』で、空気が熱くならないから、長くいられるのさ」
「ちょっと物足りないが、悪くないのお!サウナの中で横になれるなんて、贅沢な気分じゃ」
三人は最上段の一角、座面がゆるやかな曲線になっているところに並んで寝転んだ。基本的にサウナは高い場所ほど熱いため、寝転がると幾分ぬるく感じるが、長居するにはちょうどよさそうだった。
「そういえば、ショチト。あなた、普段は何をしてらっしゃる方ですの?」
「ん?ワシか?」
ショチトはサウナマットにうつ伏せになった。形の良い胸が体の下に敷かれる。
「むずかしい質問じゃのう。あんまり仕事らしい仕事は普段しとらんのじゃ。たまに狩りなんかがあると、母上についていったりもするが」
「まあ、もしかしてお母様は地位のある方ですの?」
「ま、そんなところじゃな。おかげで遊んで暮らせてはおるが、どうも窮屈でならん。それで、たまに夜中に抜け出してサウナに来ておるんじゃ」
「そうなんですのね……似てますわね、私たち」
しばらくそうしていると、セレーネはふと隣にハラウラがいないことに気がついた。体をおこすと、いつのまにかサウナ小屋の中には多くの人が集まっていた。そこに、ハラウラが戻ってくる。先程カウンターで客の相手をしていた小柄なネ族――ラクリをつれてきていた。
「えー、本日は『サウナ&スパ みなの湯』にお越しいただき、まことにありがとうございます!14時からのロウリュ・アウフグースサービスを担当させていただきます、ラクリと申します。どうぞよろしくおねがいします!」
挨拶が終わると、サウナ小屋につめかけた客たちはいっせいに拍手した。あっけにとられている二人のもとに、ハラウラが再び戻ってくる。
「ちょうどいい時間だったね。これから、アウフグースをするから、体験していきなよ……」
「アウフグース?ロウリュなら参加したことがあるけど、それとは違いますの?」
下段のほうで何やら準備をしているラクリを見ながら、セレーネはハラウラに聞いた。以前から『みなの湯』では、香油を入れた水を石にかけて蒸気と香りを楽しむロウリュを提供していた。
「アウフグースもロウリュの一部というか……ロウリュでできた蒸気を、タオルであおいで撹拌したり客を熱くしたり、そういうのがアウフグースなんだ」
「ワシは一回やられたことがあるぞ。体のでっっかいワン公がタオルばっさばっさ振ってのう、体じゅうがめちゃくちゃ熱くなるんじゃ!」
『みなの湯』では改装に入る少し前にアウフグースを試したことがあり、大柄なク族――ホロンの巻き起こす熱波はかなりの好評だった。
「しかしここには石のストーブもないし、あのチビに熱波はおこせんじゃろ。ちゃんとできるのか?」
「ふふ、まあ見てなよ……」
ラクリは野外調理用の炉……七輪のようなものを取り出し、そこに水をかけた。馴染みの深い水蒸気の音がサウナ小屋に響き渡る。広い小屋の全体に行き渡るように、何回かたっぷりと水が注がれていく。
「あれ、確か前哨地を視察したときにみたことがありますわ。考えましたのね」
「すごいのはここからさ……」
ラクリは何やら不思議な形の機械を両手に持った。持ち手の部分に筒がついており、セレーネはその形から文献で見た『銃』を思い出したが、彼が何度か引き金を自分に向かって引いているのが見えたので、どうも違うらしい。
「では、まいります!」
ラクリが筒の部分を天井に向けて、両手の引き金を引いた。
ギュオオオオオンッ!!!
「きゃあっ!」
「うわ、なんじゃあれは!!」
轟音とともに、筒の先端から風が吹き出す!たちまち溜め込まれた蒸気が撹拌され、三人の体に降り注ぐ。先程までのゆるやかな熱から一転して、容赦のない熱さだ。ラクリが先端をセレーネたちに向けると、荒れ狂う怪鳥の如き風と熱が叩きつけられる。
「あ、熱っ!熱いですわ!」
「これが、『みなの湯』の新名物……名付けて『爆風アウフグース』さ……すごいだろう」「うはははは!こりゃあ効くのうッ!」
熱に強い体質なのか、ショチトは楽しげに腕をひろげ全身で熱風を受け止めていたが、セレーネには相当キツい温度だった。
「無理はしないでくださいねー」
そういいながらもラクリは客たちに熱風を浴びせていく。タオルでのアウフグースを受けたことがある者からしても、機械の力で容赦なく、長時間浴びせられる熱風の刺激は格別だ。セレーネの耳が真っ赤に染まる。
「ひぃっ、も、もう出ますわ!」
「じゃあ、ボクも出よう。水風呂を案内するよ」
「何、もう出るのか?情けないやつじゃのう」
セレーネを含め数人が耳を手でおさえながら、サウナ小屋の出口へと向かっていく。ショチトとハラウラはまだまだ余裕だったが、十分あたたまったので水風呂へと向かうことにした。
「まず先にシャワーだね、汗をかいただろう……」
「待て待て、『シャワー』とはなんじゃ?水か湯をかぶるのではないのか?」
水風呂へと向う途中、サウナでかいた汗を流すため、ハラウラが二人を案内したのは新設されたシャワーのある一帯だった。
「あら、ご存知ありませんの?こう……ジョウロみたいに、上から水が降ってくる水道ですわ。最近開発されましたのよ」
二人の目の前では、いくつかに区切られたブースの中で、他の客がシャワーを浴びていた。これはラクリの知識にあった機械の一部でもあったが、内風呂も含め洗面所などにも大量に設置できたのは、街で同様のものが普及しつつあるからでもあった。
すぐにハラウラとセレーネの順番がまわってきて、二人はシャワーを浴びた。降り注ぐ水は心地よくセレーネの肌をくすぐり、ハラウラのほうはお湯で軽く体を流していた。
「ふうん……なんかチョロチョロとしゃらくさいのう……」
ショチトも空いたブースに入るが、前の二人のように蛇口がなく、上からヒモが一本垂れ下がっているのみであった。
「……なんじゃこれは。えい」
重いヒモを引っ張ると、彼女の頭上から大量の冷えた水が浴びせられた。
「ウギャッ!!」
びしゃびしゃになったショチトが見上げると、ブースの上には木の桶がぶらさがっており、ヒモを引っ張ると溜まった水がぶっかけられる仕組みのようだった。
「ああ、それね……派手で面白いだろう。ガッシングシャワーというんだ。注文したシャワーの数が足りなくてつけたんだけど、思ったより好評でね……」
「た、たまげたのじゃ……なかなか豪快でよかったがのう。さて、水風呂じゃな!」
体を流した3人が振り向くと、すぐに水風呂がある。完璧な導線だ。しかし、その形は先程見た『プール』よりも見慣れないものだった。
「これも、『みなの湯』の新名物……『三段水風呂』だよ」
ハラウラが再び誇らしげに胸を張る。
『三段水風呂』の名前の通り、上下に並んだ円形の水風呂3つで構成される。地面からは小さな階段がそれぞれに伸びていて客は好きな水風呂に入ることができるのだ。
「ちなみに、3つそれぞれ温度が違って……」
「ワシが一番じゃ!……うおっ、つめたあッ!!」
ハラウラの説明を聞かずに最上段の水風呂に駆け出したショチトは、最も冷たい水風呂の洗礼を受けた。水温は10℃以下、いわゆる「シングル」で、かなりの深さがある。さらにハラウラ特製の氷まで浮かんでいる。流れは少なく、冷えきった水が湧き水のように静かに供給されている。セレーネはショチトの様子をみながら、軽く足先だけつけてすぐに引っ込めた。
「こ、これは明らかに冷たすぎませんこと?!」
「……いや、慣れるとけっこういけるのじゃ」
「うそぉ……」
「……水風呂のへりに手足をかけてごらん……」
ショチトはすすめられるままに、寝転がるような姿勢になった。すると、浴槽の中の段差がちょうど彼女の腰を受け止め、あつらえたようにリラックスの体勢になる。
「これは、なかなか……」
「ふふ、いいでしょう……どの水風呂も、じつはひっくりかえした台形みたいな形に段差ができているんだ。これで、背の低い種族も高い種族も溺れないでつかれるし、こうして中で腰掛けてゆっくりできるからね」
ハラウラが説明している最中に、水面から顔を出していたベ族の女が立ち上がって、のそのそと外に出ていった。水風呂の一番底は相当深いらしい。
「ふぅー……こちらは適温で良いですわね」
説明している間に、セレーネが2段めの水風呂に入っていた。深さのある水風呂の中で段差に腰掛け、涼感を楽しんでいた。水温はおよそ16℃前後だ。
「ふぃーっ、こっちもいいのう。水風呂のはずなのに、なんだかぬるく感じるのじゃ」
ショチトは一番上の水風呂から、浴槽のへりをまたいで二段目に降りてきた。温度の違う水風呂へ、すぐに移動できるのが『三段水風呂』の特徴の一つでもある。(最初、ラクリがすべり台で移動できるようにしたがったが、ホロンのお尻がどうしても入らなかったので断念した)
「この、水風呂の中に小さな段差があるのがいいですわね」
「そう……ここに足とか腰をのせると、体勢が楽になって全身で水風呂を楽しめるんだ。これは、主人のアイデアなんだけどね」
ひとしきり二段目の水風呂を楽しんだあと、三人は一番下段の水風呂に移動する。
「あ~……ぬるぅ……」
「癒やされますわね~」
三段目は、30℃から35℃程度の水温で、水というよりぬるま湯の風呂だ。しかし、これが上段2つで冷えた体には心地良いのだ。
「これ、外気浴いらずじゃなあ……」
「そうですわね……寒かったり暑かったり、風が強すぎたりすると、きもちよく外気浴できませんものね……」
「ああ……二人とも、あれをつかってみるといい」
ハラウラが指差した先には、不思議なものが見えた。外気浴スペースにあるような長椅子が、風呂の中に沈められているのだ。これがあるため、三段目の水風呂は上段2つよりかなり広い作りになっている。
「あー……」
「ああーー……」
沈められた長椅子に二人が横になると、下からぼこぼこと気泡が沸いているのがわかった。肌をなでていく気泡は、全身にマッサージを受けているような感覚にさせた。『バイブラ』と呼ばれる気泡の風呂は、セレーネがユージーンに教えた王族の贅沢をもとにしたものだったが、ネタ元にも椅子に寝ながら入れる風呂はなかったので、彼女にとっても初めての体験だ。
「これは……一生いられるかもですわ……」
「もう帰りたくないのじゃ……」
寝転がりながら空を見上げている二人を、ハラウラは水風呂からあがって満足そうに眺めている。しばらくそんな調子だったが、不意にショチトが口を開いた。
「……腹、減ったな」
「サウナに入ると、お腹がすきますものね……」
「それなら……ひとしきり終わったら、何か食べていくかい?ご飯も種類が増えたんだ」
3つの水風呂とサウナを堪能したセレーネとショチトは、館内着に着替え、2階につくられた休憩コーナーへと向かう。低い机の並べられた広間に、すでに何人かの人間や魔族が思い思いに座ったり、ごろ寝したりしていた。
ハラウラに案内された通りに、机においてあるメニューをめくりはじめるショチト。
「ワシ、この『オーロラポーション』ってやつにしようかのう。あと、『羊のロースト』」
「あら、お酒じゃないんですのね……では、私はこの『湯上がりアイスコーヒーセット』の『チョコレートケーキ』で」
「貴様こそ、腹減ったと言ってたのに甘味か?」
「あまりお腹をいっぱいにすると、夕食が食べられなくてお父様やお母様に心配されますもの」
机の隅には注文を記入する紙があったが、ショチトは字が書けないというので、セレーネがかわりに書いて、飛んできた使い魔に持たせた。飛んでいった先では、大柄なク族の娘が調理の腕を奮っているのが見える。
「二人とも、楽しんでくれてるみたいだな」
注文を待つ間、ユージーンがやってきて、二人に声をかけた。
「おう、サウナも水風呂もすごかったぞ!」
「はい、堪能させていただきました……疲れもどこかへ飛んでいったみたいです♪」
「それはよかった。だが、『みなの湯』はもっとすごくなるぞ」
ユージーンが珍しく満面の笑みを浮かべ、休憩スペースを見回した。
「今は人手と予算の都合でここまでだが、まだまだいろんな設備のアイデアがある。水棲魔族も入れるミストサウナ、水じゃなくて冷気で体を冷やす冷却室……やりたいことは沢山あるんだ」
「ユージーンさん、サウナの話になると、本当によくしゃべりますのね」
「本当じゃな。こいつ、サウナ以外はなんも考えとらんのじゃないか」
「む……そんなことはないが……まあ、楽しんでいってくれ」
背後から彼を呼ぶ声が聞こえたので、ユージーンは急いで立ち上がりそちらへ向かっていった。使い魔で補ってはいるものの、改装初日で客も多く忙しそうだ。そこに、ちょうど料理と飲み物が運ばれてきた。
「あら、意外とちゃんとしたケーキですのね。あの子が作っているのでしょうか、大きいのに器用なこと……」
ケーキを上品に口に運ぶセレーネに対し、ショチトはがぶがぶとジョッキの飲み物を飲み干す。
「『オロポ』が汗をかいた体に沁みるのう~」
周囲には、酒盛りをして騒いでいる一団もいる。セレーネは、大人は酒を飲むものだとおもっていたので、少し申し訳無さそうにショチトに言った。
「……本当に、お酒でなくてよかったのですの?私が飲める歳でないからといって、遠慮などしなくてもよろしいのに」
ショチトはそう言われて少し怪訝な表情をしながら、羊肉にかぶりつく。
「あー、いいんじゃよ。ワシら、酒では酔わないし。基本、刺激とかに強いんじゃよ、魔族は」
「そういえば、水風呂でもサウナでも、随分平気そうな顔をしていらしたものね」
「うん。……強いというより、鈍いってことかのう。人間の娯楽はあまりおもしろく感じないし、メシも美味いは美味いが、そうそういい気分にはならんのじゃ。難儀というか、もったいないというか……」
羊肉に備え付けの香辛料をたっぷりと振りかけて、再びかぶりつくショチト。
「だから、強い水風呂と強いサウナでガーっとととのうと、ようやくいい気分になれるんじゃ。これと同じぐらいいい気分になるのは、狩りの時と交尾の時ぐらいかのう」
「こ、こう……」
セレーネはあけすけな物言いに顔を赤らめた。
「でもワシ、狩りはあんまり好きじゃないんじゃ。母上からは呆れられるがのう……」
「わかりますわ。たまに父上に連れられて出かけますが、何が面白いのだか……」
「じゃよなあ。同じ汗にまみれるなら、サウナのほうがよっぽどいいのじゃ!」
「違いないですわね!」
ショチトの境遇に親近感を覚えつつ、二人は話に花を咲かせる。
その後も、腹がこなれたころにサウナに戻ったり、休憩スペースで居眠りをしたりして、二人はたっぷりと『みなの湯』を楽しんだ。
「あら、もうこんな時間ですわ。アミサと口裏をあわせてお勉強していることにはなっていますが、そろそろ戻らないとさすがに……」
「おー、ワシもそろそろ帰ろうかのう。今日は楽しかったのじゃ、セレーネ!」
「ええ、またぜひここでお会いしましょう!」
疲れを解消し、つるつるの肌になった二人は、さっぱりとした気分で『みなの湯』を後にした。出口の扉から、『鍵の腕輪』で、それぞれの居場所に戻っていく。セレーネがふと振り返ると、店の奥ではユージーンたちをはじめとして、店員たちが忙しそうに、それでいて楽しそうに店を切り盛りしていた。
セレーネは、以前ユージーンが言った『誰にでも安らぐ権利がある』という言葉を思い出していた。人間も魔族も、サウナの中では平等に安らぎを享受する。平和な光景だった。
(本当に、良いところ……魔族も人間もいっしょに楽しめて。この平和が、世界じゅうに広がればいいのに……)
サウナを楽しむショチトという新しい魔族の友人もできた。また時間を見つけて来よう、こんどは美味しいお菓子でも差し入れに。そう思いながら、セレーネは城に帰っていくのだった。
『サウナ&スパ みなの湯』。追放された元英雄と、魔族たちが営むやすらぎの場所。人間も魔族もやすらぎの蒸気で包み込み、今日も営業を続けている。
さらに大きな施設になった『みなの湯』は、いっそう全ての者に癒やしと安らぎを届けていく――。
――
「どこに行っていたのだ、ショチト」
ショチトが『鍵の腕輪』を使って帰り着いたのは、どことも知れぬ廃城の中。目の前には、彼女の母が苛立たしげな表情で立っていた。
「サウナじゃ、サウナ。いいじゃろ、別に」
「またそれか。全く、我が娘ながら呆れる。『狩り』以外にそこまでうつつを抜かすなど、種族の名折れよ」
「そっちこそ、また同じ話じゃ。ワシはもう寝る」
ショチトのほうも苛立たしげに角をかきむしって、ずんずんと城の奥へ進んでいく。
「待て、ショチト。何か、背中についたままだぞ」
「ああ、そうじゃった」
『みなの湯』で配っている札は、皮膚に貼り付けることで魔力の流れを封じ、入墨や体の模様を隠すもので、ショチトのような強い魔族には、館内でつけることが義務づけられている。
母に指摘され、ショチトは背中と腕に貼っていた札のようなものを剥がした。札の下からは、禍々しい文様と鱗が現れる。
「まったく、種族の誇りである魔力と鱗を隠してまで遊び惚けるとは。お前は――」
「わかっておる、わかっておる」
ショチトは肩をすくめながら振り返る。その目は黒く、金色の瞳がぎらりと輝いた。
「『魔王の娘なのだから、自覚を持て』じゃろ。わかっておる、気乗りはしないが……次の『人間狩り』は、ちゃんと参加するからのう」
――
異世界で追放されても、サウナさえあれば幸せです ーできれば水風呂と外気浴スペースもつけてくださいー
『人間と魔族の姫、サウナを愛でる』 終
第七話
その日、ユージーンが起き出すと、外はうっすらと雨が降っていた。
「おはよう、主人……交代だね」
夜の間カウンターに立っていたハラウラが、交代のために眠い目をこすりながら出てきた。
「夜の間、何もなかったか?」
「うん……ちょっと何もなさすぎるぐらい、誰も来なかったよ」
ハラウラがカウンターの上の台帳を指差した。前日の夜のページは白紙で、客が一人もいなかったことを表している。普通、夜は魔族の活発な時間帯なので、深夜から夜明け前にかけては少なからず客が来るものなのだが、ここのところ目に見えて数が減っていた。
「わかった。お疲れ様」
「うん、おやすみ……」
ハラウラと入れ替わり、カウンターに立つユージーン。台帳をめくり、難しい顔をした。
新装開店以来上り調子で客を増やしてきた『みなの湯』で、そろそろ新しい従業員を雇うか、あるいは使い魔を追加発注するか、と悩んでいたのが2週間ほど前。そこから今日に至るまで、顕著な勢いで客の入りが減っているのだ。収支の管理を手伝っているホロンも、長い毛皮の下で困った表情をしていた。
原因は、少なくとも『みなの湯』側にあるのではない、とユージーンは考えている。目立った不満の声もトラブルもなく、新装開店から今まで客が増え続けていたのがその証拠だ。
(やはり一度、街のほうで何か起こっているか、確認したほうがいいか……)
アミサやセレーネ、それに街にいる知り合いに連絡を取る方法をぼんやりと考えていると、膝のあたりと叩く手があった。
「ユージーン、ちょっといいか」
ラクリだった。ホロンも後ろにいる。客が少ないので、彼らには設備の点検と清掃をお願いしていた。
「何だ、設備に不具合があったか?」
「いや、違うんだ……ちょっと、知らせたいことがあって」
いつになく深刻な調子のラクリに、ユージーンはうなずく。
「……ネ族の使っている『伝声クリスタル網』は知ってるか?」
「知らん」
「なら、そこから説明する。声を遠くに伝える『伝声クリスタル』ってのがあるだろ。中でも遠くまで届く高品質なのを使って、群れ同士が連絡をとることがある。たとえ普通なら届かない距離にある群れ同士でも、その途中にいる群れが中継すれば、すごく遠くまで連絡をとることができるんだ」
ネ族はク族と並んで最も多く分布する魔族の一種であり、クリスタルの採掘と加工に長けている。『みなの湯』のクリスタルの多くも彼らから仕入れたものだった。
「便利だな……それで?」
「俺は群れにいたとき、この『伝声クリスタル網』の整備に関わってた。その時、群れのクリスタルの一部を拝借してきて……その欠片がここにある。これだけ小さいと普通は聞き取れないほど音が小さくなるけど、俺の作った『スピーカー』で増幅してやれば聞き取れる」
「つまり、お前のいた群れが他の群れとどんなやりとりをしていたか、盗み聞きできるわけだな」
ラクリは頷いた。
「で、ここんとこやけにやりとりが多いから、少し聞き耳を立ててみたんだが……どうやら、マ族が『人間狩り』を始めたらしいんだ」
「……そういうことか……」
ユージーンは険しい顔でうつむいた。マ族の『人間狩り』が始まったとあれば、それに従う魔族の客足も、それに対抗する人間の客足も滞るというわけだ。なにより、『みなの湯』は魔族と人間を区別しない。そこに恐れを感じて来るのをやめる人間がいても、おかしくはないだろう。
「……!」
「今までの『人間狩り』と違う、か。うん、確かに俺もそれが気になってた」
「どういうことだ」
ホロンの言葉に、ユージーンは聞き返す。
「今回の『人間狩り』は、いろんな場所で同時に起こっている。北から南まで、幅広くな……そんなの初めてなんだよ。そのへんのマ族が、近くの他の種族を集めて、近くの人間の街に攻め込む、いつものやり方と違うんだ。もしかしたら……」
「ただの狩りではなく、『戦争』……ということか」
以前、暗殺司祭クラウスから聞いていた話とも符号する。今までマ族は、『勇者』モーガンとの正面衝突を恐れ、小競り合いを起こすにとどめてきていたようだが、どうやら本格的に行動を起こすらしい。
「ここ、魔族と人間がいっしょに入るだろ。俺はそれ、大好きだけど。こういうことになると、さ……」
ラクリがらしくなく、歯切れ悪くつぶやいた。ユージーンは「少し考える」と言い、礼を言って彼を下がらせた。
「……教えてくれ、モーガン。俺はどうすればいい……」
窓の外の雨は勢いを強める。遠くの空では雷がなり始めた。
果たして、戦争は起こった。
フィン王国辺境、魔族の生息域との境界線上にある平地、ゴヌール平野。様々な理由から
防衛戦の要として知られるこの平野をはさんで、人間と魔族は互いに睨み合っていた。
「魔族が統率されて攻めてくるというのは、どうにも厄介で気味が悪いな」
「しかも、ここ数年なかった規模だ。少し厳しい防衛戦になるかもしれないな」
「だが、我らには『勇者』がついている。このような大きな戦いであれば、すぐにかけつけてくれるはずだ。それまでの辛抱だ!」
「などと、人間どもは思っているだろうな」
ゴヌール平野、魔族側の陣地。複数の伝声クリスタルを前に、『魔王』は満足げな表情をしていた。周囲には数人の側近が控え、いそがしく各種族から集まった者たちに指示を出している。
「もういいじゃろ、母上。他の者がやっとるように、適当に集めて適当に突撃すればええじゃろ」
その隣で、ショチトは面倒そうに角の手入れをしている。
「いままでの狩りとは違うのだ、ショチトよ。人間側に巨大な戦力……『勇者』が現れてしまった以上、不用意に動いては我々と配下の各種族の命がいたずらに脅かされる。それでは、楽しい『人間狩り』にはならないだろう……いや、だが、確かに」
そう言いながら、しかし『魔王』は途中で、おかしそうに含み笑いをしだした。
「なんじゃ、気味悪い」
「ククク、ショチトよ。お前が狩りに興味を持たないのと逆に、私はこの面倒な手続きを、楽しいとすら思っているようなのだ。策をめぐらせ、情報を駆使し、狩りを進めていくことを……案外、私たちは”似たもの親子”なのかもしれぬな」
「えー、嫌じゃ気持ち悪い……母上だって今までは適当な狩りしてたくせに……」
『魔王』は娘の言葉に、側近から地図を受け取りながら返す。
「確かに散発的な狩りは各地で行ったが、適当ではない。検証していたのだよ。『勇者』の性能を……」
広げた地図には、これまで起こした魔族の狩りの地点と時間、そして『勇者』がそこにあらわれるまでの時間が詳細に記載されていた。
「えぇ……何じゃこれ……」
マ族の『人間狩り』としては明らかに常軌を逸した力のいれようだ。ショチトは娘ながらかなり引いていた。
「人間どもは、アレが自分の意志で人間を守りに駆けつけると思っているようだが、違う。アレはもっと反射的に動くものだ。動物がエサの匂いに惹きつけられるように、アレは我々と人間が戦う際に起こる何かに反応して、そこに向かい、倒しては次に向かう……そういう生き物だ」
人間たちは、かつてのモーガンの武勇、そして「どんな戦いにも身を投じる」という彼女のあり方を知っていたからこそ、教会などのごく一部を除いて、『勇者』の行いを詳細に分析することはしなかった。
一方で『魔王』は、厄介な『勇者』を攻略するために、ネ族の伝声クリスタル網を使って各地の情報を把握し、『勇者』の行動原理と反応の基準を調べ上げていた。通常マ族が行っている、散発的な狩りに偽装して、あるいは『勇者』に恐れをなして小競り合いしかできないように偽装して。
「だから、誘導できる。いまごろは山脈に阻まれた辺境までおびき出されたころだろうよ。おそらくここまで離せば、この平野で行われる戦いには反応できまい。明日には楽しい『人間狩り』の時間だ。仮に反応できても、次の策がある」
「ふぅん……」
ショチトはつまらなそうにしながら、遠くに見える人間側の陣地を眺めた。『勇者』をあてにしているためか、狩りに興味のないショチトであっても、兵士の数が少ないことがわかる。
(『みなの湯』の店主……あのメチャクチャ強い男がいれば、もうちょっと戦えたかもしれんのにのう。あいつ、なんやかんやワシらに肩入れするが……この戦いはどうするつもりかのう)
――
ゴヌール平野で大規模な戦闘が始まった知らせは、ユージーンのもとにも届いていた。そして、ラクリの傍受した情報から、どうやら魔族は『勇者』を何らかの方法でこの戦いから排除したこともわかった。そのことに、少しユージーンは安堵したが、懸念が消えたわけではない。
(『勇者』をあてにした騎士団は、このままでは魔族に負けてしまうだろう。だがもし『勇者』が人間側にあらわれてしまったら、戦力差は決定的になる。その時は、やはり俺が、彼女を止めるべきなのか……しかしそれは、明確に人間国家への反逆になる……)
今日も『みなの湯』は客足が鈍く、店内には活気がない。外気浴スペースの水風呂は、静かにただ水を流し続けている。
(人間にも魔族にも、できるだけ安らぎがあってほしい。そう思って『みなの湯』を作ったが……俺には、難しすぎることだったのか……)
そんなことを考えながら、ハラウラと店番を交代し、ラクリから戦争の情報でも聞こうかと彼を探す。どうにも頭が重く、気持ちが沈んでいた。
その時、ユージーンの鼻をかすめたのは、やわらかな湯気の香りだった。
(……サウナに、入るか)
客のいない男性用サウナの中では、ナストーンの鱗を熱源とするストーブがちりちりと熱を発していた。
ユージーンはそれに水をかけ、一気に熱くなる室内と、蒸気の音を楽しむ。
「……ふう……」
熱が頭上からゆるやかに降ってくると、息を吐きながらそれを背中で受け止める。ストーブにかかった水の残滓が、蒸発する間に鳴くような音を立てる。この音と熱に集中すると、脳内でループしていた思考が、体全体の感覚の中に埋没していくような気がする。人間は、肉体的な刺激の中で、思考することが難しい生き物なのだ。思考が行き詰まった時ほど、サウナが効く状態はない。
(……クラウスは元気にしているだろうか)
ユージーンは、彼がサウナを勧めて、自分と向き合う機会を与えた、司祭クラウスのことを思い出していた。あれから店には来ていないが、その後教会からの追求がなくなったことを見ると、どうやら裏で手を回してくれているらしい。
熱が少し落ち着いたので頭を上げると、さわやかで少し甘い匂いが鼻をくすぐった。サウナ室内の桶には香油が混ぜられ、香りを楽しめるようになっている。リラックスさせたり、呼吸を楽にしたりなど、様々な効果もあると、キ族の薬師ササヤが言っていた。
(ササヤとメッツは、楽しくやっているみたいで、よかった)
キ族の知識と、錬金術師の科学的な実験で、二人は様々な新しい薬品を作り出していた。香油も種類が増え、アウフグースとあわせて『みなの湯』の女性人気に一役買っている。セレーネとショチトも、新装開店で訪れた際に、様々な香りを楽しそうに試していた。
(あの二人……人間と、マ族の姫。良い友だちになっていた……傷つけ合うことにならないといいが……)
彼女たち二人が、種族を超えて友人となったように。『みなの湯』のルール、「サウナの中では種族・性別・身分を問わず、みな平等である」という考え方は、ここでは成り立っていたのだ。人間と魔族の融和などと、大それたことを考えていたわけではないが……少なくとも、ここでは。全員がサウナの中で、平等だった。
「いいサウナになった。いいサウナに、なってくれた……」
もう一度ストーブに水をかけながら、今まで出会った人、『みなの湯』に来てくれた人、改装に携わってくれた人のことを思い出す。みんなが笑っていた。みんなが安らぎを得ていた。
「……戦う以外に能のなかった俺に、ついてきてくれる者がいる。知恵をかしてくれた者がいる。ここにやってきて、人間と魔族の知恵があわさって、こんな大きな施設になった」
サウナ室に充満する熱気の中、ユージーンは汗をぬぐい、顔をあげた。
「『誰にでも安らぐ権利がある』。俺は、サウナでずっと、それを貫いてきた。だったら、やはりサウナしかない。サウナで、人間にも魔族にも安らぎを届ける。俺がやりたいことは、それだ」
サウナから出ると、ユージーンは、従業員たちを集めた。ハラウラ、ラクリ、ホロンの三人と、誰もいない休憩スペースで『オーロラポーション』を飲みながら、口を開いた。
「……今、魔族と人間の戦争が起こっている。この状況だ、『みなの湯』にこないのもムリはないだろう」
「うん……まあ、そうだろうね」
ハラウラは牛乳を両手ですすりながら、若干うつむいて答える。
「それに、戦場は、過酷なものだ。戦っている兵士は辛いだろう。人間も魔族も……誰にでも安らぐ権利がある。それを、サウナで実現したい……俺は、やはり、諦めたくない。協力してくれるか」
ユージーンは、そう言って頭を下げた。いつもよりも真剣な表情だった。
「……もちろん、ボクはどこにでもついていくよ。この命は、主人に助けてもらったものだ……仮に、魔族全体と対立することになってもね」
大きな胸を張って答えるハラウラに、ユージーンは深くうなずく。そして、残る二人を見た。
「ラクリ、ホロン……お前たちが『みなの湯』に加わってくれたのは最近だ。ムリにとは……」
「何言ってやがる!」
ラクリは机をドンと叩いた。ホロンも同じく机を叩こうとしたが、ラクリが制した。
「確かにここに来てからは短いけど……俺たちは『みなの湯』に来て、はじめて自分の力を誰かのために生かせたんだ。それが、すごく楽しかった……だから、ユージーンがムリといってもついていくぜ!」
「……ありがとう……!」
ユージーンは、二人に頭を下げた。彼がそこまで頭を下げるのは珍しいので、二人は少し驚いた。
「でも、どうするんだい……?」
「まだ、具体的にはわからない、が……考えがある」
「……?」
ホロンが首をかしげる。
「サウナを、持っていく。戦場に」
「な……なんだって……?」
ゴヌール平野の戦争が始まってからしばらくが経過した。人間国家の兵士たちは、通常よりも統率された魔族軍、そして頼りの『勇者』がなかなか現れないこともあって、士気は下がりっぱなしだった。
「……どうだ、そっちは」
「変わらねえよ。クソみてえな戦況だ」
二人の一般兵士が、有翼魔族・ト族の空中投石から身を守る横穴の中で話していた。二人はフィン王国騎士団ではなく、近隣の人間国家から同盟により派遣された者たちだった。兵士の少なくない割合がそうした出自で、もとから士気はそこまで高くなかったのだ。
「フィン王国には『勇者』がいるから、楽勝じゃなかったのかよ」
「騎士団やフィン出身のやつらは今でもそう信じているが……自分たち以外をアテにするから、こんなことになるんだ」
二人のうち一人が、携行食を取り出し、水筒の水で流し込んだ。
「なあ、あんたの国のヤツはみんなそれ食ってるが。ウマいのか」
「ウマいわきゃねえだろ」
水でむせながら、携行食の兵士は心底嫌そうな顔で答える。
「ああ、早くまともな飯が食いたい……交代はまだか」
「何箇所か同時に攻め込まれてるらしいからな。かき集めても人手が足りていないらしい。こんなこと、100年前の『魔王』の時以来らしいぜ。運が悪い……」
人間の彼らが知ることはないが、マ族は強い個体であるほど休眠に入る期間が長い。100年前の『魔王』と、今の『魔王』は同じ個体だ。
もうひとりの兵士が中空を見上げながら、つぶやく。
「飯もそうだが……風呂に入りたいな。熱い風呂に入りたい」
「そうだな……戦場では望むべくもないが」
そんな時。二人の鼻を、ふわりとかすめるものがあった。
「……おい、お前があんな話するから、おかしくなっただろ」
「おかしくなったとしたら、俺もだ」
「お前もか。……風呂の匂いだ」
遠くからやってくる、懐かしい湯気の匂い。同時に、聞き慣れない何かが近づいてくる音。
「まさか……風呂が、来た……?!」
ゴヌール平野人間国家群の後方、野戦病院や簡易的な食堂などが並ぶ一帯。そこに近づいてくるものがある。車輪のついた鉄の箱。馬のいない馬車。『自動車』と呼ばれる機械だ。「き、貴様!何者か!何をしにきた!」
突然やってきた巨大な機械に、現場の責任者があらわれ、おどろいた様子で駆け寄ってきた。それに答えるように、運転席から身を乗り出して、大柄な男が声を張り上げる。
「フィン王国のセレーネ姫の名において、貴君らを支援しに参った!『邪炎竜殺し』のユージーンである!」
自動車には荷台の他に、もう一つ車が牽引されている。それはもう一つ金属でできた箱で、小さな煙突のようなものがついている。止まった自動車に、現場の責任者が駆けつけた。
「セレーネ姫様の印章を持って、かの『英雄』があらわれるとは……騎士団に復帰されたので?」
「違う。申し訳ないが、戦力として加勢することはできない。姫様が俺に任せたのは、後方支援だ。風呂を持ってきた」
「ふ、風呂ですか?!」
責任者はユージーンの乗ってきた自動車を見るが、それらしいものは見当たらない。
「本当ならばありがたいですが、この台車が、もしかして風呂なのですか?」
「いや、風呂は自動車に格納した天幕を広げて使う。この台車は……」
ユージーンは、べしん、と鉄の台車を叩く。
「蒸し風呂……サウナだ。こいつは、車で動くサウナ……『サウナカー』だ」
◆◆◆
今回、ユージーンが持ってきた2つのもの――移動式の風呂とサウナ。これらは実在し、現在も活躍している!
通常のインフラが使えない状態……例えば戦場や被災地で困難に直面している人々にとって、食料や寝床と同じように、衛生は大切なことだ。なかでも入浴は、体を清潔にするだけでなく、気分転換にもなる。水が出なくても、設備がなくても風呂に入りたいという需要を満たすために、自衛隊が持っているのが「野外入浴セット2型」だ!
「野外入浴セット2型」は、簡単に言えばどこにでも簡易的に風呂を設置できるセットで、水のタンク、ボイラー、ブルーシートのようなものでできた浴槽、そしてプライバシーを確保するためのテントで構成されている。水をタンクにくみあげ、ボイラーで沸かせば、被災地などで電気や水道が使えない場合でも浴場を作り上げることができるのだ。阪神淡路大震災や東日本大震災でも被災地に設置され、多くの被災者の癒やしとなったという。
そして、『サウナカー』についても、もちろん実在する!
自動車で牽引することのできる車の中がサウナになっていて、中にストーブがあるのだ。こうした分離型のもの以外にも、軽トラの荷台をサウナ室に改造しているものもある。
僕(作者)は後者のものを、たまたま押上の大黒湯で経験したことがある。木の板でできた狭い室内は、ロウリュをするとすぐに全体が熱くなり、茶室のような不思議な感覚を覚えた。もし、ここから出た先に冷たい湖などあったら最高だろう!と、そう思わせてくれるようなサウナ体験だった。
黄色くてかわいい有名なサウナカー、『サウナストーブ』は、東日本大震災や熊本震災の際に、有志の力で被災地に牽引されていき、そこでサウナ支援を提供したという。日常が戻ってこない中、サウナで一時やすらげたことは、被災者の大きな力になったに違いない。現在は、気仙沼の旅館でサウナとして稼働している。一度入ってみたいものだ。
◆◆◆
「ふうーっ……気持ちいい……!」
「まさか前線で熱い風呂に入れるなんて!」
「しかもこのサウナってのは最高だなぁ、疲れがぶっとぶぜ」
ユージーンが設置した簡易浴場とサウナカーは、兵士たちに大好評だった。水は近くの川から組み上げ、蓄熱クリスタルで沸かしたものだ。サウナのほうは、『みなの湯』にあったナストーンの鱗を半分持ち出してサウナカーに乗せている。ラクリの作った遠赤外線ストーブは、重すぎて車で牽引することができなかったのだ。
「あの『英雄』がまた戦場に戻ってきてくれるなんて、戦意が高まるな!」
「俺は騎士団を追放された身だ。このサウナが攻撃されでもしない限りは、剣を持つこともできん」
「それでもいいわ!私、あなたに憧れて騎士の道に進んだんだもの!見ていてもらえるだけでやる気がでてくるわ!」
サウナと風呂に加えて、『英雄』がやってきたことも兵士たちを鼓舞していた。ユージーンからすれば、ここまで影響があるのは計算外だったが、今でも慕ってくれる人が多いのは少し嬉しかった。
「はーい、あと10分で男女入れ替えですからね!」
「は、入る前に水分をとってください」
押しかけている兵士たちをさばいているのは、ユージーンが声をかけた協力者で、劇作家のアミサと錬金術師のメッツだ。
サウナカーで戦場に乗り付けるというユージーンの案を、兵士への支援事業と関連付けるのを思いついたのはアミサで、彼女がセレーネにとりなしてくれただけでなく、戦地に同行までしてくれた。メッツは、自動車の燃料を作るために声をかけ、その際機械に興味を持ったので、あとでラクリを紹介するという条件でここについてきてくれている。
「……どうしたんですか、ユージーンさん。あっちが気になりますか?」
平野の反対側を眺めていたユージーンにアミサが声をかけた。
「ああ……ハラウラたちは、うまくやっているだろうか……」
――
平野を挟んだ向こうにある魔族側の陣では、ハラウラ・ラクリ・ホロンの3人が同じように魔族の兵士たちに風呂とサウナを提供している。もちろん、極限られた人間しかそれを知らない。
魔族側でも、浴場は大人気だった。
「毛皮のある種族は、先にシャワーをあびてから入って!」
「ばか、サウナに入りすぎだよ……ほら、氷をあてて」
入浴希望者の誘導や対応をしているのは、ハラウラとラクリ。ホロンは他の力仕事を引き受け、黙々と作業していた。
そんな中、ハラウラに声をかける者がいた。
「あれっ!?ハラウラじゃーんっ♪なんでこんなとこにいんの?」
「……うわ」
ハラウラはげんなりした顔をして、自分に声をかけてきた長身のウ族を見上げる。
「元気そーじゃん♪うりうり♪」
「や、やめてよ……」
ハラウラをかかえあげ、彼女の頭をなでまわすウ族。肌の色に髪の色、そして体格にそぐわないほど豊満な胸はハラウラに自分と同じ血が流れていることを思い出させる。
「ええっと、誰……?」
横で見ていたラクリが聞くと、ハラウラのかわりに長身のウ族が笑いながら答える。
「ああ、邪魔して悪かったね。あたしはウ族の拳闘士、ウラ・メレ・ララハだ。マ族の招集でここに来てたんだが……まさか、妹に会えるとは思ってなかったよ」
「姉さん、はなしてよ……仕事中なんだ」
ハラウラの姉・ララハは、サウ山脈にあるウ族の集落に住んでいる。腕利きの拳闘士である彼女は、こうしたマ族による狩りが行われると率先して山を降りてきて拳を振るうのだ。
「悪い悪い。まあ、お前が里を追放される前より楽しそうでよかったよ。あの人間といっしょにいるのが良いのかな?」
「もう……相変わらずだね、姉さんも」
ハラウラは照れくさそうに耳を伏せた。その反応が以前と変わらないので、ララハは懐かしそうに笑った。
「にしても、ウ族のサウナがここまで流行るとはなあ。この前も、里にマ族の男がサウナを見に来たぜ」
「……マ族が?」
ウ族の里は峻厳なサウ山脈の奥地にあり、たどり着くことは容易ではない。いくらサウナが流行しているとはいえ、わざわざマ族が訪れる理由はないはずだ。
「ああ。長老サマに、サウナの歴史とか、起源とか聞いててな」
「……それで……長老サマはなんて?」
「えーっと、なあ……なんつってたっけな」
ララハは長い耳をひくつかせながら、思い出すのに苦労しているようだった。
「もともとは何かの儀式だって話してたなあ。ほら、水は思念やら感情やらを溜め込むだろ?それで、何かに水をかけてどうにかするのが起源だったとか……」
「……姉さん、もう少し魔術を勉強したほうがいいよ……」
確かに、水は他の物質よりも思念や感情、そして俗に魔力と呼ばれる魔術的な力を溜め込みやすい。教会の洗礼や水垢離を含め、水が様々な儀式に多様されるのはそのためである。また、サウナはウ族にとって神聖な場所、修行の場所ともされているので、筋の通る話である、とハラウラは思った。だが、それをわざわざマ族が調査していたというのが気にかかる。
その時、遠くから、ドゴオン、と何かが爆発したような音がした。同時に地響きがそこにいた全員を襲い、空気も震えた。魔族たちは慌てふためき、『魔王』の側近たちが急いで現状の確認に走り出す。
「なあ、ハラウラ!サウナも避難させたほうがいいか!?」
「……!!」
ラクリとホロンが声を張り上げるが、ハラウラは動かない。ララハも同様だ。
「姉さん、これ……」
「ああ、こいつはヤバいな。まだまだ遠くだが、はっきりわかる。これが……」
マ族の側近が、物見櫓の上から叫んだ。
「『魔王』様!!ゆ……『勇者』が、『勇者』が来ます!!うそだろ、ありえねえッ!まさか、山脈を……ブチ抜く気かッ?!」
魔族を滅ぼす銀色の彗星。『勇者』が、急激に接近していた。
異世界で追放されても、サウナさえあれば幸せです ーできれば水風呂と外気浴スペースもつけてくださいー
『勇者と魔王と英雄とサウナ 前編』 終
参考文献:野外入浴セット2型(wikipedia)(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E5%A4%96%E5%85%A5%E6%B5%B4%E3%82%BB%E3%83%83%E3%83%882%E5%9E%8B)
第八話
――声が聞こえる。
遠くから、近くから、あらゆる方向から、私を求める声が聞こえる。人間の、助けを求める声が。
私を求める声に従って、槍を携え、大地を駆ける。それは、私がこうなる前から……『勇者』と呼ばれ始めた頃から、変わらないことだった。しかし、今は違う。私に宿った何者かが、この世界のあらゆる場所から、人々の声を聞くことを可能にした。あらゆる場所に駆けつけられる速さと、あらゆる敵を打ち砕く強さを私に与えた。代わりに、人間らしさの大部分を奪っていったが、それでも私はよかった。
あの時――ユージーンと私が、とある遺跡を冒険して、巨大な魔族に殺されかけた時。私が、そのように願ったからだ。
「魔族を倒し、人を守る力を」
あの時は確かに必死で、どんな代償を払うのであれ、自分とユージーンが生きて帰れるのであればよいと思っていた。今となっては少しぼったくられたとは思うが、選択自体に後悔はしていない。そう、頭の片隅に残った私の領域で考える。
【救援要請補足。救援要請補足。急行せよ、疾駆せよ。己が役目を遂行せよ。汝は『勇者』なり。魔のことごとくを滅ぼすものなり。助けを求める声のある限り、汝に休息はないものと知れ】
遠くに、大きな戦いの気配と、人間たちの声。フィン王国の方角だ。気づかないうちに、随分遠くまで来てしまったから――最短距離で、駆け抜けるしかない。そうして、森を切り開き、山を打ち抜き、向かっていった先で……その魔族は、私の前に立ちはだかった。たった一人で。あの男の、ユージーンの気配を纏って。
――
『勇者』の前に、ハラウラは立ちはだかった。高速で接近する彼女の足を、氷の魔術で地面に縫い付け、その動きを一瞬止めたのだ。
「……悪いけど。この先は行かせられない」
ハラウラは、『勇者』を見据えながら言った。『勇者』は足元の氷を得物の槍で砕くと、ぞっとするような視線でハラウラを睨んだ。体全体から、銀色のオーラを立ち上らせている。高密度の魔力が溢れ、実体化しているのだ。
「【魔族。滅ぼすべし……】」
ハラウラには魔術師としての戦闘の経験も多い。だからこそ、目の前のモノの戦闘能力の高さがわかる。明らかに、人間の枠を超えていた。山を貫き、国の領土を一瞬で駆け抜けてきたことが、ただ単純にその異常な体力故だと、ハラウラにはわかっていた。
(だとしても)
氷の巨大な壁を作り出しながら、ハラウラは睨みつける『勇者』を見据えた。そしてその時、彼女の雰囲気が少しだけ変わった。
「……お前、ユージーンの……」
人間の声だった。さきほどの冷たい声とは違う、対話が可能な人間の声だった。このまま戦闘になるかと身構えていたハラウラは拍子抜けだった。溢れ出ていた銀色の魔力は、彼女の中に押さえ込まれているようだ。
「ボクは、ウ族の魔術師・ハラウラ。ユージーンと仕事しているが……なぜわかった?」
「アタシがアタシでいられる時間は少ない。質問させてくれ」
ハラウラの質問には答えず、『勇者』は――モーガンは続けた。
「どうしてアタシの前に立つ?死ぬぞ」
「言ったろう……キミを戦場にいかせるわけにはいかない」
「何故だ?」
簡潔に問いかけるモーガン。圧倒的な力は抑え込んでいるものの、その目にこもった殺意に変化はない。ハラウラは、後退りしそうになる足をこらえて、答える。
「ユージーンのためだ。ユージーンは、きみのために風呂をつくって待っているんだよ。風呂が好きだったきみのために……戦場にきみがたどり着けば、きっと彼と戦うことになる、そんなの……」
「違う」
モーガンの発する言葉には、得体のしれない圧力があった。すでに、少しずつ銀色の魔力が漏れ出している。
「魔族のお前が、人間のために命を張る理由を聞いている。アタシの前に立ちはだかった勇気に免じて……殺す前に聞いておいてやる」
ハラウラには、圧倒的な実力差がわかる。生存本能が、逃げ出したいと足を震わせる。それでも、ハラウラは、耳を伏せ、歯を食いしばり、声を振り絞って答えた。
「……好きな人に、不幸になってほしくないんだよッ!それ以外に何が要るんだッ!!」
氷の壁がハラウラの後ろに形成されていく。バキバキと音をたてて、空気が凍てついていく。ナストーン討伐でも見せたことのない、ハラウラの全力だった。ウ族の里から追放される原因になるほどの、逸脱した氷の魔術。『勇者』の道を阻むように、それが展開していた。
「行かせるものか、『勇者』ッ!」
「そうか……ならば、轢き潰すのでなく、此の場で叩き潰してくれる。せいぜい足止めしてみせろ……魔族ッ!」
氷の礫が地面に突き刺さり、氷河のような壁は無残に削りきられ、何本もの氷の剣が折れ転がる。
「【魔族、滅ぼすべし……】」
片膝をついたハラウラの前には、無傷の『勇者』が立ちはだかる。銀色の魔力が溢れ出し、その瞳を白く輝かせる。槍の矛先は、まっすぐにハラウラの心臓に向いていた。
「くそお……」
ハラウラはぼろぼろの体に最後の力を振り絞り、氷の魔術を行使する。
(たしかに、ボクはこれを止めることに命を賭けるつもりだった。でも……それは完全に間違いだった。傲りだった!ボクの命程度、なんの足止めにもならない……こんな生き物がいていいのか?!)
氷の魔術は、召喚する氷の大質量による攻撃・防御が特徴とされるが、ハラウラのように並外れた魔力を持つ魔術師のみが成し得る奥義が、極低温の空間そのものの召喚だ。あらゆる生物の熱を奪い、動きを封じる極低温……そのとっておきも、『勇者』は一切意に介することなくハラウラに突進し、脇腹を大きくえぐり取った。
(逃げなくては……ユージーンにこのことを、伝えなくては。ユージーンがどれだけ強くても、コイツと敵対すべきではない!無事ではすまない!)
逃げ出すための最後の隙を作り出すべく、鋼をも防ぐ氷の多重防壁を展開する。それが槍を防いだ一瞬で、なんとか逃げ出して……できなければ、文字通り無駄死にだ。
「【終わりだ】」
ハラウラが『勇者』を見据え、槍をふりかぶるのにあわせて全ての魔力をあつめた、その時。
ぞわ、と全身の毛が逆立った。空気が一瞬で変わった。
「【脅威判定更新】」
『勇者』は一言そう言うと、ハラウラなど最初からいなかったかのように、平野へと一直線に突進していった。銀色の魔力の軌跡を残して。
命の危機から脱出することになぜか成功したハラウラは、深い息をもらしながら地面に尻もちをついた。しかし、安堵している暇はない。戦場を覆い尽くし、離れた場所まで届くほどの禍々しい気配。
「……そうか、そういうことか。なんてことだ……」
ハラウラは、散らばった荷物をいそいでかき集め、伝声クリスタルを探す。あちこち血がでている体をひきずって。傷口を塞いでいた氷も、魔力切れで少しずつ溶け出していた。
(儀式、水、魔力、マ族の調査、ロウリュ、そしてサウナ……全てが、こんな形でつながるなんて)
血に濡れた手で、茂みに落ちた伝声クリスタルを手に取り、その先でユージーンが聞いていることを信じて、ハラウラは声をあげた。
「ユージーン!『魔王』は、邪竜を作り出そうとしている!おそらく、『勇者』を倒す、そのためだけに!!」
――
少し前、『勇者』が突撃してくる報を受けた魔族の陣。『魔王』は、到着の予想時刻を聞きながら、楽しげに唇をゆがめた。
「誘導と隔離には失敗、か……仕方ない、次の策を使うとするか」
「えー、もういいじゃろ。あんな物騒なモノ、放置して帰りたいのじゃ」
膨大な魔力の接近に、露骨に嫌そうな顔をするショチト。
「よく考えろショチトよ。どうせあの『勇者』は、無限に近い魔力で永遠に魔族を狩り続ける。ここで処理しておかないと、後々苦労するのはお前だぞ?」
「うーん、それはそうなのじゃが……」
『魔王』が側近に合図をすると、側近たちは重厚な箱に入った何かを彼女の前に引き出した。乾ききった肉のようにも見えるが、未だにそれは不気味に脈動している。まるでまだ生きているかのように。
「母上、そいつは?」
「邪竜の心臓」
「ゲェーッ!キモっ!」
「そう言うなショチトよ。これがあのにっくき『勇者』を倒す秘策なのだからな」
邪竜。不定期に発生し、厄災をもたらすもの。名前に反して、生態は一般的な竜とは程遠く、一種の魔術的な災害とされている。そして、その体の一部は、討伐されたあとも性質を保ち続ける。
「100年前、眠りにつく前に私は部下に2つの指示を出した。ひとつは、邪竜の死体の一部を確保すること。もう一つは、その発生時期と地点を記録しておくこと……どちらもうまくいき、私の仮説は立証された…………」
「な、なんじゃその仮説というのは」
「よくぞ聞いてくれたな!邪竜の発生は、邪竜の死体の一部に、人間や魔族の感情が――一般的には負の感情が蓄積して起こるのだ。発散された感情が魔力となって、水の循環に乗って雨や地下水に混ざり……そしてどこぞに飛散した死体に、長年かけて蓄積した結果、邪竜が現れるのだ」
ショチトは『魔王』の説を聞きながら、ものすごく嫌な予感にかられた。
「基本的に負の感情は多種多様で、総合するとあらゆることへの不平不満となるから、邪竜はあらゆる方面に厄災を撒き散らす……もうわかるだろう、聡明な我が子よ」
「……最悪じゃな……。それ、ワシの前でやらんでくれ。外に出てくる。ハラウラがサウナやってるっちゅうからのう」
「好きにするがいい」
外に飛び立っていく娘を見送りながら、『魔王』はどす黒い液体の入ったビンをかかげる。
「『勇者』に殺された同胞たちの最後の血だ。これで邪竜を生み出し……『勇者』を始末する!」
ねっとりとした液体が、心臓に向かってどぼどぼと浴びせられる。干からびていた肉片が徐々に動きを増し、禍々しい魔力が膨れ上がる。どろどろとした何かがあふれだし、巨大な竜の形をつくりあげていく。虚無から発せられる地響きのような唸り声に、『魔王』の高笑いが重なる。
邪竜が、戦場にあらわれた。
戦場に邪竜があらわれる少し前。ユージーンは、ひと仕事終えてサウナに入っているところだった。
(やはり良い……狭い空間ならではの、蒸気の速やかな広がり……持ち主だからといって、わずかな時間独占させてもらったのは、少し申し訳なかったな)
息を深く吐きながら、対応で疲れた体を癒やしていると、突然、異様で巨大な気配を感じた。咄嗟にタオルをつかんでサウナカーを飛び出し、気配の方向を見て、ユージーンは我が目を疑った。
「なんだ、あれは……」
戦場の反対側、魔族の陣地のほうに、巨大な物体が見える。どろどろとしたタールのような塊が吹き上がり、平野を埋め尽くしていく。天高く伸び上がった醜悪な汚濁は、ともすれば竜のような形にも見えた。そして、その撒き散らす重苦しい魔力に、ユージーンは覚えがあった。
「まさか、邪竜……?!あんな醜いモノが?!ナストーン討伐から1年も経ってないんだぞ?!」
通常の周期を無視した出現、そしてこれまで見てきたどの邪竜とも似つかない、生物とすら言えないような外見。尋常ならざることが起こっているとユージーンが判断するのに、時間はかからなかった。
魔族の陣地は汚濁の波に押し流されつつある。ユージーンは脱いでいた服の中から伝声クリスタルを取り出し、ハラウラに連絡をとろうとした。
「ユージーン!『魔王』は、邪竜を作り出そうとしている!おそらく、『勇者』を倒す、そのためだけに!!」
手に取ると同時に、クリスタルの向こうからハラウラの声が聞こえた。
「ハラウラ、無事なのか?!ラクリとホロンは、サウナは?!」
「他の様子は……わからない。ごめん、持ち場を離れて……」
「今は、お前が無事でよかった。二人はあとで連絡する。それで、その……」
「詳細は省くけど、おそらくウ族のサウナは邪竜に関する儀式が変化したものだったんだ……それを悪用して、思い通りに動く邪竜を作ったんだと思う。それで『勇者』を倒そうとしている!」
ユージーンの視界に、邪竜に突撃していく銀色の光が入った。『勇者』だ。しかし、ドロドロの塊はまばゆい光を飲み込み、押しつぶし、見えなくする。そして、際限なく地面に広がっていく。ユージーンは思わず駆け出そうとする。
「……いくらナストーンを倒したユージーンでも、一人じゃ邪竜は倒せない……はやく、逃げて……!」
息も絶え絶えなハラウラのメッセージに、ユージーンは駆け出そうとする体を止めた。無謀に突っ込んでも、犬死するだけだ。
ならば、どうすれば?考えをめぐらせるユージーンは、彼女の言葉に何かひっかかるものがあった。
「教えてくれ、ハラウラ。その儀式ってのは、お前の氷みたいに何もないところから、邪竜を出現させるのか?」
「な、なに言ってるんだよユージーン。そんなことより、早く……」
「いいから」
「……核がいる。ボクの氷の魔術だって、空気中の水分を核にして、そこに魔力を……あっ」
通常の魔術の延長線であれば、いくら大量の魔力があっても、無から有を生み出すことはできない。氷を作るには水が必要だし、邪竜を作るには邪竜の元になる何かが必要なはずだ。
「ユージーン!ボクたちのサウナなら!」
ハラウラの言葉を最後まで聞く前に、ユージーンはサウナの中に駆け戻っていた。
(以前、ハラウラが言っていた。水には、感情や魔力が溶けこむ、と)
なみなみと水の入った桶をつかむ。
(ならば、俺たちのサウナストーブには……)
そしてそれを、思い切りストーブの根本めがけて、ありったけの思いを込めて、ぶちまける!
(みんなの、思いが……願いが、祈りが、刻まれているはずだ!)
大量の蒸気が発生する。その中心に、白く光るものがある。
(応えてくれ、ナストーン!)
ストーブの熱源として、今までサウナを温めていたもの。
邪竜ナストーンの、鱗だ。
◆◆◆
サウナは、祈りだ。
サウナは、傷を癒やさない。腹を満たすわけでも、体を強くするわけでもない。
ただ、温かい蒸気と熱で包み込み、冷たい水風呂で頭を冷やす。
自分と向き合う時間を作り、日常のしがらみから体と心を解き放ち、ほんの少し前向きに、心をととのえてくれる。
だから人は、例えそれが大した意味をもたなくとも、なんの利益にならなくとも、サウナに入る。
今日までの疲れやモヤモヤ、ストレスをリセットして、明日が少しいい日になるように。明日を少し楽しめるように。
だからサウナは、いつだって前向きな、明日への祈りなのだ。
◆◆◆
ナストーンの鱗から、立ち上った魔力が蒸気をのみこんで、開け放たれたサウナカーから空へと伸び上がっていく。邪竜の汚濁に飲み込まれかけた、もうひとつのストーブからも、共鳴するように白い光の渦が巻き起こる。
2つの光は戦場の空に舞い上がり、絡み合って……白い影を作り出した。
それは、吹き上がる汚濁の邪竜に比べて、か細く薄く、弱々しいものだったが。光り輝く、竜の姿をとっていた。
――
そこから先は、公式の記録には詳しく残っていない。
突然魔族側の陣地にあらわれた邪竜、通称〈汚濁の邪竜〉は迎え撃った『勇者』を圧倒的な質量で押しつぶすも、その後こちらも突然あらわれた白い竜――汚濁を洗い流す瀧の竜、通称〈瀧竜(ロウリュウ)〉がぶつかったことで勢いをそがれたという。そこに『勇者』の最後のひと押しが加わったことで、〈汚濁の邪竜〉は討伐されたという。
『魔王』は〈汚濁の邪竜〉に呑まれて行方不明となり、結果的には人間側の勝利となった。しかし、ゴヌール平野一帯には討伐された邪竜の呪い――魔術的な影響が残り続け、当分人間が立ち入ることはできなくなり、この勝利によって人間側が得たものはそれほど多くなかった。
2体の邪竜がなぜ現れたかについては、公にされることはなかった。『魔王』が解明し、ハラウラとユージーンが推測して実証した邪竜召喚の仕組みは悪用を恐れて秘匿され、王国の統制が及ぶ範囲で箝口令がしかれた。そして、魔族側でそれを知る唯一の生き残り……魔王の娘ショチトも、それを広める気はないようだった。
だが、人の口に戸は立てられない。兵士たちの中で、ユージーンの入ったサウナ室から立ち上った煙が〈瀧竜〉となった瞬間を見ていた者は多かった。『みなの湯』は魔族ともつながりがあったので、王国や教会は表立ってその功績を認めようとはしなかったが、元『英雄』を慕う民衆の後押しもあり、最終的には『英雄』と『勇者』が〈瀧竜〉を呼び寄せ、〈汚濁の邪竜〉を退治したということになった。
なお、『勇者』の行方は、銀の光が遠くに飛び去っていったのを最後に、不明である。
――同行した劇作家の手記より
――
ゴヌール平野の戦いが終結した数週間後。『みなの湯』は、ある特別な行事のために貸し切りとなっていた。
店の前に大きな馬車が乗り付けてくる。一般的な乗合馬車に偽装しているものの、堅牢な材質や質のいい馬などが見て取れ、事情に詳しいものであれば、王族か貴族のお忍び用であることがわかるだろう。そこから、長身痩躯の神経質そうな男と、やけに露出度の高い服を着た女性が降りてきた。
「さあお父様、ここが『みなの湯』さまですわよ♪」
「……ふん」
今日の客は、3人。そのうち二人は、フィン王国の国王と、その末娘セレーネ。そしてもう一人は。
「おおセレーネ。元気にしとったか」
「ショチトさん!そちらこそ、無事で何よりです。あの時、戦場にいらして、その、お母様が……」
「あー、辛気臭い顔をするでない。あれは当然の報いじゃ、本人もきっと納得ずくじゃろう」
フィン王国周辺一帯を縄張りとするマ族のリーダーとなった、ショチトだった。母である『魔王』が〈汚濁の邪竜〉に呑まれた時、サウナカーの中にいたショチトは偶然、命が助かったのだ。
結果的にユージーンは、国を魔族から守ると同時に、魔族の長の命を救ったことになる。ユージーンは、双方への功績や、邪竜召喚術の秘匿を交換条件に、人間と魔族、双方の首長による会談を実現したのだった。
「役者はそろったみたいだね……主人」
「水風呂の冷却装置も、遠赤外線ストーブもバッチリだ!」
「……!!」
従業員の魔族たち……ハラウラ、ラクリ、ホロンが、物陰からこっそり様子をうかがう。今回の会談のあいだ、魔族の従業員たちは行動をともにしない。ユージーンの要求を通すために、様々な政治的な折衝が行われ、このような形に落ち着いたのだ。
「まったく、なぜ私が魔族のガキと風呂など入らねばならない」
国王は、あからさまにショチトに聞こえるようにそう言った。
「これから会談する相手に、さんざん言い寄るのお。人間の長は……礼儀がなっとらんのじゃないか?」
ショチトは長身痩躯の国王を見上げ、挑発してみせる。一触即発の雰囲気があったが、ユージーンが割って入る前に、セレーネがぷりぷりと怒ってみせた。
「もう!お父様、お風呂もありますけど、メインはサウナですわよ、サウナ!それに、私の友人にそのような呼び方、おやめくださいませ!」
「ふん……セレーネ、私はお前に魔族の友人など許した覚えもないのだぞ。お前と元『英雄』の頼みというから足を運んでやったが、やはり話すべきことなど何もなさそうだな……」
「ワシだって、お前と話すことなど何もないのじゃ!命の恩人である店主の前でなければ、お前など……」
「いいから!ほら!ショチトさん、着替えていきますわよ、ほら!!ではお父様、のちほどサウナで……」
まだ悪態をつき足りなさそうなショチトを、セレーネがひっぱって女性更衣室へと連れて行った。
「……さっさとすませるぞ。案内しろ」
「おおせのままに」
ユージーンは、鼻息の荒い国王を、なんとか更衣室につれていく。
この世界ではじめての、『サウナ外交』が始まろうとしていた。
異世界で追放されても、サウナさえあれば幸せです ーできれば水風呂と外気浴スペースもつけてくださいー
『勇者と魔王と英雄とサウナ 後編』 終
第九話
◆◆◆
前回、いい感じのモノローグを解説パートで入れたので、それをラストにできればよかったのだが、ここでもうちょっとだけ口を挟ませてほしい!
『サウナ外交』というのは、実際に行われていることなのだ!
サウナの起源でもあるフィンランドでは、あらゆる施設にサウナがある。それは各国のフィンランド大使館も同じで、もちろん日本のフィンランド大使館にもサウナがあり、多くの関係者が招待されているのだ。ここに、サウナ外交の片鱗をみることができるだろう。
また歴史的にも、冷戦時代にソ連の閣僚をサウナに連れ込み続けて交渉を行い、フィンランドの軍事的な中立を維持しつづけた大統領がいたという話もある。それぐらい、サウナと外交・交渉は、フィンランドでは一般的に結びついているものなのだ!
『サウナに入ると友好の気持ちが生まれ、心のよろいが溶けるのでしょう。サウナの中では超大国も小国も上司も使用人もなく、人はすべて同等なので、問題が解決しやすいのです。そして裸でいるときに何かに同意したなら、人はその後もその約束を守り続けます。 契約や調印よりも裸のつながりほど強いものはありません』(フィンランド式 サウナ外交(2010年5月国際サウナ会議にて)より)とは、ときのフィンランド外務省事務次官の言葉だ。読者の中に交渉ごとの多いビジネスマンがいたら、取引先との交渉をサウナの中で行ってみるのも、有効な手段と言えるだろう!最近では、『スカイスパ横浜』や『かるまる』などコワーキングスペースを兼ね備えたサウナもあるので、ぜひやってみてほしいところだ。
ちなみに僕(作者)は下北沢で行われていた野外サウナのイベントで、偶然出くわしたフィンランド大使館の職員に、ウィスキング(ヴィヒタで思い切りベシベシすること)をしてもらったことがあるが、かなり容赦のない叩きつけっぷりだった。いつかサウナーとして有名になったりなんだりして、フィンランド大使館のサウナ室に招待してもらいたいものだ。
長くなってしまったが、本作の解説パートもこれが最後になる。ここまでつきあってくれた読者諸君に大きな感謝を送るとともに、君たちに良いサウナ体験があらんことを、心の底から願っている!
それでは、『異世界サウナ』の物語のひとまずの顛末を、ぜひ最後まで見守ってほしい!
◆◆◆
「お父様、体は洗いまして?では、あちらのサウナ小屋に参りましょう!世にも珍しい、『遠赤外線ストーブ』なる機械で温まれるそうですよ!」
セレーネは、国王である父と久々に出かけることができて、うきうきしていた。しかも、自分の好きなサウナに招待することができるというのだから、これが嬉しくないわけがない。
「ああ……まあ、手早く済ませよう。王城にだって、最高級の風呂があるのだからな。わざわざ、汚らわ……魔族といっしょに入ることもあるまい」
国王は、熱心な教会の信者であり、王族こそ国民の模範であるべきだと日々子供たちに説いていた。だからセレーネが、禁欲の教義に反するような露出度の高い服を着るようになった時も、あまりいい顔はしなかった。今も、肌を晒すことのないように、館内着を水着代わりにしている。(セレーネの生み出した流行は国内外の芸術家から高く評価されたので、苦言を公にすることはなかったが)
加えて、教会の教義でもあり、自身の信念でもある『反魔族』については常に主張しており、それを理由に『英雄』と慕われたユージーンを騎士団から追放してしまうのだから、筋金入りと言えた。そんな国王に、魔族との対談の場を設けさせたのだから、ユージーンはなかなかの傑物である、とセレーネは内心感心していたのだった。
二人がサウナ小屋に入ると、すでに中にはショチトがいたので、国王は露骨に嫌そうな顔をした。
「なんじゃ、遅かったのう。老人は体を洗うのに時間がかかるのか?」
「ふん、貴様こそ魔族の匂いがとれていないぞ。もう一度洗ってきたらどうだ」
対面してそうそう言い合いを始める二人の言葉を、ドジュウ、と蒸気の音が遮った。水をかけたのは、同じく先にサウナ室で準備をしていたユージーンだ。
「マ族の首長ショチト、フィン国王陛下……お二方とも地位のある方だが、今はここのルールに従ってほしい」
ユージーンは逞しい上半身をあらわに、サウナ室の壁に掲げられたルールを指差す。
ルール0:サウナの中では種族・性別・身分を問わず、みな平等である。
水着を着て、男女いっしょに入ることができる風呂ができたりと、改装などを経てルールも多少変わってきたが、このルールだけは全く変わらずにいた。
「そうですわよ、お父様。お父様が魔族をお嫌いなのは承知していますが……何も、ここで喧嘩をする必要もありませんでしょう?」
「け、喧嘩……まあ、うむ……」
国王はセレーネの言葉に、毒気を抜かれたようにうなずき、従った。それを、ショチトもからかったりはしなかった。
「それでは、サウナの入り方を説明させていただきます」
ユージーンがひととおりサウナの入り方……サウナ→水風呂→外気浴のサイクルを説明した。
「体を温めるのは、まあわかる。だが、水風呂というのは、一体どういう了見なのだ。魔族の文化は理解できぬな」
国王は至極もっともな疑問を呈し、それにはセレーネが応えた。
「お父様、水風呂はすごく良いのですわよ!全身がぎゅーっと引き締まって、頭の中まですっきりするし……そのあとの外気浴がとても心地よいのですわ!」
娘がうれしそうに説明するので、国王はいささか信じられないという表情をしたが、それ以上言うことはなかった。
「国王陛下。このサウナにあるのは、何も魔族の文化だけではありません」
ユージーンがストーブに水をかけつつ、窓の外を示した。
「もちろん、サウナ小屋は魔族……ウ族古来のものを再現しています。しかし、外の大水風呂『プール』は、人間の王族や貴族が行っている夏の行楽を作ったものですし、あそこのシャワーは近年わが国でも量産がはじまった簡易な機械を採用しています。そしてもちろん、このように大量の水がいつでも使えるのは、近くの川から引いているからだけでなく、水道の設備があってこそです」
「うむ、そうだろう。まずもって、入浴という行為そのものが、人間の生み出した文化の極みだからな」
国王は、教会とともにフィン王国の公衆衛生政策を推し進めた当事者でもある。
「まあ、そうじゃのう。蛇口をひねれば水が出るというのは、ワシも初めてみたときは衝撃的じゃった」
ショチトが身をそらし、全身に蒸気を浴びながらつぶやいた。
「『みなの湯』ができてから、魔族の中でも風呂やサウナに入りたがるやつが多くなってきたと聞いておる。まあ、我が同胞には依然理解されないが……」
「同時に、人間の側にもサウナが広まっていますわよ。街にも数件、新しい施設ができましたの」
そんな話をしていると、蒸気とともに爽やかな香りが降り注いだ。先程かけた水に、香油がまぜられていたのだ。
「良い香りでしょう?私が、皆さんに香油を風呂にたらすのを紹介しましたの。そうしたら、人間の錬金術師さんと、魔族の薬師さんが、サウナ用の香油をつくってくれましたのよ」
「ほう。人間と、魔族が……」
国王は、目を閉じて香りを楽しんでいるようだった。この香りには、心を穏やかにしてリラックスさせる効果がある、と以前キ族の薬師……ササヤが言っていたので、セレーネの希望で選んだものだった。
静かなサウナ室に、ときおり蒸気の音が響く。全員の体に玉のような水滴が浮かんだころ、ユージーンは国王たちを水風呂へと案内した。
「体の汗を流していただいたら、水風呂にお入りください。一番上がもっとも冷たく、下にいくにつれてぬるいものになりますが……」
「うひょーっ!やっぱこれじゃのう!」
尻込みしている国王の前をショチトが通り過ぎ、躊躇なく一番上の冷たい水風呂に入った。熱気のこもった息をはきながらも、挑発的な目で国王を見ている。
「……なんだ貴様、その目は」
「いやー?別に?老人の心臓にはこの水風呂はキツいじゃろうなあ、と心配しておっただけじゃが?」
「このっ、魔族ふぜいが……」
「おやめください国王陛下。ご自身の体調にあわせたものが一番です」
「そうですわお父様、こっちの水風呂も気持ちいいですわよ!」
意地を張る国王をなんとか2段めの水風呂に入れ、ユージーンたちも体にこもった熱を解放した。
「む……ふう。冷たい、が……」
「少し待っていれば、体のまわりに『羽衣』ができて、いい温度になりますわよ」
初めてセレーネが水風呂に入った時のように、そう教えながら、4人は水風呂の冷たい感触を楽しんだ。
「この、浴槽の段差……腰掛けやすいな。城の風呂でもこんなものは、みたことがないが」
「これは、男女や種族を問わずに使えるように、特注で作らせたものです。結果的に、どんな身長や体格の人でも、気持ちよく使えるようになりました」
「なるほど……これもまた、人間と魔族がともに過ごす場所ならでは、ということか……」
しばらく水風呂を楽しみ、吐く息が冷えるほどしっかり体を冷却したあと、全員で外気浴スペースに向かう。
体を拭いて、国王は簡易的なマットレスのついたデイベッドに寝転がった。他の3人も、思い思いに体を横たえ、あるいは椅子にすわって、ゆるやかに動く外の空気に身を任せる。
「ふむ…………」
国王はゆっくりと目を閉じ、外気浴を味わっているようだった。静かな空間に、風に木の葉が揺れる音と、水の流れの音だけが聞こえる。
「…………悪くない」
「ええ、そうですわ……お父様、いつもお疲れですもの。たまには、こういう日があってもいいわ……」
「まあ、そうだな……」
ゆったりとそんな会話を楽しむ親子を見ながら、ショチトは小さく、
「いいのう」
とつぶやいた。
「やっぱり、『みなの湯』のサウナは素晴らしいですわね……」
2度めの外気浴を堪能しながら、セレーネが気持ちよさそうに言った。
「人間と魔族の文化の融合……どうして、今まで誰も行おうと思わなかったのかしら」
国王は娘の言葉に、ちらと彼女のほうを見てから、ため息をつきつつ答える。
「……魔族に文化があるなど、我々は考えてこなかった。いや、考えないようにしてきた」
その声には最初に出会ったときと違い、馬鹿にするような調子はなかった。ショチトは、黙って聞いている。
「でも、種族が違っても、言葉が通じるではありませんか。話をすれば、きっと」
「人間国家が同盟を結び、対魔族以外の戦争がここまで少なくなるのに、気の遠くなるような年月がかかったのだ。種族すら違う者たち、それも人間の天敵と、どうして穏やかに話ができようか」
「そんな……」
セレーネも、今日に至るまでの歴史については勉強していたが、それでも当事者である国王の台詞には、重みがあった。
「それには、同意見じゃな」
ショチトが閉じていた口を開いた。
「……貴様らのいう魔族全体には、人間を襲い、食らう本能がある。今でこそ、これまでの長い戦いの中で、比較的本能の弱い個体が生き残って、人間と穏やかに話せる者も増えたが……それでも、ワシらマ族が定期的に『人間狩り』を主催して発散してやらんと、無秩序に人間を襲いかねん。セレーネ、貴様がここで見ている魔族だけが、全てではないのじゃ」
普段の考えなしな様子とは違う、魔族の首長としてのショチトの様子に、セレーネは自分の考えの甘さを認識した。そして、おずおずと彼女に聞いた。
「ショチトさんも、私を、その、食べたい、と……?」
「バカいうんじゃないわい。ワシはそのへんのやつらとは違うのじゃ。……違うからこそ、こうして一人、おめおめと生き残っておる」
外気浴スペースに沈黙が流れた。
「……皆様、よろしいでしょうか」
そこに、ユージーンの低い声が響く。
「サウナ小屋にて、アウフグースの用意ができました。ぜひ、ご参加ください」
サウナ小屋の中に一行が戻り、席に腰掛けると、ユージーンが前に進み出て、タオルを手に頭を下げた。
「アウフグースとは、ストーブに水をかけ発生した蒸気を、熱風で皆様に送る、『みなの湯』が元祖となるサウナの楽しみ方です。まずは蒸気――ロウリュの音と、香りをお楽しみください」
ユージーンが桶から香りのついた水を柄杓ですくいとり、ストーブの石にかけると、やわらかくも激しい蒸発音とともに、熱い水蒸気が立ち上る。
ドジュウウウウッ……。
「ああ、最高じゃのお……」
「ああ、気持ちいいですわね……」
「うむ……」
蒸気が小屋の中に充満し、天井のほうから熱気が降りてくる。3人は肌で熱気を感じながら、香りと音を堪能する。
十分に全体があたたまったあと、ユージーンはタオルの端を両手で持ち、構えた。
「それでは、アウフグースをさせていただきます。体感温度が上昇しますので、ムリはなさらないでください。では」
洗濯物を干す前のように、両手にタオルを持ったまま、3人の正面で振りかぶり……そして、勢いよく振り下ろす。ドパン、と小気味よい音を立てて、タオルが孕んだ風が3人に叩きつけられる。
「うおっ?!なんじゃ、急に熱く……」
つづけて、部屋全体を撹拌するように、タオルを中空で振り回す。そしてまた、タオルを広げて振り下ろし、熱風を送り込む。
「こ、これは、すごいですわね……」
急激に上昇した体感温度に、汗が吹き出す。セレーネは耳がいたくなり、思わず手でおさえた。
「……体をかがめ、背中で蒸気を受けるようにすると、慣れるまではちょうどいいかと思います。では、もう一回蒸気を……」
ドジュウウッ、とさらなるロウリュが行われ、室内の体感温度はさらに上昇。そこに、タオルによる撹拌がおこれば、セレーネやショチトも感じたことのない熱だった。
「ぐおおっ、これはキツいのじゃ!」
「お、お父様、大丈夫ですの?」
「ああ、むしろクセになってきたぐらいだ……」
国王はショチトを横目で見ながら、多少やせ我慢をしているようだった。3人の正面から、タオルによる熱風が襲いかかる。セレーネはそのたび、ぶわっと発汗がおこるような気さえした。
「ああ、もうムリですわ!お先に!」
「わ、ワシもじゃ!」
「では……」
セレーネがついに席を立ったのを皮切りに、3人はいっせいに水風呂へと向かっていく。体感温度が劇的に上昇したあとの水風呂の効果はすさまじく、3人ともつかっているうちに恍惚の表情になっていった。ユージーンは何度か国王と食事などをともにしたこともあったが、国王のそんな表情を見るのは初めてだった。
そして、3度目の外気浴の時間が訪れる。
アウフグースで急激に温められた体を水風呂で一気に冷やし、そして外気浴の長椅子にごろりと横たわる。心臓が急ピッチで全身に血液をまわし、体全体で鼓動しているような錯覚さえ覚える。そんな命の危機すら感じる状態から、外気浴によりゆっくりと体が平常に戻っていく。
(もしこれが体に悪いとしても……いやそんなことはきっとないのですが……やめられませんわ~♪)
国王、セレーネ、ショチト、ユージーンの4人は、それぞれ無言で、外気浴を貪っていた。サウナが初体験であった国王にとってはかなりの衝撃だったようで、娘であるセレーネすら見たことのないようなゆるんだ表情で横たわっている。口は半開きだ。
「相変わらず最高じゃのう……こんだけ強い刺激なら、マ族もばっちりととのえるのじゃ……」
ショチトがぼんやりと空を見上げた。太陽は、しだいに傾きつつある。
「そういえば、対談っていう話だったのに、結局サウナに入っただけじゃったのう」
「……当然だ。この時間をとったのも、元『英雄』の功績に免じてのこと。もとより、貴様ら魔族と語る意味のある言葉など持たぬ。それについては、貴様も同意見だったであろう」
「それは、まあ、そうじゃな。人間の王といっしょに風呂に入ったなど、いい笑い話じゃ」
そんな二人の会話を聞いて、セレーネは少し悲しい気持ちになった。
「……サウナは」
再びおとずれた、ふわふわとした静寂に、ユージーンの低い声が響いた。
「確かに、サウナは何も解決してくれはしない。傷や病が治ることもない。もちろん、私だって、二人にサウナに入ってもらっただけで、魔族と人間の関係が、どうにかなるとは思いません」
ユージーンは以前、「魔族への不干渉」を国王に提案した、とセレーネは聞いていた。そしてそれは却下され、彼が騎士団を追放される原因になった。
「長い長い争いの歴史、種族の違い、領土や生活圏の奪い合い……ただ一度サウナをともにしただけで、手をとりあえるなど、ないでしょう」
「まあ、そうじゃな」
「……」
「しかし、それでも」
声の調子は穏やかだが、強い響きがあった。
「今日、あなたたちは、同じサウナを味わった。同じ熱を受けて、同じ方向に頭を下げた。少なくとも、それは、できたのです。同じ安らぎを味わうことができたのなら……いつか、語る言葉を持てるようにも、なるのではないでしょうか」
風の音だけが流れた。セレーネは、彼が『みなの湯』にかけていた思いの一端に触れた気がした。「誰にでも安らぐ権利がある」と口癖のように言っていた彼は、本気でここから、魔族と人間をつなげていこうと考えていたのだ。それが、どれだけ気の遠くなるようなことか知りながら、この狭い『みなの湯』の中だけでも、平等に安らぎを享受してもらおうと。
ユージーンは立ち上がり、深く頭を下げた。
「サウナは、気持ちを少し前向きにしてくれます。明日からまたがんばろう、という気持ちにさせてくれます。……今日、ここから。明日に向かって。人間と魔族が、ともに生きるということに、前向きになってはもらえないでしょうか」
ショチトは少し驚いて、ユージーンを見ていた。国王はため息をつきながら、身を起こす。
「『前向きになる』……か。そんなこと、約束させてどうなる」
「今は、どうにもならないかもしれません。ですが……ここから、始めたということは無駄にならないはずです」
「ワシは、かまわないのじゃ」
大きく伸びをしながら、ショチトは軽い調子で応えた。
「まあ、ワシの力が及ぶのも、このあたりだけじゃけど……ワシは、この場所と、サウナが好きじゃからな。その店主が頭を下げるのだから、聞いてやらんでもない」
「……随分気楽なものだな、魔族の長というのは」
「どうせ、なりたくてなったものでもないのじゃ。面倒じゃろうが、まあ好きにやるのじゃ」
「ありがとうございます」
ユージーンは、礼儀正しくショチトに頭を下げる。
「お、お父様!魔族の長がああ言っているのですよ!私たちも……」
「ああ、まあ、うむ。いいだろう。ゴヌールの戦いを早期に終結させた褒美と、邪竜召喚術の口止め料が、『前向きになる』だけというなら、安い買い物だ……それに、娘を悲しませたくもないし、な」
国王は少しだけ冗談めかせて言って、ユージーンにはそれが意外だった。そして彼にも、深々と頭を下げる。
ここからだ。この本当に小さな一歩からだ。
(サウナは……マイナスを0に戻してくれるだけ。そこからプラスへ踏み出すのは、サウナに入ったそれぞれの役目だ)
――この日は、人間と魔族の共存の歴史にとって、記念すべき始まりの日になるのだが。それを人々が知るのは、まだ先の話。
異世界で追放されても、サウナさえあれば幸せです
ーできれば水風呂と外気浴スペースもつけてくださいー
『人間と魔族と英雄とサウナ』 終
「さて、そろそろ帰るかのう。なかなか楽しかったぞ、人間の王」
「……セレーネ、我々も戻ろう。次の公務がある」
外気浴スペースから、館内に戻ろうとする3人を、ユージーンが後ろから呼び止めた。
「国王陛下、それにショチト様。厚かましいのは承知の上で、もう一つお願いがございます」
振り返った国王は、怪訝そうな顔をした。
「……魔族との共存に『前向きになる』……それが今回の褒美でよいだろう。言葉の通り、それ以上は厚かましいぞ」
「お言葉ですが。褒美でいえば、まだいただいていない褒美があります」
「何?」
「ナストーン討伐の褒美です」
国王はため息をついて、面倒そうに返す。
「……ちょうど、少し物足りなかったところだ。もう一周だけ、サウナにつきあってやる。『お願い』とやら、手短に申せ」
エピローグ
――声が、止んだ。
近くから、遠くから、あらゆる場所から聞こえていた、助けを求める人々の声。魔族と戦う戦火の音。それがある日、ふいに消えた。
その日、私はほんとうに久しぶりに、私のまま目覚めた。眠りをほとんど必要としない体の、ほんの少しの睡眠……いつもは、助けを求める声によって叩き起こされ、ただ力をふるうのだが、その日は違った。まるで今までのことが全部夢だったかのように、ゆっくりと、私は目を開けた。
おそらくフィン王国近郊の、森の中だった。朝日が差しこみ、鳥が鳴く声と風にそよぐ葉の音が聞こえる。向かうべき地点だけを指し示す光はなく、耳をふさぐ救援要請の轟音もない。静かな、ほんとうに静かな朝だった。
「……えっと」
私は思わず、そんな無意味な声を出してしまった。何せ、【使命】から完全に解放されることなど、今までまったくなかったからだ。
もちろん、一日に数時間ぐらいは……そして、あの〈汚濁の邪竜〉にありったけの魔力をぶつけて焼き払ってからは出力が落ちたためか、もう少し頻度が上がったが……私が意識を取り戻す時間はあったが、それでも頭の奥で声が鳴り響いてた。今はそれもない。
なぜいきなり声が消えたのか?自分の中から【何か】が出ていった感覚はない。今も全速力で駆ければ隣国まで数分でたどり着けるだろう。実は人間が全くいない場所まで来てしまった?そうではない。この森は以前通ったことがある。ならば王城からそこまで離れていないはずだ。そうすると、考えられる可能性は一つ。
魔族と人間の争いが、現在どこにも起こっていない、ということだ。
そこまで考えたところで、いつのまにかポケットに入っていた封筒のことを思い出した。
『モーガン殿 草月の10日、以下の場所にお越し下さい』
どういうわけか、指定された日付は今日の日付だった。そして、その差出人に、私は覚えがあった。
堅苦しい文章に、懐かしい文字だった。相変わらず字がヘタで、筆圧が強すぎるのが端々から見て取れる。指定された場所は、ここからほど近い。きっと彼が、ここで私を待っているのだろう。
「久しぶりに、会いに行くか」
ユージーン。元気にしているだろうか。
――
「うん……静かで、いい朝だね。おはよう、主人」
「ああ、おはよう、ハラウラ……」
『みなの湯』の番台に立つユージーンのところに、さきほどまで隣にいたホロンのかわりにハラウラがやってくる。挨拶を返すユージーンの様子は、どこか普段と違ってそわそわしているようだった。
「……大丈夫だよ。みんながんばってくれたじゃないか。きっとうまくいくよ」
「それは、そうなんだが……」
ユージーンが不安になるのもムリはない。人間と魔族のサウナ外交から1年余りが経ったこの日は、ユージーンが両種族にはたらきかけて作った、初めての休戦日……つまり、人間と魔族の争いを一時的に止める日だった。
ショチトの手引で周辺地域の魔族側の了解は比較的簡単にとれたが、その後は苦労した。ハラウラやラクリやホロン、それに『みなの湯』の常連になった魔族たちの働きかけのおかげで、なんとかこの日一日だけ、人間を襲わないことを約束させることができた。
人間側は主にフィン王国や騎士団との交渉になったが、これは想定していたよりもかなり順調に進んだ。といっても、1年たらずで魔族との融和が進んだ、というわけではない。この日を騎士団の創立記念だとかで「兵士たちの休日」として、祝日とすることが決まったのだ。王族のセレーネ姫が提唱し、教会がそれを後押ししたのだという。何でも、とある大司祭が是非にと勧めたため、教会としてもそれを無視できなかったとか。
「……ユージーン。きみがやってきたことは、たしかに今、実を結んでいるんだ。あとは、彼女を歓迎してあげるだけだろう。きみが、いつもお客にしているみたいに」
ハラウラはユージーンの背中を、小さな手でポンと叩いた。
「そうだな。……ありがとう、ハラウラ。ここまで来れたのも、お前のおかげだ」
「よせやい、照れるだろ……ボクは、好きでやってるだけさ」
二人の間に、静寂が流れた。
「そういえば……彼女に来てもらうのは、きみの目標だったろう。実現したら……つぎは、どうするのさ?」
ユージーンは目線を下げ、ハラウラの耳をなでながら応えた。
「そうだな……。いろいろあったな、騎士団を追放されてから……」
これまでの『みなの湯』のこと、そして集まってくれた者たちのことを、ユージーンは思い出す。騎士団を追放されたユージーン、ウ族の里を追われていたハラウラ、同種族の群れから逃れてきたラクリとホロン。変わり者のマ族のショチト……みな、どこか普通からはずれ、居場所のない者だったのかもしれない。だが、『誰にでも安らぐ権利がある』。人間も魔族も受け入れ、安らぎを平等に与えるサウナだからこそ集まり、出会うことができたのかもしれない。
「……だから、まあ、これまで通りだな。魔族でも人間でも、誰でも受け入れて……サウナを楽しんでもらえれば、俺はそれでいい」
ハラウラはユージーンの言葉に、静かに微笑んだ。
「そうだね、それがいい……例え追放されたって、サウナさえあれば幸せになれる。そんな場所でいられたら、きっとすばらしいだろうね……」
「ああ、そうだな」
ユージーンも、彼女に穏やかに微笑み返した。
「できれば、水風呂と外気浴スペースもつけてほしいがな」
「ふふ、違いないね……おや、今日のお客が来たみたいだよ」
『みなの湯』の入り口の扉が開き、朝の光がカウンターに差し込む。やってきた客に、ユージーンはいつもどおりに挨拶した。
「いらっしゃい」
異世界で追放されても、サウナさえあれば幸せです
ーできれば水風呂と外気浴スペースもつけてくださいー
おわり
サウナに行きたいです!